轟々と畝る風を耳に感じながら、踏み出した足がざくりっ、と音を立てて大地を削った。延々と一月以上も見続けて来た砂の海。だが、今レミリアが地面へ目を落とせば、映るのは真っ白い氷の粒である。ギザギザとした歯のように突き出た岩肌が、透明で寒々しい強固な粒に覆われている。塔のように聳える山々を少しの間見上げ、背後へ振り返った開けた先の遥か向こうに広がった砂の絨毯に目を這わせた。
遠く立ち上る熱気と、今まさに身を包んでいる冷気が混じり合ったかのように空気を歪め、地球の丸みに沿って広がる砂の大地は正しく海のように波うってレミリアには見えた。
吐いた吐息は唇の先から漏れた端から白み、冷たい空気が肌を撫で付ける。
まるで太い境界線のように大地を隔てる無数の山々。地上の中で最も空に高い大地。世界最大級の大河であるインダス川、ガンジス川、ブラマプトラ川、黄河、長江の水源となっている恵の大嶽。
7200m級の山が百以上も点在し、チベットでは曰くチョモランマ、中国では曰く聖母峰、通称エベレストと呼ばれる世界最大の山岳を含むこの山脈地帯こそヒマラヤ山脈。その山肌をレミリアと満月、美鈴の三人は歩いていた。
砂漠の夜もそれはもう寒かったが、山の寒さはまた違う。「寒い」という禁句を口にしたくても、口を開けば山から吹き下ろしてくる風が口の中を凍て付かせ、口を開くのも億劫だ。
地上から100m上がるだけで気温は0.6度低下する。山頂に至るわけではなかろうと、ヒマラヤ山脈を越えようと思えば2000m、3000mと高度は上がる。10度20度と気温が下がり、嶺から吹き下ろしてくる山風とそれに交じる白い結晶。ツンツンと針が刺さるかのような乾いた鋭い空気の中は、人が容易に踏み入っていい領域ではない。
パクス・モンゴリカと呼ばれた大モンゴル帝国時代。並み居るモンゴルの
二十一世紀になってからも多くの人間を死に誘う人喰い山。8000mを超える場では死体を下すこともできず各山二百以上の死体が今尚放置されている世界最高峰の墓場。
十七世紀、酸素マスクもなければ命綱の類もない。唯一あるのは山の麓で手に入れた“かんじき”*1のようなものがあるだけ。
山を登るぐらいなんだとレミリアも初め思ったが、一歩山の中腹に踏み入れば考えも百八十度変わる。「え? 死ぬ気?」と自殺志願者を見るようだった麓の地元民たちの目が、今更になって思い出される。やばいと分かっているのならもっと本気で引き止めてくれとレミリアも思わないでもないが、時すでに遅し。ただ呼吸を繰り返し山を登るだけの機械とレミリアの体は化していた。
「空気が薄いな美鈴殿、これほどの山脈、日ノ本にはまずない。霊峰富士が子供に見えるぞ」
「修行の場としてはいいですが、住みたい場所ではないですね」
「はっはっは! 違いない!」
「なんで……貴方たち……そんな元気なの?」
陽の下であろうとも満月や美鈴よりも身体能力はレミリアの方が高い。にも関わらず、厚手の毛布に包まり歩くレミリアよりも、満月と美鈴は随分と元気だ。「修行時代の方がキツかった」と同じ理由を吐く二人の武人の頭のおかしさにレミリアは呆れることしかできない。ヒマラヤ山脈を歩くよりもキツイ修行の内容など聞きたくなく、レミリアの吐く息はその重さを表すかのように真っ白く染まる。
「だいたい……この山……登らなきゃダメなの?」
「早くるーまにあに帰りたいと言っているのはお嬢様だろうに。この道が最短ではあるのだそうな」
「ヒマラヤ山脈を迂回するともっと時間が掛かるそうですからね。仕方ないです」
「……仕方ないって……なんで私が」
足を踏み出す毎に湧き上がる後悔と恨み。ルーマニアに至るためには仕方ないとは言え、それでも辛い現状に対する不満は溜まる。「あのクソ野郎……」とこんな現状にレミリアが身を浸している原因である父に対して不満を零しながら、レミリアは恨みを力に変えて一歩一歩とより強く足を出した。
「ハァ────それにしても……」
口から漏れ出る白んだ息を見送って、レミリアは前を行く二つの背を見つめる。
「貴方たちは……」
なぜ己と共に今居てくれているのか?
無論それはレミリアが雇い共に来てくれと頼んだからであるのだが、レミリアでさえキツイ山道の先、不満を口にすることはあっても、迷うことなくルーマニアを目指してくれる二人は頼もしいが、不安でもある。満月はフランの
レミリアは少し歩く速度を上げて、二人の間へと歩を進める。落とされる二つの雪のような笑顔の柔らかさが、なんとも寒々しくレミリアの目には映った。
「どうしたお嬢様、疲れたのか?」
「休憩にでも致しましょうか?」
「いや、別に……二人は?」
「おや心配してくれるとは珍しい。俺は大丈夫さ」
「私も大丈夫です。鍛えてますからね!」
「そう……」
向けられる笑顔の暖かさは、すぐに寒風に巻かれて霧散してしまう。レミリアには確固とした理由がある。妹のため。全てはフランドールのため。妹が与えてくれた多くのものを返すため。
でも二人は?
出島で用心棒をしていた変な男。山門を長らく守っていた妖。二人がなにかしらを背負っていることはレミリアにだって分かっている。だが大きな不満も口にせず二人が共にいてくれるわけは? ヒマラヤ山脈の寒風に削り出されるかのように、薄い空気の中、重い心が浮き上がる。
「貴方たちはなぜ一緒に居てくれるの?」
だから普段は押し込めている不安が、ふとレミリアの口から零れた。まん丸く瞬く青い瞳が二つづつ。なに言ってんだろと思いながらも、吐き出された疑問は飲み込めない。暗く輝く紅い瞳に満月と美鈴は頭を掻き、困ったように顔を背けた。
「仕事だ、仕事」
「お嬢様は昼寝でもできるような門の門番にして下さると言ったではありませんか」
「そうだけど……私が知りたいのはそれじゃない」
玉葱のように幾重にも重なった心の表層を知りたい訳では断じてない。より深く、心の底でなにを想っているのか。二人を選んだのはレミリア自身。それは変わらない。妹を救うために力がいる。それも変わらない。しかし、なぜ? と思わずにいられない。
「だって……だって二人はフランのことを知らないでしょう? 私が闘うのは妹のため……それぐらいしか私にはできないから。でも二人は? 相手は私より強大な吸血鬼、それも多くの僕を従えた。私は一度負けて逃げた小娘。そんな私になぜ二人はついて来てくれるの? 勝ちの目だってあるか分からないのに……」
「なんだそれは? 帰って欲しいのか?」
「そうじゃない! そうじゃないけど……」
不安で仕方ないのだ。
未だ自分の力も分からず、一度ルーマニアで裏切られた事実がレミリアの心を掻き毟る。『裏切り』。そのたった三文字がレミリアの全てを崩した。その冷酷さを知っているからこそ、レミリアは信じてくれるものを裏切るようなことをしたくない。でも二人の心が分からないから、もしかするとまた裏切られるのではないかという影のようにべったりと張り付く不安が拭えない。
心を覗ければどんなにいいか。だが覚妖怪のような第三の瞳などレミリアは持っていない。「そうでないならいいじゃないか?」と零す満月の笑みがどんな心に沿ったものなのかが分からない。
「でも……、なぜ? なぜなの? 故郷を離れてこんなところまで……。嬉しいけど……でも」
「れみぃお嬢様……」
美鈴の悲し気な顔もレミリアの言葉を止めるには足らず、勢いよく上げたレミリアの瞳が用心棒と従者を射抜く。
「満月は用心棒の軌跡など追うものではないと言うけれど……私は……、満月ッ! 美鈴ッ! なぜなの!」
「……お嬢様よ、寒さで疲れてるから不安になるのだ。少し休憩しようぞ」
「疲れてなんかない!」と踏み締めたレミリアの足は雪の肌の上をずるりと滑り、そのまま斜面をズルズル滑ってゆく。声も漏らさず雪に顔を埋めて動かないレミリアに、満月と美鈴は顔を見合わせると急いで駆け寄った。「大丈夫ですか?」と掛けられる美鈴の言葉にも反応せず動かないレミリアの体を抱き上げようと満月は手を伸ばすが、鬱陶し気に払われてしまう。
なんとも惨めだ。
喚き雪に足を取られて斜面を滑る。なにをやっているんだと体の力を抜いたレミリアであったが、一呼吸の間を置いて勢いよく顔を上げる。
「おぉう、復活したかお嬢様。前に進むべき道がある時は迷ってる場合ではないぞ?」
「そうですお嬢様、大丈夫、私も満月さんも共にいますから。ね?」
「……ない」
「なに?」
「フランの
毛布の上から胸元をレミリアは叩くが十字架の感触はまるでなく、体温に熱せられた乾いた空気が首元から抜けるだけ。辺りを見回せば、白い大地の上でキラリと銀の輝きが散った。ゆらりと浮き上がり左右に小さく揺れる歪な十字架を見つけ、レミリアは一瞬笑顔を浮かべるもすぐに笑みを消した。
なぜ宙に揺れている?
「もふ!」
「は? はぁ⁉︎ ちょちょちょっと⁉︎ なによアイツ⁉︎」
「お、俺の報酬が奪われちまったッ‼︎ なんだぁあの野郎ッ! 切腹だ切腹!腹切りぞッ‼︎」
「まだ貴方のものじゃないでしょ! 追うわよ! 返しなさいフランの
「もっふもふ‼︎」
「あれなんて言ってるんでしょうか……?」
雪山を野山のように駆ける白い影。吸血鬼たちを置き去りに駆けるその者こそヒマラヤ山脈の秘密の主。三つの影が白い影を追い雪山を駆ける。
「見失ったぁぁぁぁ‼︎ なんなのよアイツ!」
「お、俺の報酬が……」
「それよりここどこですか?」
ぽつりと零された美鈴の言葉に満月はよりがっくりと肩を落とした。刀をざくりと雪に突き立て項垂れる姿は老人のようで見ていられない。広大なヒマラヤ山脈で遭難? と最も考えたくない事態に満月と美鈴は乾いた笑いを上げ、その中身のない笑い声にレミリアもがっくしと膝を折る。
「フランの
いつも肌身離さず持っていたのに、ふとしたことで奪われた。悪いことは積み重なっていくばかり。ひとり抱えた不安に振り回されて大事なものも失った。
「もう……なんで……、なんで!」
「お嬢様、大丈夫きっと見つかりますよ」
「そんなの分からないじゃない! あるかもしれない私の力もまだ見つからないのに!
レミリアは振り返り満月を見つめた。刀に寄りかかるように佇む用心棒の顔がゆっくりとレミリアの方へと向く。
「
「みたいだな、俺の報酬が……」
「これで貴方が来る理由がなくなったわね」
「おいおい」
小さく笑う満月に笑い声は返されない。諦めたように肩を落とす吸血鬼の雇い主に満月も口角を落とし、静かに身を起こし首を傾げた。「冗談?」と口から出かかった言葉を飲み込んで、引き絞られた紅い瞳と満月は瞳を合わせる。揺れ動く紅い瞳を眺めて満月は盛大に舌を打った。
「諦めるのか? これで終わり? ここまで来てさよならか?」
「だって、仕方ないじゃない……。ここは知らない場所で……、貴方に与えられるものなんて私にはないもの……」
用心棒の給金が幾らであるかなどレミリアは知らない。月牙泉で稼いだ銀貨も旅の中で大分減った。ここまでの旅路に見合うものかどうか。満月を繋ぎ止めていた楔はなくなったと手を弱く広げるレミリアに、満月は苛立たしげに歩み寄る。
「待ておい、それは本心か? たかが物がなくなっただけでおさらばかよ」
「そうよ……、だって、アレがあったから貴方はついてきたんでしょ人間」
「は? ……はっはっは。そうかそうかなるほどの」
レミリアの言葉を飲み込んで、満月は薄く笑い呆れたように顔を背ける。
「お嬢様よう、なんで俺がついて来てるのか知りたいのだったな?」
「……それが?」
「あんな
小さく見開かれたレミリアに満月は大きくため息を吐いた。白んだ吐息が風に流されてゆくのを見送って、満月は力なく肩を落とす。レミリアは多少抜けてはいるが気が付いていると思っていたと言うように。
値打ちが分からぬ
吸血鬼の妖しさに惹かれて?
遥かな冒険に憧れて?
吸血鬼退治に夢を見て?
残念ながらどれでもない。小さな吸血鬼が頑張る姿に心打たれたからでもなく、レミリアに惚れたからでも断じて違う。
「……俺はな、俺は先が見たいのだ。敗残兵である貴殿は立ち向かうと言っただろう? だから俺はここにいる」
描かれるかもしれなかった未来を見たいがために。無謀な闘いを挑むという少女の行き先が見たいから。破滅か勝利か。どちらであっても最後まで。
「別にお嬢様でなくとも良かった。が、巡り合わせと言うか、運命だとでも言うのだろうか。あの日あの夜満月の日に出会ったのがれみぃであっただけのこと。それが俺がここにいるわけだよれみぃ」
「なによそれ……、つまりどういうこと?」
「れみぃが俺を選んだのではなく、俺がれみぃを選んだというわけじゃ。なあ美鈴殿?」
わけが分からないと首を傾げるレミリアの前に、今度は美鈴が屈み手を取った。満月の問い掛けに答えるように、その言葉をレミリアに向けて送る。
「……前にも言った通り私は貴女の純真さについて行こうと決めたのです。れみぃお嬢様の力に引っ張られたのではなく、その心についていこうと。ただ妹を救いたいと言う貴女に。私にはなかったものだから。仕事が欲しいからついて来ているわけではありません」
昼寝でも出来るような門の門番に。そんなふやけた事を口にするレミリアに。力を求め不必要な旅をした自分の力を貸したいと思ったが故に。レミリアが美鈴を選んだのではなく、美鈴がレミリアを選んだ。
美鈴の笑顔に俯いたレミリアの肩の上、満月のゴツゴツとした手が置かれ、二つの笑顔がレミリアの視界に収まった。レミリアが選んだつもりでも、実際に選んだのは用心棒と従者自身。差し出された手を見送らず、掴んだのは満月と美鈴。ルーマニアで力を貸して欲しいと叫び、その実誰も聞いてくれなかった時とは違う。
選んだのではなく選ばれた。それが当主の第一歩。打算などではなく己のため、お前が必要だと背中を押される。それがどんな理由であっても、誰かを率いていることには変わりなし。そのために必要なのは前を向くこと。辿々しくも先を行くこと。
顔を上げたレミリアの前に満月の手が伸ばされて、人差し指がピンと伸びた。用心棒の指の先を追い、向いたレミリアの目に映る雪の上に落とされた大きな足跡。用心棒と従者の顔へ目を戻したレミリアは、小さく顔を縦に降る。
「……行くわよ二人とも、妹の
「そうしよう。俺の報酬だ。貰えるものは貰っておかんと」
「……貴方そういうとこは本当にブレないわよね」
「あはは、まあ満月さんらしいということで」
立ち上がったレミリアの背後に二つの影が並ぶ。向かう先は決まったのだ。二つの影を引き連れて、小さな主人が一歩を踏む。
1887年、イギリスのウォーデル大佐という人物が、ヒマラヤ山脈で雪の中に落とされた大きな足跡を発見した。人の形とは違うその足跡に、ヒマラヤ山脈には誰も見たことのない謎の生物が存在するという噂が世界中を駆け巡った。1954年にイギリスの新聞社が大々的に報じて以降多くの捜索隊がヒマラヤ山脈に派遣されるも未だ発見に至らず。名を『イエティ』、ヒンドゥー教ではシヴァの使いと呼ばれ、「噂をするとやって来る」と恐れられているとかいないとか。
そんなイエティの足跡を追い数十分。レミリア一行は岩の影に身を潜め三人仲良く顔を出して白い人影を睨んでいた。
斜面の下で嬉しそうに十字架を首に掛けてくるくる回る怪物にどんな感想を抱けばいいのか。満月も美鈴もレミリアも冷めた目で白い影の動きを見つめる。
「なにやってんのよアレ」
「さあ?
「女の子なんでしょうかね?」
そう言われれば胸の膨らみがあるようなないようなどうだっていい情報に肩を竦めるしかない。「もっふもっふ♪」と両手を掲げ雪の上を跳ねているイエティに、レミリアはギリギリと歯を軋ませてバッと岩陰から飛び出した。相対する白い影と毛布にすっぽり包まった黒い小さな影。なんとも言えない光景に満月と美鈴は苦笑しながら渋々岩陰から這いずり出る。
「ちょっと貴女! それは私の妹の
「もっふ? もふもふ? もっふっふ!」
「はあ? ちょ、なに?」
「怒ってるのかどうかも分からんな。言葉を合わせてみてはどうだ?」
満月の助言に肩を落としながら、
「モ、モッフモッフ」
「もっふ? ももっふ! ももっふ!」
「モ、モモッフ、モモッフ」
「もっふっふ! もーっふ! もーっふ‼︎」
「なんなんですこれ?」
会話が成立しているのかも分からない謎の状況に満月は腹を抱えて爆笑し、美鈴も我慢できずに小さく噴き出し顔を背ける。両手を広げ合いもふもふと繰り返す白黒の姿は、サルバドール=ダリの絵画のようにシュールに溢れ見ていられない。なにやってんだと我に返ったレミリアは我慢できずにイエティに向かい手を伸ばし、小さな手はけむくじゃらの手に強引にはたき落とされた。
「もふ⁉︎ もっふっふっふ‼︎」
「おい、なんか怒っていないか?」
「なんでよッ⁉︎ 勝手過ぎるでしょ!」
「も──っふ!!!!」
高く掲げられて落とされたイエティの足は、ズボッと白い大地を蹴り抜いて下半身が雪に埋まる。地を揺らす大きな振動とは裏腹に目の前に広がった間抜けな姿に呆れさえ起こらない。
「あー……っ、これは
「いいと思うぞ、間抜けに感謝だ」
「それはいいんですけれど、地鳴りが止まないんですけどなんででしょうね?」
三人が顔を見合わせて耳を澄ませば、薄い地鳴りが止むことなく響き続けている。それに加えて地を揺るがす振動が徐々に強さを増し、地鳴りの音も強さを増した。青褪める満月と美鈴の顔を不思議なものを見るようにレミリアは見比べていたが、視界の端で舞った白色に目を移してぴたりと動きを止める。
白い津波が山の斜面を滑っていた。
雪を巻き上げ前方に居座るものを飲み込む姿は大蛇の如し。大岩に衝突した白波は、岩を木っ端微塵に砕き轢き潰し、その体積を一秒ごとに増やしながら斜面を落ちるように削っている。
雪崩。
身を包む凍てついた空気よりも体温が急降下するのを感じ、浮かんだ冷や汗は凍り付いたかのように重力に逆らい落ちてくれない。レミリアは急ぎイエティへと振り返り、
「おいどうしたお嬢様! 早く戻らないとやばいぞ!」
「分かってる! ああもう、ほら手を出して!」
「もっふもっふ!」
「もふもふうっさい! 手を出してって‼︎」
強引にイエティの手を掴みレミリアは引っ張るが、「重ッ⁉︎」と出したくもない声が口から漏れ出る。白い毛皮の下にはなにが詰まっているのか。レミリアの膂力を持っても引っこ抜けないイエティの体重に足を踏ん張るが摩擦を殺す雪の上を足が滑る。
「おいれみぃ! いくら俺でも雪崩は斬れぬぞ!」
「分かってるってば! でも
落ちて来る驚異の中にたったひとり残された時の悲しさを誰よりレミリアは知っている。イエティの白い瞳を覗き込み、レミリアは強く頷くと今一度全身に力を込める。
「ほら……抜けなさいッ!」
「もっふー!」
「抜ッ……けたぁッ‼︎」
ズボッと引き抜けたイエティと共にレミリアは雪の上に転がった。柔らかな雪の感触に背をつけながら、大きな振動と白い雪の舞い散る空気に身を起こしたレミリアの前に、力なく立つ満月の背中が映る。迫る雪崩は壁と同じ。止め処なく冷や汗を垂らし続ける満月の口端は引き攣ったもので、手がないことを示していた。
間に合わない。
逃げる時間は既になく、雪に轢殺されるのを待つしかない。言葉にはなってくれないレミリアの呼吸は荒く、ただ静かに手を握った。
諦めるか諦めないか。
選ぶ時間などなく、選ぶ必要もない。
────諦めないッ!
ここまでやって来て、再び妹の顔も見れず、ついて来てくれた満月と美鈴と知らぬ雪山で命を散らすことなどレミリアは絶対に認めない。
両手を握り立つレミリアだったが、目の前で赤い長髪が揺れるのを見て僅かに握った手を緩める。
「美鈴ッ!」
肩越しに見える美鈴の微笑み。
一歩前へと足を出し、緩やかに手を雪崩に差し向ける。
やるべきことはただのひとつ。
「……お嬢様、前に言いましたね。私が山門を守っていたのは例え私が居ても結果は変わらず、山賊に寺を焼かれることになっていたと思いたかったからだと」
「ええ……」
「その通りです。……ですが、それとは逆にもう一つ。きっと私が居れば大丈夫であったと、そう思いたかったから」
力を求めず、救ってくれた師のそばに自分が居たのなら、きっと守り切れたと信じたい、
力のためでなく愛のために。
妹を目指し歩むレミリアならばきっと守り切れなかった自分と違い守り切れるはずだと見届けたいから。
そのために美鈴は立ちはだかる。
守るべきものは今ここに。
大事なものは見えずとも背中に確かに佇んでいる。
「私は門番、紅美鈴。誰であろうと、自然の牙も、私は通しは致しません。守るべきものは私が決める。それはもう知っている。お嬢様こそが私の夢です。信じていただけますか? れみぃお嬢様」
「ええ……信じるッ、信じるわ美鈴! 私だけの門番! 私だけの従者!」
「それが聞ければ満足です! 参るッ‼︎」
迫る白い大河を目に留める必要はなし。瞼を落とし呼吸を鎮める。美鈴が合わせるのは大地の吐息。震え走る白い流れにゆっくりと手を差し伸ばし、指先に掛かる振動に合わせて強く前に出した足を踏み込んだ。
────ペキッ‼︎
流れに巻き込まれへし折れた指の痛みに歯を食い縛り、美鈴は膠着しようという体の力を無理矢理抜いた。
(求めるのは力にあらず、突っ込んでくる力の流れに力で対しても飲み込まれるのみ、ならば‼︎)
雪崩の切っ先を掬い上げるように反らしながら、正面から力は加えず横から腹を貫くように手のひらを沿わせる。
「美鈴ッ!!!!」
背に掛かる主の呼び声に口角を上げて、美鈴は手を振り上げた。雪崩の流れを受け流す。決して背後に流れぬように、大きく弧を描き空へ反れた白い大河をレミリアは呆けた顔で見つめた。陽の光に輝く白銀の橋。斜面から飛び出してキラキラと広大な景色に溶けてゆく自然の牙の美しさに深い息を吐き出して、振り返った門番にレミリアは息を吸うのも惜しみ飛び付いた。
「あはは、お嬢様、これで信じていただけますか?」
「ええ最高だわ! 信じるは美鈴これからも!」
「はいお嬢様!」
笑い合う二人を眺めながら、満月は強く一度咳払いをして美鈴の手を取り折れた指の形を整えてやる。「痛ッ⁉︎」と涙目になる美鈴に笑いながら、その指に破った着物の切れ端を巻き付けた。
「お見事美鈴殿。山門の妖、その力見せて貰ったよ」
「ええ満月さん。次は満月さんも通しません」
「怖い怖い。突っ立ってた俺より美鈴殿の方が用心棒らしいの」
「本当よ全く。満月、貴方もしっかり働きなさいよね! 美鈴を見習って!」
「あいよ」
「もっふもっふ!」
満月と隣にひょっこりと、頭を出したイエティにそう言えば居たなとすっかり存在を忘れていたレミリアであったが、差し出された十字架を見て目を丸くした。「もっふ!」と手を出し続けるイエティに、満月はポンと手を叩く。
「お礼にくれるらしいぞお嬢様」
「くれるって……元々私のよ」
「俺の報酬でもある」
「はいはい、全く。確かに返してもらったわ。あー、なんて名前か知らないけど。私はレミリア=スカーレットよ、よろしく」
「もっふ! レミリア!」
「喋れるの……、って言うか久々にちゃんと名前呼ばれたわ!」
すぐにもふもふと訳の分からぬ言語に戻ってしまうイエティであるが、時折「レミリア!」と小さな吸血鬼の名前を叫ぶ。「れみりゃ」と真似して口遊む満月と美鈴にレミリアは冷たい視線を突き刺して、呆れたように両手を挙げた。
「もっふ! レミリア! もふもふ!」
「あーっと……、なに?」
「ついて来いと言っているのではないのかな? 手招きしておるし」
「なるほど、案内人を手に入れたわけね。じゃあ行きましょ」
白い影の後を追い、雪の山を踏み締める。イエティの歩む道を進んだ先、小さな丘の上からの眺めにレミリアは小さな吐息を漏らした。遠くに輝くのは火の瞬き。まだ幾分か掛かろうとも、もう手を伸ばせば届くのではないかと思うような距離に輝く人工の灯り。
ジャーン朝。
十七世紀、中央アジアの暗黒時代の中、最盛期を築いたカスピ海の右に座した石造りの王朝。今で言うウズベキスタン。ルーマニアまでもう伸ばした手の指先が掛かろうとしていた。