今宵は満月   作:生崎

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レミリアちゃんと吸血鬼

 夜のイスタンブールに少女の笑い声が響く。

 

 楽しそうに、嬉しそうに、金色の髪を振り撒いて浮かべる天使のような笑顔。差し出された白い手から伸びる白爪に人間をぶら下げて、爪を伝い落ちる朱雫に唇をつける。口紅を引いたように朱に染まった唇をフランは舐め、レミリアが待ち焦がれて止まなかった弾けるような笑顔を贈ってくれた。

 

「あぁお姉様、また会えて私本当に嬉しいの! これをどう表現すればいいかしら? どう形にすればいいかしら?」

 

 真剣に考え込んでいるように見えるフランに、レミリアはなにも言ってやれない。起きた出来事を飲み込め切れない。愛する妹がここまで共に居てくれた男の胸を貫いている。それもただ楽しそうに、自分がなにをしているのか気にしたそぶりすらなく。

 

 呼吸をすることも忘れて呆然と地に座るレミリアの意識を、空気の潰れたような音が叩き起こす。喉に溜まった血を吐き捨てる用心棒にレミリアは我を取り戻し、濁った意識を振り払うようにその名を叫んだ。

 

「満月ッ!!!!」

ぅかはッ……ッ! このやろっ……!」

 

 笑うフランには守るということなど頭にはないようで、無防備に振るわれた人間の拳を顔で受けた。悲鳴も上げず、驚きもせず、後ろに転がり「どうしよう?」と呟き続け首を傾げるフランにレミリアは再び口を引き結んだ。己に埋没し続けるフランの姿は、人間とも、悪魔とも、吸血鬼とも違うなにかがズレたそんな姿。

 

 置物のようにただ呼吸を繰り返し、現実を受け入れられないレミリアの前で満月が膝を折って崩れ落ちる。「なにをしているのだ?」といつもなら呆れたように零す呟きもなく、ただ口から血を吐き出して胸を押さえる。引き抜かれた爪が開けた穴から血を滴らせ続ける満月の姿に、レミリアの呼吸は荒くなり、妹より尚、今にも消えてしまいそうなほどに力ない満月の名をレミリアは叫ぶ。

 

「満月……満月ッ⁉︎」

「満月さんッ‼︎」

 

 美鈴と共に駆け寄り用心棒の顔をレミリアが覗き込めば、満月が浮かべるのは苦しげな顔でもなく弱った笑顔。なぜそんな顔をする? そんな疑問に満月は答えてくれない。

 

「まず……った。俺としたことが……、れみぃ、美鈴殿を、責めるなよ……殺気も敵意も感じなかっ……たから、つい……出遅れた」

「満月さん……」

「なに言ってるの! 誰も責めなんて! なんで!」

 

 こうなった? 

 

 ようやく会えた妹が、ここまで一緒に来てくれた用心棒が、

 

 なぜ? 

 

 なぜ? 

 

 湧き上がり続ける疑問に終わりはなく、ただその疑問にレミリアの思考が塗り潰される。満月の傷を確認しようと血の滲む満月の胸に険しい顔で手を置いている美鈴の姿をただ呆然と見つめているだけ。そんな混濁したレミリアの意識の狭間に滑り込むように、パチパチと渇いた拍手の音がうち鳴って、レミリアは眉を強く吊り上げた。

 

 なにもめでたいことなどなく、一度二度と手を叩く音を聞くごとに分からぬ疑問は怒りに変わり心の領域を侵食してゆく。誰が? 美鈴でなければ満月でも勿論ない。この場に唯一残る妹へと、これだけは許せないとレミリアは顔を向けるが、フランは変わらず首を傾げ虚空を見つめているだけ。手を打ち合う音を辿って、フランから上へと目を動かした先にそれはいた。

 

「おッ、まえはッ!!!!」

「久し振りに見る姿が人に縋る姿とは、やはり失敗作だな哀れな娘よ」

 

 レミリアの射殺すような視線を物ともせず、滑稽な見世物を見たと言うように手を打ち続ける痩身の男。闇を纏ったような黒いスーツを夜風に靡かせ、アッシュブロンドの髪を気怠げに振るその男こそレミリアの父、吸血鬼ドラクル=スカーレット。久し振りの父子の対面に感動の二文字はなく、血の繋がりを示すようなドラクルの紅い瞳にレミリアは強く目を引き絞る。

 

 なぜいる?

 

 そんな疑問を吐く余裕などないほどにレミリアの中で渦巻いた激情に流されるまま、レミリアは無言で手に浮かべた魔力の刃をドラクルに向かい投げ付けるが、蝿を払うように拍手を止めたドラクルに手に弾かれた。

 

「一度敗北しみっともなく逃げたというのにまた戻ってくるとはな。敗者がなにをしに帰って来た? 謝りにでも来たのかレミリア?」

「誰がッ! 私は今度こそお前を倒し妹を取り戻すために来た! お前こそなんでここにいる!」

 

 牙を剥いたレミリアに、ドラクルはとてもつまらなそうなものを見るように眉を落とす。そんなことも想像できないのか? と口にせずとも、尊大な態度がそう示している。

 

「お前が今日ここにいるというのを“見た”からだ。折角だから会いに来てやったのではないか。身の程を知らぬ小娘に再び身の程を教えてやるために」

「よく言う! そんな小娘ひとりを恐れ賞金まで首にかけ、刺客まで送ってきた奴がぬけぬけとッ!」

「私がお前を恐れる? アレは保険だ。どんな小さな小石だろうと邪魔をされると困るからな。その甲斐あってしっかり完成したぞ? 今宵は姉のお前にお披露目してやろうという私の優しさが分からないとは」

 

 ドラクルの言葉にレミリアの言葉はぴたりと止んだ。文句なら際限なく思い浮かぶ、それを吐き出し続けることも容易い。だが、どうしてもドラクルの言葉がレミリアの意識を引き止めた。完成、お披露目、なにを言っているんだとレミリアへ一瞬考えるも、すぐにそれがなにか理解する。ぶつぶつと呟き虚空をのぞむフランの姿が、レミリアの怒りに油を注ぐ。

 

「貴様……フランになにをしたのッ!」

「なにも? 強いて言うなら原石を磨いてやったに過ぎない。フランドールがどういう存在か、私よりお前の方が詳しかろう?」

 

 産まれながらに母を壊しこの世に出た妹。フランの性質は破壊である。レミリアだって薄々そんなことは気付いていた。だが、フランが口にした「お姉ちゃん」という言葉が、それだけではないことも示していたのに。

 

「フランから……破壊以外を奪ったの?」

「違うな、一番に邪魔だったのはお前だ。お前がフランドールから去ったから、馬鹿なことなど考えず空気のように城に居続ければフランドールもこうはならなかった。お前がフランドールを完成させたのだ。その点だけは褒めてやるぞレミリア」

「そんな! そんなの……」

 

 怒りは風前の灯火となり、向かう先を百八十度変えた。敵に向かっていた矛先は己へと向き、ぐっさりと深くに突き刺さる。大事な妹のためを思って我慢できずに打った手が、最もフランを壊した原因。「なんで?」と、抱え切れずに零れ落ちたレミリアの呟きを、拾って欲しくもない相手が拾う。

 

「なぜ? なぜだと? レミリア、お前はこの世で最も大事なものはなんだと思う?」

「は? ……そん、なの」

「力だ! 愛や情などというどうだっていいものではない、この世は力こそ全て! 仲間を思いやり平等に? 見も知らぬ誰かを思いやってなど馬鹿らしい。そんなことをすれば思い上がった者たちによる争奪が待っているだけだろう。人間を見ればよく分かる。だからこそ私が全てを掴んでやるのだ! 絶対的な者がいれば、その者は生物の枠を超え文句の言葉さえ出なくなる」

「なによ、それ……。お前は神にでもなる気なの⁉︎」

「神? 違うな、私は神さえ超える! いずれ人間は神に祈らず私に祈るだろうよ。なんだって私に差し出すように」

 

 大事なものもくだらないものも、ただ絶対的な力で叩き潰す。それこそ竜巻のような災害のように。ただそれは生きた災害だ。シェルターに篭っても、向こうからやって来て無理矢理扉をこじ開けて来る。跪き、手を組んで、ただただ許しを請う姿。それを目の前に並べようとドラクルは吐いている。そして、それができるかもしれないだけの力がある。ただ、要らないものもあると言うように、ドラクルの紅い瞳が青い髪を貫いた。

 

「だからこそ弱者は要らない。お前のことだひとりぼっちの憐れな娘」

 

 吸血鬼らしくない吸血鬼。お前に夜は相応しくないと小さな吸血鬼に吐き捨てる。そんなこと言われるまでもなく、レミリアは嫌という程分かっている。だがしかし、その一言(ひとりぼっち)は余計だった。

 

 その必要なかった一言が、トドメどころか燃料となってレミリアの心に火を灯す。ひとりぼっち。少し前ならその言葉で心がポッキリ折れていた。が、今はレミリアはひとりではない。レミリアの顔を移した先にいる二人。満月と美鈴の顔を眺めて、力の抜けた拳をレミリアは握り直す。

 

「ああそぅ……、そんな弱者にお前は負けるのね」

「なに?」

「一つ間違えているわ、私はひとりぼっちなんかじゃない」

 

 立ち上がったレミリアの背後で揺れる二つの紅い髪。三つの影を見下ろして、つまらなそうにドラクルは長い息を吐いた。弱い吸血鬼と異国の妖怪と異国の人間。しかも一人は死に掛けだ。たったの三人ぽっち。相手にするのも馬鹿らしいと身を翻す。

 

「なら三人仲良くあの世に行けよ」

「なに、逃げるわけ?」

「逃げる? いいや、この場に私は必要ないのだ。なぜフランドールの完成を私が第一に考えていたと思う? いい事を教えてやろう。お前だろうと誰だろうと、フランドールには勝てんのだよ。お前がどんな手を打とうとな。最後に妹に遊んでもらえ。……フランドールいつまで呆けている、やり方は教えただろう?」

 

 ドラクルの呼び掛けにはフランは小さく肩を跳ねさせて立ち上がる。大きく頭を左右に振って、「やっぱり壊そう」と呟きながら。虚ろだった紅い瞳に光が灯るのを見送って、ドラクルへ闇の中に溶けるように消え去った。「待てッ!」と叫び足を出そうとするレミリアの前にフランは立ち塞がると柔らかい笑みを姉に差し向けた。

 

「フラン! 貴女……本当に」

「お姉様! 折角会えたんだもの! 久し振りに遊びましょ! 壊れるくらいに!」

「や────」

 

 止めよう、と口に出そうとした言葉は言い切れず、地を踏み目前に飛来したフランから逃れるようにレミリアは仰け反った。頬を掠るように通り抜けたフランの後を追い赤い飛沫が宙を漂う。切れた頬に手を添えて、振り返った先にいる妹の笑顔を見てレミリアは口端を強く歪めた。言葉は不要。なにもフランには届かない。耳触りの良い言葉をどれだけ並べたところで右から左へとフランの中を通り抜け芯には決して響かない。

 

 動かないレミリアの姿を遊んでくれるのだとフランは一人自己完結し、七色の宝石が揺れる羽を大きく広げ姉の胸へと飛び込むように強く腕を引き絞る。

 

「アハッ!」

「ッぐ⁉︎」

 

 

 

 

 

────ボグッ‼︎

 

 

 

 

 

 打ち合った小さな右拳と右拳。柔らかそうな拳同士がぶつかり合ったとは思えぬ衝撃音が夜の静寂を貫いた。林檎を手で握り潰したような重い音が手から漏れ、それに押し出されるようにレミリアとフランの腕が弾け骨が飛び出す。

 

(腕がッ……逝ったッ!)

 

 たったの一合で腕が駄目になる。崩れた腕の痛みに歯噛みするレミリアの目の前で笑顔を浮かべたまま、フランは糸の切れた人形のように力の入っていない右腕を振った。

 

「……はッ?」

 

 痛みが一瞬頭から消え去り、間抜けにレミリアは口を開ける。宙に飛び散った赤い雫が停滞したかと思えば一斉に淀みなく動き出す。ジグソーパズルを組み立てるように、赤い雫は雨が降るように、崩れたフランの右手に落ちてゆき、元の形を組み立てる。パシャッと地を赤く染める血はレミリアだけのもの。肉体の回復とは違う再生の仕方にレミリアの開いた口が塞がらない。

 

(なんなのそれはッ!)

 

 まるで血液を操ったかのような現象。単純な妖怪の肉体再生とは違う。身体を霧に、蝙蝠に変化させる吸血鬼の力の応用とでも言うように。

 

 元に戻った右腕をフランは姉に差し向けてその手のひらを大きく広げる。手の中に浮かび上がる小さな丸い球体を目にして、レミリアの目が見開かれた。拳を放つ、刃を薙ぐ、それと同じくらいフランにとっては当たり前な破壊の形。それをレミリアには止めることなどできず、ただ閉じられてゆく右手を見送ることしかできない。

 

「きゅっとして」

 

 どかんとレミリアの内側が爆ぜた。身体中にヒビが走り、割れたカップのように体から血液を撒き散らす。一瞬で潰れたトマトのように大地に崩れたレミリアの気がほとんど消え去ったことに美鈴は急ぎ顔を上げ、小さな吸血鬼の姿に感情のまま言葉を吐いた。

 

「お嬢様ッ!!!!」

 

 瀕死の満月と瀕死のレミリア。たった一人にあっという間に。守る暇もなく壊される。「あ……」と零した美鈴の心の篭ってない呟きは己の無力さを呪ってのこと。

 

 次こそは。

 

 そんな風に山門を離れたはずなのに、訪れた次は呆気ない。お前は誰も守れないと言うように笑う少女の声に、堪らず美鈴の中で何かが外れる。ゆらりと揺れ立ち上がった赤い長髪にフランは目を移し、再び右手をゆるりと伸ばす。手を広げた先にいる美鈴に笑い声を叩きつけながら、右手を強く差し出し続ける。

 

「あれ?」

 

 首を傾げるフランの前に一歩美鈴は足を落とした。それができればもう一歩。怒気に髪を揺らしながら、青い瞳を暗く輝かせ。

 

「あれ? なんで? なによお前」

 

 右手に目が浮かばない。右手を軽く振るフランの姿を視界から外さぬように美鈴は瞬き一つせず、強く大きく舌を打つ。体の内側が気持ち悪い。見えない小さな手で体の内側を弄られているような妙な感覚。その手の小さな気を、身の内に締めた気によって強引に押さえつける。「貴女体の中に手があるの?」と可笑しそうに笑うフランの顔へと、美鈴は躊躇なく拳を落とした。

 

「アハッ! 痛い痛い! 貴女面白いわ! もっと遊んで!」

「申し訳ありません、例えお嬢様の妹様でも! 私はッ! 私は──ッ‼︎」

 

 振られる山門の妖の動きは精彩を欠き、ただ感情のままに拳を振るう姿に普段の流麗さは微塵もない。ただ殴りたいから殴ると言うように拳を握る美鈴の姿を、他人事のようにレミリアは視界の端で眺めていた。

 

 大切な従者が大切な妹を殴っている。どうしてこうも見たくない景色ばかりが並ぶのか。満月を貫いたフラン。フランを壊したのはお前だと笑うドラクル。拳を向けてくる妹。妹を殴る美鈴。どれもレミリアが見たくもないものばかり。フランにお前は勝てないとドラクルが言った通り、これが運命とでも言うかのように。決まった未来は変えられない。音もなく目の端から涙を零すレミリアは、その雫ももう自分では払えない。

 

 そのはずなのに、風に押されるようにふいにころんとレミリアの顔は天へと向いた。

 

「ま……ん、……げつ?」

「お互い、ぼろぼろだな、れみぃよぅ」

 

 青白い顔で、胸から血を流しながらも静かに笑う人間の男。

 

 なぜそんな顔をするの? 

 

 言いたくても言葉はか細い吐息になるだけで口から抜けてゆく。レミリアの視界の中で満月は瞳を動かして、美鈴とフランの姿を見ると、「止めたいか?」と小さく零した。僅かに縦に振られるレミリアに満月は笑みを深めるとレミリアをの口を開いた傷に押し付けるように優しく抱いた。

 

「俺は……、死んでもいいんだ。あの日からずっと死にたかった。俺はもう……駄目だ。今なら、好きなだけ血を啜れ。乾いた喉を潤して、一息吐いたら好きなことを……、俺は……れみぃ、美鈴殿を──……」

「だ……めよ。ダメ……満月ッ」

 

 口を開くごとに口の中に満月の血が滑り込む。飲みたくないのに無理矢理喉を潤して、レミリアの体のヒビを埋めてゆく。包み込んでくれている満月の体から力が抜けてゆくのをレミリアは全身で感じ、戻って来た力のまま無理矢理体を引き剥がす。いとも簡単に剥がれた満月の体に、思わずレミリアの目の端から雫が溢れた。

 

「ダメ、ダメダメっ! 満月! 待ってて! すぐに終わらせるから! それまで絶対ッ!」

 

 口元を真っ赤に染めて、ゆっくり満月を地に下ろしレミリアは強く振り返る。未だ殴り合う美鈴とフランを目に、心の底から湧き上がる激情を理性で無理矢理押さえつけ強く強く拳を握った。

 

「なにをやっているの美鈴ッ‼︎ 貴女は守るために来たのでしょう‼︎ 拳を向ける相手が違うでしょうッ‼︎」

「お嬢様ッ‼︎」

 

 叩きつけられた少女の言葉に嬉しそうに顔を綻ばせた美鈴が顔をレミリアに向けた途端、滑るように動いたレミリアの顔を真近に見て思わず動きが止まる。身が竦んで動けない。強く不動で立っているわけではない。柔らかく妖しく佇んでいるのに、恒星よりもなお強く闇夜を染めるように輝く紅い瞳。ただそれで見つめられているだけなのに、意識を鷲掴みされたように動けない。

 

「お姉様!」

「フラン、貴女も……、今は去りなさい。私は必ず戻ると貴女に言ったわね? だから家で待ってなさい。その時は貴女が与えてくれたものを返すわフラン」

「お姉さ「聞き分けなさい。それがレディへの第一歩よ」まッ⁉︎」

 

 突き出した拳を一歩で潰され、ガラ空きのフランの脇腹にレミリアの拳がめり込んだ。屋根を砕き吹き飛んだフランに、レミリアはほんのちょっと乾いた息を吐き出して、すぐに身を翻す。

 

 体の上に乗った崩れた屋根を押し退けて身を起こしたフランはぼうっとレミリアの背を見つめ両手で強く顔を覆う。

 

(あんなお姉様の顔、初めて見た……アハッ」

 

 笑顔でも悲しげな顔でもない姉の顔。垣間見せた主の顔。驚き、狂喜、なんとも言えない、怒られたのとも違う姉の言葉。ただ優しく突っ立っていただけのレミリアとは違う初めて見た姉らしさに、フランのなにかが揺れ動く。

 

「会いに来てくれるって! 会いに来てくれるって! 帰らなきゃ、帰らなきゃ会いに来てくれなくなっちゃう!」

 

 飛び去るフランを見送り、美鈴もようやく肩の力を抜いた。ホッとしてしまっている自分に気付き強く拳を握りしめる中で、「満月‼︎」と男の名を呼ぶレミリアの声に、美鈴の意識が引き戻された。慌てて美鈴も駆け寄るが、その足に力はない。もうどうにもならないだろうことが美鈴には誰よりも分かっていた。満月の体に縋るレミリアに掛けられる言葉が見当たらず、ただ静かにレミリアの横に腰を下ろす。

 

「満月! 終わったわ、満月! だからしっかりして! 美鈴!」

「……お嬢様、この傷ではもう」

「嘘よ! そんなこと、美鈴! 気を操って傷は塞げないのッ⁉︎」

「精神を整えたり、体力の回復ならばできますが、物理的に傷を塞ぐのは……」

 

 強く奥歯を噛み、レミリアが満月の頬に手を添えても瞼を開けてはくれない。血の気が引き、今にも消え去ってしまうほどに熱のない満月の体に、レミリアは弱く顔を俯かせた。

 

「ダメよ……、ダメ。絶対ダメ……だから……なにか……」

「お嬢様……」

 

 親指の爪を噛みながら泳ぎ回る紅い瞳に、美鈴は一度目を瞑り、満月の頭を膝の上に置き額に手を添えた。せめて最後の一瞬まで、意識が消えてしまわぬように気を整える。レミリアまだ諦めていないだからレミリアより早く従者の美鈴が諦めるわけにはいかないのだ。

 

(満月さん、貴方は)

 

 レミリアにフランの爪が伸びた時、誰より速く動いたのは満月。殺気や敵意、刺々しい気を感じなかったが故に、レミリアがフランに触れる姿に心惹かれるだけで美鈴は動けなかった。守ると口にしたはずなのに。それでも美鈴を責めるなと笑った満月の心が、やはり美鈴には分からないから。

 

(どうかできるならまだ行かないでください。お互いの国のこと以外にもまだ貴方とは話したいことが……)

 

 お互いなにかを失った者だから。敢えてそれを満月も美鈴も詳しく口には出さないけれど。お互いの心情を最も汲み取れるのは美鈴と満月。身のうちの意識を掴まずに手放している満月の“気”の動きを触れているからこそ美鈴は理解している。でも、それでも、まだ行ってくれるなと手放された気を美鈴が無理矢理引き止めて、そんな美鈴の願いを聞き届けるかのように、美鈴の視界の端で鮮血が散った。

 

「お嬢様ッ⁉︎」

「美鈴、そのまま満月を離さないで! 満月がくれたものを今返す! 大丈夫、きっとできるわ! 私にはできるッ!」

 

 自分の手首を爪で裂き、噴き出す血液を満月の胸に垂らしてゆく。突然の自傷行為に美鈴は驚くがレミリアは真剣そのもので、勝手に塞がろうとする手首の傷が塞がらぬように、レミリアは何度も手首を掻き毟った。

 

「フランを見て分かった! 吸血鬼がなんの妖怪か! 吸血鬼は血の妖、自分の血を操り形にできる。私と満月の血を混ぜれば傷を塞ぐことができるはず! いえ、やるのッ‼︎ でも、そんなのなにが起こるか分からない。だから、満月を守って美鈴!」

「あ……、はいッ! お嬢様! お任せを!」

 

 吸血鬼の血を身の内に巡らせ満月がどうなるかなど誰にも分かったものではない。自らの一部を人なぞに差し出す吸血鬼の例などあるはずもなく、遊びでもなく、ただ救うために己の一部を差し出す夜の王など類を見ない。レミリアの血を受け、これまで動かなかった満月の体が小さく跳ねる。掴んでいる満月の意識を決して手放さぬように、美鈴は満月の体を抱え込んだ。

 

「待ってて美鈴! もう少しでなにか掴めそうなの! もう少しで!」

 

 血の一滴さえ己の一部。手足と同じ。人の血管の中を流れる自分の一部に意識を集中し、形ない赤い液体を手を動かすが如く動かそうと意識を向ける。破れた血管の外へと、もう大事なものが溢れてしまわぬように受け止めて、空いた穴を埋めるようにレミリア強く形ない手を伸ばす。

 

「行っちゃダメよ満月! ルーマニアまで力を貸してくれるって、頼っていいって言ったでしょ! まだルーマニアに着いてない! まだ貴方に頼らせて! 美鈴だけでも、貴方だけでもダメなの。二人一緒じゃないとイヤ! だから戻って!」

 

 煮詰まったレミリアの頭を「なにをやっているのだ」と満月はいつも小突いてくれる。レミリアの迷いを「お嬢様」と言いながら微笑み美鈴がいつも背を押してくれる。そんな二人がいたからレミリアはここまで来れた。その二人のどちらも絶対にレミリアは手放さない。その言葉を表すかのように満月の胸の穴は塞がって、静かな呼吸音が戻ってくる。ゆっくり上下する満月の胸にレミリアは微笑み、その上に優しく崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで戻って来たわけかい。やれやれ、血塗れの人間と血塗れの吸血鬼のお嬢ちゃんを背負ってやって来たかと思えば、あんたまで倒れるもんだから面食らったよ」

「申し訳ありませんノーレッジ様。部屋をお借りしてしまい」

「別にいいさ、それにしたって……」

 

 申し訳なさそうに縮こまり座る美鈴から目を離し、スヤスヤと寝息を立てているレミリアと満月をちらりと見て魔法使いは薄く笑った。どんな旅をすれば、ただ自分の弱さに打ちのめされ蹲っていた小さな娘が、自分の身を切ってまで人間を助けるようになるのか。魔法使いの頭脳をもってしても理解できない。情と言ってしまえばそれまでだが、単なる情とは違うなにかが渦巻いているように見える。

 

「愛ってやつかね、私にもよく分からないものだ」

「そうなのですか?」

「一千年生きても分からないものは分からないもんだよ。だから面白いけどね。それを知ろうと思って数百年前に子供を作ってみたりもしたけど分からず仕舞いさ、お転婆な娘は愛想つかせて出てっちまうし、魔法使いならなにより知識が第一だからね。好奇心には勝てないよ。全く面白い」

 

 パイプを咥えて煙を燻らす初老の老婆に美鈴は肩を竦めて力なく笑う。そんな中身の詰まってない美鈴の笑い声に魔法使いは手を振って、独りでに浮いたポットが紅茶を淹れるのを確認し終えると美鈴の手元まで送り出した。

 

「ありがとうございます」

「ん、で? あんたはなにを悩んでるんだい? 初めてここに来た時とは打って変わって力ない。そんなんで勝てるのかね?」

「……私は」

 

 口籠もり、美鈴は満月とレミリアが未だ夢の世界にいるのを目にすると一口紅茶を口に含み唇を濡らした。言おうか言うまいか、あまり言うべきことではなく、なによりレミリアと満月には聞かれたくない。レミリアと満月の意識がここにないからこそ、美鈴は軽く目を伏せてゆっくりと口を開く。

 

「私は、どうにも無力です……。守ると言いながら、私の力は守ることに向いていない。満月さんと組手をする中で、湧き上がる闘いへの欲求が消えてはくれない。力を求め師の元を離れ、訪れた結果に、手に入れた力は使うまいと戒めても滲み出てしまう気配を満月さんには気付かれてしまう始末。お嬢様の妹様との時も、結局感情に流されてしまいました。私はどうにも未熟です……」

 

 カップの中の波打つ紅茶に目を落とし、水面に映る自分の顔を美鈴は見つめる。良い自分であろうと努力はしているつもりだが、どこかで必ず嫌いな自分が顔を覗かせてくる。闘いを、闘争を、遥か昔から求めているものが結局変わらない。カップを手に動かない美鈴に魔法使いは煙を吐いて、くだらないと言うように手を振った。

 

「何故なら俺はサソリだからかい? 誰もが自分に呪いを掛けて生きている。根っこは結局変わらない、千年生きる私が言うんだ間違いないさ。それを嘆き生きるのか、それともそれを飲み込み生きるのか。選ぶのはあんた次第だよ。どうするんだい?」

 

 好奇心に目を光らせる魔法使いの視線を受けて、再び美鈴はカップの中の紅茶に映る自分を見つめる。ただ嘆くのか、飲み込み進むか。その問いの答えはレミリアが示した。再び手に入れたものが壊れてしまうのを、レミリアが拾い上げ防いでくれた。進まなければ掴めない。だから美鈴はカップを強く傾け紅茶を飲み干し、「やっぱり飲んだね」と魔法使いは愉快そうに指を鳴らす。

 

 その音を目覚ましにするかのようにむっくりと身を起こしたレミリアに美鈴と魔法使いの視線が集中し、レミリアは二人の顔を見比べて、横で未だ眠っている満月に目を落とすと深く長い息を吐いた。

 

「────お世話になってしまったようねノーレッジ卿」

「別に構わないよ、お嬢ちゃんの従者のおかげで暇は潰せたしね」

「それで、私はどのくらい寝ていたのかしら?」

「一日。日が昇って落ちた。もうとっくに術式はできてるけど、どうするんだい?」

「そう、なら行きましょう。時間が惜しいわ。もう待っていられない」

 

 うんと伸びをしてベッドから足を出すレミリアに魔法使いは目を丸くした。迷わずに行くと言ったレミリアの姿が、あまりに自然で思わずそうかいと納得しそうになる。

 

「起き抜けにもう行くのかい? その人間だってまだ起きていないだろうに」

「満月はここまでよくやってくれたわ。昼間は人間たちの時間。でも今は夜、私たちの時間。夜に人は寝るものでしょう? これまでの分、満月にはゆっくり休んで貰いましょう。ねえ美鈴?」

「はいお嬢様、満月さんの分も私がお嬢様をお守りします」

 

 迷いのない美鈴の瞳を見据え、レミリアは小さく微笑んだ。ただ、そのまま美鈴の服装に目を留めてレミリアの動きが少しの間止まる。チャイナドレスのような服ではなく、美鈴が着ているのは使用人の服。目を瞬くレミリアへの答えは魔法使いが口にした。

 

「お嬢ちゃんたちぼろぼろの血塗れだったからね。用意できるのがそれしかなかったのさ。子供用のドレスはあったからお嬢ちゃんのは別だけどね」

「いいじゃない、急拵えでも似合っているわ、この戦いが終わったら美鈴の服もちゃんとしないとね」

「それまでに着慣れておくように致しましょう」

「ええ」

「それで、どうするんだい? 行くならすぐに送れるよ、ポエナリ城の玉座の真正面にね。相手の懐のど真ん中に行くことになるけどいいのかい?」

 

 強く笑うレミリアの顔が答え。一々言う必要はないと言う笑みに魔法使いは楽しげに指を弾き、術式を発動するための呪文を紡ぐ。膨れ上がる魔法使いの魔力が石の床に紋様を描く中、レミリアは首に掛けていた十字架を外し満月の顔の横へと置いた。ペンを走らせた紙も添えて、満月の額に軽く一度口づけし、美鈴の横へと足を出す。

 

「行きましょうか美鈴、どんな力であろうとも、私は貴女を信じてる」

「お嬢様……意地悪ですね、起きてました?」

「さあ?」

 

 とぼけたようにレミリアは笑い、窓から見える夜空へと顔を向ける。赴くのはレミリアと美鈴だけ。死にかけた満月まで連れてはいけない。でも、その名はいつも近くにある。夜空を見上げれば浮いている。夜闇を照らす満月が。大気の影響でレミリアの瞳のように紅く輝く様を眺めて。

 

「こんなに月が紅いから、楽しい夜になりそうね」

 

 そんな呟きを残して、レミリアと美鈴の姿はトプカプ宮殿から消え去った。

 

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