銃声と叫び声。大地一面が赤く染まった血の池地獄。空気さえ赤っぽく見え、吸い込む空気がむせ返るほどに血生臭い。名も無き骸に要はないと、多くの屍が地に転がり、名のある首級を求めて修羅が蠢く。肉を削り斬る柔らかな音、火縄銃の発砲音が一つ鳴る度にどちゃりと血の池地獄に骸が落ちる。響き続ける掛け声と殺人の音は狂気を呼び、島原、海辺の城、原城へと止め処なく流れ込んでいた。
その合間をひゅるりと一人の黒い総面の面頬を付けた男が川を越えるかのように横断していた。刀を肩に置き走る姿は飛脚のようにも見えるが、手に持つ刀と人肌が隠れる程に血濡れの体がそれを否定する。人の河を縫うように、滑るように男が合間を走れば、ずるりと音もなく走った後の侍の首がずり落ちる。急に崩れ落ちた人に河の流れは一時止まるも所詮一瞬。それを尻目に男は舌を打ちながらただ先を急ぐ。
「急に首が⁉︎」
「
「構わん進め! 大将首まであと少しよ‼︎」
王手の掛かった状況で手を緩める馬鹿はいない。一揆勢約三万七千対、幕府側約十二万五千。四倍近い相手に寧ろよく持ったと褒めたい程だ。「こりゃあ負けだ」と男が蠢く侍たちの流れを見て諦めている中、視界にキラリと銀閃が滑り込んだ。おっとと男がたたらを踏んだと同時に、目前の侍の頭は吹き飛び刃は男の頭上へ消え去る。軽く息を吐くと、男は迷いなく足に力を込めて大きく跳んだ。目指す先は侍を射抜いた鉄礫の射出点。城壁の上に佇む幾人かの鉄砲衆、その中の一人の男の隣。
「すまん
「構わんさ
至る所から侍に城の中に踏み込まれ、穴開きチーズのようになってしまっている城。どこを見ても敵だらけ。刀を振れば、銃を撃てば敵に当たるとは言え、多勢に無勢は変わりない。両手を上げて降参したところで待っているのは処刑ともなれば、もうどうにも手がなかった。敗戦という言葉が誰もの頭の中を駆け巡るが、それでも三左と金作は笑みを浮かべる。
「泰平の世にこれだけの戦が出来れば満足よなぁ。それで? どうじゃ三左、大江丸は?」
「とっくに落ちた。
「ガハハ、とっくに落ちたわ! 今はこうして数人と最後の悪あがきよ! 行けい三左」
笑って弾の込め終わった火縄銃を受け取る金作を見て、三左は小さく口を引き結ぶ。誰が見ても分かる、ここを命の捨て場所だと決めた顔。三左の背を押し送り出した五郎左衛門の顔と同じ。三左は小さく引き結んだ口を僅かに開き、つい「三会村殿は来ないのか?」と零してしまう。それに一瞬金作は笑みを消すが、すぐに再び笑い声を上げた。
「儂はもう十分戦った、だからここで戦い納めじゃあ。四郎様はまだお若い、三左、お主もな。だから四郎様はお主に任せた。それに儂はまだ首級を一つ*4しか挙げてないからのぅ、三左の三つには並びたいところじゃ」
「いや、それは将なのになぜか向こうから最前線に突っ込んできたからだし、三会村殿が挙げた首級は大将だろうに……」
「ガッハッハ! 老将は放っておいて先に行けい! 少しばかり時は稼ごう! 総大将を頼んだ!」
喧騒の中でもよく響く金作の笑い声に、三左は一度俯き小さく笑った。死に場所を決めた侍に無粋な言葉は不要である。「三会村殿、おさらばです!」と走り出す三左に金作は銃声でもって応え、三左の前に人の河に風穴を開けた。頭を吹き飛ばされて崩れ落ちる侍を踏み台に三左は大きく跳び上がり、城壁の先へと駆け上がってゆく。
至る所に見える幕府側の御旗、本丸さえ囲み尽くしている侍たちの間に落下し、その勢いを利用して無理矢理三左は人垣を抜ける。空から降ってきた謎の男に、「おうッ‼︎」「オウッ‼︎」と侍たちは刀を構えて立ちはだかろうとするも、辻風の如く走る三左は相手をせず、名も名乗らずにすれ違い様に首を撥ねる。
「相手をしている暇はないッ! 退けいッ‼︎」
斬っても斬っても終わりが見えない。勝ちがほぼ手中に収まっているからこそ、出来るだけ手柄を上げようと挙って敵が襲い掛かってくる。徳川の世になって以来、豊臣が滅んでから巻き起こった久々の大戦。これを逃せばいつ戦があるか分からない。血気盛んな侍たちに三左は大きく舌を打ちながら人の壁を強引に抜けて本丸の中へと足を落とす。
(クソッ、少し掠った)
赤い雫を宙に散らしながらも足は止めない。始まる前から敗戦の色が見えていた中、軍師として頭を巡らせていた五郎座衛門の今際の際の頼みだ。その最後の策ぐらい成功させなければ、武士としての意に反する。だから傷の一つや二つ、できたところで足を止めてなどいられない。
「何奴! 名を名乗れい!」
「邪魔だ貴殿らッ! 去ね‼︎」
名を名乗っている暇などない。狭い室内、するりと抜け出ることなどできず、立ちはだかる侍を一人二人と力任せに斬り捨てる。ペキリッ、と音を立ててへし折れた刀を放り捨て、床に転がる骸を乱暴に踏みつけ、三左は無理矢理目前に控えた襖を蹴り破る。
「肥後細川藩士! 陣佐左衛門‼︎ 天草四郎時貞、その首貰い受けるッ!」
「渡すか阿呆ッ!!!!」
刀を上段に構えた侍の背に勢いに任せた三左の蹴りが飛来する。弾丸のように飛び込んで来た三左に侍たちが反応するも間に合わず、一人蹴り飛ばしたまま身を捻り、薙がれた三左の脚に巻き込まれ木の壁に幾つもの影がめり込んだ。
足を振って調子を確かめ、壁を背に座っている総大将へと三左は顔を落とした。
一見女に見えなくもないが、よく見れば体つきから男と分かる美少年。陶器にような肌の白さが、薄暗く血に塗れた世界の中では浮いて見えた。白い布で長めの黒髪を頭の後ろで縛り、日ノ本では見慣れぬ洋服に身を包んでいる。座禅を組んでいるかのように座る天草四郎時貞の顔に歪みはなく、分かっていたと言うように三左の方へと顔を上げると柔らかく笑った。
「来たな三左、……なんだその面は?」
「若いと舐められますからな、顔を隠すためでござる」
「三左の敬語はなれぬのう。それで? なぜ来た?」
「四郎様を逃がすためでございますれば! 四郎様さえ生きておればどうとでもなると、千々石殿がな! 行きますぞ!」
言うが早いか三左は四郎を引っ掴み外へと飛び出す。海沿いに建てられた原城ならば、海沿いに抜けられればどうとでもなる。そのためには十二万に上る包囲網を突破せねばならないが、そのほとんどは功を求めて城に突っ込み、人の波に後押しされて後戻りは難しい。だからこそ人ふたり、煙に紛れただ逃亡に専念する三左の足を追うことはできない。
「おい三左! 主怪我をしておるぞ! 大丈夫なのか?」
「喋ると舌を噛みますぞ四郎様! なるべく端を行っておるから問題ありませぬ! それに千々石殿が面頬つけた俺の影武者を立ててくれたお陰で逃げるなら今しかない! 俺だって宮本武蔵殿などとはかち合いたくないですからな!」
「はっはっは! そうか! 三左が言うなら大丈夫だろう! 向こうの木の方が良さそうだぞ三左」
「四郎様が言うならそうなのでありましょうな!」
二人笑い空を舞う。人目の向かぬ中をかっ飛んで、喧騒が少し遠くなったところでようやく三左は四郎を下ろす。少し遠くになった原城から立ち上る薄っすら朱に染まった煙を見上げ、三左は小さく肩を落とした。離れたところで幕府側にいる忍びたちを引き剥がすことはできない。追いつかれるのは時間の問題、眉を顰める三左と違い、四郎は木に寄りかかり薄っすら笑いながら腰を下ろした。
「四郎様、休んでる暇はないですぞ、ここを抜けなければどうにもなりませぬ」
「ん? 大丈夫さ三左、我には見えておるよ、三左と二人なら大丈夫じゃ」
コロコロ笑う四郎に、一気に三左の肩の力が抜けた。四郎は奇跡の体現者。海の上を歩いた、神の言葉を口にした、枯れ木に実を実らせた、などと多くの奇跡を起こしている。中でも未来を覗くけることができることがなにより強みだ。幕府との戦を三ヶ月も続けられたのは、四郎のその力があったからこそ。四郎が大丈夫と言えば大丈夫。力の抜けた三左を四郎は手招きし座れと促す。
「二人っきりは懐かしいのう三左、大矢野島で遊んでた頃を思い出すぞ。あの頃が一番楽しかった。だと言うにお前が家を出るから」
「一つどころに留まるのは苦手でしてな。修行の旅は楽しかったですよ」
「三左は武人じゃからなぁ、変な技覚えおって、我より人外地味ておる」
「それはない」
微笑む四郎に三左も苦笑し、面頬を外し大きく息を吸った。血の匂いのしない空気が懐かしい。深く息を吐き出して、三左も四郎の横へと腰を下ろす。
「負けたな四郎様よ……、担がれた神輿に文句も言わず座る必要がありましたか?」
「力があればこそ、民の願いを聞けるものなら聞かんとな。切支丹ではない三左には分からんかもしれんが、ただ、お陰で三左が旅から戻った。三左も一度十字架を握ってみればよいのに」
「……へッ、俺は大戦があると言うから来ただけでござりますれば。それに、それは四郎様がやらねばならぬことなのですか?」
「できるのだからやったまでじゃ、三左もそうだろう? 頼られたなら応えてやるものじゃ。なあ?」
「まあ、そうですかね?」
頼られたからと武人でもないのに三万七千の上に立つ四郎をどうにもおかしいと思いはするが、だからこそ担がれたのだと思いもする。三左が参戦したのは四郎が総大将になったからというのが半分、覚えた技が試せそうだからというのが半分だ。見知らぬ誰かに頼られて、その全てに手を差し伸べようなどという気は三左にはない。
「まあなんにせよじゃ、久々に二人で語れて嬉しかったぞ三左!」
「なんですかそれは、これから何度もできるでしょうに」
「そうじゃなぁ、三左と二人で行けば、遠い未来の勝利まで我には見えておる。三左と二人なら……」
「そりゃあ最高の言葉でござりますな。分かっている勝利とは」
鼻を鳴らして笑う四郎に合わせて、三左も笑うが同時に草むらが小さく揺れる。笑顔を三左が顰めた瞬間、四郎に向かい飛んで来た手裏剣を三左は手で叩き落とし、木陰から這い出てくる二人の黒装束の間に一息で滑り出た。
打ち出される苦無の横を縫って放つ三左の拳が忍びの腹部にめり込むが、苦無が肩を抉り空に消える。返しの蹴りでもう一人を蹴り飛ばしながら、三左は肩から噴き出す血を払った。
「四郎様! 行きますぞ! 敵の追っ手が────」
────ぴちゃり。
と、地に落ちる赤い雫。三左の肩口から舞い散った黒い血とは違う赤い血が、四郎の首筋から垂れている。首を押さえる華奢な手とは反対の手に三左がはたき落とした手裏剣を握り、四郎は笑ったまま手裏剣を放り捨てる。
なぜ四郎が怪我をしている?
分かりきった答えに無理矢理疑問を思い浮かべるが、結局答えは一つきり、四郎が自分で自分の首を斬った。
「なにやってんだ四郎ッ!!!!」
「ははっ、ようやく敬語が解けたな三左……」
「馬鹿言ってんなッ! 傷を見せろ! 早く止血をッ‼︎」
伸ばす三左の手を四郎は力なく叩き落とし、四郎はただ笑うばかり。四郎の頭の中がどうなっているのか三左には理解できない。およそ致命傷に見える四郎の傷に、「なぜだッ‼︎」と叫ぶ三左の顔を優しく見つめて四郎は柔らかく尚も笑った。
「三左と二人で行けば勝てるがな……、それだと道中で三左が死ぬ」
「だからなんだッ‼︎ それで勝てるなら」
「……三左が死ぬのだけは我はイヤじゃ。我がいなければ三左は」
「なんだそれはッ‼︎ お前ふざけ……ッ‼︎ クソがッ‼︎」
強く握り締めた手を差し出す先がまるで見えず、ただ強く地に拳を叩きつける。ずるりと砕けた拳から血が滴るのも気にせずニ度三度と拳を落とす三左の手に、真っ白い手が重ねられた。
「三左、我は残念ながら人を率いる器ではない。三左が仕えるべき主はきっとどこか他にいる」
「そうでなくたって、お前は俺の……ッ! なんで……」
「三左と同じじゃ……、三左、東北に行け、東北にはなぁ、幻想郷という幻の集まる不思議な都があるそうじゃ、東北にある遠野がそこの玄関口のひとつ、そこで三左の力を必要としている者がいるのが見えた……、そこで半年ばかりは身を隠せ」
「馬鹿、そんなの……」
知るか! と言いたいのに、四郎の笑顔の眩しさに押し込められるかのようにその先が言えない。三左が強く口を引き結ぶのを見やり、四郎は髪を結っていた白布を解くと、血に濡れた三左の手に弱々しく巻きつけた。
「できれば……三左と一緒にぽるとがるに行ってみたかったのぅ、二人で小さき頃に見つめた海の先へ……、行け三左、未来の主の元へ……、三左を拾ってくれる者のところへ……大丈夫、きっと我と三左はまた会える」
「そんなこと……」
「行け三左!」
遠くで草むらが揺れる音を聞きつけて、少し厳しい目をした四郎に三左は押されヨタヨタと数歩後退さる。細い体躯の四郎のどこにそんな力が眠っているのか。四郎に巻かれた朱に染まった白布を握りしめ、言葉にならない呼吸を繰り返し、四郎の手が力なく地に落ちるのを見て三左はなにかが切れたように走り出す。
三左だってここで死んでもよかったのに……。
勝利が分かっているのに、未来が見えるのになぜわざわざそれを捨てるのか。
五郎左衛門も、金作も、四郎までも皆三左を置いて去ってゆく。
だからと言って自分で自分の命は捨てられない。
それを繋いだのは他でもない去りし者。
だから三左は走り続ける。
戦さ場だ。命を賭ける戦さ場が必要だ。皆が消えた戦さ場に身を置かなければ気が済まない。命を捨てる場が欲しい。きっとそこに皆が待っている。だけど、それは、どこにある?
「クソッ! クソッ! 馬鹿野郎がッ!!!!」
叫びはただ虚しく、島原の地に木霊した。原城から聞こえてくる勝鬨の声から逃げるように、三左はただ東北を目指してひた走った。
ふと、髪とインクの匂いが鼻先を掠めた。ゆっくりと目を開けた満月の視界に映る高く積み上がった本たちが、塔のように聳えている。小さく目を動かした満月の顔の先で壁一面に並ぶ本棚が待ち受け、小さく頭を左右に振って満月はぼやけた視界を整えるが、頭の靄が晴れはしない。
「痛ッつ……」
軋んだように痛む胸を押さえながら、古い記憶と今の記憶が重なり合う気持ち悪さに満月は長い息を吐いた。意識を失う前、最後に覚えているのはレミリアの泣き顔。あれからどうなったのか満月にはさっぱり分からない。死んだのかと思わなくもないが、胸の痛みがじくじくと、これは現実であると訴えてくる。
「おや、思ったより早いお目覚めだね。吸血鬼の血のせいかい? ふーん面白いねぇ。いやいや、面白い」
嗄れた老婆の笑い声に満月の顔が向けられる。長い紫色の髪が愉快そうに揺れる姿を目に留めて、満月は小さく頭を掻いた。トプカプ宮殿に居座る魔法使い。その姿を満月はしばらく呆けたように見つめ、魔法使いはまた大きく笑った。
「島原の亡霊? 記憶をちょいと覗かせて貰ったよ暇潰しに。極東ってのはおっかないねぇ、修羅の国かい? 誰もが笑って人を斬る。騎士に近いが、それより野蛮かね?」
「……今なんの刻だ?」
「あんたが倒れてから一日が経った。吸血鬼のお嬢ちゃんは少し前に出て行ったよ。それを置いて」
指差す魔法使いの指を追って傍にあるチェストへと満月が目を向ければ、置かれている歪な十字架と一枚の紙。「いままでありがとう」と下手くそな日本語で綴られた文字を見て、堪らず満月はそのメモ用紙を握りつぶした。
「なんて書いてあるか読めねえ……」
下手くそ過ぎて適当に線が引かれているようにしか満月には見えないが、共に置かれた十字架で全てを察する。レミリアと美鈴は満月を置いて先へと行った。つまりはそういうこと。報酬を渡したということは、これで旅は終わりということ。用心棒と主の関係は終わり。ルーマニアの地を踏んでいないのに────。
「れみぃも俺を置いてゆくのか……」
フランに胸を穿たれた時、別に死んでもよかったのに。戦場に赴くと言うレミリアについて行けば、死に場所に行けると思っていた。同じく戦いに負けた者。レミリアと美鈴と一緒なら、戦場で失ったものを拾えると思っていたのに。
置いていかれたという現実が、棘のように満月の内側に突き刺さる。
「なにを項垂れてるんだい島原の亡霊? 死にたかったのに死ねなかったのがそんなに問題かね? 生者にあるまじき生への不真面目さだね」
「……そういう魔法使い殿はどうなのだ? 千年も生きているのだろう?」
吐かれる魔法使いの毒に目を尖らせて満月は睨みつけるが、それをパイプを咥えた魔法使いの紫煙に吹き散らされた。余計なお世話と言うように、笑いながら魔法使いは頬杖を突き窓の外へと顔を向ける。
「ああもう十分に生きたねぇ、不老の術を解いて今は老いを楽しんでいるところさ。ただ魔法使いという種のサガか老化が遅くてね、あと三百年は生きるだろう。それまでに孫の顔ぐらいは見たいもんだね」
「老いね……、俺にそれは必要じゃあない。俺は死に場所が欲しいのだ。四郎の言っていた主なども見当たらず、俺は俺の行き場を未だに見つけられぬまま……」
十年二十年と、ただ時を重ねたいとは満月は思わない。ただ早く、逸早く、戦場に出たいのだ。自らが死ねる土地へ。仲間たちが待つ大地へ。
武士と生まれたからには、技を求め、誰かのためにその力を振りたかった。四郎のために、親友のために力を使い切れたのならどれだけ良かったか。だがその機会は永遠に失われた。欲しかった機会が失われ、永遠にもう掴めない。ないものを追うことができぬならいったいなにを追えばいいのか。
満月の握り締めた拳はあれからなにも掴めない。四郎の白布を握り締めたまま、開かれぬことなく握り締められたまま。レミリアと美鈴と長い旅路の中でも変わらず、フランに穿たれた時、そろそろ手放してもいいのだろうかと思ってもそれも駄目。なら何ならいいのか分からない。
拳を握り歯を食い縛る満月を横目に、魔法使いはつまらなそうに紫煙を吐いた。なにをやっているんだと言うかのように頬杖を突いたまま。
「あんたも救われないねえ、折角拾われた命を粗末にするのかい?」
「……なに?」
「吸血鬼のお嬢ちゃんが命懸けであんたを生かしたのに無駄にするんだねと言っているのさ」
人に吸血鬼の血を混ぜるなど、およそ取るような手ではない。なにが起こるのか分からない凶事を、離れそうになる意識を美鈴が力付くで繋ぎ止め、レミリアが運命を捻じ曲げた。経ったの一日で満月が目覚めたのも驚きだが、普通に喋り動いていることも一等おかしい。魔法使いをして初めての出来事に、ただただ関心するばかりだ。だと言うのに、それを容易く放り出そうという満月に魔法使いは僅かに眉を寄せた。
「あんたの未来も自分の未来も吸血鬼のお嬢ちゃんは諦める気がないらしい。なにがあれば半年でああも変わるのか、少なくともそれは美鈴とかいう子とあんたの影響だろうに」
「俺の?」
「そうだろうさ、全くどうやって知り合ったのか知らないがね」
どうやってなどと言われても、夜の満月の下、出島の港の路地裏でたまたま満月の先に待っていたのがレミリアだっただけである。その時に見せられた
「そりゃあ吸血鬼のお嬢ちゃんが持ってたやつだね、銀食器を無理矢理握り締めて作った十字架なんて、そんな安っぽいので雇われるなんて、あんたも変わった奴だねぇ」
「安っぽいか……」
十字架に残された指の跡。その指の跡こそフランの指。レミリアが握り締めていた時は、その跡に指を沿わせて握っていた。それを思えば、安っぽいなどとは決して満月には思えない。フランの想いが形として残った十字架。この世にひとつしかない優しい十字架。その指の跡に満月も指を沿わせてみるが、まるで大きさが合わない。
「小さな手だ……」
そんな小さな手でレミリアは満月の命まで掬った。更に覗かれた未来の行き先までも変えようと。
なのに……。
「俺だけがあの頃のまま……」
未だに手を握り締めている。新たなものを掴もうともせず。
折角掴まれた命なのに……。
「あぁ、そうか……、れみぃが俺を掴んだのか」
満月が選んだつもりでも、満月を掴んだのはレミリア。その小さな手で満月を引き、行こうついて来いと背中を見せる。その背中になんだかんだ満月はついて来た。ついて来てしまった。同じく一度大敗をきっしながら、まだ未来を掴むと歩くレミリアの眩しさから目を離せなかったから。死に場所を探して歩いていた満月とは違うその小さな背中に。
主を決めるのは従者にあらず、従者を決めるのも主ではない。主と従者がお互いを認めてこそ、初めて主従となる。レミリアは既に美鈴と満月を選んでいる。美鈴もレミリアを選んだ。なら満月は?
「俺は……」
四郎の言った未来の主。満月を率いてくれる者。それは選んでくれる者ではなく選ぶ者。満月が認めぬ限り、未来永劫主など現れない。死に場所を探し彷徨う亡霊に、選ぶべき主など存在しない。だから……。
フランの
「……魔法使い殿、俺の着物の中にあった包みはあるかね?」
「あるけれど、それがなにか?」
「くれ」
満月の言葉に合わせて魔法使いが手を振れば、本の下敷きになっていた黒い包みが浮き上がり中の物が姿を見せる。黒い総面の面頬と、朱に染まった白い布。目前に浮き上がって来た赤い布を手に取ると、満月は髪を後ろで纏めて布で結い、面頬を被り頭を振るう。捨てたはずの戦装束。西洋に服に居合わぬ装いを纏い、これまで握り締めていたものを放し、新たなものを掴むために。
「魔法使い殿、俺も送れ。俺も決めよう、主を決めるのは今ぞ! 未来を変える背中について行こう! 俺も、俺はッ! 今度こそきっと‼︎ そういうことだろう! 行こうるーまにあ! 俺の仕事はまだ終わってはいない!」
「分かったからここで叫ばないでおくれよ……、ほら行ってきなお嬢ちゃんの従者」
「おう! 今宵こそ俺はッ! 先へ進もう!」
足元で光る六芒星へと満月は静かに一歩を踏む。その一歩こそようやく踏み出した本当の一歩。数年間彷徨い続けた呪いから抜け出す本物の一歩。その一歩はルーマニアまで続いている。主の邪魔するものは斬り捨てると刀を握り締めて。
「……気付かなかったねぇ」
より紅くなっていた髪を靡かせた満月が消えた先を見据えて、魔法使いは紫煙を零す。人外に一歩を踏み出しながら、それを引き止めるのはレミリアの心。それを引き止めるのは美鈴の心。それを引き止めるのは四郎の白布。人であり吸血鬼、人でも吸血鬼でもない紅いレミリアの従者がルーマニアへ飛んだ。