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無人の野のごとく、洛陽の街道を疾走する影があった。黒い長髪は風になびき、それを目にしたものからは、黒い火の玉のようにうつる。
「秋蘭、あかんわ。馬でもおいつけへん」
「まさか、こんなことになるとは」
「とりあえず、ねーやんが先回りすると言っとったさかい、あっちに任せるしかないやろう」
「逆に、心配になってくるが…」
「ワイはあいつが壊したもんの修理費用が心配や」
それを追いかけるふたりの少女。しかし、その黒い弾丸に追いつけるはずもなく、立ち尽くす結果となってしまった。
「春蘭に話すんじゃなかったわ。死なないでね、志遥」
こちらでもまた、馬を駆る華琳が祈りの言葉とともに疾走していた。
奇しくも、目指す先は志遥の家であった。
のどかな庭の陽の下で、志遥は書を嗜んでいた。正直なところ、巷間に出回っている書物に関して、志遥はほぼ頭の中に収めているため、書を読むことは必要ではなかった。しかし、自らの思索を巡らすには、文字を見ながらの方がやりやすい。それが、志遥の前世からの癖である。頭の中を文字で埋め尽くし、その中から、答えを言葉にしていく。そんな風にするのが、心地よいのだった。
「たまにはこういう日もいいものだ」
今日は華琳も麗羽も、郷里からの親類縁者が来るというので、志遥が一人、優雅に時を過ごしている。母の鮑丹は侍中として、皇帝の側で働いているため忙しく、中々家に帰って来ない。召使たちにも今日は休暇を取らせているので、家にいるのは彼と、
「お兄様、お食事の用意ができましたよ」
「おお、
「いえ、むしろお口に合うか不安です」
妹である、
彼女は志遥と父親の違う妹で、性格はおとなしく、いつも笑顔を絶やさぬ少女である。志遥と同じく、黒い髪に、志遥とやや異なる柘榴石の瞳。幼い頃から志遥とともに勉学や、武芸を嗜んだため、本人が思っている以上に、その能力は高い。特に武術に関しては、志遥も舌を巻くほどの冴えを見せていた。
「腕を上げたな。この韮饅頭、うまいぞ」
「お気に召したようでわたくしも嬉しいです」
最近は料理や裁縫に興味を持っているようで、志遥や母鮑丹、給仕達の指導のもと、めきめきと腕を上げている。なぜ急に興味を持ったのかと、志遥は思ったが、きっと繊細な、女心の成せる技かと、聞かないでおいた。その女心の向いている先は誰かも知らずに。
二人は、食事を楽しみながら、談笑していた。他愛のない日々の出来事から、天下国家に至るまでその話題は様々である。志遥の次から次へと変化する話題に、想遥はしっかりとついていった。どこからどう見ても仲の良い、微笑ましい兄妹の姿。幸せな時間が、その場には流れていた。のだが……
「鮑信はどこだあああああああああああ!」
そんな静寂な風景に突如、暴風のような影が飛び込んだ。ギロリと光る双眸が、突然の出来事に驚きを隠せぬ志遥を認め、手に持つ愛刀、七世餓狼が言葉よりも早く、振り下ろされんとした。
「お兄様危ない!」
言うが早いか、想遥は志遥を突き飛ばし、自らはひらりと宙返りを打つと、食事をしていた卓を蹴り上げ、侵入者の視界を塞いだ。ちなみに志遥の目に、妹の下半身を守る、桜色の布地が見えたことは秘密である。
「無駄だ!」
影は横へ一閃、瞬時に卓は真っ二つとなり、そのまま横へと吹き飛んだ。が、
「ム、いない!?」
その間に、二人は屋敷の中へと退避していた。
「どこに消えた!」
立ち止まった件の影を見れば、それは、華琳の従姉妹である夏侯惇、真名を春蘭であった。
退避した兄妹は、召使たちが休憩に使っている部屋を目指した。そこには、護身と防犯のための武器が用意されている。おそらく逃げることには限界がある、ならば、騒ぎを聞いて執金吾(官職の一つ、主に、都の警備を担当する。ちなみにイケメンじゃないと入隊できない)の兵が到着するまで時間を稼ぐべきだと考えた。幸い、どちらも武芸の心得はある。それに、鮑家は帝に仕える侍中の家だ。兵士の到着も、そう遅くはないだろう。二人は剣を手に、互いに目で合図した。
「そこか!」
春蘭が扉を打ち破り、侵入する。二人は剣を構えて相対した。志遥は、どこか既視感がしてならない目の前の女に声をかける。
「この屋敷に何様だ。鮑侍中の屋敷と知っての狼藉か」
「貴様が鮑信か。我が主に無礼を働いた罪は重いぞ」
「ほう、私がお前の主人に無礼を。お前の名は」
「我が名は夏侯惇! 曹孟徳に仕えし大剣なり!」
「……」
志遥は名を聞いた瞬間、これが九割九部九厘、誤解であることを確信した。そして、前世でしこたま夏侯惇に学問をさせ、分別をつけさせた自分を褒めた。そしてまた、心の中で叫んだ。惇のバカちんがあああああああああああああ!!!!!!!
『すまない、孟徳。俺、やっぱ後世じゃ猛将扱いなんだぜ(グッ』
『わざわざ、頭の中に出てくるなむさくるしい! 眼帯パッチンしてやるぞ!』
あくまで心の中で完結しているが、志遥は心底狼狽えていた。それを春蘭は見逃さず、すかさず斬りかかる。志遥も咄嗟に剣で防ごうとするが、間に合わぬと思った瞬間
「どんな理由があるにしろ、お兄様には指一本触れさせません」
「む、邪魔をするな」
「邪魔をさせていただきます!」
激しい金属音とともに、七星餓狼が弾かれる。見れば、春蘭の前には想遥が立ちはだかっていた。しかし、尚も斬りかかる春蘭、その刃を、その都度想遥が受け止め、受け流し、反撃している。打ち合いは激しさを増していき、常人では、可視できぬ程であった。流石の志遥も、息を呑む戦いである。
春蘭は岩のようである。対する想遥は水のようだ。打ちかかる相手の剣を無理に受けることなく、あるいはいなし、あるいは躱し、隙あらば懐へ潜って差し貫かんとする。打ち合いながらも、互いに睨み合いのような空気が流れていた。
「むぅ、やるな」
「其方も中々」
刃を交えて、二人は互いに互いの武勇を認め合った。故に、双方とも、次の一撃が最後になると確信した。
ジリジリと、空気が張り詰めている。陰陽が交わり、太極へと向かうかのような雰囲気である。見つめる志遥の額にも、汗が浮かんでいた。それは徐々に大きくなり、頬を伝って、落ちる。
「せええええええええええい!」
「はぁああああああああああ!」
それと時を同じくして、決着を付けるため、掛け声とともに二人が互いに飛びかからんとしていた。と、
「春蘭、やめなさい!!」
一喝が、春蘭を止めた。見れば、華琳である。目は怒りに燃え、春蘭を見つめている。振り向いた春蘭は驚愕とも、おそれとも取れない顔になっていた。華琳はすぐさま視線を志遥に移すと、申し訳なさそうな顔で口を開いた。想遥は華琳の登場によって志遥への危険はなくなったと感じ、おとなしく剣を引く。
「志遥、ごめんなさい。謝って済むことではないけれど、できる限りのことをさせてもらうわ」
「華琳様! そんなこと言う必要は……」
「黙りなさい春蘭! 話も聞かずに飛び出して、あまつさえ、鮑信殿の命を奪おうなんて。貴女のしたことは、私の名誉も傷つけることよ!」
「そんな……」
「第一、 志遥が私に何をしたと思ったのよ」
「か、華琳様がこやつに、夜に不遜なことをされたと……」
「私は「志遥は月夜に不遜な言葉を私に言ったけれど、それが私を奮い立たせた」と言ったはずなんだけど。どう解釈したらそうなるのかしら」
「うぅ……」
「春蘭、貴方は人? それとも獣? 犬だってもう少し利口な判断ができるはずなのだけれど」
「華琳、それぐらいにしてやれ」
「志遥は黙ってて」
「お兄様、この者の無礼を許してはなりません。今日のお兄様は少しお優しすぎます」
いつもは果断な志遥も、今回ばかりは、悩む。襲撃の相手はあの夏侯惇だ。仕方ないと、妙に納得してしまう節がある。
『ごめん孟徳、漢中で迷子になったから敵の砦潰してきた』
『お前一応前将軍だよな!?』
頭の中で、在りし日の夏侯惇を思い出す。そしてやはり改めて考えても、目の前の彼女を憎めなかった。
「曹操様、この責任はどう取るおつもりですか。屋敷の一部は壊され、鮑家の次期当主が殺されかけたんですよ」
「返す言葉もないわ」
「夏侯惇殿? ですか。たとえ自らの主君が辱められたにしろ、このやり方はいかがなものでしょう。これでもし、貴方がお兄様を殺したのなら、曹家そのものが消えかねない事件です。お兄様と曹操様は、真名を交わされた仲。貴方は二人の強い絆すら否定したことになります」
春蘭は華琳と想遥の両者に責められ、小さく縮こまってしまった。髪の生え際、その真ん中より生えるアホ毛は、力をなくしてしなびている。あ、可愛い。と志遥が思ったことは、この場では口が裂けても言えない。これ以上弱った姿を見るのも忍びないので、志遥は助け舟を出した。
「それまでだ。華琳も想遥もそれ以上はいけない。このとおり、俺は無傷だ。夏侯惇殿も、反省しているのだ。今回は、不問としようではないか」
もちろん、壊した家屋の代金は支払ってもらうが。と、結んで、志遥は二人を見渡す。二人は納得いかない風ではあったが、本人がこう言っているので、それ以上は言わなかった。そして志遥は、春蘭に向かう。
「夏侯惇殿、貴殿の忠心は俺の心を打った。しかしな、過ぎたるは猶及ばざるが如しだ。主を慕うのはいいが、それで周りを見えなくなるのは、良くない。真に主に忠を誓うのなら、主が求める行動を鑑みるのだ。今回は、いい勉強になったな」
「ほ、鮑信どの……」
春蘭の目はうるみ、子犬のようにプルプル震えていた。無礼を働いた自分を、これほどまでに優しく許してくれたのである。一種の感動が、春蘭に舞い降りた。ちょうど番犬が、その人を家人と認めることに似ている。
「あなたらしくもない。春蘭に対して甘すぎよ」
「なぜかわからんがな、俺は夏侯惇殿を憎めんのだ」
「鮑信どの!」
意を決した風で、春蘭が志遥に向かって叫ぶ。彼が振り向くと、彼女は額を地面に付けて言った。
「どうか、私の真名を預けさせていただきたい!」
「春蘭!?」
「ほう、俺は一向に構わないが、理由を教えていただきたい」
「私の無礼を許してもらった上、それを責めるどころか、むしろ、私を諭してくださった! 私はその恩に報いたい! しかし、今の私には何もできない! だからこそ、私のせめてもの気持ちを込めて、私の真名、春蘭をあずけたいのです!」
驚くべきことである。華琳以外に目もくれない春蘭が、志遥に対し、敬意を払ったのである。そのことに一番驚いたのは、華琳であった。
「春蘭、貴女……」
「お許しください、華琳様。当然、私の心は華琳様のものです。しかし、どうしても、私はこの方にそうしないといけない気がするのです」
真っ直ぐな瞳であった。華琳を一心に慕う時の瞳と同じ類のものである。そんな春蘭に、華琳は何も言えなかった。この瞳こそが、春蘭を春蘭たらしめるものであり、その類まれな武勇よりも、最も愛すべき点であると思っているからだ。けれど、志遥に対して、どこか、鏡を見たときのような、違和感を感じずにはいられなかった。
「それでは、俺もまた、貴殿に真名を託そう。そうまで言ってくれるのだ。俺もそれに答えなければ。よろしく頼む、春蘭」
志遥もまた、華琳が見たのと同じものを、春蘭の中に見た。そして、自らが最も信頼したかつての夏侯惇の姿を思い描いた。彼もまた、真っ直ぐで飾り立てない男であった。自らではなく、曹孟徳を見て生きていた。その姿を春蘭を通して、思い返したのだ。そしてまた、改めて、外史の世に生まれたことに喜びを覚えた。
「……」
そして、その様子を静かに見ていた想遥には、複雑な思いが駆け巡っていた。自らが慕う兄は、どうしてこのように広く大きいのだろう。自分は正直なところ、この夏侯惇という女性を許しきれていない。許されるなら、ひざまずく彼女に対し、剣を振るうことすら考えてしまう。それだけ、兄を傷つけようとしたという事実は、想遥にとって大きなものであった。心を圧迫するしこりが、彼女の中に残ってしまった。
三者三様の思いが、春蘭を中心にして、その場に渦をまく。その姿は見えず、表面上は、ただ穏やかな終局へと行き着くことになりそうだった。このままの雰囲気であったならだったが……
「あらあら、みんなで仲良く遊んでたのね、で、これはどういうことなのかしら」
――声のする先を見ると、そこに鬼がいた。
「「母上……」」「おばさま」「誰だ?」
ぶち壊された扉や、そこかしこにできたヒビを見て、志遥の母である鮑丹は笑いながら小刻みに震えていた。笑顔だが、笑っていない。
「志遥、説明してくれるかしら?」
その矛先は無論、志遥に向けられる。戦場でも中々感じない恐怖を、志遥は覚えた。
――その後、みんなこってりしぼられたのは、言うまでもない。
真の春蘭のばかわいい感じは好きです。
妄想夏侯惇はカバー裏的な感じで度々出てくると思います。
ちなみに執金吾がイケメンオンリーって話はガチのようです。