不敗の魔術師、連合艦隊特務参謀になる   作:ジョニー一等陸佐

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第13話 赤レンガの幕間狂言

 かつて、ヤン・ウェンリーにとって任務を終え帰還した時の風景というのは、惑星ハイネセンの高層ビル群や宇宙港、あるいはイゼルローン要塞の艦船用ドッグの光景がその多くを占めており、それが普通であった。また、源葉洋平にとっても東京の大都市や自宅が日常の風景であった。

 だが今二人の目の前に広がっているのは、燃料の重油を焚いて黒煙をたなびかせる海軍艦艇が出入りしあるいは停泊する、二十世紀前半の呉の軍港であった。

 呉の三方を取り囲む山々の勾配は海岸線まで延び、小さな家々が並んでいる。巨大な工廠を除けばどれもみな瓦葺で低層の木造家屋である。ヤンと洋平が見慣れたビルが並ぶ大都市とは大違いである。二人は改めて、自分が違う世界にやってきたことを実感した。

 もしかすると、自分が見聞きしてきた大和での日々は夢幻であり、上陸すれば現実に引き戻されて現代日本やイゼルローン要塞の光景が広がっているのでは、と頭の片隅で考えていた二人であったがやはりこれが現実なのだ。

 「どうしたんですかあ未来人さん、ほっとしたような顔して」

 「え? 僕いま、ほっとした顔してた?」

 「・・・残念だったね、洋平君。そしてヤンさん、『帝政葦原中津国』へようこそ」

 傍らに立つ寿子は不思議そうに首を傾げ、五十子は洋平の思考を読み取ったかのように言うと、複雑そうな表情で呉の軍港を見渡す。束は一人違う方角を向いたまま、そしてヤンは手持ち無沙汰にベレー帽に手を伸ばし周囲を見渡す。

 今回、上陸することになったのはヤン、洋平、五十子、寿子、束の誤認である。

 亀子は大和に残ることになった。彼女も上陸し同行することを強く望んだが、「亀ちゃんは移動中に寝て迷子になるといけないから」という身も蓋もない理由で留守番を言い渡された。しかし亀子の書いたミッドウェー作戦計画書は、五十子の鞄の中にある。この計画書こそが今回の旅の目的だ。

 上陸したヤン達が呉から広島駅に到着した時、周囲はすでにだいぶ暗くなっていた。

 「○○○二時発、特急富士の切符を手配してあります。帝都には明日一五二五時着の予定ですよお」

 駅のホームではすでに流線型のスマートな、そしてヤンと洋平からすれば非常に時代を感じさせる蒸気機関車が待っていた。鉄道マニアが見れば間違いなく歓喜の声を上げるだろうが生憎洋平はそこは守備外である。一方でヤンは歴史好き故か、「ふうむ、これが蒸気機関車か・・・」と僅かながら感慨を覚えていた。それにしても広島から帝都まで十五時間以上もかかるとは。そちらのほうが二人にはさらに以外であり、時代を感じさせた。ヤンや洋平の時代であれば数十分から数時間しかかからない。まぁ、その分旅をゆっくりと楽しめるといえるのかもしれないが。

 数分後、列車は五人を乗せ定刻通りに帝都に向け発進した。

 「ねえヤンさん、洋平君、着替えがあるんだけど、良かったら着てみない?」

 寝台車に着くなり、五十子は持っていた紙袋を開き中身を広げた。

 「じゃーん!」

 五十子の手に握られていたのは純白に光る詰襟の軍服――日本海軍もとい葦原海軍の第二種軍装であった。塵一つない純白の生地に、金ボタンの上等な仕上がり。肩には中佐の肩章が輝いている。

 「え?これを僕に?」

 「うん。本当は二人が正式に任官されてから渡そうと思ったけどいつまでも未来の恰好じゃ目立つと思うから」

 「明らかにこっちのほうが目立ちそうな気が・・・」

 「嫌?」

 「と、とんでもない!嫌じゃないよ!むしろ着たい、着てみたいです!着させてください!」

 「そっか、良かった~。あ、下は男性用の白い長ズボンだから安心してね。海軍にはスカートしかないから、似た生地のズボンを調達してきたの」

 早速二人は一張羅と化していた学生服や自由惑星同盟軍の軍服を脱ぎ、純白の軍服に着替えた。

 洋平としては自分がこの世界の海軍には女性しかいないのにこれを着てもよいのか、という疑問があったが、そのような雑念も真新しい軍装に袖を通し、鏡に映った自分の姿を見たところで吹き飛んでしまった。

 「さあ、洋平君、仕上げにこれを」

 五十子に渡された軍帽を目深に被る。軍装に身を包んだ洋平の姿はばっちりと決まったものであった。

 「・・・提督になったみたいだ」

 思わず、洋平はそんな感想を漏らしていた。

 「あはは、未来人さん、参謀ならともかく中佐で提督は気が早いですよお」

 「そんなことないよヤスちゃん。戦隊司令は大佐からだけど隊司令なら中佐でもなれるよ。・・・ヤンさんも着替え終わった?」

 「ああ、うん・・・今着替え終わったよ。しかし・・・うーん、なんかなぁ」

 そこにいたのは洋平や五十子と同じく純白の軍装に身を包んだヤンの姿。同じ服装、サイズもあっているはず。しかしそこにあったのは賞賛や感動の声ではなく、本人も含め皆が首をかしげる光景であった。

 「・・・すまねえ。正直言って、なんか似合ってない気がするぞ。なんか、うだつの上がらない学者か学生が軍服を着ているのを見てる気分だ」

 真っ先に皆の感想や思いを代弁したのは束であった。

 「こうして見るとお前、さっきの軍服のほうがよほどしっくり来ているぞ。まぁ、あれはあれでちょっと似合ってなかったが・・・」

 「うーん、おかしいなぁ。サイズはあってるはずなのに」

 「同じ未来人さんのはずなのに、しかも軍人なのになんでこうもしっくり来ないんでしょう・・・」

 「うん、僕もそう思う・・・」

 皆から上がったのは「なんか似合わない」という感想で会あった。

 確かにサイズはあっているはずなのだが、どうも似合っていない。服は確かに上等なもののはずなのだが、それ以前にヤンの学者のような風格や、あるいはヤンの性格が似あっていない原因なのかもしれない。かつての部下であるシェーンコップは彼の軍服について「他の服は何を着ても似合わん」と評したものである。かくいうヤン自身もに皆と同意見であった。着慣れない生地に違和感を感じながら、

 「うん、確かに私も何となく似合わない感じがするよ・・・やはり、もともと着慣れたものが一番のようだ」と、頭をかいた。

 「すまない、五十子。苦労して調達してくれたんだろうけど、なんだかこんなことになってしまって・・・」

 「ううん、別にいいよ。ヤンさんが悪いわけじゃないから。それに私も何かさっきの服のほうがまだ似合っている気がするし・・・」 

 「やはり五十子もそう思うかい?そうだね、さっきのに着替えなおすよ。こいつは何かの役に立つかもしれないから取っておくことにしよう。気遣いありがとう、五十子」

 そう言ってヤンは葦原海軍の純白の軍装から、自由惑星同盟軍の黒い軍服に着替えなおしたのだった。

 ヤンが元の軍服に着替えなおすと、五十子が思い出したように口を開いた。

 「ねえ二人とも、展望車に行ってみようよ!きっと今の時間はすいてるよ!」

 「ちょっと長官、声が大きいですよお」

 じっとしていられないという様子で五十子は歩き出した。

 列車の最後尾に連結された展望車を見て二人は目を丸くした。

 ほかの列車が洋風だったのに対し、この展望車は和風で、しかも豪華であった。黒檀に金や漆が施され、大河ドラマに出てくる安土桃山時代の城の御殿のようであった。その華やかさ、豪華さで言えばおそらく、ゴールデンバウム王朝のそれに決して勝るとも劣らないものであろう。

 「うーむ、これはなかなか派手だね。こんなに豪華な列車は見たことがないよ。銀河帝国とはまた違う華やかさだな・・・」

 「銀河帝国っていうのが何なのかは知らないけど・・・ふふっ、この車両はね、戦争が始まる前、外国人のお客さんに人気が出るようにってつくられたんだって。・・・本当は一昨年、帝都でオリンピックがあるはずだったんだよ」

 豪華絢爛な展望車に足を運んだのは夜が明けてからのことだった。しかしその時にはすでに多くの乗客がいた。リボン頭の海軍乙女が山本五十子であると知るや否や、彼らはみな一様に握手やサインを求めてきた。乗客の数は増え続け、景色を楽しむどころではない。

 「『苦しいこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう、これらをじっとこらえてゆくのが乙女の修行である。山本五十子』っと。はい書けましたよ。次の方どうぞ」

 「すみません、この扇子に『常在戦場』って書いて下さい!」

 列車は駅に着くたびに五分ほど停止する。その度に多くの群衆が待ち構え、その僅かな時間帯の間に五十子に握手やサインを求めてくる。対する五十子はそれに真摯に答え、結果として列車の時刻表は大幅な修正を求められることになった。

 「どうして五十子さんが来るって、みんな知ってるのかな」

 「呉鎮守府の先輩方はお喋りですからねえ。大和のこと以外は、情報が外部にダダ漏れです」

 「・・・」

 小声で聞くと、寿子は苦笑いとともにそう返した。

 そして目的地である帝都、東京。その巨大なドームが特徴の東京駅にはそれまでの数十倍の老若男女の群衆が待ち構えていた。この世界の一般人。スーツ姿のサラリーマン、袴を着た老人、学生、着物姿の主婦、少年少女・・・人々の五十子を見る目は熱っぽく、眩し気で、熱狂的であった。

 「真珠湾の英雄、山本五十子閣下万歳!」「我らが軍神!」「帝国の守護者!」

 身がすくむような歓声の中を、五十子は決して怖気つくことなく進んでいく。海にいると気づかないが、彼女が確かに有名な軍人なのだ。そしてヤンにはその歓声は彼女を称える一方で、恐ろしく重圧的で彼女に何かを背負わせるような感覚も感じさせた。

 「・・・陸の連中はもう、戦争に勝った気でいやがる」

 それまで黙っていた束が片頬を吊り上げ低く呟いた。

 五十子は黙って手を振り歓声に応えながら進んでいく。

 ヤンと洋平には、その背中が彼女に声援を送る大人よりもひどく小さく見えた。

 

 

 

 

 「そういえば、海軍乙女って何歳から何歳くらいまでの子がなるものなの?」

 帝都から海軍省へ向かうタクシーの途中、洋平は何となく寿子に聞いた。何か会話の話題が欲しいと思ったのだ。束がなぜかこちらを向いて睨んできたが、寿子は素直に答えてくれた。

 「私達士官は九歳で海軍兵学校を卒業、十代前半で尉官から佐官に昇進を重ねて、兵学校卒業席次、いわゆるハンモックナンバー上位者は十五歳から将官になります。個人差はありますけど大体二十歳を超えると陸上勤務になって、そのうち予備役に編入ですね。元帥になられる方もごく稀にいらっしゃいますけど・・・その辺りの話はデリケートなのでちょっと。ま、宇垣参謀長は気にし過ぎですけどお」

 「おい渡辺!年齢の話は無しだぞ!」

 海に耐性のある女性でも二十歳を超えるとラ・メール症状が出るという。なぜ年齢差があるのか、そのメカニズムは分かっていない。子供のころは平気だったブランコが、大人になると気持ち悪く感じるのと似たようなものだろうか。

 「ちなみに私は十三歳です」

 「えっ、じゃあまだ中一なの?しっかりしてるから、もう少し上かと思ってたよ。寿子さんが中佐だから・・・もしかして、大佐の亀子さんは十四歳?」

 正解ですよお、と寿子は笑った。

 「黒島参謀はいつも寝てるので、本当は二十歳超えてて薬の副作用で眠いんじゃないかって疑惑がありますけど、あれは単に生活が夜型なだけです。」

 ヤンは思わずユリアンのことを思い出した。最後にあった時、ユリアンは弱冠十八歳であったが階級は中尉であった。さらにその軍歴を考えればユリアンはその年齢にしては高い地位と非常に豊かな才能を有しているが、ユリアンよりもうら若い少女が、単純に階級だけで言ってもさらに大きな地位そして責任を有していることになる。世界が違えばこんなにも大きく制度や社会が違ってくるのか。そしてこれは妥当なことなのか、悲しむべきことなのか。

 「あっ、私まだ未来人さんの歳を聞いてないです」

 「あれ、言ってなかったっけ?僕は十六歳だよ。八月の誕生日で十七歳」

 「ええっ! 世が世なら少将クラスじゃないですかあ、失礼しましたあっ!宇垣参謀長と同い年ですね!」

 「おい渡辺!」

 「ヤンさんはいくつ何ですか?」

 洋平の質問にヤンは答えた。

 「三十三歳。誕生日は四月だ」

 ヤンの答えに寿子はへえ、と答えを上げる。

 「もう少しお若いと思っていました。意外と『おじさん』なんですねえ」

 寿子の発した単語にヤンは目を見開き抗議の声を上げた。これが地上なら、思わずよろめいたことだろう。

 「ひどいっ。ああっ、差別だ中傷だ。私はまだまだ十分若いぞ、少なくとも三十は『お兄さん』と呼ばれることはなくても『おじさん』と呼ばれるような年齢じゃないはずだ、そうだろう」

 どうやらヤンにとっても年齢の話はデリケートな話題のようだ。

 やがて、目的地の建物が見えてきた。

 左右対称の翼を広げた重厚なネオバロック様式のレンガ造りの建物。通称・赤レンガ。海軍の行政全般を統括する海軍省と、統帥機関として作戦指揮を統括する軍令部とが入る、帝政葦原海軍の中枢だ。車が徐々にスピードを落とす。

 「・・・何度来てもこの場所は好きになれないです」

 寿子の表情がいつの間にか硬くなっていた。

 「未来人さん。私が未来人さんの上陸に反対だった理由は、危険ってこともありますけど、それより、この場所に来て欲しくなかったからなんです。予めお願いしておきます。海軍のこと嫌いになっても、私達のことはどうか嫌いにならないで下さい!」

 「いや、嫌いにならないよ。そもそも僕の意思で来たんだし・・・」

 「だいじょーぶ、痛くないよ~、すぐ終わるからね~」

 「えっ、何それ五十子さん、注射するお医者さんとか看護師さんの真似?それフラグだよね?絶対痛い奴だよね?怖がらせるのやめてくれない?」

 「・・・やれやれ、どうやら少なくともいい気分でこの建物に入ることはできなさそうだな」

 ヤンは頭をかきながらため息をついた。どうやら面倒なことになりそうだ。

 まもなく二人の態度が決して脅しではなかったことをヤンと洋平は知ることになる。

 

 

 

 

 

 

 正面前で四人を待っていた伊藤と名乗った長身痩躯の士官は「嶋野閣下がお待ちです」とだけ事務的な口調で告げると、そのまま背を向けて歩き出した。

 彼女が着ている軍装は五十子たちとは違い、深い紺色の第一種軍装である。彼女についていくように、五十子たちは赤レンガの内部へと足を踏み入れた。

 吹き抜けの玄関ホールでは伊藤と同じ紺色の第一種軍装に身を包んだ海軍乙女が数名立ち話をしていたが、五十子の姿を認めるなりそそくさと立ち去ってしまった。

 どこを歩いても、すれ違う海軍乙女たちの反応や態度はよそよそしいものであり、目的の部屋までの距離が非常に遠く感じられた。

 男子禁制の伝統を破るヤンと洋平が忌避されている、自由惑星同盟軍の軍服に身を包むヤンの姿が目立ち非常に異質なものに感じられ忌避されている、というのもあるのだろう。だが、少女達はヤンと洋平に訝し気な視線を送ることはあっても、五十子に対しては視線さえ合わせようとしない。ヤンと洋平以上に、五十子が避けられていた。信じがたい光景である。本当にここで働いているのは五十子たちと同じ海軍乙女なのだろうか、と疑問を抱かずにはいられない光景だった。

 「久しぶりだね、静ちゃん。軍令部にはもう慣れた?」

 誰もいない廊下に差し掛かった時、五十子は案内役の長身痩躯の士官にそう声を掛けた。伊藤静がフルネームらしい彼女は、恐らく五十子と何かしらの関係があったのだろう。だが彼女は何も聞こえなかったかのように五十子の問いかけを無視した。

 寿子が拳を握り締めて何か言いたそうにしていたが、五十子に止められた。

 ふと、ヤンはこの建物に漂う空気、雰囲気の正体が分かったような気がした。そして覚えもあった。これは――腐敗の匂いだ。腐敗した権力の匂い。

 同じ雰囲気、同じ空気をヤンは何度も味わった。ヤンはある時のことを思い出した。

 宇宙歴七九八年三月、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊司令官を務めていたころ、彼は突如として同盟政府による査問会へ召喚された。フェザーンにより「ヤン・ウェンリーに叛意あり」と吹き込まれた同盟政府首脳部が圧倒的軍事力と才能を持つ彼を恐れるあまり開いたこの査問会であるが、当然のことながらヤンに叛意ありというのは事実無根のデマであり、証拠も何もないものであった。そもそも査問会自体、憲法にも軍法にもその法的根拠のないものであり、査問会の目的はむしろ同盟政府によるヤンへの心理的リンチ、嫌がらせにあるようなものであった。

 当然ながら、それは不愉快極まりないものだった。彼の言動をいたずらにあげつらい非難するばかりの政府首脳、その醜態。あまりにも腐敗した政治家達と雰囲気。結局、敵の襲来によって中断されたがそのひどさ、腐敗ぶりはヤンに思わず辞表を叩きつけてやろうかと思わせ、実行させかけるほどであった。その以前にも以降にも、ヤンは幾度となく腐敗した政治家や衆愚政治と堕した民主共和制に悩まされることになり、民主主義に対する疑問や疑念を抱かずにはいられなかった。

 そして、同じく腐敗した権力の空気がここにも澱んでいると、ヤンは感じた。それも相当腐敗した権力が。長年腐敗した政治や政治家に悩まされた経験や勘が彼にそう感じさせたのかもしれない。そして、海軍乙女たちの五十子に対する態度の原因もそこにあるように感じた。

 ヤンは洋平のほうを見た。

 洋平が唇をじっと噛み表情をわずかにゆがませていた。目眩でもしたのか、思わず壁に手をつき掛けていた。

 ヤン同様洋平もまた、この赤レンガに漂う不快な空気を、もしかするとヤン以上に感じ取っていた。洋平はそれを臭いとして感じ取っていた。陰湿な空気、まるで建物全体から吐き気を催す匂いが漂ってくるようだ。潮通しの良い柱島泊地ではしなかった、澱み切り腐敗した海の臭いが。昨日駅で受けた市民からの熱狂的でどこか重圧的な歓迎も異常であったがそれとは別種の異常さ、不快さ。だとしても、なぜ自分がここまで過剰に反応してしまうのか洋平には分らなかった。

 そんな様子の洋平にヤンは小声で話しかけた。

 「・・・洋平、覚悟をしたほうがいい。ここから先はとんでもなく不快なものが待っている。腐敗した権力というやつさ。私には何となく分かる。私が何度も悩まされたやつだからね」

 洋平はヤンの顔を見つめた。その瞳には諦観とわずかな怒り・憤りがあるように感じられた。

 「・・・もし君がこの世界で軍人としての道を進むというのなら覚悟し、そして学んでほしい。この世で、人間として軍人として何が最も卑劣で恥知らずなのかをね」

 洋平は拳を握り締め、ただ静かに頷くだけだった。

 「・・・こちらです」

 『大臣室』と記された木札のかかった扉の前で、五十子はしばらく立ち止まっていたが、やがて中に入った。続いて入室する。

 最初に視界に入ったのは巨大な地球儀、そして壁の地図。なぜか主戦場であるはずの太平洋ではなく欧州アフリカの地図が貼られている。

 入り口に向かって縦に置かれた会議机には、片側に参謀飾緒をつけた軍令部の参謀たちが、もう片側には海軍省の高官たちがずらりと居座っている。

 そしてその奥には大きな安楽椅子に腰かけ、こちらに艶然と微笑む女がいた。

 「ごきげんよう、山本さん。最後にお会いしたのはいつだったかしら?」

 一口に笑顔といっても様々なものがある。・・・その微笑は五十子のそれとは根本的に質の異なる、何か圧力を感じるものだった。濃いルージュを引いた唇は三日月のように緩やかに弧を描いているが、目は少しも笑っていない。酷薄な視線を、五十子は何事もないかのように自然な笑顔で受け取っていた。

 「開戦の四日前にあった大本営政府連絡会議以来だよ、嶋野さん」

 嶋野。それがこの艶然と微笑む女の名前であり、そして軍令部総長と海軍大臣とを兼任する葦原海軍の最高権力者であった。

 鼻梁が高く整った顔立ち、品よくハーフアップにセットされた艶のある射干玉の髪、日を浴びていない絹のように白く滑らかな肌。それだけならば、清楚な深窓の令嬢の印象を与える美少女である。

 だが、尊大に組んだ黒タイツの脚、扇子を仰ぐ手の赤いマニキュア、そして獲物を狙うネコ科の肉食獣のような目つきが、ある種の妖艶さ、別の属性を与え彼女が決して単なる美少女、令嬢ではないということを他人に悟らせていた。

 「ということは3カ月半ぶりですわね。あら、山本さん少しお肌が荒れたような・・・私が差し上げた日焼け止め、ちゃんと毎日塗ってらっしゃる?海の紫外線は乙女の大敵ですわよ」

 「あはは、わたしうっかりさんだから塗るの忘れちゃうことが多くって。ごめんね嶋野さん、せっかく高価な物を頂いたのに」

 嶋野は扇子の先で五十子たちに席を勧めた。出入り口に一番近い末席。連合艦隊司令長官であるはずの五十子たちに対し非礼な扱いだが、このほうが距離が明けてむしろ気が楽だとも考えてしまう。

 「お気になさらないで、貰い物ですから。総理が買って下さったんですけど、ご覧の通り私はここで机仕事でしょう。山本さんみたいな日焼けの心配はありませんの。全く、私が欲しいと申し上げたのは化粧品なのに、総理ったらボケてしまったのかしら」

 「あはは・・・」

 次いで嶋野は沈黙したままの束にその視線を移す。

 「宇垣さんも、ごきげんよう。お帰りなさいというべきかしら?ここは宇垣さんの古巣ですしねえ」

 束はかつて軍令部で勤務していた。そのことを嶋野は言っているのだ。

 「ゆったりくつろいでいって下さいな」

 「・・・恐縮です、嶋野先輩」

 束が使う敬語は、まるで錆びた歯車を無理やり回しているようであった。

 対する嶋野の顔は明らかにそんな五十子たちの困る反応を楽しんている様子であったが、その顔は彼女の視線がヤンと洋平に映った瞬間がらりと変わった。

 「あら?あらあら?坊やに殿方・・・そちらのお二方は?特にそちらの殿方は見慣れない服装ですけれど?」

 食い入るように目を上下させる。横に座る海軍省の高官がすかさず嶋野に耳打ちした。

 「人事局に願いが出ていた、例の少年と男です。なんでも海を泳げる特殊体質で、東洋艦隊主力の居場所を言い当てて見せたとか・・・」

 「岡さんは黙ってくださいますこと!」

 「ひいっ!」

 扇子を一振りして部下を黙らせる。嶋野がどれだけの権力を持っているか、どのように権力をふるっているか、その一端がうかがえた。

 ヤンと洋平は用意していたセリフを口にした。

 「山本長官より中佐相当官及び連合艦隊司令部特務参謀扱いを拝命した、源葉洋平です」

 「同じく、ヤン・ウェンリーです」

 「あらまあ可愛い。山本さん、いつの間に彼氏を二人も?貴女もなかなか抜け目がないですわね。うらやま・・・ごほんごほん!いえ、うらやましくなんかありませんのよ?まあ、確かに艦の上でも慰安は必要ですわよね。ちなみに私の好みはそちらの殿方のような年上の・・・ごほん!」

 何やら妙な誤解をされている気がする。ヤンも洋平も低劣な邪推をする粘着質な声に耐えられず、洋平が再び口を開いた。用意していたセリフには続きがある。

 「・・・僕は七十年後の世界から来ました。ヤンさん、もといヤン中佐も僕と同様千六百年先の未来から来た未来人です。この戦争について皆さんが知りえないことを知っています」 

 「ちょ、ちょっと未来人さん!あ・・・」

 寿子が洋平を止めようとして、途中で自分の口を押えた。

 「未来人、ですって?」

 嶋野は洋平と寿子の発言にぽかんとしていたが、すぐに背もたれを目いっぱい倒して大笑いした。

 「おーほっほっほ!山本さん、これは一体何の余興ですの?それとも、瀬戸内の潮風に当たり過ぎて二十歳を待たずにラ・メール症状になってしまわれましたの?坊やも殿方も大変ですわね、こんなのに付き合わされて!おーほっほっほ!」

 どうやら、嶋野は五十子がヤンと洋平に命じて言わせていると思ったらしい。とはいえ、彼女の反応が多少オーバーなものであるとしても、ほかの人間でも似たような反応を示すだろう。嶋野の反応はある意味では当然ともいえた。

 「嶋野さん、信じられないかもしれないけど、洋平君が言っていることは本当なの。二人とも本当に未来人なの。現にセイロン沖のことを事前にその詳細な結果と原因を言い当てたの。単に未来から来ただけじゃなくて装備や戦術にも詳しい。二人とも、私たちにとって欠かせないな仲間だよ」

 五十子の発言に会議机に居並ぶ海軍乙女たちがざわ・・・と微かに動揺する。連合艦隊司令長官の発言・フォローである。少なくとも、ヤンと洋平のことを公然と嘘吐き・狂人であると呼ぶことはできない。

 「・・・必要な人材であるかどうかは、人事を統べるこの私が決めることですわ」

 高笑いをやめた海軍大臣兼軍令部総長の一声で、ざわついていた部下たちはぴたりと静まり返った。

 「まあいいですわ。このたびご足労願ったのは他でもありません。葦原を勝利に導いた山本さんの武功に対し、勲一等功二が授与されることになりましたの。宮中への上奏にあたっては私が骨を折りましたのよ」

 嶋野の「おめでとう」に合わせ、慇懃な拍手が起こる。

 戦争を勝利に導いた?ヤンと洋平からすれば滑稽な光景にしか見えなかった。一般市民だけでなく、本来正しい認識を持つべき軍上層部でさえ既に戦争で勝ったつもりでいる。楽観的・希望的観測で戦争に勝った国家や軍隊など歴史上存在しないということを彼女達は知らないのだろうか。

 五十子も同じことを思ったらしい。

 「嶋野さん、ごめん。わたしね、受章を断りに来たんだよ。その勲章は受け取れないよ」

 「・・・断る?受け取れない?恐れ多くも、陛下より賜る勲章ですのよ」

 すうっと嶋野の目が細める。一般人なら背筋が震えるような眼差し。しかし五十子は全く怯まない。穏やかだがはっきりとした口調で言う。

 「なおさらだよ。だって、私たちはまだ勝ってなんかいないもの」

 「謙遜を。一航艦の南雲さんと草鹿さんからは、ヴィンランド太平洋艦隊は壊滅的な打撃を受け当分は真珠湾から出てこられないだろうと聞いていますわ。太平洋の趨勢は決したも同然でしょう?」

 「いいや無傷だよ。ヴィンランドの空母は無傷で太平洋にいるよ。その脅威を放っといたまま海軍上層部の人間が勲章を貰うなんて、陛下と国民に対する裏切りだよ」

 「・・・何が言いたいんですの」

 鷹揚だった嶋野の声に苛立ちが感じられた。

 五十子は静かに、赤い表紙で装丁された書類を置いた。黒島亀子が書き上げた、ミッドウェー作戦計画書である。

 「この案を、第二段作戦として検討してほしいの」

 「何かしらこれは・・・ミッドウェー、ですって?」

 嶋野は計画書のタイトルに目じりを吊り上げると、内容に一切目を通すことなくそのまま机に放り投げた。寿子が目を見開く。

 「はあ、呆れた。こちらが頼んだ美豪分断作戦の準備もせず、こんなものに時間を費やしていただなんて。いいですこと山本さん、前にも言った通り作戦の主務機関はあくまで軍令部ですの。貴女方GF司令部は、軍令部が決定した作戦目標を達成すべく艦隊を展開させ戦術指揮を執る、そういう組織の業務分担ですのよ。例外は真珠湾の一度きりと念を押したのを覚えてないのかしら?」

 嶋野が芝居がかった仕草で指を鳴らす。伊藤が巨大な地球儀を上に回し、南太平洋を正面にした。赤道の島々、そしてオーストラリア大陸が視界に移る。

 「博打は一度で十分、ここからは堅実にやりますわよ。フィジー・サモアを攻略し、ヴィンランドと豪州の海上交通路を遮断。こうすれば豪州を反攻の拠点にしたいヴィンランドの野望を挫いて南方資源地帯は安泰、そればかりか、孤立した豪州はブリトン連邦から脱落し降伏せざるを得ませんわ。豪州の豊富な鉱物資源も全て我が国の物。豪州を守れなかったヴィンランドと、豪州の宗主国ブリトンとの同盟関係にも亀裂が入るでしょう。さらに」

 嶋野は立ち上がり、壁の地図に向かった。例の欧州アフリカの地図である。どこから情報を手に入れているのか、トメニア軍の前哨基地にピンが刺してある。もしこれがヤンや洋平の知る歴史と同じならば、この北アフリカの大地でエルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団が連合軍と激闘を繰り広げている頃である。

 「インド洋に進出し、トメニアの戦いを背後から支援しますの。ヴィシー政権が統治するマダガスカル島に潜水艦基地を設け、インド洋全域でブリトン船舶に対する通商破壊作戦を。植民地からの資源供給を絶たれたブリトンは、いずれトメニアに屈服するでしょう。私達は東亜に長期不敗体制を築いて、熟した柿の実が落ちるのを待つように盟邦トメニアの勝利を待てば良いのですわ」

 嶋野は大臣席に戻り、五十子に向き直る。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。

 「山本さんは太平洋赤道以北のことしか頭に無いご様子ですけど、私はこの部屋で地球儀を回したり遠い欧州の戦況を確かめたりしながら、全地球規模で作戦を練っていますの。どうです山本さん。これが本物の戦略、というものですわ」

 なんという楽観論。ヤンはとんでもなく出来の悪い喜劇を見ている気分になった。嶋野は自分のことを天才戦略家とでも自惚れているのだろうか。「戦場から遠ざかると、楽観主義が現実にとってかわる」というフレーズをヤンと洋平は思い出した。今の話が、軍令部の構想する第二段作戦であるならば、嶋野や軍令部はまさにこの状態だ。他力本願にもほどがある。五十子の真珠湾攻撃を博打であると指摘したが、ヤンに言わせればむしろ嶋野の考えのほうが真の博打である。それも、ほとんど運や願望によって、運命を他者に委ねることで成り立っている博打だ。彼女の話はドイツもといトメニアの勝利を前提として進んでいるが、そもそもトメニアが勝利するという確証や保証はどこにあるというのか?トメニアが負けるかもしれないという視点は?いや他にも穴はある。

 嶋野たちの楽観主義は見方によってはあまりにも滑稽で、醜悪な喜劇であった。ヤンはこの光景に覚えがある。かつて、大惨敗に終わった帝国領侵攻作戦の作戦会議の時も、作戦を立案した参謀や政府は楽観論に覆われていた。「自由と正義の旗を掲げた同盟が負けるわけがない、圧政下の帝国の民衆は歓呼の声で自由の軍隊を迎え、帝国は恐れをなして逃げるだろう」「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応する」――その根拠のない楽観論、ずさんな戦略は、伸び切り疲弊した補給線・兵站と敵の巧みな戦略によってあっという間に崩され、作戦に参加した三千万の兵士のうち二千万を失う大惨敗に終わった。今目の前で起きているのも、それに酷似した状況だった。これは何かの喜劇、あるいは皮肉なのだろうか?

 「嶋野さん、戦いは将棋でいうなら囲いより詰将棋だよ。本土をがら空きにして南太平洋やインド洋で囲いを作っている間に、ハワイからくるヴィンランド艦隊に王手をかけられたらどうするの?」

 「本土の防衛は陸軍の管轄でしてよ。私達が心配することではありませんわ」

 議論がかみ合わない。当然のことだ。嶋野をはじめ、ここの連中は自国の存亡がかかった戦争をしているという危機感や意識が欠片も感じられないのだから。

 「嶋野閣下、一通り目を通しましたが」

 「この作戦計画書、基本から書き方間違ってますね」

 二人の軍令部参謀が挙手をする。嫌な予感がした。

 「あら。それ読みましたの? 偉いわねえ富岡大佐、三代中佐。感想を聞かせてあげて、忌憚なく」

 嶋野が冷笑とともに促す。そろって不健康そうな青白い肌をし、左右対称な髪形をした参謀二人が無表情のまま口だけを動かす。

 「はい。黒島さんでしたっけ? 素人が無理に奇をてらった感じですね。軍令部に籍を置いたことのある子なら、こんな作戦は絶対に立てないんですけど」

 「基礎を学んでない人に作戦立案は無理でしょ。真珠湾はたまたま上手くいっただけで、やっぱ素人が先任参謀をしているGF司令部は、現場指揮しかやらない方が良いと思いますよ」

 「・・・どういう意味ですか」

 ここに来てからずっと堪えてきた寿子が、とうとう口を開いた。仲間を公然とけなされて、黙っていられなくなったのだろう。

 参謀二名は無表情のまま、

 「敵空母を沈めるなんて、そもそも作戦の目標設定としてカテゴリーエラーなんですよ」

 「海戦での艦艇の損耗は、不確実な偶然の産物でしょ? 図上演習ならサイコロ振って決める内容ですよ。作戦目標というのは拠点攻略とか、資源や重要海域の制海権の確保とか、そういう戦略的にしっかりしたものじゃないと。作戦の体をなしてませんよ、これ」

 「軍令部の選考を受けたいなら最低限、作戦立案の作法をきちんと勉強して、目標を島の攻略に絞って書き直して下さい。まあそれでも落ちるでしょうけどね。ミッドウェーやアリューシャンに資源がありますか? 交通の要所ですか? 天然の要害ですか?」

 「ただの孤島でしょ。資源どころか飲み水も確保できるかどうか。地理的にも守り辛い。占領しても簡単に奪回されますよ。故に軍令部としては、GF司令部の提案に反対です」

 二人が交互に繰り出す無意味な批判を、洋平は虫唾が走る思いで聞いていた。島の占領・維持が困難なことも、そもそも島自体に価値がないことも百も承知。しかしそれは敵主力をおびき出す、という重要な役割のためだ。主目的はあくまで敵空母の誘い出し・撃滅にある。それが作法に反するだと?戦争に作法など存在するというのか?彼女たちは戦争を何だと思っているのか?

 ここにいる連中は軍にとって禁物な楽観主義に染まり、亀子が早期講和のため心血を注いで書き上げた作戦計画書をろくに読みもせず放り投げ、意味のない批判をした。自分たちが戦争をしているという責任も自覚も感じられない。もはや勝敗以前の問題だ。

 「おーほっほっほ! 2人とも、あまり本当のことを言うと山本さん達がお気の毒で」

 「少しお尋ねしたいのですが」

 気づけばヤンは口を開いていた。目の前で繰り広げられる往時と酷似した喜劇・皮肉に耐えられなくなったのか。それとも軍人としてのプライドがヤンにもありそれに触れたのか。ヤンは何かを言わずにはいられなかった。

 「今の閣下の戦略をお聞きしたところ、ドイツ軍・・・もとい、トメニア軍が勝利することや、敵に対し持久戦を仕掛けることを前提としているようですが、その根拠や保証はどこにあるのです?お聞きしたい」

 「・・・何ですって?」

 嶋野が目を細めた。部外者が何を言っているのか、といった様子だ。

 しかしヤンは臆することなく続ける。

 「なるほど、確かに今トメニア軍は優勢かもしれませんが、それが最後まで続くという保証はありません。敵がいずれトメニアに屈服する、トメニアの勝利を待てば良いと言いましたが、その予測の根拠は?本土をがら空きにしても、陸軍が本土を守るから大丈夫と言いますが、陸軍が本土を完全に防衛できるという根拠は?敵に対し長期不敗体制を敷き持久戦を行うといいますが、圧倒的な国力と物量を誇る敵に持久戦を仕掛けたところで、敵の物量作戦で押し潰されるのが関の山、持久戦が無意味どころか愚策であることは明白なのに何故わざわざその戦略を選択するのか?どうにも、あなた方の戦略は楽観論で染まり、穴が多すぎるような気がしますよ。他にも指摘すべき点は山ほどあります。むしろ、あなた方のほうが作戦立案の基礎や作法を理解していないように思われます」

 「・・・あなた、自分が何を言っているのかお分かりになって?」

 「ヤンさん・・・」

 嶋野の目尻が吊り上がっている。嶋野だけでなく、ここにる軍令部や海軍省の高官たちがすでに日好意的な感情をヤンに向けていたし、それはヤンも感じ取っていた。五十子が心配そうにこちらを見る。だが、もともとヤンはそういうので臆する人間ではないし、気にしない人間だ。

 「はっきり言って、今のあなた方を見ているとまるで出来の悪い喜劇でも見ているような気分です。軍人や、指導者の立場が最もやってはいけないことは何か?最悪を想定せず、それに対処する方法を考案せず、こうであってほしいと願望と楽観のみで考えること。現場や前線の意見や状況を顧みず、自分は安全な後方に居座って命令だけして、他人には義務や犠牲精神等を強制して責任を下に押し付けることです。指導者の立場にいるあなた方がまさかこんな基本的なことを知らないとは思いませんが、しかし正直言って、今のあなた方からは国民の存亡がかかった戦争をしているという危機感や責任感・自覚が感じられません」

 「・・・いい加減になさいな。黙って聞いてみれば、わたくしたちが無責任、無能とでも?何も知らない部外者にそのような無礼を言われる筋合いは――」

 「あなたは山本長官や連合艦隊司令部の主張を無意味なもの、空虚なものと笑いましたが――ではあなたは国中が焼け野原になっても、まだそんな風に笑っていられますか?」

 ヤンの言葉に嶋野は口を閉じだ。

 もっと言ってやりたい気分だった。この先に待っているであろう、悲惨な敗北の歴史を、この戦争がどんな終末を迎えたのかを。一九四五年八月一五日、その日までわずか三年でお前たちは無条件降伏するのだと、そうぶちまけたかった。そうして、見られるであろうドラマスティックな反応を見てみるのも一興かもしれない。

 だが、ヤンがそれ以上言葉を口にすることはなかった。

 五十子が口を開いたのだ。

 室内を見渡し声を張り上げる。

 「ヴィンランドの空母を沈めてハワイへの橋頭堡を確保する以外、わたしたちが負けないで戦争を終わらせる道はないよ。ミッドウェー作戦は、わたしの信念です。もしこの案が却下されるのなら、わたしは連合艦隊司令長官として、葦原の防衛に責任を持てない」

 「じ、辞職の脅しですの? 真珠湾の時も確かそう言いましたわね。同じ手が二度も通じるとでも」

 「辞めるとは言ってないよ。でも、勲章は当然受け取れないから。嶋野さんに迷惑がかからないよう、宮中にはわたしが直接お詫びに参上するよ」

 「・・・っ!」

 嶋野の美貌から一瞬、余裕の仮面が剥がれ落ちた。五十子は凛として穏やかだ。2人の視線がぶつかり合う。数秒後、大きく息を吐いたのは嶋野だった。

 「・・・却下するだなんて、私は一言もいってませんわ。富岡大佐、三代中佐。GF司令長官から頂いた提案を、持ち帰ってよく検討するように。これで満足ですこと、山本さん?」

 富岡と三代は無表情のまま首肯する。「ありがとう嶋野さん、よろしくね」と、先程までの激しいやり取りが嘘のような晴れやかな笑顔でお辞儀する五十子。嶋野の頬は引きつっていた。

 「まあ、お礼だなんて水臭いですわ。お互い立場のある身ですから意見が合わないこともたまにはありますけど、私は山本さんのことが大好きですのよ。兵学校の同期ですもの。懐かしいですわ、同期の中で私は首席卒業、山本さんの卒業席次は・・・あら、何番でしたっけ?ふふ、あんな事故さえなければ今この椅子に座っているのは私ではなく山本さんだったかもしれませんのにねえ」

 ・・・事故?五十子は微笑んだままで、寿子は何も知らないようだった。

 それよりもヤンはこの部屋から早く出たい気分だった。

 「あらいけない、忘れるところでしたわ。伊藤さん、山本さんへのお土産を――」

 「行こう、五十子、洋平」

 嶋野の声を遮ってヤンは五十子の手をそっとつかんだ。

 「目的は達したと思う。ならもうここにいる必要はないはずだ。・・・ここは、これ以上君や私達がいるべき場所じゃないと思う・・・」

 呆気にとられる五十子たち、うなずく洋平。

 そのままヤンは五十子の手を引き、洋平と共に大臣室の扉へ向かう。 

 「ちょっと、あなた――!」

 嶋野の怒気のこもった声が耳に入ったが、ヤンも洋平も顧みることなく嶋野たちを背に、五十子の手を引きながら、大臣室から出ていく。一刻も早く、こんな場所から離れたかった。

 こうして、赤レンガでの喜劇あるいは皮肉が過ぎていった。

 

 

 

 

 

 




次回予告(CV:屋良有作)

赤レンガでの一件の後、ホテルに向かおうとしたヤン一行。しかしヤンがその途中はぐれてしまう。見知らぬ帝都の街並みをさまよう中、ヤンは偶然立ち寄った大学の講座である男と出会う。
次回、「不敗の魔術師、連合艦隊特務参謀になる」第14話「帝都での出会い」。銀河の歴史がまた1ページ・・・
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