親切な大臣のおかげで何とか目的のホテルにたどり着くことが出来たヤンは、当然のことながら五十子達からお叱りの言葉を受けていた。
「もう、駄目じゃないヤンさん!見知らぬ街だからしっかりついて着てって言ったのに、はぐれて道に迷うなんて」
「本当に心配したんですよお、未来人さん!皆で探し回ったんです!親切な人が連れてきてくれて良かったですけど、下手をしたら未来人さん不審者扱いされて怖ーい憲兵や特高に捕まって拷問されていたかもしれないんですよお」
「いやあ、まことに面目ない。何しろ、二十世紀の街並みを生で見られるものだからついつい色んなものに目が行ってしまって・・・それに私は方向音痴で」
頬を膨らませる五十子達に、ヤンは頭をかきながら苦笑した。
戦場では敵将さえも感嘆する戦術を見せる一方で地上ではちょっとした距離でも迷う、なんとも名将らしくない名将、それがヤンという男である。
「それにしても、拾った男が商工大臣とはな。世の中、奇遇なこともあるもんだな」
束の言葉にヤンは頷いた。
あの時男は岸信介と名乗った。その時は気付かなかったが、こうして落ち着くとヤンはすぐにあの男が後にこの国の歴史に名を残すことになる人物であることをすぐに思い出した。元々歴史家志望であり自宅には歴史関連の本が山積みなっているヤンである。知識でいえばそこらの一般人よりははるかに深い。詳しく知っているわけではないが、戦後のこの国の舵取りで大きな役割をした彼である。エリート官僚からA級戦犯への転落、そのどん底から政界への返り咲き、そして日米安保・・・彼が何をしたのか大まかなことは知っていた。
その歴史書において大きく太字で記されるべき重要人物に偶然出会ったのだ。いや、偶然というべきなのだろうか。運命とか宿命とかいう言葉を好まないヤンだが、しかし彼と出会ったことはやはり特筆すべきことであるように感じられた。
とはいえ、今考えるべきことは別にある。ミッドウェー作戦だ。
一同が揃い落ち着いたところで、ヤンと五十子達は来るべきミッドウェー作戦とその認可に向けた策を練り始めた。
「嶋野大臣は十中八九、親授式が済めばミッドウェー作戦を却下する心算です。こちらも搦め手から攻めましょう。美豪分断作戦に従うふりをして、その前段にミッドウェー作戦を組み込むんです」
寿子はベッドに地図を広げ、計画の練り直しを始めた。
「目的は表向き島の占領に絞ります。ミッドウェーの飛行場を確保すればハワイの美太平洋艦隊の動向を察知しやすくなり、美豪分断に有利に働くと説明するんです。『ミッドウェー攻略後、連合艦隊はそのまま太平洋を南下、トラック諸島に泊地を移し美豪分断作戦を本格化させる』これなら選考を通るかもしれません」
「待って、寿子さん。それだとハワイ攻略ができなくなるんじゃないか?」
「これは政治ですよお、未来人さん。嶋野大臣がご執心の美豪分断作戦を真正面から否定したら彼女の顔が立たず、逆に認可が下りません。とりあえず相手が呑める落としどころを作らないと。それに、私達が結果を出せば――ミッドウェーで敵機動部隊を壊滅させれば私たちを取り巻く空気も変わるでしょうし、命令権決定権は軍令部にあっても実際の指揮は私たちが執るんです。書類上の命令が島の占領でも出撃さえすればこっちのものです」
「なるほど・・・凄いな、寿子さん。僕には思いつかなかったよ」
名を捨て実を取る寿子の作に洋平は感嘆した。寿子は伊達に参謀をやっているわけではない。そもそも、中央や上層部との折衝は寿子の職務の一つであり、彼女はそうした交渉や調整能力に長けている。こうした策を思いつくのは彼女にとってはお手の物なのだろう。
「じゃあ、上層部との調整は寿子に任せるとして、実際の作戦と指揮をどう進めていくかを考えるとしようか」
ヤンの提案に一同が賛同した。上層部との折衝は寿子に任せておくのが一番だろう。そもそもそういったことはヤンにも洋平にも不得手である。
それよりも彼らが考えるべきはこの先何が起こるかを知っている未来人としてのアドバンテージを活かして、どのようにミッドウェー作戦に介入、これを指揮していくかだった。もはやミッドウェー作戦が立案され、それが実行されることと二人が海軍軍人としてそれに関わることがほぼ不可避になった以上、考えるべきは如何にして史実を変えるか、どのような作戦構想に変えていくかであった。本来ならばミッドウェー作戦をやらないこと自体がベストなのだが・・・
ヤンはティーカップを手に取り、紅茶を一口飲んだ。部屋に備え付けられていたティーセットを使って自分で淹れたものである。口に含んでヤンは僅かに顔をしかめた。飲めない代物とまではいかなくても、お世辞にも美味しいとは言えない。そもそもヤンはこういう能力には欠けているのだ。己の不器用さとユリアンの存在のありがたさと彼の入れてくれる紅茶への恋しさを痛感し、元の世界に一瞬思いを馳せるとヤンはカップを置いて口を開いた。
「まず初めに言っておかないといけないことがある。それは、敵はこちらの手の内を知っているかもしれない、ということさ」
「手の内を知っているって・・・こちらの意図を知っているということ?」
首をかしげる五十子にヤンは頷いた。
「うん。そしてもしかしたら、私たちの攻略目標がアリューシャン列島とミッドウェー島であること、こちらが繰り出す戦力も知っているかもしれない」
「・・・おい、ちょっと待て。つまりてめえはヴィンランドがこっちの出方を全部知ったうえで出張ってくるって言いたいのか?」
ヤンの言葉に束が思わず声を上げた。他の少女も目を見開くなど動揺している。ヤンの言葉は例えれば麻雀やポーカーなどで自らの壁が鏡張りになっておりこちらの手の内が相手にまるわかりの上で勝負をしなければならないようなものだからだ。相手は一方的に有利に勝負が、後出しじゃんけんができるというわけだ。
そして洋平はヤンの言うところがすぐに理解できた。こちらの暗号が解読されている可能性がある、ということだ。
「もしかして、こっちの暗号が解読されているっていうこと?」
「その通り。洋平なら知っていると思っていたよ」
「洋平君、何か知っているの?」
五十子の問いに洋平は頷いた。
「さっきも言ったとおり、こっちの暗号が解読されて手の内がばれているかもしれないということだよ。僕のいた世界の史実じゃ、暗号が解読されて海軍の動向は敵にほぼリアルタイムでまるわかりになっていた・・・寿子さん、今芦原海軍が使っている暗号の名前は?」
「海軍暗号書Dです。真珠湾攻撃の直前に変更され手から現在に至るまで使用していますが・・・まさかそれが解読されていると・・・?」
「・・・やっぱり」
ヤンと洋平の知っている史実ではこの時期日本海軍は海軍暗号書Dと呼ばれる暗号を使用していた。だが、一九四二年一月に撃沈された日本海軍の潜水艦から暗号表を、米軍が回収。当然のことながら日本海軍の動向は米軍に完全に筒抜けとなり、ミッドウェー作戦の概要や参加戦力も完全に把握されてしまった。
いや、そもそもこのミッドウェー作戦では情報戦において完全に米軍に軍配が上がっていた。情報戦がミッドウェーでの敗因の一つに挙げられるほどだ。
米海軍は以前から戦術情報班ハイポを重用し日本軍の暗号解読と無線傍受に全力を挙げ、こちらの動向を完全に察知していた。ミッドウェー作戦の直前には偽の電文を日本海軍に発信し、日本海軍の目標がミッドウェー島であることを知り、ミッドウェーで待ち伏せし迎撃態勢を整えていた。
かたや日本軍はそれまでの連戦連勝や珊瑚海海戦での戦果の誇張宣伝により気が緩み作戦の機密保持が杜撰になっていた。一介の水兵が上官に「次はミッドウェーですか」と尋ねたほどである。
それに暗号が解読されている、ということは山本五十六の死因の一つでもあるからだ。洋平の世界の山本長官は一九四三年四月一八日、一式陸攻に搭乗し前線基地の将兵の慰問に向かう途中ブーゲンビル上空で米軍戦闘機群に乗機を撃墜され死亡した。米軍は暗号を解読し、山本長官がいつどのような空路で向かうか正確な場所と日時を把握し待ち伏せしていたのである。そして、もしこの世界でも史実と同じように時が進むのであれば目の前の五十子も同じように――
洋平は頭を振って、脳裏に浮かんだ不快な、あってはならない想像を打ち消した。改めて、ヤンと洋平の知る史実ではこちらの暗号が解読されていたということ、それによりこちらの動向を敵は完全に察知しており、ミッドウェーでは敵が迎撃部隊を配備し待ち伏せをしていた、等々の事実を五十子達に述べた。
少女達の反応は様々だ。束は半ば不審そうに、寿子は深刻そうにしている。五十子はじっと沈黙したままだ。
「・・・本当なのか?暗号が解読されているっていうのは?軍令部の連中はともかく、ホイホイ手の内や軍機をさらすほどあたしたちの口は軽くないぞ。暗号にしたって一朝一夕で解読されるほど解読されるほど簡単なものじゃねえ」
「ですが、まったくあり得ない事態でもありません。開戦以来撃沈もしくは消息不明になったわが軍の潜水艦や艦艇は少なくありません。もしその中に暗号書を積んだ艦がいて敵がそれを回収でもすれば・・・それに海軍の防諜にしたってそれほど熱心にできているとも思えませんし・・・」
各々の考えを述べる彼女たちに対し、ヤンはさほど深刻そうなそぶりもせず、頭をかきながら口を開いた。
「まぁ、あくまでこれは私たちのいた世界の史実がこうであった、という話だからんね。君たちの世界のこれからの史実がどうなるかは分からない。もしかすると束の言うとおり、暗号は解読されていないのかもしれないしそれがこの世界のたどる史実なのかもしれない。ただ、私と洋平の世界と君たちの世界がつながっていると考えれば、やはりそう考えるのが自然だろうし、寿子の言うとおり、上層部があんなようでは防諜にもさほど熱心ではないだろう。私としてはそういったリスクを十分考慮する必要があると言いたいのさ」
「少し聞いていて思ったけど」
そこでようやく五十子が沈黙していた口を開いた。瞳がじっとヤンの顔をとらえる。
「暗号の解読に待ち伏せ。何だかまるで、私たちが負けるみたいに言うね」
洋平は思わずどきりとした。その目は決して笑っていない。五十子はヤンと洋平の言動から察したのだ。この先に待ち受けるであろう海戦の運命を、そしておそらくは己の運命も。その上で彼女はヤンに問うているのだ。この先待ち受けるであろう運命を。彼女は今どんな感情を抱いているのだろうか。悲しみだろうか、怒りだろうか。それとも覚悟か諦観か――
「うん、負けるよ」
そんな五十子に対しヤンはあっさりとした様子で答えた。
「空母四隻に巡洋艦一隻が撃沈。貴重な戦闘機や優秀なパイロットも多く失った。今までの連戦連勝からは考えられない大敗北。それが私の知る、私の世界での史実さ。そして恐らくこのままいけばこの世界でもその運命をたどるだろうね」
淡々と事実述べるヤン。寿子は驚きに目を見開き、束はヤンを睨んでいる。だが、怒りや抗議の声を上げないのはヤンが決してふざけておらず、ただ己の知る史実や事実を淡々と、そして真剣に述べているからだろう。五十子はじっとヤンの言葉に耳を傾けている。
「少なくとも私のいた世界の史実に限って言えばそうだった。そしてその先のことも当然知っている。でも、私としてはあまり話したくないし、今は話すべきではないと思う」
黒いベレー帽をもてあそびながらヤンは静かに、淡々と続ける。己の息子や弟子教え諭すように。
「もし私の言う未来を知ったら、寿子や束や他の人たちはどうかはわからないが・・・五十子、君はそれがどんなものであれば運命だと思って動じないかもしれないだろう。あるいは受け入れようとするかもしれない。あるいは変えようとするかもしれない。でも考えても見てほしい。確かに私や洋平の世界と五十子の世界は繋がっているかもしれない。これからも同じ歴史をたどるのかもしれない。でもこれはあくまで『かもしれない』であって必ずそうなるとは限らない。私の知っている知識は私の世界のものであって、五十子の世界とはまた違うのだから。五十子の世界が別の歴史をたどる可能性だって十分にある」
ベレー帽を再びかぶり直し、おさまりの悪い髪をかきながらヤンは椅子に座る。
口にはわずかに笑みが浮かんでいるが、目は真剣そのものだ。その瞳が五十子達をしっかりととらえている。
「運命とか宿命という言葉を使って受け入れることができればどれほど楽だろうね。でも、私はそういう言葉は好きじゃない。むしろ嫌いだ。そいつは人間を二重の意味で侮辱している。思考を停止させ、人間の自由意思を価値の低いものとして扱っている。事態や状況や世界がどうであれ、それを振りかざすだけで思考を停止、他者の言葉に耳を傾けず、己を生き方を正当化し他人に押し付けることができる。状況が変えられるものであることも、それが間違っていることにも気づかずに。以前、大和の甲板で言った。ことを覚えているかい?大事なのは君がどうしたいか、自分だけの星を見つけることだと。人には自由に生きる権利があって君には未来があるということを。大事なのは将来どうなるか、ではなく将来どうしたいか、どうするのかということなんだ。望む未来のためにどう行動するかを考えること、それが今私たちのすべきことだ。だから、私は私の知る史実を教えない。君たちが運命にではなく未来に専念してほしいからね」
気づけば洋平はヤンの言葉に頷いていた。そうだ。ヤンの言うとおりだ。自分達がやるべきこととは、この先待ち受けているであろう残酷な運命に、歴史に対し宿命だ運命だと諦観することではない。より良い未来を選択するために、新しい未来と世界を作るために何をできるか、どうすべきかを考え行動することではないか。そもそもヤンと洋平は、そして五十子達はそのために戦うと誓ったはずではないか。
五十子はゆっくりと微笑んだ。
「・・・そうだね。ヤンさんの言うとおりだ。私たちがどうしたいのか、どうしなきゃいけないのか・・・それを考えなくちゃ。何だかヤンさんといると優しい先生かお父さんと一緒にいる気分だよ。私もまだまだだね。えへへ」
少し照れるように頭をかく五十子。寿子も静かに頷いている。
「やれやれ、たまにてめえが穀潰しのポンコツなのか軍人なのか分からなくなるぜ。・・・それともどこかの誰かさんの甘さが伝染したのか」
束も苦笑していた。だがすぐに真剣な表情に変わり、ヤンに対し問う。
「ンで、そこまで言うからにはそういうてめえらには何か策でもあるのか」
束の問いにヤンと洋平は互いにに目を見合い肩をすくめた。
「策か・・・まぁ、無くはないんだけどね。寧ろ考えれば考えるほど出てくる」
そういってヤンは手を頭に伸ばしたまま、思索に入った。
史実では、暗号の解読等によってこちらの手の内を相手は完全に知っていた。作戦目標も知り、ミッドウェーにあらかじめ部隊を向かわせ配備、待ち伏せをしていた。自分が敵の司令官だったとしても同じようにするだろうし、ほかの人間でもそうするだろう。それが一般的な対応だ。
だが、自分達は敵がこちらの手の内を分かっていることを知っている。これは一見不利なように見えるが、うまく活用すればこちらの勝ち目にすることもできる要素だ。相手はこちらの手の内を知っていると思い、主導権はこちらにある、勝機は十分あると思っているだろう。手に入れた情報をもとに対応すればよいと考えているだろう。そこに付け込めないだろうか。
空母四隻を出撃させると通信をだす一方で、実際には空母六隻を出撃させ通信内容よりも大きい戦力をぶつける。史実では後方に控えていた戦艦部隊を積極的に前線に投入する。アリューシャンを攻略させると見せかけて、最初から戦力を集中させ敵に叩きつける・・・
このように作戦はいくらでも思いつく。問題はどのように運用するか、それが実行可能かということだ。
五十子や寿子、束は分かってくれるだろう。もちろん洋平も。だが、ほかの将兵が納得するかどうか、協力してくれるかどうか・・・何より亀子自身はどう思うだろう。亀子は自分の作戦案に絶対の自信を持っている。それはある種のプライドでもある。その作戦内容を変えることに亀子は納得するだろうか。
ほかにも問題はある。亀子の作戦案では艦隊をアリューシャンとミッドウェーに分散、陽動でおびき寄せた敵艦隊を、分散させた戦力で挟撃することに主眼を置いている。だがアリューシャンとミッドウェーは遠く離れており、下手に分散させては合流が間に合わない恐れがある。そして何よりも恐れるべきはこちらの意図を指しているであろうてきが、戦力を分散しているこちら側を各個撃破することだ。やはり戦力を集中させるべきではないか。
ヤンが五十子や洋平たちを尻目に思案していたその時、不意に部屋のドアが外側からノックされた。ヤンの志向が一時中断され一同がドアに注目する。
「誰かルームサービスでも頼んだのかい、寿子?」
「いえ、ルームサービスは頼んでないですし・・・さては山本長官のおっかけですかねえ?」
呑気にドアに近づき魚眼レンズから外側を覗き込む寿子。その顔が急に引き攣った。
「いっ、井上さん・・・」
「えっ、成実ちゃんなの?」
五十子が急に立ち上がり扉を開け放つ。ヤンと洋平もドアに向かう。
「・・・五十子。会いたかった」
ここに来て初めて見る、同じ白い軍装に身を包んだ海軍乙女だった。
腰まではある長い黒髪、端正だがどこか冷徹さを含んだ顔立ち。銀フレームの眼鏡の奥のハイライトのない瞳は五十子だけを見つめている。
「成実ちゃん!成実ちゃんも帝都に戻っていたんだね」
五十子が声を弾ませた。
鉱物の結晶を思わせる端正さと冷徹さ陰影をまとう少女は唐突に、五十子の腰に手をまわし、ぐっと引き寄せる。
「わっ、成実ちゃん?」
「リボンが曲がっているわ、五十子」
囁きながら五十子の頭のリボンに指を絡め結び目を整える。あまりに自然な動作。その様子から二人とも決して浅くない関係の持ち主であることがうかがえた。
ヤンが寿子を見ると、すぐに耳打ちした。
「・・・井上成美中将。南洋方面を管轄する第四艦隊司令長官です。海軍省時代に山本長官の片腕と呼ばれた方で・・・」
一方の五十子は成実に対し嫌がる様子もなく笑顔のままだ。
「成実ちゃん、おさげやめちゃったの?」
「Time is precious. 前線では編んでいる暇はないの」
ストレートの長い黒髪を書き上げ、成実は暗い瞳を細めた。
「ポートモレスビーの攻略の指揮を命じられたわ」
五十子の表情が変わった。
「南方戦線は攻勢限界点をとうに超えている。美豪分断なんて不可能よ。レキシントンとヨークタウンは賢い一撃離脱を繰り返し、私は今年に入り七隻の艦船を失った。敵は真珠湾から学んだのよ。なのに軍令部は南方でどれだけの将兵が死んでいるか知ろうともしない」
「成実ちゃん・・・」
「Nonetheless,だとしても。それが五十子のためになるなら、私は喜んで従うわ」
成実はそう言ってもう一度五十子リボンに触れるとそっと見を話した。そのまま踵を返して部屋を出ようとした時、ドアの側にいた束と目が合った。
瞬間、空気が凍り付く。
「・・・久しぶりだな、井上大先生」
束がどこか乾いた声でつぶやく。
対して成実の氷結した水面のような瞳が波立つ。怒りという感情が浮かんでいるのは明白だった。それは突然の豹変であった。
「・・・宇垣束。よく恥ずかしげもなく私の前に立てたものね」
忌まわし気に束の名を吐き捨てた成実の眉間には深いしわが刻まれ、束を睨みつけるその目には怒りと憎悪が込められている。対する束は何も答えず黙ったままだ。
「知っているわよ。米内先輩の内閣が倒れた後、三国同盟への参加を決めた海軍首脳会議で反対したのは五十子ただ一人だった。貴女はその場に同席していながら、嶋野派の連中と一緒に五十子の意見を無視したそうね。・・・五十子は、貴女を信じていたのに」
あなたを信じていたのに。
それを聞いた瞬間、洋平のこめかみに鋭利なものを突き立てられたような痛みが走った。悲鳴を上げたくても喉は動かず、それどころか呼吸さえできない。胃が激しく収縮し、視界が不明瞭になり、平衡感覚が遠ざかる。赤レンガの廊下で経験したことと同じだった。
この痛みはなんだ?どこから来るというのだ?なぜ自分が痛みを感じている?自分に非があるはずがないのに?
「貴女は五十子の傍にいるのにふさわしくないわ。Betrayer・・・この裏切り者!」
裏切り者。
成実のその糾弾の声が洋平の脳裏に響く。いや、違う。別の違う誰かの声で響いてくる。束ではなく洋平を非難する声が――
「・・・言いたいことはそれだけか、ええ?」
それまで黙っていた束が口を開けた。その声で洋平の頭の中の声が止む。洋平がこめかみを上げながら顔を上げると束が片頬を吊り上げ反撃しているところだった。
「ああ、そうさ。お前の言うとおり、あたしは裏切り者だよ。で?そういうお前は三国同盟を止めるために何をしたんだ?」
カーブする口元には明らかに嘲弄の感情が込められている。
「お前はいつだって他人の意見を論破して話し合いをぶち壊してばかりだったよな。自分から建設的な代案を出したこと、一度だってあったかよ。結果、お前のしたことはそこらじゅうでケンカを売りまくって赤レンガを反山本で固めただけじゃねえか。『井上がむかつくから』なんて理由で三国同盟推進派に回った連中までいたんだぞ」
拳をきつく握り震える成実に、束は嘲笑を浮かべ、指を突き付ける。
「ええ、分かるか井上?お前は大好きな山本長官の足を引っ張ったんだ。・・・いや?お前みたいな狂犬を片腕にしちまったことも含めて、長官の甘さ故の」
束が言えたのはそこまでだった。瞬間、成実の手が伸び胸ぐらを掴む。束は抵抗しない。そのまま床に押し倒さんばかりの勢いで、怒りと憎悪を瞳にたたえたまま足を踏み込もうとした成実と束の間に寿子が割って入った。
「そこまでです!お二人とも、長官の大切な部下でしょう。それが本人の目の前で喧嘩とは何事ですか」
五十子は何も言わず、ただ目を大きく開き二人のほうを見ている。成実から怒りの炎がゆっくりと消え、束から手を離した。去り際に、元の暗い瞳がヤンと洋平をとらえた。
「聞いたわ。貴方方、time traveler なんですって?」
「・・・まぁ、そういうことになりますね」
思わず身構える洋平に自然体で答えるヤン。
そんなヤンを暗い視線を移し成実が再び口を開く。
「・・・聞いたわ。赤レンガで嶋野とその取り巻き連中に真正面から非難したって」
「何分、嫌いな人間に好かれようとも思わない性分だからね」
「・・・少しは骨があるのか鈍感なのか。でも気を付けたほうがいいわ。貴方、間違いなく目をつけられたわよ。悪い意味で」
踵を返し、二人の前を通り過ぎながら、
「・・・それにしても不幸ね。よりにもよって、こんな時代に来るだなんて」
それきり振り返らずに井上成美は去っていった。
成実の言葉の意味を図りかねる二人。
「へっ、相変わらずの狂犬ぶりだな」
束が呟く。
窓に水滴が当たる音がした。視線を向けると曇った空からぽつぽつと雨粒が降ってきたところだった。あっという間に雨脚が強くなっていく。
「・・・低気圧が来てるんだって」
五十子がようやく寂しげに呟いた。
「散っちゃうね、桜」
次回予告(CV:屋良有作)
四月十八日、犬吠埼東方沖約七〇〇浬。低気圧に覆われ荒れる東太平洋の海を波頭を切って進む艦隊がいた。ヤン一行が来るミッドウェー作戦に向けて思案する中、っ確実に迫るヴィンランドの魔の手。果たしてそれはヤンと洋平の運命をどのように変えるのか。
次回、「不敗の魔術師、連合艦隊特務参謀になる」第16話「ドゥーリットル空襲(前)」。銀河の歴史がまた1ページ・・・