竹垣の上から、紫色の傘が覗いていた。

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傘を差す人

   

 

 

 それは、庭の紫陽花が小雨に濡れている休日の昼下がりだった。

 

 竹垣の上から紫色の傘が覗いていた。

 

「……ほら、見ろよ。また来てるよ」

 

 将棋盤に視線を落としている山本に耳打ちした。

 

 山本は咄嗟に顔の向きを変えると、雪見障子から覗き込んだ。

 

「……どんな女か、顔を見てみたいな」

 

 山本がにやけた。

 

「俺も見たいけど、垣根が邪魔して顔は見えないし……」

 

「傘の色からして、かなりの美人だな」

 

「フン。傘の色で決まるのか?」

 

 俺が上目遣いで訊くと、

 

「美しくなきゃ、紫の傘なんて差さないだろ?」

 

 目尻に皺を刻んだ山本が、子供のように向きになった。

 

 山本とは大学からの付き合いで、会社こそ違えど、帰りに待ち合わせて酒を飲んだり、休日には将棋を指しに来る仲だった。

 

 妻が他界して一年。最初の頃は外食が多かったが、今では家事にも慣れ、外で使う金は山本との飲み代ぐらいだ。

 

 読みたい本は古本屋で物色するか、図書館を利用するので、大して金はかからない。

 

 休日の楽しみと言ったら、山本と指す将棋とレンタルビデオで観る懐かしい映画ぐらいだろうか……。

 

 

 

「あの傘の高さからして、身長は160前後かな」

 

「……すごい推察力だな」

 

 子供を褒めるかのように、感心した目を向けてやった。

 

「……でも、なんで、日曜の度にお前ん家の前なんだ?」

 

「さあな……待ち合わせかな?」

 

「待ち合わせに、垣根の垣根の曲がり角~♪か?」

 

 山本が下手くそな歌を歌った。

 

「竹垣の隙間から見える紫陽花を観賞してるのかも」

 

「ま、確かに綺麗だけどな」

 

 庭の紫陽花に顔を向けた山本が納得した。

 

「あれっ!傘が無い」

 

 山本のその言葉に、咄嗟に垣根を見た。

 いつの間にか傘が消えていた。

 

「フン。待ち合わせの相手が来たらしい」

 

 山本が鼻で嗤った。

 

「気が付くといつも消えてる」

 

「幽霊みたいだな。と言う事で、王手っ!」

 

 山本の大きな声に吃驚した俺は、

 

「チッ。とぼけた顔してババンバン~♪だな?」

 

 と、顔を歪めると、ボサボサの頭を掻いた。

 

 

 

 次の休日も、紫の傘は覗いていた。

 

「な?顔、見に行こうぜ」

 

 突然、指を止めた山本はそう言って、下賤な目を向けた。

 

「えっ?」

 

 俺は少し躊躇いながらも、腰は浮いていた。

 

 

 先に玄関に向かったのは俺の方だった。

 

 音を殺すように硝子戸を開けると、サンダルを履いた足をゆっくりと伸ばした。

 

 亀が首をもたげるように、竹垣の端から覗くと、

 

 

 

 

 無かった!……体が無かった。

 

 竹垣に引っ掛かった傘だけが、雨に濡れていたのだ。

 

 予想だにしなかった光景に、俺は不意討ちされた士のように、身動ぎもできなかった。

 

 

 

「……どう言う事だ」

 

 将棋盤の前に胡座を掻いた山本が、ポツリと言った。

 

「彼氏の傘に相合い傘して、自分の傘を置いて行っちまったのかな?」

 

 同意を求めるような口吻で山本に訊いた。

 

「……そんなバカな」

 

 山本は腑に落ちない目を向けた。

 

「あれっ!……無い」

 

 雪見障子を覗くと、傘が無かった。

 

 俺の声に驚いた山本が、同じ方向を向いた。

 

「……マジかよ。気色悪いな」

 

 山本が眉間に皺を寄せた。

 

「置き忘れたのに気付いて、取りに戻ったのかな?」

 

 適当に解釈してみた。

 

「……気付くの遅すぎだろ」

 

 山本が呆れた顔をした。

 

 

 

 

 山本が帰ると、庭の紫陽花を眺めた。

 

「まるで、紫陽花のようだったな、あの傘。……あっ!」

 

 俺は呟いた後、ふと思った。

 

 ……そう言えば、紫の傘を見るようになったのは、妻が逝って間も無くの、紫陽花の咲く梅雨時だった。

 

 妻は紫陽花が好きだった。

 

 もしかして、紫陽花に想いを残した妻が、紫の傘になって庭を覗いていたのだろうか……。

 

 

 

『ねえ、あなた。見て、今年も紫陽花が綺麗に咲いたわ~』

 

 そう言って、振り向いた妻の笑顔は少女のように眩しかった。

 

「あっ、そうだ……」

 

 俺は妙案が浮かぶと、腰を上げた。

 

 そして、妻の遺影を座卓の上に置いた。そこからは、庭の紫陽花がよく見えるはずだ。気のせいか、笑顔の妻が、ありがとう、と言っているように思えた。

 

 

 

 

 

 ……しとしとと降る雨は、妻の柔らかな笑みのように、優しく紫陽花の花弁を濡らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     完


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