だから俺は彼女に恋をした   作:ユーカリの木

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二章
瞬く間に、川崎沙希は距離を縮める 1


 朝起きてから、しばらくベッドの上でぼーっとしていた。昨日の残り香が身体のあちこちに沁みついていて、のぼせているような気分だった。

 

 スマホを見ると、時刻はまだ七時半に差し掛かったところだ。本格的に起きるにはまだ早い時間。

 

 ふと、スマホが震えた。由比ヶ浜からのメールだった。中身を見ると、「いま電話していい?」という絵文字もない端的な内容だった。

 

 了解と返信してしばらく待つと、由比ヶ浜から電話の着信が来る。

 

「よう、おはようさん」

 

「おはようヒッキー。まさかヒッキーがこんな朝早くに起きてるなんて思わなかったよ」

 

「早起きは三文の徳というだろ? 働かないで得られるお金っていいよな。早起きは専業主夫の副業になるかもしれん」

 

「ヒッキー、三文っていくらなの?」

 

「百円くらいだな」

 

「……働こうよ」

 

 すごい憐みの籠った声で言われてしまった。

 

 んっんー、と咳払いをして話題を逸らす。

 

「昨日はありがとな。伝言、ちゃんと伝わった」

 

「うん。ゆきのんから訊いたよ。遅くなっちゃってごめんね。そうそう訊いてよヒッキー。昨日あのあとゆきのんと会ったんだけど、全然うわの空でさー。話を振っても、「あらそう、そうなの、ええ分かるわ」しか言ってくれなかったんだよ? 絶対ヒッキーの相談について悩んでたよね!」

 

 昨日の雪ノ下を語る由比ヶ浜は楽しそうだ。時折思い出し笑いをしながら続ける。

 

「あたしもさー、背景とか分かんないから、どんな感じがいいんだろーって考えだしたら、ふたりして無言になっちゃってね。十分くらいそうしてたら、なんだかおかしくなっちゃって。とりあえずヒッキーが悪いってことにして笑っちゃったの!」

 

「おい、待て。とりあえず俺が悪いとかやめろ。とりあえずが付くのはビールだけでいいんだよ」

 

「あはは、ごめんごめん。でもね、そのあとカフェに入ってふたりして案をあげてったんだけど、やっぱりしっくりこなくて。適当な答えだけは絶対に出したくなかったから、いっぱいいっぱい考えて、あんな結論になったんだ」

 

 ちゃんと伝わったかなあ、と由比ヶ浜が細い声を出す。

 

「まあ、ちょっと分からんかったけど、なんとなくはな」

 

「ニュアンスってやつ?」

 

「由比ヶ浜にしては難しい言葉を知ってるな。そう、ニュアンスは伝わったわ」

 

「あたしこれでも受験生だからね⁉ ちゃんと勉強してるよ! ゆきのんスパルタ過ぎて勉強やだよー!」

 

「雪ノ下に教えてもらえれば留年は回避できるだろ。良かったな」

 

「あたしは進学したいよ⁉」

 

「ならがんばれ」

 

「ヒッキーがしんれつ? だー!」

 

「辛辣な。ちょっと留年も不安になってきたわ」

 

「辛辣だー!」

 

 由比ヶ浜が笑う。俺も声には出さずとも表情を緩める。

 

 誰かとこんな風な関係になれるとは、昔は思いもしなかった。由比ヶ浜も、雪ノ下も、俺のために時間をかけ思考を巡らせてくれた。それが、堪らなく嬉しかった。また目の奥が熱くなった。

 

「ヒッキー。昨日、楽しかったんだよね?」

 

「ああ、そうだな」

 

「うん、良かった。なんか色々変なこととか考えちゃったけど、それでも、ヒッキーが楽しいって思えてやっぱり嬉しいや」

 

「サンキューな」

 

「どういたしまして!」

 

 えへへと由比ヶ浜が笑う。まったく、この二人には一生頭が上がりそうにない。

 

「うん、話できてよかった。ヒッキー、沙希のことお願いね」

 

「なんとかする」

 

「うん、頼んだー!」

 

 それじゃあまたね、と由比ヶ浜が電話を切った。しばらくスマホを握りしめてから寝間着のポケットに仕舞い、部屋を出る。階段を下りてリビングに入ると、既に小町と川崎がのんびりと朝のニュース番組を見ているところだった。

 

「あ、お兄ちゃんおはよー」

 

「おはようさん」

 

 のほほんとテレビを見ながら挨拶する小町に愛を込めて返す。当然愛は返って来ない。お兄ちゃん寂しいよ……。

 

 そんな俺の感情を悟ったのか、川崎は首だけ振り返って微笑んで言った。

 

「おはよう、比企谷」

 

「おう、おはよう」

 

 動揺することなく平常心で返す。うん、今日の八幡は通常運転で行けそうだ。

 

 と、思っていた時期がありました。

 

 ぶっこんで来たのは小町だ。

 

「沙希さん、思ったんですけど。ここ、比企谷家なんで全員比企谷ですよ?」

 

「え? あ、確かにそうかも」

 

「ですです! なので、ごみいちゃんのことは名前で呼びましょう!」

 

「へ?」

 

 おい待て。いきなり何を言い出すんだこの妹は。じとーっと睨みつけてやるが、気づいた風でもなく鼻歌でも歌うような気軽さで続けていく。

 

「ほら、そうでもないと今後名前で苦労するじゃないですかー。小町も比企谷ですし、お父さんとお母さんも比企谷です。なので、名前呼びすれば混乱することなく皆ハッピーです。平和な家庭の出来上がりですね! あ、これって小町的にポイントたっかい~☆」

 

 川崎の時が完全に止まる。うーん、いきなりハードル高いですねえ。ぼっちにそんな高難易度を挑ませるとは、さては小町さん、あなたは鬼かな?

 

 しかし、その強烈な牙は俺にも向いていたのだ。

 

「あ、お兄ちゃんもだよ? 相手にだけ名前呼びさせて自分だけいままで通り、なんて男らしくないことしないよねー? お兄ちゃんだもんねー? 小町のわがまま訊いてくれるよねー?」

 

 小町ちゃん、いまのあなたとっても怖いわよ……。

 

 小町が、ぱんぱんと手を叩く。

 

「ほらお兄ちゃん、こっち座って! 沙希さんの隣だよ。ほら早く!」

 

 小町がソファーをひと席分隣にずれて、さっきまで自分のいた場所をぽんぽんする。

 

「小町ちゃん、お兄ちゃん朝ごはん食べたいなー……」

 

「え、わがまま訊いてくれないと作らないよ?」

 

「小町ぇ……」

 

 妹が理不尽過ぎる……。

 

 仕方がない、世間では妹に甘々と評判の俺だ。妹のわがままを聞けないはずがない。

 

 ……今回は難易度高いなあ。

 

 若干どころかかなり緊張しつつ川崎の隣で腰を落とす。ちらりと彼女の顔に目をやると、完全に固まった川崎沙希の姿がそこにあった。すごいな、まばたきひとつしてないぞ。

 

「あらあらー、沙希さん固まってますねー。じゃあお兄ちゃんからどうぞー! さんはい!」

 

「え、は? いま? いまやんの?」

 

「なに言ってんの馬鹿なのアホなのごみいちゃんなの? いつやるの? いまでしょ!」

 

 いつから林先生になっちゃったの小町ちゃん……。いちいちポーズまで真似しなくていいから!

 

 川崎の方をもう一度見る。川崎の姿に変わりはない。いや、少し頬が赤く染まっている気がする。じわっと汗が滲んで首筋を流れていた。あれー、これ拒絶されてるんじゃないの? 大丈夫なの?

 

 不安になって小町を見るが、さっさとやれと顎をくいっとされるだけだ。ふぇぇ……妹がスパルタだよぉ……。

 

 腹をくくるしかないようだ。あれだ、名前を呼ぶだけでいいのだ。その相手が地蔵だと思えば問題ない。現に地蔵タイムのようだし……。

 

「さ、沙希……」

 

「んひゃっ!」

 

 地蔵だった沙希が、可愛らしい悲鳴を上げて肩をひくつかせる。

 

 その様を第三者席で見ていた小町は不満そうな声を出す。

 

「んー、微妙だなあ。もっと自然に呼べないの? ほら、小町を呼ぶ感覚でもう一度いってみよー! さんはい!」

 

 お兄ちゃん頑張ってるから! もうちょっと労わって!

 

 妹へ抗議の視線を向けるも、はよしろと指でくいっとやられるだけだ。

 

「ほらほらさっさとやる! さんはい!」

 

「……沙希」

 

 んっ、と沙希が今度は吐息をこぼす。大きく目を見開いて見返してくる。しばしの間、見つめ合う。視線が絡みついて動かすことができない。

 

 ぽんぽんと小町に肩を叩かれる。視線を川崎から移すとと、小町が満足そうにうんうんと大きく頷いていた。

 

「いいよいいよお兄ちゃん。さすが小町のお兄ちゃんだね! やっぱりやればできるんだよ! ……まあ、普段はやらないんだけど」

 

 一言多いんだよなあ……。

 

 ふっふっふ、と小町が怪しく笑い始める。嫌な予感しかしないなあ。嫌だなあ。

 

「今度は沙希さんの番ですね。さあ、スリー、トゥー、ワン、どうぞー!」

 

 なんで俺のときと掛け声違うの? 沙希の方が掛け声いいよ? お兄ちゃんにもそれやって欲しかったなあ……。

 

 俺を見ていた沙希がぷいっと顔をそむける。そんな嫌なんですか……。俺がんばったんだけど……。

 

 視線を外へ向けたまま、沙希がぽしょりと呟く。

 

「は、はち、まん……」

 

「はいカットー!」

 

 湧き上がる感情を感じる寸前、小町が素早く言葉を滑り込ませてくる。

 

「だめです、まったく全然だめです! 沙希さん、それが本気ですか? 違いますよね? もっとできますよね? もっと熱くなって下さい! さあ張り切っていきましょー! スリー、トゥー、ワン、ゴーー!」

 

 沙希が反論する間も与えず小町が畳みかける。ねえ、名前呼びってそんな某元テニスプレイヤー並みに熱くならないと駄目なの?

 

 兄として小町の頭を心配するも、やはり沙希の反応が気になってしまう。

 

 沙希は目を見開いて俺とテレビ、窓の外やテーブルなど、視線があちこちへ飛んでいる。表情は明らかに見て取れる困惑。口元は閉じたり開いたりともにょもにょしている。

 

 無意味な意味づけ。他者の心を自分勝手な想像による決めつけ。でも、どうしても考えてしまう。思考してしまう。何気ない仕草がどんな感情によって引き起こされたものか、分かりたいと衝動が湧き上がる。

 

 思考を切る。

 

 これ以上は無意味だ。

 

 ただ困っているだけだ。いままでの自分を思い出せ。こんな風に期待することなどなかったはずだ。いま、俺は昔の俺に戻っている。自分勝手に勘違いな想いを一方通行に注ぐ愚者は、もう卒業したはずだ。

 

 一度落ち着くと、さっと血が引いたように背筋が寒くなる。

 

 兄として妹の暴挙をこれ以上許してはいけない。沙希は客であり依頼者だ。その彼女を困らせてはならない。

 

 小町に一言いってやろうと身体を向き直って、

 

「おい小町、いい加減に――」

 

「八幡」

 

 凍った。

 

 聞き違いかと思った。

 

「八幡」

 

 さび付いた機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく振り返る。口の中でもう一度俺の名を呼んだ沙希が、頬を染めながら口元を緩めていた。

 

「うん、しっくりきた。八幡」

 

 掠れた息が零れた。

 

 沙希が首を傾ける。

 

「八幡? どうしたの?」

 

 背に温もり。小町が背中に手を当ててくれていた。

 

 奥歯を噛む。この二日でどれだけ泣きそうになってるんだ俺は。

 

 いきなり世界が流転して全部が俺に都合のいい法則で作り直されたようだ。周りがあまりにも温かくて、優しくて、捻くれていることが阿呆みたいじゃないか。

 

 ――お兄ちゃん。

 

 俺にしか届かないほどの声で、小町が言った。

 

 ――素直になっていいんだよ。

 

「……ッ」

 

 声が壊れる。頑なに閉じていた扉にヒビが走る。視界が明滅してなにかが頬を伝った。冷たくも熱のあるそれは顎にしたたり、雨滴となって膝に沁みを作り広がっていく。

 

 沙希が手を伸ばす。指先が俺の頬に触れた。

 

「泣きたい?」

 

 心震わす声で沙希が言った。視界が流れる涙で万華鏡になって、ほとんど彼女の顔は見えない。なのに、俺を心配そうに見つめていることだけは確かなことだと、心の底から理解できた。そんな、こころあるやさしい声だった。

 

「……さあ、どうだろうな」

 

 口端を吊り上げて笑ってみせた。きっと不器用な笑みだ。それを見た沙希が苦笑する。

 

「捻くれ八幡」

 

「んな簡単にこれが治るかよ。根が深いんだよ。ぼっち舐めんな」

 

 ふふ、と頬を緩めた沙希が両腕を広げる。

 

「おいで、八幡」

 

 ……そんな風に言われたら、もう耐えられないだろ。

 

 気づけば沙希に抱きしめられていた。彼女の鼓動すら聞こえるほど密着して、滑らかな髪が鼻先をくすぐる。衝動的に腕を回した。壊れるほど強く、強く、彼女を抱きしめた。

 

「泣いて。泣いて、泣いて、そして……笑おう?」

 

 もはや泣けとばかりに、沙希が言の葉を心の深淵に叩きつけてくる。

 

「一緒にいるって言った。約束したから。もうお互い……」

 

 ――寂しくないね。

 

 心を封じていた扉が壊れた。

 

 あとはもう、すべてをさらけ出すだけだった……。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 途中まで見届けてから、私は音を立てずにリビングを出た。自室に戻ったとき、兄の嗚咽が届いた。いままで聞いたことのないほどの大きい声。心からの叫び。

 

 知らず、私も泣いていた。

 

 足に力が入らず、ドアに背を預けてずるずると床に膝を落とした。

 

「おにいぢゃん……!」

 

 涙が止まらない。嬉しくて堪らない。

 

 ようやく兄が心を開いた。あの強固な要塞を砕いて裸の心を晒した。ずっとできなかったことが、やっとできた。

 

 やっと、運命の人に出会えた。

 

 ずっと心配だった。裏切られ傷つけられ孤独の崖に身を落としていく兄を助けたかった。でも私には兄を引き上げることができなかった。だから他者を求めた。兄を救える人を探した。期待していた。

 

 そしていま、ようやく念願叶った。

 

 順序もタイミングも何もかもがでたらめだ。もっと段階を踏んで、お互いに歩み寄ってじっくり時間をかけるのが正解だったのかもしれない。こんな一足飛びに距離を縮めることが正しかったのか、不安もある。

 

 でも、だけれど、いま兄が泣いている事実が。悲しみや苦しみといった負の感情でなく、歓喜に声震わせる兄の声が、いま幸せを感じている福音を知らせてくれている。

 

 それだけで不安が吹き飛んだ。

 

 きっと間違いじゃない。これが正しい。

 

 いつだって貧乏くじを引いて、他人に貶められ、孤独の世界に生きてきて、一年掛けて現実の幸福に目を向け出して……。

 

 いま、足を踏み出した。

 

「よがったね、おにいぢゃん……!」

 

 手の甲で目元を乱暴に拭って兄のこれからを想う。

 

 兄と一緒に歩いてくれる、あの人との未来の姿を想像する。

 

 それはきっと、なんて素敵な光景なのだろう……。

 

 

 

 

 


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