紅い道は玉座まで続いている。紅い道の果て、玉座に腰掛けている深い青のドレスの女は、喜悦を称えた笑顔で道の向こうを見ていた。足を組み、頬杖をつくその様から漂うは圧倒的退廃の情。艶やかな夜闇の長髪から覗く暗い赤の目は、熱に魘されているかのように涙を浮かべるその目は、さながら恋患いの最中にある女性だった。
高い天井、彩るは仄かに光るシャンデリア。壁にある古びたランプに灯る炎は怪しく輝いている。一人では使い余す広い間、その全ては玉座の魔王のため。魔王は、大望成就の瞬間を待っていた。
遠くから魔王の待ち人がやってくる確かな気配を感じる。足音のない一歩。紅い道の先にある扉に慎重に近づく用心深さを、魔王は可愛らしく思う。
音もなく斬られた扉は紅い道に被さった。向こうには、一人の勇気ある孤独者がいる。変わらぬボロボロの黒い着物。耳にかかる黒髪の色は、魔王と同じ。その些細なことが、魔王には愛しく思えて仕方なかった。勇者が腰に差す刀は 魔王殺し と名付けられた業物。
勇気ある孤独者の立ち姿、滲み出る勇猛な気迫、そして気高き魂。以前相対した時から、何一つ変わっていない。どれも殺意が高く、何をとっても完璧で、隙はどこにもない。魔王は胸の内にある歓喜の念をより昂ぶらせた。
加えて魔王は思う。しかしこの勇者、なんだか少し歳をとったようだ、と。
魔王は決心した。勇者はここで必ず殺す。
「ようこそ、私の城へ。こうしてあなたの元気そうな顔を見れて、嬉しいよ」
魔王は座ったまま動かない。勇者は動いた。
地を這うかのように低く、紅い道を疾走した勇者に衰えはなかった。音はなく、残像さえ置き去りにして勇者は抜刀する。結果は失敗。魔王の首は繋がっている。刀は首にとどくことなく、魔王の手のひらに阻まれていた。勇者の眉間にシワが深く刻まれる。
「あなたに衰えを感じた私を許してくれ。モノを殺すために鍛え上げられたあなたの剣術、体術に濁りはなく、今まで以上に磨きがかかっていた。ありがとう。人の身で、そこまでの業によくぞ至ってくれた。…ああ、嬉しくて堪らない」
魔王は嫣然と笑う。刀が、魔王の手のひらを撫でる。刀を強く掴んでいたが、なぜか抜けられてしまった。それも勇者の技の一つだろう。硬質な鎧を纏った人や、皮の硬い魔物程度ならば一撫でで身をわけるその鋭い業でさえ、魔王の手を傷つけるには至らない。魔王は少し残念に思うと同時に、恋慕の念を深める。一歩引いた勇者は、なおも諦めていない。
「魔王である私を殺しにきた愛しき勇者よ。少しでいい、私と共に踊ってはくれないか?」
ゆったりと立ち上がった魔王は、勇者に向けて手を差し出す。手から、黒い靄が溢れている。風を切り黒い靄にはしった銀の閃きが返事だった。
「一人で踊るか。あなたと共に踊れないのは残念だが、それもそれでいい、楽しそうだ。あなたが死にもの狂いで踊る様を私に見せてくれ」
白磁の指は魔王のもの。なぞる宙に黒い靄が残る。それが舞踏の合図だった。
「火をつけろ」
勇者の足下から、業火の火柱が轟音を響かせ燃え盛る。その熱さは、火柱の回りの地面を溶かすほど。人がその熱の暴力に耐えうるわけがない。当たっていればだが。
「続けろ」
勇者は音もなく、姿を見せることなく走り続ける。愛おしい気配も、魔王にはもはや感じられない。見えなくとも、勇者が狙う場所など魔王には手に取るようにわかる。首、心臓、肘、膝、眼球、そして後頭部。星の数ほど勇者に斬られ、殺され、蘇る度に、魔王は勇者に情念を募らせた。いつ頃かはわからない。勇者が魔王を斬ろうとし、刀を振るう瞬間。魔王は勇者を察知することができるようになり、勇者の凶刃から身を守れるようになった。その守りを勇者は破れない。
現に、魔王の首を背後から狙った勇者の刀は、白いうなじを覆う手に防がれている。防がれた瞬間、また火柱が上がる。火柱が天井にまで昇ると、火柱はその姿を消す。後には塵が少し積もった。
「どうした、斬りには来ないのか。私に寂しい思いをさせないでくれ」
勇者は魔王の虚を突ける機会を狙う。立ち止まれはしない。視線は魔王に向けて、ひたすらに。勇者が一歩足を踏み出す頃に床下から地鳴りが聞こえ、二歩めとなると先ほどいた場所には焔が居座っていた。
勇者は駆ける。その先が入り口であり、出口となる倒れた扉の向こうだと魔王は知る。声を荒らげる魔王を、勇者は初めて目にした。
「この私が逃がすと思うなッ!」
魔王の怒号と共に、外へと繋がる空白は闇に覆われる。そして一瞬よりも少ないほんの僅かな時。火柱の発生が遅れた。魔王の意識が、空白に削がれたからだ。逃走と一連の流れは勇者の策略の一つだと魔王が気づいた時、それは勇者の刀が魔王の肘から先を切り落とすのと同時であった。魔王の首には、刃が通らない手が添えられてある。斬ろうにも、刀が捕まえられてしまえば策略は意味を持たなくなる。
「ぐッ」
呻きは魔王のもの。何歩かたたらを踏んだ魔王の赤い目を狙って、勇者は刺突を繰り出す。刀の先端を収めたのは魔王の眼窩ではなく、魔王の手だった。先程と同じように、刀を魔王の手から引きつつ斬ろうと試みるも、魔王に二度めは通じない。
「動くなよ」
勇者は動くつもりだった。刀の自由を取り返し、再度契機を見つけるために走り回るつもりだった。けれども思いに反して、勇者は動けない。先程斬り捨てた魔王の肘から先が、意識を持っているかのように浮遊し、勇者の首根っこを掴んでいる。浮遊さえするのだ、人間一人の首をへし折るなど魔王にとって造作も無いだろう。
「あなたに提案する話は、決して悪いものではないと思う。魔王の話など、と偏らずによく考えてほしい」
勇者は口を開けない。最初にこの魔王を殺めたときに、勇者は呪われている。誰とも会話ができない呪いを。必要なとき以外では口を開けない呪いを。嫉妬深い魔王は、自分のいない世界で勇者が誰か他の女と会話することを酷く妬んだ。
「あなたの死後を、私にくれないか?」
勇者は拒絶する。魔王の手から刀を引き抜こうと試みた途端、首を掴む力が強くなった。みしりと軋みをあげたのは刀と首、どちらだろうか。
「そう逸るな、つい殺してしまうではないか。…ふふっ、詳しく話すよ。死後あなたは私に仕えるという形で、今の姿のまま生きていける。老いることなく、死ぬことなく、病に倒れることなく、ね。聞いた話だが不老不死というものが、人の夢なんだろう? 私が人の夢を叶えよう。意見があるなら刀を動かしてくれ」
勇者は拒絶する。刀を動かした刹那、勇者の脇腹に小さいとは言えない風穴が開けられた。何かが勇者の内側から炸裂したようだった。勇者が腹を見ると、先の鋭い赤に染まった氷が生えている。咳き込めば、青いドレスを赤いものが汚す。腹から流れるものの勢いは、勇者の足下に大きな水溜りを作るほど。このまま魔王の話を聞いていれば、出血多量で死に、魔王の思う壺になると考えた勇者は刀を諦めた。
「勝機はないと、聡いあなたは感じているはずだ。提案という形をとってはいるが、あなたを殺せさえすれば、私はあなたの死後を奪える。愛しき勇者、あなたは私の前に現れた瞬間に詰んでいた」
やがて、勇者は刀から手を離す。それは生きることを諦めたようにも見えた。
魔王は勇者に優しく微笑む。その選択は間違いではないのだと慰めるような微笑みだった。
「人間としてのあなたを殺す。恨むなら、剣狂いのあなたを勇者に仕立てあげた愚民どもを恨め。…わかってほしい。私は、ただあなたと共に暮らしたいだけなんだ」
魔王は、あまりに強すぎた。彼女の孤独は、千年を超える。魔王の力に比肩するどころか、自分を超える可能性を持つ者はどこを見渡しても勇者しかいなかった。言ってしまえば、勇者は千年の孤独を埋めてしまったのだ。
魔王は、人間の夫婦に憧れていた。魔王城に現れ秒も耐えずに敗れ倒れ臥す者たちの最期は、皆一様で、呟くのは誰かの名前であった。誰かの名前を調べると、その者にとっての妻にあたる人間のものだった。
自らの最期でさえ、自分のことではなく相手のこと思うとは。いったいどういった時間を共に過ごしたのか、どんな想いを募らせてきたのか。秒も耐えられない彼らを消し炭にしていく度に、彼らの呟きは魔王の心に感傷的なものを残していった。お互いに助けあい共に歳をとっていくことが、千年もの時を独りで過ごしてきた魔王には、幸せなもののように感じられた。
魔王は老いない。それは魔に属するものならば当然のことであった。故に魔王は憧れるのだ。人間に、勇者に夢を見るのだ。
万感の想いで勇者の手から離れた刀を、魔王は投げ捨てた。宙に円を描いて、玉座の手前で床に刺さる情景は皮肉染みている。さながら、空の玉座に忠誠を誓うようにも見えるその刀の有様に反して、勇者は魔王を殺すことを諦めていない。
魔王が貫手で狙うは、勇者の心臓のみ。やがて、油断溢れる貫手が勇者を襲う。首を掴む背後の手の力が緩むのを、勇者は如実に感じた。逆転するなら、今しかない。
「まだ諦めないか…!」
手を引き離し、貫手を掴み、勇者は魔王の体勢を崩すことに成功する。勇者は、刀を取り戻さんと駆ける。痛む体や薄らいでいく意識を無視して、勇者は駆けた。その速さは、疾風迅雷と例えるに相応しい。
「ここまで来たのだ。いっそのこと無刀で挑むがいい」
魔王が楽しげに指を振る。玉座の前にある刀の周りに冷気が集められていく。勇者は止まらない。それはモノを凍らせる術のようで、刀だけではなく刀の周りの空間ごと、魔王によって凍らされた。
「…ふん、刀と眠るか。私を殺しに殺したあなたの終わりとしては、呆気ない。けれども、乙なものだな。愛刀と共に氷漬けとなった勇者の姿は。風情があって、私は好きだよ」
魔王は出来上がった氷の柱に近寄る。刀に手を伸ばす姿の凍った勇者が、そこにはあった。
「私とあなたの殺し愛も長かったようで、こうして終わってみると短いように感じる。まったく、不思議なものだ。覚えているだろう、今となってこそ私はあなたを圧倒できたが、十年前のあの日、あなたが初めて私の前に現れた時、圧倒されたのは私だった」
目を閉じ、十年前に想いを馳せる。今日と全く同じで、扉を斬り入城してきた勇者は話など聞かずに斬りかってきた。それは瞬く間に行われた凶行で、魔王は体を僅かにずらす程度の抵抗しかできずに、玉座と一緒に肩から足の爪先までを斬られた。玉座と共に崩れた自分の体に、魔王は恐怖したのを鮮明に覚えている。
「刀を振るうあなたは美しかった。人の身で、千年もの時を生きた私を殺した人間など、あなた以外にいるはずもない。だから欲しくなった。だから、私はあなたに夢を見た。あなたなら私を殺してくれるのではないか、と。そしてそれは刀の一振りで叶えられてしまった。だが、夢とは総じて叶ってから無惨にも散っていくのが定めだ。死んでいくのは、体だけだった。魔王として世に生を受けた我が魂は滅びることなく、何度も蘇ってしまった。蘇る私は絶望したと同時に、新たな光を見た。もう一度、夢を見た。…、愚かだと笑いたいなら、笑うがいい。千年の果てに獲たものが、勇者の全てを欲する、なんてメンヘラ女のようなものだったのだから」
目を開く。人としての勇者に別れを告げることを惜しむように、ゆっくりと、時間をかけて。凍る勇者の背を見つめる。相も変わらない物言わぬ静かな背中だった。
「さらばだ、勇者よ。そしてようこそ、永遠なる我が隣へ。……ッ!?」
気配は無かった。音も無かった。唯一、その存在を示していたのは氷だった。氷が、魔王の後ろに佇む幽鬼のように静かな勇者の姿を反射している。
「バカなッ」
魔王は振り返ると同時に、術を使って障壁を貼る。それが万全であったならば、勇者の刃を通さなかっただろう。魔王が万全の障壁を貼るよりも、勇者の抜刀が速かった。半端な障壁を破り、魔王の首に刀は至る。
「あなたが術を使えたことに、驚かされたよ。だがそれで気力を使い果たしては、その業物が泣く。いや、手の内を把握されてもなお諦めなかった、ここまでの健闘を認めるべきか。あなたはよくやった。もう眠れ」
勇者が振るった刀は魔王の首その皮一枚を切り裂き、刃の通らない手に掴まれていた。勇者の瞳に、いまや覇気はない。腹から流れる赤は止めどなく、それでも勇者は刀に込める力を緩めない。
「私の従者として蘇るのだからこれは不適切だろうが、冥土の土産に一つ教えよう。私の手は、あなたでさえ斬れない。なにせ、私が持つ防御力をほぼ手に回しているのだから。面白い話で、一点のみを強化することにより防御の密度があがった。それこそ、あなたの刀が通らない程にね」
勇者はよりいっそう力を込めるが、魔王の手は斬れそうもない。全身に力を込めることで傷口が開いてしまって、流れる赤はもはや見るに堪えない。足元の水溜りは、魔王の靴まで浸す。
「やめろ」
勇者の胸元に氷の刃が形成されていく。込められる力は、なおも緩まない。
「既に死んだも同然の体で、何をしようとしている。力を込め続けるのは、勇者としての矜持か? 酷だろう、そんなものは棄てるといい。…いい加減にしろ。あなたの死は、今ここに決定された!」
氷刃が形成された。人の胴体を貫通しても余りある長さのそれを、真っ二つにする鋼の線がはしると同時に、バキンと硬質で鋭利な音がした。予想だにしない事態に魔王の顔色が驚愕に染まった。勇者が力を込めていた意味を魔王は知ったのだ。
勇者の刀が半ばから折れている。それでも刀は人の胴体を貫通して余りある長さだ。
「何よりも恐ろしく、誰よりも勇敢なやつ。なァ、勇者ッ!」
魔王は後方に飛び退く。勇者は追わない。やがて、魔王は冷たく硬い氷の柱に背をぶつける。勇者との距離は充分にとれた。勇者が攻略できない盾を術で作り身を守り続ければ、魔王の勝ちは約束される。
「反省せねばな。半端ではいけない。油断などしない。万が一など、あってはならない。…私の総ての力をもって、あなたの最期を看取ろう」
魔王の前方に盾が現れる。あまりに分厚く、あまりに巨大な氷の盾。背負うことや構えることを度外視したその盾は、もはや壁と言い表すのが正しい。
濃い朱に濡れる勇者の目は虚ろそのもので、力は感じられない。刀を握る手も、だらりと垂れている。風が一つでも吹けば勇者は倒れ、魔王は千年の果てのこの争いに勝利を収める。
「手は抜かん。最愛なるあなたへの手向けなのだ、全力を以て殺そう」
魔王はそう言い手のひらを上に向けると、槍を模す濁った白が虚空に出現した。雨雲のようであった。間もなく土砂のように降るであろう白に指示を出すため、魔王はその白磁の手を振り上げた。盾にある申し訳程度の覗き窓から、魔王は力なく立つ勇者を見る。虚ろな、しかし決して勝利を諦めない男のまっすぐな視線が、魔王を射抜いた。
「あなたの肉を刺し貫く音をもって私たちの行く末を祝う鐘の音としようッ、愛しのあなた!」
手を振り下ろす。覗き窓の先にあった虚ろな勇者はいない。魔王に向かって駆けたどす黒い赤が、勇者の存在を示し濁る白のあめは降る。
あめは床を焦がし、溶かし、瞬く間もなく穴だらけにしていく。
刹那。あめを切り裂く銀の一筋があった。
氷の盾に、勇者の折れた刀が刀身だけではなく、柄の半ばまで深く突き刺さり、盾に無数のひびが走った。だが壊せない。遅れてやってくる絶叫のような衝撃の出所に、魔王は一欠片の興味も示さなかった。勇者が刀の柄殴り、投擲したことなど今回が初めてではない。
魔王は笑みを深める。今まで、勇者の投擲に魔王が作り出した盾が耐えた試しはなく、飛来し盾を貫通した刀に魔王の体が貫かれ、そのまま命を落とすこともあった程の破壊力。それを勇者は瀕死ゆえにだせない。
だが。それでも勇者は諦めずに魔王に抗う。生存のことなど後のことなど考えずに、魔王を殺す戦いの為に思考を神経を命を費やしている。魔王は思う。それは、この私のことを一途に思ってくれていることと同じではないか、と。
魔王は笑う。愉悦に身を浸し、愛を謳い、勇者を望む魔王の感情はここに爆発する。
「くっ」
顔を伏せ、自らの体を両腕で抱き、魔王は震える。間もなく魔王の声が白のあめで壊れていく玉座の間に響き渡った。
「はッ! ははッ! ははは! ああァ、はッ、はははははッ!」
魔王が笑いながらも見据える先。あめを凌ぐ勇者がいた。黒の着物はもはや襤褸きれの有り様で、勇者の上半身を隠すことさえできない。左腕からの流血は痛ましく、開いた穴から止めどなく溢れる血は喪失を感じさせた。
勇者は左腕で和傘を差している。柄などはない。和傘に貼られている呪札が、勇者をあめから守っている。
勇者が口に咥える小刀を、魔王は初めて見た。刃こぼれの酷い小刀は、魔除の類に属するものだと魔王は見当をつける。和傘、小刀、勇者はしのび里の出だったと魔王は頭の片隅で思い出し、一人納得する。
「あなたのその走り、もはや人の速度ではない。死を目前にして人の限界を超えた…と言うのは、少し劇的だな」
あめの中、勇者は悠然と歩く。魔王はその歩みが長くは続かないと知っている。盾に皹を入れるほどの破壊力を持たせるために、勇者は再び駆けねばならない。和傘を持って駆けるのか、それは無理だと魔王は考える。ならばどうするのか。方法は魔王にはわからない。しかし勇者ならばあめを通り抜け盾を粉砕する。そんな確信があった。
勇者は歩みを止める。魔王は盾を壊されたその瞬間に勇者を殺められる保険をかけた。魔王は前方に浮遊する氷の槍を二本、創造する。
勇者の姿が和傘に隠れる。魔王は目視不可能の勇者に意識を集中させる。
和傘が宙に舞った。勇者はいない。
僅かに、地を這う黒の一筋が魔王の視界に入った。突き刺さった刀を中心に盾が崩壊したのは、その直後だった。
「十年も私を殺し続けただけはある。その技巧、その精神、何から何まで、…ああぁ、あなたが愛おしい!」
細やかな氷の小雨が降った。
魔王の前に、勇者はいる。右手に折れた魔王殺しを持って、静かにいる。
「これで、十年もの殺し愛は終わりか。寂しくもある…かなり、寂しい。胸が張り裂けそうだ」
魔王の前に控えていた先端の鋭い槍二本が勇者めがけて飛来する。魔王は確信した。勇者はこれを避けられない。彼の足の肉は、人の身に余る走力に耐えきれずに裂け、潰れ、壊れている。
魔王の確信を裏切って、勇者は俊敏に動く。勇者は飛来する二本のものを斬ろうとした。一本斬ったと同時に魔王殺しの刀身が砕け散った。柄を捨て口に咥えていた小刀を手に取ろうとしても、間に合うわけがなかった。二本めを勇者は防げなかった。
小雨降る中、大輪の花が勇者の胸元に咲く。その花は咲いてすぐに掻き消された。
魔王の顔が悲痛に歪む。花の茎となった氷の槍を勇者は引き抜き、魔王にそれを突き刺さんと駆ける。魔王は動かなかった。
勇者の影が魔王のものと重なる。肉を貫く音も、辺りに飛沫が散る音もなかった。
「無常だ。知らなかったのだろう、無理もない。あなたに見せる機会は一度もなかった」
勇者の垂れた手から氷の槍が抜け落ちた。それは半ばから折れている。床に落ちる前に、氷は水となった。
「私が造り出した。ならば、消すのも私であるべきだ。そうは思わないか?」
勇気ある孤独者は答えない。
十年の間、一人で魔王と戦い続けてきた彼への褒美は、魔王の抱擁だった。
「おやすみなさい、私のあなた」
読了、ありがとうございます。もしお時間がありましたら、感想か何かを下さると嬉しいです。とても。