「おはよう、渉。ちょっと来てくれる?」
午前七時四十五分。自室を出たところで栞に声を掛けられる。
いつもの時間に起床し、布団をたたんで、寒い廊下に出て、汲取式のトイレで用を足し、洗面台で顔を整え、学生服に着替えて、カバンの中を確かめ、居間に弁当を取りに行くところだった。
しいて言えば、考えごとをしていた。洗面所の蛇口から出てくる水が濁っていたから。
「栞、おはよう」
うわの空で返事を返す。
まだ、考えごとに耽っていた。昨日は雨だったから水が濁るのは当たり前だとか、我が家で数少ない電気設備である地下水の汲上げポンプが故障したらどうなるんだろうとか、とにかく色々と考えていた。
「ねえ、渉」
「……ん?」
この時、ようやく気が付いた。
居間に誰かいる。
「栞。誰か……いる?」
「お父さんよ」
「……!」
恐る恐る、居間の様子をうかがう。
襖の先は見えないけれども、気配がありありと伝わってくる。
「取って食われたりしないって」
「いや、だって久しぶりすぎるだろ」
「渉は一年半くらいだっけ? わたしは、月に一度は会ってるけど」
「生活費の受け渡しだろ? ったく、それぐらい銀行振込でいいだろ」
ため息を吐くようにして栞は、俺の両肩に手を置いた。
「ダメなの。親子なんだから、どれだけ会えなくても、会える時には会っておくものなの」
「そんなこと言っちゃってさ、こっそりいいモン食べてるんじゃないのか? 親父と会ってる日、いっつも帰り遅いじゃん」
「大人には色々あるの! さ、入って入って!」
この年にして姉に手を引かれ、居間への敷居をくぐる。
カララ、という、襖が開く音――この時、俺には前を見ようという気持ちが起こらなかった。でも、いつかは見ないといけないって、そう思ったら、自然と目が開けてきた。
……部屋のど真ん中にある丸い食卓。そこに、眼鏡をかけた体格のいい男が座していた。いつもは朝食に出てくるはずのない焼き魚を箸で弄っている。
その男、俺の父親である道ノ上覚は、さっとこちらを振り向いたなら、
「おお、渉! 一年と九ヶ月ぶりだなあ!」
「……」
いったい、何を話せばいいんだろう?
「細かすぎるだろ……親父」
「いいだろ、気にするな。渉、なんだか背が伸びたな。そうだ、うん……間違いなく伸びてる! 十センチは伸びてるな! ほら、もうお母さんと同じくらいじゃないか」
「母さん、もう死んでるじゃん」
ここで、真後ろから栞が入ってくる。
「……お父さん」
そう言って栞は、親父の正面に正座をする。これまで見たことのない表情で親父をにらんでいる。
「すまんすまん! お姉ちゃんの間違いだった! いやー、似てるもんだから」
箸を持っている左手首を、クルクルと回している。
「栞は、ええっと、167センチだったかな?」
「そうですよ。渉は、たしか……こないだの身体測定だと、165センチちょうどでした」
「そんなにあるのか! 父さんもウカウカしてられんな!」
「……」
俺は、ため息をついた。親父の体格をざっくりと眺めていく。
……おそらく、190センチ以上はあるだろう。体格もガッシリしている。ワイシャツ越しにでもわかる、馬鈴薯がさらに肥え太ったような上腕二頭筋が目立つ。
「もう学校行くよ」
「行ってらっしゃい」
「あ、ちょっと待ってくれ。ちょっとでいい」
「なに?」
親父の手に、なにやら紙が握られている。
『ああ、あれか』と俺は思い、肩をがっくり落とした。
「渉よ。確かにな、うちは昔から貧乏だ……でもな、進路希望が「就職」なんてのは、ちょっと父さん、認めるわけにいかない。高校には行った方がいい。父さんな、最終学歴が中学校卒業でな、はっきりいって、生きるのに苦労した。栞だって、できれば高校に行かせてやりたかったが……今では人生の後悔のひとつになってる」
俺は、その場で足をブンと振り上げる。
炊飯器を蹴っ飛ばす――フリをした。
「俺の進路だろ。好きにさせろよ」
「……いいから、父さんの横に座りなさい。まだ時間はあるだろう」
誰が座ってなんかやるかよ。
そう思った直後だった。ああ、なんか息が苦しくなってきた。いや、静かなんだけど、空気が重苦しいというか。
「ねえ、渉。姉さんのいうこと、ちょっとだけ聞いて」
それだけ言ったなら、俺の方を見やる。
「朝からこんな話になって悪いんだけどね。姉さんね、いま勤めてるお店のパートだって、面接に通るまでに三〇社以上も落ちたの。学歴のせいにしたくない。自分が悪いんだって思いたい。でもね、どうしても……」
「アー、アー、分かったよ! 分かった!」
「なにが分かったんだ?」
「俺はよお、さっさと社会で働きたいんだ! 学校から居なくなりたいんだよ!」
「どうして? 友達、何人もいるじゃない」
「理由なんか、話したってわっかんねーだろ! で、それで……そうだよ、就職、だけど」
対峙。沈黙。停滞。
親父は、所在なさげに箸を振るっている。俺の方は見ていない。
……搾り出すような声だったと思う。
「公務員になってやるよ」
親父が箸を落とした。
「なにを馬鹿なことを」
「お父さん。お願いだから渉のことを馬鹿って言わないで。馬鹿じゃないわ。成績はとても悪いけど」
「公務員でも、今どき中卒採用なんてやってるものか。それに、うちは水平委員会に加入していないし、していたとして、今の時代じゃコネも使えない。いったい、なにがどうして公務員になるなんて無責任なことが言えるんだ?」
「今はわからない……でも、相談できる人ならいる」
「……ほお?」
卓上に落ちていた箸を拾い上げる。
栞は溜まりかねたように、
「それ、心当たりあるわ。三良坂さんでしょう?」
「そうだよ」
また箸を落とした。今度は、畳の上に。
「あ~、なあ、渉よ! その人が当てになるかはいったん置いといてだな、あ~」
「親父。もし、俺が公務員に採用されたら……就職の件、了承してくれよ」
「仮定の話にウンとは言えないな。それに、その、三良坂さん……だったか!? その人に相談したって、いい答えが返ってくるとは限らないだろう。彼にとって、お前はそんなに優先順位が高い人間なのか」
カバンを開けて、あの時、集からもらった手紙を取り出した。
栞に手渡す。
「なにこれ?」
……訝しむような言葉とともに、しばらく手紙を読んでいた。
読み終わった後、親父に渡す。
「栞。どんな内容だった?」
「お父さん、まずは読んでみてください」
ハ教総 第 22 号
永化3年4月23日
保護者 様
ハッピーマウンテン市教育委員会(教育総務課)
第40回文化会館まつりの動員について(依頼)
この度、ハッピーマウンテン市教育委員会社会教育課の主催におきまして、みだしの行事を実施する予定です。
つきましては、貴家の道ノ上渉様を運営スタッフとしてご派遣くださいますようお願い申しあげます。
なお、同氏に対しては、別途ご依頼を申しあげ内諾を得ております。
記
1 行事名
第40回文化会館まつり
2 業務内容
風船釣りコーナー運営(開催準備、代金収受、会場監視、後片付けなど)
3 日時
永化3年5月5日(こどもの日) 集合時間 午前8時
「……やめておきなさい」
「なんでだよ」
無慈悲。そんな言葉がぴったりと似合う。
親父は――その手紙をびりびりと引き裂いてしまった。
「なにするんだよ!」
「お父さん……やりすぎですよ」
親父は、その場で立ち上がった。
「上手くは伝えられないが……渉よ、公務員を目指すのは自由だ。父さん、認めるよ。でもな、この動員依頼は別だ……渉よ。利用されてるんだ、お前は。だから、ここに行くのはやめておきなさい。いや、やめろ……というか、その手紙は保護者宛てだろうが! なにを勝手にしまい込んでる」
厳しい視線だった。動けない。
「……!」
俺は、逃げ出した。それはもう惨めに。
ああ、クソッ! でも、しょうがねえだろ! 勝ち目がないんなら逃げるしかないだろうが!
「渉! ねえ、ちょっと。お父さんはね……渉! わかってるよね!」
スニーカーを飛び乗るようにして履いて玄関を出る。かかとは踏んだまま。
なんの舗装もされていない道路に走り出たところで、由香里の家を見る。
「げっ!」
ちょうど、由香里が出てくるところだった。
気づかれないよう、コッソリと走り出した。
* * *
坂道を、ひたすらに駆け降りる。
山沿いになっている道。下界が見えてくるにつれ、舗装状況が良くなっているのが手に取るようにわかる。
さらに百メートルほど走ると、道沿いに砂防ダムが連なっている。あと一キロほど行けば、なだらかな丘の下に国府第三中学校が見えてくる。
「はっ、はっ、はっ……!」
ここで立ち止まる。
全力疾走だったから、額に汗が染み出ている。
両膝を触りながら、地面を見つめていた。
「はー、はー、はー……」
息が治まりつつあるのを認めて、顔を上げる。
「ワァッ!」
「わあああぁっ!!」
尻もちをついてしまう。
「なに? そんなに驚いた? 昔からやってるでしょ、このおどかし方」
由香里だった。といっても、目の前にはいない。
――斜め上を見上げると、いた。宙に浮きながら、ゆっくりと落ちてくる。
スカートを片手で抑えながら、もう片方の手の人差し指を振っている。
由香里の癖のひとつだ。
「びっくりした。器用だな」
「大気を遊ばせてるだけ」
「うらやましいよ。俺には、そういうタイプの才能はないから」
「別に。鍛えればできるんじゃない」
「無茶言うなよ。ところで、由香里はアレ行くのか。集から手紙もらったろ。文化会館のやつ」
「ああ、そういうことね」
「そういうことって……どういうことだ?」
「どういうことって、こういうことよ」
由香里は、得意げに笑ってみせる。
「反対されたんでしょ」
くそ。図星だよ。
「やっぱり」
「由香里は行けそうか? 動員、てやつ」
「あたしもママに反対された……でも、説得できたよ」
由香里は、転がっていた石ころを蹴っ飛ばしながら言った。
「やるな。俺なんかさっぱりだった」
「渉、行かないの?」
バツが悪い、みたいな顔をしてたと思う。
でも、そうこうしているうち、由香里の目を見据えた。
「行くに決まってんだろ」
「つまんないの。どうせ決まってたんでしょ、答え」
足先で、俺をちょいちょいと小突くのだった。
「嘘、つけないな。俺」
由香里に笑いかける。それしかやることがなかった。
「由香里のお母さんはいいよな。明るくって、分別があるというか」
「そう? いつも家にいないイメージしかないけど。放っておかれてるだけじゃない?」
「そういうもんか?」
「そういうもんよ」
久しぶりに、ふたりで通学路を歩いた。朝の時間、最後にこうして一緒に登校したのはいつだろう。もう覚えていない。
……本当に、それくらい久しぶりだった。久しぶりすぎて、周りからの視線が気になってしまうほどに。