卑密の太陽   作:渡邉 実一

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#06 「あなたの名前はなんですか?」(3)

 時刻は、午前8時55分。

 

「できた!」

 

 最後に巻き返して、なんとかなった。

 ちょうど、集が玄関から出てくる。

 

「お、できたか」

 

 プールの水面に浮かんだ、色とりどりの水風船。

 赤と白、黒と青、橙と緑など、原色による組み合わせが多い。

 

『……あっ!』

 

 そうだ、公務員になりたいこと、相談したいんだった。

 

「よしよし、ふたりともよくやった。これやるよ」

 

 ビニール袋が差し出された。缶入りのジュースがたくさん入っている。

 

「これ、どこで買ったんだ」

「この館内だ。うどんとかフランクフルト、ジュースの販売をするんだ。先に買ってきたってわけ」

「サンキュー! やっぱ炭酸だよな!」

 

 炭酸飲料に目がない。ロクに小遣いもないのに、新しい商品を見るとついつい買ってしまう程度には。

 コーラを手に取った。

 

「そーだよな、渉。男だったら炭酸一択だよな! ええと、汐町さんはスポーツドリンクでいい?」

「いらないです」

「なんで? タダなのに」

「三良坂さん、公務員なんでしょ。これも一応、贈収賄に……」

「由香里、本当は好きなんだろ」

 

 俺は、ビニール袋からスポーツドリンクを取り出した。

 

「……渉がそういうなら」

 

 由香里が缶を開ける。

 パキリ、という開缶音とともに、グイッと、勢いよく飲み始めた。

 ……横目で、ちらちらと由香里を見ていた。水分を流し込んでいる喉の様子がわかる。喉仏が膨らんで、しぼんで。膨らんで、しぼんで。

 ただ、なんとなく。本当になんとなくだった。見ていたくて。ずっと。

 

「いよっ、男前! 女なのに」

 

 集だった。

 

「ぶふぅっ!」

 

 由香里が、煉瓦タイルの上に液体を吹き出してしまう。

 

「おい! だ、だいじょう――ぶしえええええええええええええええぇッ!!」

 

 刹那だった。右ストレートが集の胸部に直撃していた。

 その一撃は、圧縮された空気の炸裂をそのまま体現するかのように、大人の肉体を撥ね飛ばした。

 

「集、大丈夫か!?」

 

 すぐさま立ち上がるも、腰を押さえている。

 

「あ~、痛って」

 

 集がこっちに戻ってくる。仁王立ちの由香里。

 ――対峙。

 

「汐町さん、冗談きついって。俺も悪かったけどさ」

「あなたも使用者(エッセ)なんですから、このぐらい大丈夫でしょう!? もう話しかけないでください」

 

 由香里は、フイとこちらを振り向く。憮然とした様子で。

 

「由香里。そこのベンチで休もう」

 

 俺の手を取った由香里、ベンチへと歩いていく。

 途中で振り向いて、口の動きで集に「すまない」を伝えた。

 

 *  *  *

 

 時刻は、午前9時50分。

 

「風船釣り、やります!」

「ボクもやるー!」

「あらあら……すいません、子どもふたり分お願いします」

「はい。400円です」

 

 会場は、保護者と児童とでごった返している。

 風船釣りをやってみたい、という子どもの行列だけじゃない。やろうかどうか迷っている子どもたちもたくさんいる。

 ……あれは、午前九時過ぎのことだった。正面入口前のスペースを使ってのオープニング・セレモニーが始まったのは。

 俺たちと同い齢か、少し下くらいの女の子たちがチアのような服装で踊り狂っていた。盛大な拍手の後は、やはり同年代による男女混成の太鼓チームによる演奏があった。

 こんなのは、学校の部活動にはない。放課後に、そういうところに通って練習してるんだろうな。

 そういうわけで、セレモニー中は暇だったのだが――

 

「ああ、残念。釣り糸切れちゃったね。じゃあ、好きなの一個、持って帰ろうか」

 

 セレモニーが終わって十分ほどが経った頃だろうか。急に、お客が入りだして――今は、ごった返す会場の中、今にも泣き出しそうな子へのフォローをしている。

 俺は、プールのところで監視やらアドバイスやらを行うポジションに就いている。

 ふと、長机の方向、由香里がいる受付コーナーを見る。

 

「三人ですね。ありがとうございます、600円です。はい、1,000円ですね……こちら、お釣り400円です。それじゃ、こっちの釣り糸を使ってください。もし取れなくても、好きなのを一個持って帰っていいですからね……あ! 列はこちらです。やりたい子は、こっちに並んでね」

 

 お客に説明をしながら、料金の授受をしながら、売上表に記入をしながら……流れるような動きで仕事を捌いていく。

 当初は、逆の役割分担だった。が、俺があまりに使えなかったので代わってもらった。

 

「いかん! プールの空気がなくなってきた」

 

 立ち上がるとともに、足踏み式のエアーポンプを動かす。

 スコスコという音とともに、水風船が浮かんだプールが膨らんでいく。

 

「それ、やりたーい!」

「え、やりたい? じゃあ、俺みたいに足の裏で押してみようか」

「やった! せーの、えいっ、えい……えいっ」

 

 シュ……シュ……

 残念。小さい子どもでは脚力が足りないようだ。

 

「……うっ、ええっ、ええんっ」

 

 涙が浮かんでいる。

 

「あ……ええと……」

 

 サッと顔を上げる。由香里を見た――どう見ても忙しそうだ。

 

「気にすんなって。小学生になったらできるから」

「……ほんと?」

「ほんと」

「でも、いまさっき、ぜんぜん、」

 

 まずいっ! 今にも泣き出しそうだ。

 と、ここで、

 

「お兄さん、ごめんなさいねー。ほら、かいくん。今度は建物に入ろう? 二階に、平安時代の生活体験ができるコーナーがあるんだって」

 

 グッジョブ。母親が間に合ってくれた。

 子どもを抱き上げるとともに、去ろうとする。

 

「あの、お母さん。すいませんでした」

「そんな、こちらこそ! ご迷惑おかけして」

 

 会釈を済ませると、親子が館内に入っていく。

 

「……」

 

 俺は、何を言うでもなくエアーポンプを踏み続けた。

 

 *  *  *

 

 時が経つのは早いものだ。もう、午前10時30分になる。

 

「落ち着いてきたね」

「一時はどうなることかと。由香里がいなかったら詰んでたよ。俺、頭の回転が遅いからさ」

「どうも。あたしだって、渉がいなかったらうまくできなかったよ」

 

 俺達は、長机に座っている。

 ふと、机上にある文化会館まつりの案内冊子が目に入った。手に取る。

 パラパラと、めくっていく。

 

「親善フットサルフェスタ……午前10時30分開会。喬木議員が来賓で来るらしい」

「ふーん、そうなの」

「どんな人なんだ? 俺、あの時しか会ったことないから」

「うーん。地域学習会じゃ、フツーにいい人だったよ? 朗らかだし、話は面白いし、お菓子くれたり」

「そりゃ、政治家なんだからさ。市民にはそっちの顔つかうだろ」

「うん。こないだのあれで、十分わかったわ。でも……悪い人じゃないと思う」

「そうなのか……って、あ」

「……」

 

 不覚。お客さんに気がつかないとは。こんなこと、今日初めてだ。

 

「あ、ええっと。風船釣り、します?」

 

 女の子だった。

 ツインテールのような感じの長い髪に、パッチリとした瞳。

 年上? 年下? わからない。でも、同年代だよな? 別の中学校だろうか。

 

「ええっと、わたし……これをやります」

 

 目が合った。ドキリとしてしまう。

 視線を下に逸らした。が、胸元に目がいってしまう。

 

『だめだ! いかん!』

 

 目線を上げる……大きかった。

 

「ハイ、や、やるんですね? ええ、一回、200円です。ここに書いてあるとおり。200円」

 

 どぎまぎしてしまう。いやいや、反則だろう。こんなに可愛いの……。

 

「? ええと、これ……なんて読むんですか?」

「……はい?」

「これ、なんて読むんですか」

「ふうせんつり、いっかいにひゃくえん」

「どうやるんですか、ふうせんつりって」

 

 『硬直』、とはこういう事態を指すのだろう。チラリと由香里を見やる。不機嫌そうだ。

 

「ええと、このコヨリ、糸の先に針金がついてるやつ。これを……」

 

 椅子から立ち上がり、この人をプールに導いていく。

 

「コヨリを、この浮かんでる風船に輪ゴムがついてるから、引っ掛けて」

「引っ掛けて……?」

 

 興味津々に見ている。

 

「引っ張り上げる」

 

 水風船を、慎重に、慎重に……釣り上げることに成功する。

 

「わぁ、上がった! こんなに弱そうなのに」

「そう思うだろ。でも」

 

 釣られたままの風船を左右に振った。

 ボシャンッ! あえなく糸は切れて、水の入った風船が水面に落ちる。水しぶきが頬に撥ねた。

 

「……やってみる? 200円だけど」

「やります!」

 

 カバンに手を突っ込んだ。まさぐっている。

 ガマグチの財布が出てくると、長机に移動してお金を取り出そうとする。

 

「ええと、これで200円?」

「……え?」

 

 一瞬、止まってしまう。それは由香里も同じ。

 差し出されたのは――2万円。百回ほど挑戦できる金額だ。やりたくねえ。

 

「ええと、これは2万円。200円がいるんだよ」

「にひゃく……? あ……もしかして……」

 

 女の子は、肩に掛けていたカバンに手を入れてガサゴソとやったなら、紙束のようなものを差し出した。

 

「え……こ、これって……?」

 

 血の気が引く、とはこういう事態を指すのだろう。

 目の前に置かれたのは……。

 

「200万円!?」

 

 由香里の声で目が覚めた。

 なるほど。これが、かの有名な札束というやつ。これだけあれば、ええと……一万回ほど挑戦できる。やりたくねえ。

 俺は女の子の目をじっと見た。

 

「?」

「……!」

 

 だめだ。ドキドキしてくる。でも、逸らさない。逸らしたら負けだ。

 

「ほら、硬貨だよ。金属のコイン。ジャラジャラしてる、銀色の」

「あ! ええと……この銀色のやつ……だよね?」

「それは2円。あと198枚ないとできないよ。ええと、硬貨の表に数字が書いてあるよね?」

「あ、そうだ……ええと、にひゃく、にひゃく……?」

 

 約一分後。

 ガマグチの中から、ちゃんと200円が出てきた。

 

「お待たせして、ごめんなさい」

「いいよ。謝らなくて……うっ!」

 

 視線が痛い。由香里を見やる。

 ――さっきと変わらず、ぶすっとしている。

 

「はい、じゃ、これどうぞ」

 

 コヨリを渡した。わずかに触れた手の感触――吸い付くような感じがする。

 また、ドキリとした。不覚。だって、ずるいだろ。なんでこんなに可愛いんだよ。こんな美人、都会にしかいないんじゃないのかよ。

 

「ええと、あなたの名前はなんですか?」

「俺? 道ノ上渉」

 

 一瞬、目が合った。やっぱり可愛いな……。

 サッと、斜め下に目を逸らした女の子。次に、由香里の顔を見やる。

 

「あなたの名前はなんですか?」

「……汐町(しおまち)由香里」

 

 由香里は何かを悟ったような面持ちになる。こういう場合、大抵ロクなことがない。

 

「わたし、梔子(くちなし)ほのか! 渉くん、よろしくね。由香里ちゃんも」

「あ、ああ。梔子さん、宜しく」

「……ほのかでいいよ」

「ええと、ほのかさん」

「……ありがとう。そういう風に呼んでくれて」

 

 ほのかは風船を釣りに行った。たった今、プールの前にかがんだところ。

 ……奇妙な沈黙が支配している。

 支配していた。

 

「へえ、あんな女の子が好みなんだ?」

「別にそんなんじゃない。たしかに可愛かったけどさ」

「でもあの子、ちょっとおかしいんじゃない?」

「おかしいとか言うなよ。山野辺にもいただろ、あんな感じの」

「チテキショーガイだって、ぜったい」

「別におかしいとは思わないけどな。字が読めなかったり、お金が数えられなくても」

「……ねえ、渉。やっぱり地域学習会いこうよ。使用者(エッセ)の子も、一般人(エンス)の子も、何十人も集まってさ。フツーにお話とか、ゲームとかできるんだよ。渉の考え方ってさ、なんかこう、ピッタリ合ってると思うよ? シソーテキに」

「行かない」

「なんで?」

「行かないって決めたから」

「だからさ。なんで? 今の、答えになってないよ」

「ここで暮らしてる限りは、ずっとそうだ。孤立してなくちゃいけないんだよ、俺達は。一般人(エンス)と交わる経験なんてしなくていい」

 

 あの時の、安田のことを思い出していた。死ぬまで隠してみせる。

 

「……で、由香里はどうして学習会に行ってるんだ?」

「さみしいでしょ。四人だけじゃ。わたし、嫌なの。どうして、こんな気持ちのままでいないといけないの? どうして、みんなわたしたちのことを無視するの? ……壁はある。でも、壊せる。それは壊せるの」

「そういうもんか?」

「そういうものよ」

 

 穏やかな笑顔を浮かべている。

 

「最近ね、安田君とよく話すんだ。彼、最初は真面目なのか不真面目なのかよくわからない感じだったけど、案外そうでもなかったよね。佳奈子だって。あたし、人を上っ面で判断してた。はぁ、情けな……」

 

「よかったじゃん」

 

 心の奥がチクリと痛んで――椅子に棘でも生えたみたいだ。サッと立ち上がる。

 

「じゃ、俺。一回目の休憩に行って――」

 

 ガシャアァンッ!

 

「!」

 

 空を見上げた。キラキラと、日光を浴びて輝くナニカが落ちてくる。

 ――正面入口の前。多くの人が何事かと立ち止まっている。

 

「逃げろッ!」

 

 俺は叫んでいた。キラキラと、輝きながら落下を続ける物体は――粉々になったガラス片だった。

 

 (第6話、終)

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