「喬木様、今が逃げるチャンスです!」
目の前に、体育ホールが広がっている。
学校の体育館と同じく、横に長い構造であり、俺は今、長い辺の端あたりにいる。声の主は、その真向かいにあった。
ほかの者と同じく、黒い色調のスーツに身を包んでいる。すぐ後ろには喬木がおり、彼を守るようにして非常階段に退こうとしている。
さらに、この女の前に、先日やりあったばかりの――景山と川上の姿があった。が、川上の方は、明らかに様子がおかしい。
いや、ちょっと待て。様子がおかしいとかいう以前に、どうして――?
そして、なにより目に入ったのは――慄然と彼らの前に立ち尽くす、迷彩柄を着た黒いフェイスマスクの男だった。ゴツイ安全靴を履いている。
体躯があり、背筋がしっかと伸びている。右手には、長さにして1メートルはあろうかという真っ黒なタクティカルナイフが握られている。さっきの飛び道具は、こいつから飛んできたに違いない。
男が、こちらを振り向いた。
「……!」
フェイスマスク越しに、目が合った。
「……」
俺を一瞥すると、また喬木の方を向いた。
苦々しい面持ちの喬木。非常階段までじりじりと後退していく。
「逃がさんッ!」
まっすぐ、その方向に走り込んでいく。異常な速度だ。そう、まるで、自動車並みの。
「川上、待ってっ」
川上が、無言で飛び出した。景山を守るようにして。
いたるところ、傷だらけだった。見れば、右腕が取れかかっている。
が、なによりおかしいのは。
「死んでる……?」
グチャリ、という不愉快な音が響いた――タクティカルナイフによる一閃。人間大の果物があったら、あんな風に弾けるのだろうか。
川上だったものの肉体が撫で斬りにされると、どす黒い血が男に撥ね返った。
「
俺は、噴き出す血を眺めながら、すぐ後ろに倒れている由香里を意識する。
「身体能力の強化……いや、それだけじゃない。知能も加速してる」
謎の男と対峙している景山を見据えた。
視線をやると、ほんの一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされる。
「なめてんじゃないよっ!」
景山が、両掌を床へと接触させる。
「凍りつく、凍りつく、凍りつく……」
辛うじて聞き取ることができる。呪詛のような、か細い言葉を。
「……!」
男に撥ね返っていた血が凍り付いてゆく――男は動けないでいる。付着した血が動きを制約している。
「くらいなっ」
ペットボトルを取り出した。回転を加えながら、逆さにする。
すると、刃渡りにして1メートルを優に越える氷の刃が誕生する。
そして――斬りかかったッ!
「おおっと」
「なッ!?」
男が翳したのは、一瞬で引っ張り上げた――川上だったもの。
景山が静止した。強張った視線、足元が震えている。今にも振り下ろさんとする刃は、空中で不自然に止まっている。
「……くそ」
小声だったけど、聞こえた。呪いと怒りの感情が俺に伝播してくる。
「三流だな」
次の瞬間。巨躯の男は、血による拘束を解き放っていた――
「……?」
一撃は、空振りに終わった。
景山は、隙を縫って真後ろに下がる。
「なんだ、邪魔したのはお前か」
重々しい声。人のものとは思えない。加工している?
「ああ、俺がやった。ほら、目、見えないだろ。なんなら治してやろうか?」
「……アァッ!? 今なんて言った!」
ガアンッ! と、タクティカルナイフを地面に突きつける。
床を軽々とブチ抜き、屹立したのを引っこ抜いたなら、また構える。
「そっちのお子さんのように、死ぬような目を見せてやろう」
言い終えるやいなや、迷わず狂いなく、こちらへと走ってくる。
「くそ、やっぱりこのレベルの奴には」
フローリングの床を蹴り続ける乾いた音。あっという間に、両者の距離が詰まる。
「おいおい、速すぎだろっ!」
「……終わりだ」
しなるような動きでもって、左ストレートが放たれる――すんでのところで、横っ飛びに回避する。
「フンッ!」
連絡技だッ! 回し蹴りが飛んでくる。
――チャンスッ!
「関節、もらったっ」
飛んできたゴツイ脚へと絡みつく。が――
「ぐほッ!」
豪脚による遠心力に振り回され、非常階段へと続く扉に激突してしまう。
背中から叩きつけられるも、なんとか立ち上がる。
ここで退けるものか。負けじ、敵前へと躍り出る。
「……やるじゃん」
「口だけは一丁前だな」
ふたたび、こちらへと疾走してくる。
「!?」
「どうだ、今度は耳が聞こえないだろ。でも、目は見えるよな?」
男は立ち止まり、つま先を体育館の床にトントン、と撫でつける。
「この戦況で、俺に視界をくれていいのか?」
男は、左足の裏をしっかと床につける。
屈んだような姿勢となった。クラウチングスタートに近い。
「フンッ!」
フェイスマスクの影が揺れて、残像を作った――と思った矢先、敵が目の前にあった。
豪腕により、振り下ろされるタクティカルナイフ。ギリギリのところで回避するしかない、と身構えたところで――男の動きが止まった。
血だ! 血が滴っている。男の背中から流れていた。ぽたぽたと、床面に垂れ続けている。
その正体を確かめる。わかってはいたのだが。
「……ご協力、どうも」
ようやく、視認することができた。
男の背中に突き刺さった、景山の手から延々と伸びる――長大なる氷柱を。
「ざまあないわ。ウチが寄ってくるの、わかんなかったでしょ……貫けッ!
「考えたな。だがっ」
「ウソッ!?」
謎の男は、そのまま前方向にしゃがみ込んだ。
すると、背中に突き刺さっていた氷柱が、景山ごと、持ち上げられて――
「覇ッ!!」
そのまま、一回転ッ! 景山が振り飛ばされてしまう。俺の方に飛んで来た。
だめだ、避けられない。このままじゃ激突する。ええい、ままよッ! 受け止めようとする。が、てんでだめだ。受け止めきれない。
「がぁっ!」
5,6メートルは吹っ飛んだだろうか。
ふたりして背後にある壁に激突し、力なくずるずると倒れ込んだ。
「おい、大丈夫かっ」
「大丈夫なわけないでしょ。見てのとおりボコボコ……」
かすれ声だった。左の瞼が腫れている。
そのほかにも、肘や肩口などに変な色が浮かんだ打撲の跡が目立つ。
「……こんなところで。ようやく、ようやくまともな職……年収320万円の仕事に就けたっていうのに」
俯いた景山。
俺は、タクティカルナイフの男に視線をやっている。奴は、傷ついたばかりの背筋を伸ばしていた……こちらの様子をうかがいつつ。
なぜ、すぐに襲ってこない? 不自然な感じがする。
「で、景山さん。次はどうする?」
「たぶん、もうだめね。あんた逃げてもいいよ。いや、逃げなさい」
「?」
わからない。この間は、あんなに残忍だったのに。同じ人間なのに、どうしてこうも態度が違うのだろう?
「……景山さんってさ、もっと肉食で、血も涙もなくて……いや」
景山の顔を見る。先日とは、異なる顔つき……のような気がした。
いや、違う。景山さんは、優しい。優しかったんだ。そうだよ、どうして思い出せなかったんだ? 優しかったじゃないか。ようやく、昔のことを思い出した。
秋にある神社の奉納祭りの時、毎年のように太鼓の打ち方を教えてくれたっけ。
「おい、おいったら! 景山さん」
「ん……なに?」
草臥れている景山を揺り起こす。
「見ててください。カタキはとりますから」
言ってみた。調子に乗りすぎだろうか。
相手は、苦笑するばかりだった。
「強がりばっかり言って。こないだみたいにハリボテの自信なんでしょ。そんなんだから、ウチなんかにやられるんだって……協力してやりたいけど、今のウチには無理」
協力――そうだ、どうして思いつかなかったんだ。
景山の手を取った。
「嘘だ。嘘をついている。まだやれるって、景山さんはそう思ってる」
「……ふふっ」
目の前の人が吹き出してしまう。
ふいに、男の方を見る。
ナイフをひゅんひゅんと振り回し、こちらを見据えている。
「時間の問題か」
俺達ふたりは、立ち上がった。
「ねえ、道ノ上くん。あんたってさ、
「どっちでもOKなタイプ」
「羨ましい」
男は、ゆっくりとではあるが、こちらに歩みを進めている。
俺は、男を見据えている。景山も。
「……いくよ」
景山の手が、俺の手に触れる。
「
言霊とともに、辺り一面は真白の霧に覆われ一寸先すら見えなくなる。
「これで相手の動きが鈍くなるはず。ああ、もう
それだけ言うと、よたよたと壁にもたれかかる。
俺は、凍てついた大気に目を凝らしていた。男の姿は見えない。が、機動力は落ちているだろう。
「空気そのものが凍りついてるみたいだ……それでいて寒くない。ん?」
どこかで、誰かが叫んだ気がする。「寒い」と。が、気にしている暇はない。男はすぐそこにいるのだから。
「……なんとかしてみせなさいよ? 敵を取るって言ったんだから」
景山が、小声でせっついてくる。
「あいつの行動、なんだかわかる気がする」
小さい声で、「景山さん、ありがとう」と呟いて深呼吸をする。
「行くぞ、デカブツ野郎ッ!」
小刻みにステップを踏んでから、走り出した。足音を感じながら。間を取りながら。
――いる。もう、あと4,5メートルほど向こうにいる。
「げっ!?」
ナイフだった。飛んできたのは。
足の力を抜いた。仰向けに倒れ込んで回避する――肩を掠めたナイフが、壁面に突き刺さった音がする。
「若造が。俺が走ってくるとでも思ったか?」
霧の中から男が現われる。一瞬、一瞬だけ見えた。迷彩柄に張り付いた氷の粒が。
心なしか、動きが鈍っている。
「さっさと死ねっ!」
突撃とともに、タクティカルナイフが振り下ろされた。
「うおっ!」
必死に身体を捻ってかわす。巨大なナイフは俺のすぐ手前、股下のあたりに突き刺さった。
おいおい。動きが鈍ってるのは思い過ごしか?
「くそっ、こいつゴボウか。てんで抜けやせん」
ナイフを抜くのに手こずっていた。その隙をついて立ち上がる――男の斜め後ろに回り込んだ。今も、ナイフと床面とが擦れる音が聞こえてくる。
「若造、どこへいったっ!」
「ここだっ!」
敵人の右肩あたりを両手でざっくばらんに掴んだなら、自重を預ける形で跳び上がる。
「うおっ!?」
――空中戦。右足を脇の下に、左足を首元に。敵の右腕をしっかと両手で挟み込んだなら、そのまま真っ逆さまに。
ドシンッ! 両者の体重による衝撃が、体育ホールの床を軋ませる。そして、体勢は、
「ぐおぉっ!」
「極まったっ!」
骨盤にしっかと固定された上腕二頭筋、技を掛けられる側の親指が天井を向いているという、まさに教科書どおりの理想形――腕ひしぎ十字固め、成立。
『折れろ!』と心に願う。
「……効かんなぁ」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。ただ、フワッと、腕ひしぎを掛けていたはずの身体が、持ち上げられて――
男は何事もなかったように立ち上がる。ビュン、という風圧が耳を切った。
「がっ!」
床に叩きつけられた。
次撃の踏みつけをギリギリで回避する。
「しぶといな」
重苦しく、しゃがれた声。どう考えても肉声じゃない。
俺は、脱兎のごとく体育館内を走り回って、先ほど入ってきた出入口へと。
「やれやれ」
声が響いてくる。距離を取ったはずなのに。
「こんなものか、つまらん。そのうえ、この様子だと霧もじきに晴れるだろう」
男が、近付いてくる。
「……悪く思うなよ」
黒光りするナイフを構えつつ。
「悪く思わないでくださいね」
男の動きが止まった。
「なんだ、これは」
由香里! 由香里だった。負傷したはずの由香里が、さっき倒れていた場所に佇んでいる。
「びっくりしました? 動けないでしょ。あたしの得意技なんです……見たところ、それ、ゴム素材の靴ですよね。そして、ここは体育館のフローリング。それでもし、あなたの靴底の周りが真空になったとしたら?」
「ぐ……!」
「その安全靴の紐、キツそうに結んでありますね。すぐにはほどけなさそう」
「クソがぁっ!」
敵人は靴を脱ごうとしゃがみ込んだ。
――わかる。俺にはわかる。今、由香里は「勝った」と呟いた。
というのも、男の背後には……俺がいるから。
「ガアアアアアッ!」
しゃがんでいる大男。右手でその前襟を握ったなら、左手で逆側の襟を握る。そして、両手を――ネジのように、引き締めるッ! ……十字締め、成立。
「どれだけ……バフ肉体強化をかけようと……頚動脈は鍛えようがないよな」
ぎりぎりと着実に男を締め上げる。抵抗を試みても叶わない。なぜなら――
「あ、あ、ぐ……」
男の身体は、由香里の大気によって縛られているから。身じろぎがやっとだ。
「……」
やがて、力なく崩れ落ちる。
「……」
「もうオチてるよ、渉」
「不安でしょうがないんだ」
「
「たぶん。でも、ほかにも何かしてると思う」
「ま、とにかく。そいつ、まだ死んでないよ。とどめ刺しておく?」
指先がパチパチと鳴っている。なにやら光も出ている。
微細ではあるが、磁界が生じていた。
「こんな霧の中じゃ、ロクに電気も使えないし……うう、さむっ」
身を震わす。
「いいよ、由香里。このまま逃げよう。集が来てくれ――おごぉっ!」
みぞおちに一撃を食らってしまう。もちろん由香里に。
「どうせ、あんただけ寒くなかったってオチでしょ! あたしがどんだけ凍えたと思ってんの」
よくよく見ると、由香里の全身に霜が降りている。髪も湿っていた。
衣服の数箇所が血に濡れている。が、ピンピンしている。ある程度、ナイフを押し返せていたのだろう。
俺は、お腹を押さえながら、
「うごご……でも、しょうがないだろ。だから、あんなにすばやく寝技を決めることができたんだ。あいつの動きが鈍ってたから」
「はいはい、よかったね渉クン。命が助かって。それに、あんたはいざとなったらアレがあるもんね」
「あれは、やらないし……できない」
「あっそ」
バツが悪そうに歩き出す。俺も連れ立って、出入口の前へ。
「集も、負傷者の搬出は終えてるだろ」
オレンジ色の扉を、ゆっくりとスライドさせる。すると――
途端、凄まじい勢いで扉が殴りつけられた。衝撃の正体はわからない。でも、ただひとつ、わかるのは――
「渉っ!」
俺の肉体は盛大に撥ね飛ばされていた。