卑密の太陽   作:渡邉 実一

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#10 嘘(3)

 退屈な終礼だった。

 小山は、あまりに適当というか、緩いというか。

 和田先生だったら、「起立、礼」が揃ってなければやり直しをさせるし、それ以前に、「終わりの会を始めます。着席してください」なんて間抜けなことは言わない。

 教室が静まらない時は、ただ、ずっと教壇に立っているのだ。そう、文字どおり、ずっと。そして、みんな気が付くのだ。『このままでは家に帰ることができない』と。

 そうなると、あとは勝手に静まっていく。席を立って騒いでいる者も、気まずくなって自分の席に帰る。

 ……案の定、3年3組は騒然としていた。うるさい。いつもの二倍はうるさい。計器などなくても俺にはわかる。

 

「はい、それでは。連絡事項は以上です。ほかに何かありますか? えー。ないようだったら、これで終わります。日直さん」

 

 和田先生のことが頭を離れない。今は、どうしてるんだろうか。病院とか、行ってるんだろうか。

 

「起立! ……気をつけ、礼!」

 

 てんで揃っていない。バラバラだ。和田先生なら、やり直しをさせていることだろう。

 そんな、形ばかりの挨拶を済ませると、多くの生徒がいっせいに教室を出る。残ってるのは勉強熱心なヤツらだけだ。俺は熱心じゃない。

 由香里に謝ろうと、帰っていく彼女に声をかけようとする――

 近付くことができない。なんだか、遠い存在になってしまった気がして。そんなことはないのに。

 話しかけたい、と思っているのに。体が、心が言うことを聞かない。

 

「……」

 

「……」

 

 こそこそと、追いかける格好になる。

 廊下を渡って、階段を降りて、下駄箱に向かう。

 ふと、由香里のすぐ傍を、ほかの女子が通った。

 

「バイバイ」

 

 ……無視。当然のごとく、由香里の挨拶は無視されてしまった。

 また別の女子が、その近くを通り過ぎようとしている。

 

「バイバイ」

「バイバイ、由香里。今日も元気なんだね? うらやましい。私にもちょっと分けて欲しいな?」

 

 由香里の表情がパッと輝いた。

 

「そ……そんなことないよ! あたし、元気だけが取り得だから。じゃあね! ……ええと」

「宮本……佳奈子だよ?」

 

 宮本さんの膝下に包帯が巻いてある。俺達と一緒に遊びに行った翌週から、あんな痛々しいことになっている。

 

「佳奈子、バイバイ! また遊ぼうね」

「うん……さよなら」

 

 宮……なんとかさんだった。挨拶って、こういう自然にやるもの……だと思う。

 由香里に視線をやる。下駄箱を開けて、茶色い革靴を取り出している。革靴って、そんなにいいのだろうか。ほかの女子は、ほとんどがスニーカーなのに。

 靴を取り出して地面に置く時、左手でスカートの後ろを押さえながら、ひょいとしゃがんだ。股はきれいに閉じている。

 ……柔らかそうな髪の毛。覗いたうなじ、丸まった背中、張り出した尻部に視線をやる。昔から知ってる背中なのに、どうしてか今日は他人みたいな感じがする。

 指を突っ込むようにして器用に革靴を履いたなら、さっと立ち上がって――駆け出した。

 

「……!」

 

 立ち上がった瞬間。

 太股がはっきりと見えた。肌色に近い白。肌色のはずなのに、不思議と白に感じられる。乳白色? というのだろうか。

 もう少し勢いがあったら、下着まで見えたんだろうか。でも、あの真後ろから覗いた太股は……下着よりも興奮すべきものかもしれない。

 いや、この際だからはっきり言おう。下着は見えていた。ベージュの下着だったから見えにくかったのだ。俺の無意識はそれを、『ぎりぎりで見えなかった』と錯覚した。意図は不明だ。

 ……月に三度はあいつの下着を見ている。青色が多い気がする。行動がいちいち大振りなものだから、『ああ、やっぱり』といった場面で見えてしまうことになる。

 乳白色が頭を離れない。離れない――

 

「……ハッ!」

 

 頭をブンブンと振ったなら、自分の下駄箱に向かう。

 ボロボロのスニーカーを取り出して、地面に投げる。ざっくばらんに履いたなら、そそくさと外に出る。

 まだ、なんとか由香里が見える――嬉しそうな気分でいる。

 

『由香里、ちょっと』

 

 ――言えなかった。

 挨拶を試みるも、言おうとする気があるのに、言えない。

 本当に、嬉しそうだった。邪魔をするのが嫌になり、そのまま立ち止まってしまう。

 

「おい、渉!」

「うわっ」

 

 首周りを掴まれた。こんなことをしてくるのは、こいつしかいない。

 

「どうしたんじゃ、渉。今日は由香里と帰らんのか?」

「そんなの滅多にないよ。小学生じゃあるまいし」

「じゃあ、ワシと一緒に帰ろうや! 今日はのう、気が高ぶってしょうがないんよ」

「ヤバイものでも飲んだんじゃ」

「はははっ、ワシら、はす向かいに住んどる仲じゃろうが」

 

 どこ吹く風だった。

 

 *  *  *

 

 シャワーを浴びている。

 頭にお湯をかけながら、物思いに耽る。

 

『どうして? どうして由香里に声をかけられなかった?』

 

 前髪を、両手でざっくばらんに掻き上げる。ジャブジャブと、頭のてっぺんに振ってくるシャワーの湯。

 

「ねえ、渉……どう?」

 

 栞の声だ。凛々しいような、甘ったるいような。

 聞き慣れているはずが、場所が場所だからだろう、普段と違って聞こえる。

 

「ねえ、聞こえる? 石鹸取ってくれない?」

「……はあ」 

 

 立ち上がった。微妙に立ちくらみがする。

 風呂イスの前に置いてある真新しい石鹸を手に取る。

 

「栞! ほかのお客さんは?」

「いない」

 

 いま俺は、家から歩いてすぐのところにある公衆浴場に来ている。ひとりたったの100円で利用できる。そして、今しがた、栞から石鹸を投げ込むように依頼を受けたところだ。 

 ……視線を、天井付近に向ける。

 共同浴場の男女を仕切る壁の上へと、石鹸を振りかぶって――投げた。

 

「あ、きた。ありがと」

「……いい大人が」

 

 また、シャワーの雨に浸る。

 いつもより長い時間、風呂に入っている。まあ、特に問題はないだろう。栞は、あと30分はかかるだろうから。

 

「……なんでだ? どうして、今日は声を掛けられなかったんだ」

 

 みぞおちを殴られたから? 由香里を嫌いになった? それとも、なんとなく?

 様々な理由が思いつくが、どれも違う。

 

「うーん……」

 

 いま、あったばかりの光景。石鹸について、思う。

 ――石鹸について。石鹸といえば、さっき、俺があっちの女湯に投げ込んだばかり。

 なぜ投げ込んだかと言えば、女湯に石鹸がなかったから。

 なぜ石鹸がなかったか? こんなにボロくて小さい共同浴場だから。いや、それは大した理由じゃない。

 そもそも、石鹸とは何か? いや、問うべきことじゃない。

 ……なぜ投げ込んだかに戻ろう。そうだ、栞が求めたからだ。そして、俺という存在が物理的に投げ入れることができた。だから、石鹸はいま、栞の手元にある。

 誰かが求めて、誰かが可能で、誰かがひた走って、ある目的が成る。

 

「もしかして、概念力(ノーション)による影響を受けていた? 誰かが俺に、概念力(ノーション)を……」

 

 ダイヤル式のつまみを回すと、シャワーが止まって、代わりに蛇口からお湯が溢れてくる。

 サッと顔を洗ってから、勢いよく、風呂イスから立ち上がった。まっすぐに脱衣場へと。

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