卑密の太陽   作:渡邉 実一

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#10 嘘(4)

 夜の帳。

 通学に使っている里道が真っ黒に染まっている。わずかに備えられた街路灯が、ポツポツと道行く先を照らす。

 中学校を見下ろせるところまで来ていた。山の方を見上げる。田畑が続いている。

 田植えを終えたばかりの田んぼを眺める。ほの暗いような、明るいような。いや、やっぱり暗い。月明かりが水面を照らしているものの、ほとんど新月のようなものだから。

 

「誰だ? いったい誰が、俺に対して概念力(ノーション)を使った?」

 

 道に目を凝らす。なにも転がってはいない。

 ……ただずっと、ある一点に視線を向けていた。

 

「!」

 

 身構えつつ、山際に身を隠した。誰かが坂の下から近づいてくる。この暗さでは存在がわからない。

 数秒が経過すると、正体がわかった。

 

「あ……」

 

 今朝、会ったばかりの女子高生だった。

 帰り道だろうか。自転車に乗っている。地理的に考えて、おそらく近所に住んでいる。

 心なしか、焦っているような印象を受ける――通り過ぎた。

 

「……!」

 

 ライト。同じ方向から、ゆっくりと自動車が走ってくる。

 車のカラーは、白……? 大きくはない。

 坂道を、ゆっくりと登っているはずのそれ。心なしか速度が上がっている。いや、間違いなく上がっている!

 通り過ぎた。軽トラックが。運転しているのは……?

 

「尚吾!?」

 

 あいつまた、なにやってんだ。採用取り消されても知らないぞ。

 軽トラックはスピードを上げていく。その先にはあの女子高生が。

 ――スピードが、さらに、さらに上がっていく。

 自転車に乗っている影。真後ろを振り向いた。脅威に気が付いて、あるいは気が付いていたのか、立ち漕ぎに切り替える。無駄だった。

 

 ブイイイイイイイイイ……ガシャ、ガシャァンッ!!

 

 車体が、回り込むようにして自転車をぶつけ飛ばすと、その娘は泥だらけの地面にバウンドして、水を張った田んぼへと真っ逆さまに落ちていった。水音とともに。

 

「……」

 

 言えない。何も。

 トラックは様子を窺うように停車していた。十秒ほどが経過すると、運転席からがっしりとした体格の男が出てくる――間違いない。鵜飼尚吾だ。

 

「……」

 

 あぜ道をさっさと降りていく。田んぼに足を突っ込んだ音がした。

 バシャ、バシャという、あてどない不規則な水の音が聴こえてくる。

 

「やめてください、いや! いやあぁっ!」

「よいしょっと!」

 

 泣き喚いている。尚吾の肩に抱えられた女は、鈍い音が聴こえるほどの乱暴さで、軽トラックの荷台に積まれてしまった。

 ここからでもわかる。脱兎のごとく運転席に乗り込んで、アクセルを踏み切ったのが。悲鳴のように甲高い排気音。走り去っていく。

 

「……」

 

 唖然とはこういう状況を指すのだろう。

 傍にあった電柱に手のひらを当てる。額も当てた。頭を引っ掻いてみる。何度も引っ掻いているうち、その手を止めた。

 家のある方を見る。トラックが走り去ったのとは、てんで異なる方向にある。

 

「……」

 

 ため息を吐いて俺は、じわり、じわりと自宅に歩を進めようとする。

 

「……渉? どうしたの、そんなところで。今日はお風呂長かったね。追いついちゃった」

 

 ――動けない。なぜだろう。 

 

「どうしたの? 何かあったの? ああ、さっきの車ね。夜中なのに、あんなにうるさい音を立てて」

 

 俺は首をブンブンと振る。

 走り出した。全力で。

 

「渉! ほんとにどうしたのっ!?」

 

 *  *  *

 

 息を切らして、家の玄関に辿りつく。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ……あぁ……」

 

 滴り落ちる汗。袖で拭う。

 鍵を持っていない。玄関口に座り込んだ。

 ……動悸が収まらない。天空を見上げる。

 落ち着け、落ち着くんだ。いいか、明日。そうだ、明日。警察に行こう。いや、その前に栞に相談しなければ。でも、なんて言って相談する? いや、待て。待つんだ! 相談した後のことを考えよう。栞が信じてくれれば、警察に連絡がいく。連絡がいけば、捜査が始まる。捜査が始まれば、証拠が見つかるかもしれない。証拠が見つかれば、尚吾は逮捕される。逮捕されれば、

 

「あ……あ……」

 

 声にならない呻き。由香里の名前を呟いた。

 体育座りのまま、頭をひざに埋める。

 

「……できるわけないだろ」

「おい、誰か居るのか?」

 

「!」

 

 声がした方に意識を向ける。

 

「……」

 

 ……諦めたか? よかった。胸をなでおろす。

 いや、待て。おかしい。声がした方は――汐町(しおまち)家。由香里の家だ。

 こっそりと隣家の庭に近付いた。杉の木に身を隠して、声の主を見やる。

 ……影はふたつ。玄関口にいる。新月に近い月明かりが照らしている。

 ひとりは、由香里だった。扉の前で佇んでいる。

 もうひとりは――集。集だった。由香里と向き合っている。

 

「なんだ、あの二人か」

 

 気が抜けてしまう。視線をふたりにやったまま。

 ……集が一歩を踏み出す。由香里のすぐ前へと。

 手をのばし、人差し指で由香里の顎を持ち上げる。身体を近付けて、その口に――キスをした。

 

「……!」

 

 由香里の唇は、身長差からか上向きだった。唇の位置をずらして、何度も、何度も男のそれに押し当てようとする。

 女の両指が男の胸板をしっかと掴んだ。舌を必死に伸ばし、男の唇をなめずっている。何度も、何度も、何度も。甘い蜜を吸っているかのように。

 やがて、女は両腕を男の首に回す。激しくなる口づけ。舌先と唾液とが絡まっていく卑猥な音がここからでも聴こえる。女の下半身が震えている。

 ……キスの嵐がおさまった。男と女はチロチロと舌先を絡め合いながら、甘い視線を送りあう。

 舌が離れたと思うと、女は真上を向いて大きく口を開ける。

 すると、男は、女の髪を撫で上げて、凄まじい量の唾液を女の口に注ぎ込んだ――

 垂れ切った液体を、噛み締めるようにして頬の内部で転がす。ぐっちゅ、ぐっちゅという、生々しい攪拌の音が響いてきそうなほどに。

 喉の動きでわかった。ゴクリと唾液を飲み干したなら、女の瞼が閉じる。零れた涙が頬を伝った――悲しい方の涙? いや、違う……違う。

 また、女が口を開いた。今度は小さめに。

 男の手が口内に伸びる。指が数本、入っていった。

 指が口内を出入りする度に、女の表情は恍惚感を帯びてゆく。

 口から指が抜かれると、唾液が垂れ下がって糸を引く。零れ落ちようとする唾液の橋――愛おしそうな仕草で、女の口がすくい取った。男の指先にしゃぶりついていく。

 

「んん……」

 

 甘ったるい、由香里の声が聴こえた。

 貪るような愛撫が続いている。手と手を握って。

 

「……だな」

 

 集がなにか言った。

 すると、由香里の肩を抱いて、家の中へと――入り際、由香里が何か言葉を返した気がした。絞り上げるような声で。

 

「……」

 

 股下に視線をやる。弾けていた。

 

 (第10話、終)

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