夜の帳。
通学に使っている里道が真っ黒に染まっている。わずかに備えられた街路灯が、ポツポツと道行く先を照らす。
中学校を見下ろせるところまで来ていた。山の方を見上げる。田畑が続いている。
田植えを終えたばかりの田んぼを眺める。ほの暗いような、明るいような。いや、やっぱり暗い。月明かりが水面を照らしているものの、ほとんど新月のようなものだから。
「誰だ? いったい誰が、俺に対して
道に目を凝らす。なにも転がってはいない。
……ただずっと、ある一点に視線を向けていた。
「!」
身構えつつ、山際に身を隠した。誰かが坂の下から近づいてくる。この暗さでは存在がわからない。
数秒が経過すると、正体がわかった。
「あ……」
今朝、会ったばかりの女子高生だった。
帰り道だろうか。自転車に乗っている。地理的に考えて、おそらく近所に住んでいる。
心なしか、焦っているような印象を受ける――通り過ぎた。
「……!」
ライト。同じ方向から、ゆっくりと自動車が走ってくる。
車のカラーは、白……? 大きくはない。
坂道を、ゆっくりと登っているはずのそれ。心なしか速度が上がっている。いや、間違いなく上がっている!
通り過ぎた。軽トラックが。運転しているのは……?
「尚吾!?」
あいつまた、なにやってんだ。採用取り消されても知らないぞ。
軽トラックはスピードを上げていく。その先にはあの女子高生が。
――スピードが、さらに、さらに上がっていく。
自転車に乗っている影。真後ろを振り向いた。脅威に気が付いて、あるいは気が付いていたのか、立ち漕ぎに切り替える。無駄だった。
ブイイイイイイイイイ……ガシャ、ガシャァンッ!!
車体が、回り込むようにして自転車をぶつけ飛ばすと、その娘は泥だらけの地面にバウンドして、水を張った田んぼへと真っ逆さまに落ちていった。水音とともに。
「……」
言えない。何も。
トラックは様子を窺うように停車していた。十秒ほどが経過すると、運転席からがっしりとした体格の男が出てくる――間違いない。鵜飼尚吾だ。
「……」
あぜ道をさっさと降りていく。田んぼに足を突っ込んだ音がした。
バシャ、バシャという、あてどない不規則な水の音が聴こえてくる。
「やめてください、いや! いやあぁっ!」
「よいしょっと!」
泣き喚いている。尚吾の肩に抱えられた女は、鈍い音が聴こえるほどの乱暴さで、軽トラックの荷台に積まれてしまった。
ここからでもわかる。脱兎のごとく運転席に乗り込んで、アクセルを踏み切ったのが。悲鳴のように甲高い排気音。走り去っていく。
「……」
唖然とはこういう状況を指すのだろう。
傍にあった電柱に手のひらを当てる。額も当てた。頭を引っ掻いてみる。何度も引っ掻いているうち、その手を止めた。
家のある方を見る。トラックが走り去ったのとは、てんで異なる方向にある。
「……」
ため息を吐いて俺は、じわり、じわりと自宅に歩を進めようとする。
「……渉? どうしたの、そんなところで。今日はお風呂長かったね。追いついちゃった」
――動けない。なぜだろう。
「どうしたの? 何かあったの? ああ、さっきの車ね。夜中なのに、あんなにうるさい音を立てて」
俺は首をブンブンと振る。
走り出した。全力で。
「渉! ほんとにどうしたのっ!?」
* * *
息を切らして、家の玄関に辿りつく。
「はあ、はあ、はあ、はあ……あぁ……」
滴り落ちる汗。袖で拭う。
鍵を持っていない。玄関口に座り込んだ。
……動悸が収まらない。天空を見上げる。
落ち着け、落ち着くんだ。いいか、明日。そうだ、明日。警察に行こう。いや、その前に栞に相談しなければ。でも、なんて言って相談する? いや、待て。待つんだ! 相談した後のことを考えよう。栞が信じてくれれば、警察に連絡がいく。連絡がいけば、捜査が始まる。捜査が始まれば、証拠が見つかるかもしれない。証拠が見つかれば、尚吾は逮捕される。逮捕されれば、
「あ……あ……」
声にならない呻き。由香里の名前を呟いた。
体育座りのまま、頭をひざに埋める。
「……できるわけないだろ」
「おい、誰か居るのか?」
「!」
声がした方に意識を向ける。
「……」
……諦めたか? よかった。胸をなでおろす。
いや、待て。おかしい。声がした方は――
こっそりと隣家の庭に近付いた。杉の木に身を隠して、声の主を見やる。
……影はふたつ。玄関口にいる。新月に近い月明かりが照らしている。
ひとりは、由香里だった。扉の前で佇んでいる。
もうひとりは――集。集だった。由香里と向き合っている。
「なんだ、あの二人か」
気が抜けてしまう。視線をふたりにやったまま。
……集が一歩を踏み出す。由香里のすぐ前へと。
手をのばし、人差し指で由香里の顎を持ち上げる。身体を近付けて、その口に――キスをした。
「……!」
由香里の唇は、身長差からか上向きだった。唇の位置をずらして、何度も、何度も男のそれに押し当てようとする。
女の両指が男の胸板をしっかと掴んだ。舌を必死に伸ばし、男の唇をなめずっている。何度も、何度も、何度も。甘い蜜を吸っているかのように。
やがて、女は両腕を男の首に回す。激しくなる口づけ。舌先と唾液とが絡まっていく卑猥な音がここからでも聴こえる。女の下半身が震えている。
……キスの嵐がおさまった。男と女はチロチロと舌先を絡め合いながら、甘い視線を送りあう。
舌が離れたと思うと、女は真上を向いて大きく口を開ける。
すると、男は、女の髪を撫で上げて、凄まじい量の唾液を女の口に注ぎ込んだ――
垂れ切った液体を、噛み締めるようにして頬の内部で転がす。ぐっちゅ、ぐっちゅという、生々しい攪拌の音が響いてきそうなほどに。
喉の動きでわかった。ゴクリと唾液を飲み干したなら、女の瞼が閉じる。零れた涙が頬を伝った――悲しい方の涙? いや、違う……違う。
また、女が口を開いた。今度は小さめに。
男の手が口内に伸びる。指が数本、入っていった。
指が口内を出入りする度に、女の表情は恍惚感を帯びてゆく。
口から指が抜かれると、唾液が垂れ下がって糸を引く。零れ落ちようとする唾液の橋――愛おしそうな仕草で、女の口がすくい取った。男の指先にしゃぶりついていく。
「んん……」
甘ったるい、由香里の声が聴こえた。
貪るような愛撫が続いている。手と手を握って。
「……だな」
集がなにか言った。
すると、由香里の肩を抱いて、家の中へと――入り際、由香里が何か言葉を返した気がした。絞り上げるような声で。
「……」
股下に視線をやる。弾けていた。
(第10話、終)