卑密の太陽   作:渡邉 実一

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#11 心らしきものが消えて(前)(2)

 日が沈みかけている。

 夕暮れ時のうろこ雲。溢れ出したわずかな光が雲そのものを伝っていた。

 夜が迫っている。今にも沈まんとする太陽の最後の足掻きのごとく、ただ西の方角からの一隅を残すのみで、あとはほとんど暗がりだった。

 雲の縁々からは、薄もやのような赤い光が漏れ出ている。特に光量が多い部分が、ちょうど自分を照らしている。

 すべてを包み込むはずの、あの夜が間近に迫っている――帰る場所はない。

 

「首無地蔵菩薩……?」

 

 来たことのない場所だった。

 

「いや、違う。一回だけある。二年前だ。一年生の時、遠足でここの寺に来たことがある」

 

 高い、高い丘の頂にいる。風は冷たい。

 『足元注意』の看板に目をやる。境内に目を移すと、数人の参拝客が帰るところだった。

 お寺の入り口にはグレーチングがある。白いコンクリートで舗装された坂道を、参拝を終えた老人たちがゆっくりと下りていく。

 

「変わらないな」

 

 いくつものお堂がある。その中でも、特に大きな社屋の中に、頭が欠けたお地蔵――通称、首無地蔵がある。お経の書かれたタオルを買って、そいつの頭を摩ると願いが叶うという。

 

「『露の世は露の世ながらさりながら』、だっけ」

 

 首無地蔵が鎮座しているお堂。入ってすぐのところに、パソコンで印刷されたであろう俳句が貼ってある。

 ふらふらと、お寺の正面から一八〇度回転して反対側を向く。すると、この町を一望できるのだった。そのくらい、高い地点にいる。

 

「……あ」

 

 さっと、崖下を見下ろす。

 ガードレールはない。身を乗り出したところで、止める者はいないだろう。

 

「……」

 

 目を閉じる。

 そのままずっと、佇んでいた。

 ずっと、ずっと。

 

「……チッ」

 

 目を逸らした。舌打ちをした理由はわからない。でも、少なくともさっきは崖の下を観続けていたかった。理由? 知るか。

 

「あ、そうだ」

 

 左手側に向き直る。これまで辿ったであろう道を引き返すべく、身体が動こうとしている。

 

「けっこう走ったんだな」

 

 漫然と歩き出す。

 これまでに走ってきた道というのは、意外とキレイに舗装されていた。山岳地帯にあるというだけで、すべての道が舗装されてないわけじゃない。

 

「なんだよこの道路、立派すぎるだろ。いくら観光名所が近くにあるからって……」

 

 戻っている途中、こぢんまりとした変電所に出くわす。山の奥に続く小路があった。人ひとり通れるかも怪しい。

 通れるのだろうか? ……行ってみたい。なんだか、この小路に入ってみたい。けど、誰かに見つかったらどうしよう。しかし……」

 

「あーもう、行ってる場合か! やめやめ」

 

 かぶりを振って、また来た道へと。

 さらに、歩いて、歩いて。さっき車止めを飛び越えたばかりの、桜の名所で知られている大きな公園が見えてくる。

 

「……」

 

 葉桜の群れがあった。

 すっかりと薄緑色に染まった桜の木々を見て、思う。

 なぜ、自分は今、こんなところにいるのだろう。なにもかも気にせずに生きていければいいのに、と。

 出口まで来たところで山岳の方を向いた。

 

「ここから先には行けません、か」

 

 工事用の看板がビッシリと並んでいる。行く手を阻んでいるのは……これらの看板と、カラーコーンと、バリケードと、鉄条網。以上一式。

 ……国府(こうふ)の森。その入口である。

 山の奥へと向かう、はるか先にまで続く坂道をぼんやりと見上げる。

 

 グギュルルルルルルル……

 

 お腹が鳴った。

 いつもならとっくに夕食のはず。

 

「……ははっ」

 

 カバンを投げ捨てる。

 

「ああ、そうか。初めからこうすればよかったんだ」

 

 勢いをつけて走り出す。

 靴底に響いてくるアスファルトの感触。向こう側には、人の手が加わっていない自然道が見えている――あと三歩、あと二歩、あと一歩――すうっと、息を吸い込んだ。

 

「よっとっ!」

 

 鉄線の柵をしっかと順手で掴んだなら、空中に身を乗り出す。

 滲み出る血。その感触がむしろ心地いい。両手で鉄線を掴んだまま、前方にくるりと回転し、そして――

 

「着地成功!」

 

 足取りは軽やかに。心の(うち)は重くとも。

 

国府(こうふ)の森。頼んだぜ。俺の願いを叶えてくれよな」

 

 *  *  *

 

 カバンを投げ捨てたら気分まで軽くなった。

 一歩一歩、地面を踏みしめる。獣道とまでは言わない。かといって、そこまで生活感があるわけでもない。田舎道といったところ。

 横幅、およそ三メートル。草の丈はくるぶし程度。

 坂道を、足早に進んでいく。廃屋に近い状態の古い家や、ぼろぼろに朽ちた神社が残っている。かつては、このあたりにも人が住んでいたのだろうか。

 

「そうだ。ここはまだ国府(こうふ)の森じゃないんだよな。手前なんだよな」

 

 一歩、また一歩と、田舎道を進んでいく。

 歩き始めてから、少なくとも十分は経っている。額に汗が滲んでいた。フェイスタオルを取り出して、ざっくばらんに汗を拭う。

 タオルをじっと眺める。中学生になって初めての誕生日に、由香里からプレゼントされたもの。

 

「……ちょっと休むか。風情もあるし」

 

 立ったまま辺りを見渡す。

 この道と、民家との境目だった。ざっくばらんに石柱が横たわっている。俺は、吸い込まれるようにしてそこに座した。

 

「……」

 

 足元でコガネムシが死んでいる。つま先で、コロッとやって退かす。

 ……周辺には山林が広がるばかりで、開けた地形はないに等しい。

 道の先を見通すと、あるところでいよいよ森が始まっている。あれが入口だろうか。

 ――夜空を見上げる。満点の星々が広がっている。しみじみとした表情で、視線を前に戻すと、

 

「!」

 

 誰かが……目の前を通り過ぎようとしている。

 この近くに住んでいる人だろうか?

 

「……こんばんは」

 

 ついうっかり、挨拶をしてしまう。

 

「? 人がいたのか。あんた……見ない顔だな」

 

 暗い。顔がよく見えない。

 低めの声だった、背は高い。学ランを着ているが、あれは中学校のものじゃない。高校生だろう。

 

「帰りなよ。ここは危ない」

「それが、用事があって」

「ふうん。あんたがそう思ってるなら止めないよ。でも」

「……でも?」

「気が付いたら死んでいた、なんてことがないように」

 

 言い残して、坂の下の方に歩いていく。

 その姿が消えると、俺はまた国府(こうふ)の森の入口を眺めた。

 

「痛ッ!」

 

 足首に痛覚がある。

 ……コガネムシだった。靴下の上から俺の皮膚をガジガジと齧っている。

 

「え……なんで? こいつ、さっき確かに死んで――」

 

 ポロッ。足首を齧っていたコガネムシが地面に落ちる。

 

「……死んでる」

 

 変な気分だ。(かぶり)を振って追い払おうとする。

 すっと立ち上がった。また歩みを進めよう――

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