日が沈みかけている。
夕暮れ時のうろこ雲。溢れ出したわずかな光が雲そのものを伝っていた。
夜が迫っている。今にも沈まんとする太陽の最後の足掻きのごとく、ただ西の方角からの一隅を残すのみで、あとはほとんど暗がりだった。
雲の縁々からは、薄もやのような赤い光が漏れ出ている。特に光量が多い部分が、ちょうど自分を照らしている。
すべてを包み込むはずの、あの夜が間近に迫っている――帰る場所はない。
「首無地蔵菩薩……?」
来たことのない場所だった。
「いや、違う。一回だけある。二年前だ。一年生の時、遠足でここの寺に来たことがある」
高い、高い丘の頂にいる。風は冷たい。
『足元注意』の看板に目をやる。境内に目を移すと、数人の参拝客が帰るところだった。
お寺の入り口にはグレーチングがある。白いコンクリートで舗装された坂道を、参拝を終えた老人たちがゆっくりと下りていく。
「変わらないな」
いくつものお堂がある。その中でも、特に大きな社屋の中に、頭が欠けたお地蔵――通称、首無地蔵がある。お経の書かれたタオルを買って、そいつの頭を摩ると願いが叶うという。
「『露の世は露の世ながらさりながら』、だっけ」
首無地蔵が鎮座しているお堂。入ってすぐのところに、パソコンで印刷されたであろう俳句が貼ってある。
ふらふらと、お寺の正面から一八〇度回転して反対側を向く。すると、この町を一望できるのだった。そのくらい、高い地点にいる。
「……あ」
さっと、崖下を見下ろす。
ガードレールはない。身を乗り出したところで、止める者はいないだろう。
「……」
目を閉じる。
そのままずっと、佇んでいた。
ずっと、ずっと。
「……チッ」
目を逸らした。舌打ちをした理由はわからない。でも、少なくともさっきは崖の下を観続けていたかった。理由? 知るか。
「あ、そうだ」
左手側に向き直る。これまで辿ったであろう道を引き返すべく、身体が動こうとしている。
「けっこう走ったんだな」
漫然と歩き出す。
これまでに走ってきた道というのは、意外とキレイに舗装されていた。山岳地帯にあるというだけで、すべての道が舗装されてないわけじゃない。
「なんだよこの道路、立派すぎるだろ。いくら観光名所が近くにあるからって……」
戻っている途中、こぢんまりとした変電所に出くわす。山の奥に続く小路があった。人ひとり通れるかも怪しい。
通れるのだろうか? ……行ってみたい。なんだか、この小路に入ってみたい。けど、誰かに見つかったらどうしよう。しかし……」
「あーもう、行ってる場合か! やめやめ」
かぶりを振って、また来た道へと。
さらに、歩いて、歩いて。さっき車止めを飛び越えたばかりの、桜の名所で知られている大きな公園が見えてくる。
「……」
葉桜の群れがあった。
すっかりと薄緑色に染まった桜の木々を見て、思う。
なぜ、自分は今、こんなところにいるのだろう。なにもかも気にせずに生きていければいいのに、と。
出口まで来たところで山岳の方を向いた。
「ここから先には行けません、か」
工事用の看板がビッシリと並んでいる。行く手を阻んでいるのは……これらの看板と、カラーコーンと、バリケードと、鉄条網。以上一式。
……
山の奥へと向かう、はるか先にまで続く坂道をぼんやりと見上げる。
グギュルルルルルルル……
お腹が鳴った。
いつもならとっくに夕食のはず。
「……ははっ」
カバンを投げ捨てる。
「ああ、そうか。初めからこうすればよかったんだ」
勢いをつけて走り出す。
靴底に響いてくるアスファルトの感触。向こう側には、人の手が加わっていない自然道が見えている――あと三歩、あと二歩、あと一歩――すうっと、息を吸い込んだ。
「よっとっ!」
鉄線の柵をしっかと順手で掴んだなら、空中に身を乗り出す。
滲み出る血。その感触がむしろ心地いい。両手で鉄線を掴んだまま、前方にくるりと回転し、そして――
「着地成功!」
足取りは軽やかに。心の
「
* * *
カバンを投げ捨てたら気分まで軽くなった。
一歩一歩、地面を踏みしめる。獣道とまでは言わない。かといって、そこまで生活感があるわけでもない。田舎道といったところ。
横幅、およそ三メートル。草の丈はくるぶし程度。
坂道を、足早に進んでいく。廃屋に近い状態の古い家や、ぼろぼろに朽ちた神社が残っている。かつては、このあたりにも人が住んでいたのだろうか。
「そうだ。ここはまだ
一歩、また一歩と、田舎道を進んでいく。
歩き始めてから、少なくとも十分は経っている。額に汗が滲んでいた。フェイスタオルを取り出して、ざっくばらんに汗を拭う。
タオルをじっと眺める。中学生になって初めての誕生日に、由香里からプレゼントされたもの。
「……ちょっと休むか。風情もあるし」
立ったまま辺りを見渡す。
この道と、民家との境目だった。ざっくばらんに石柱が横たわっている。俺は、吸い込まれるようにしてそこに座した。
「……」
足元でコガネムシが死んでいる。つま先で、コロッとやって退かす。
……周辺には山林が広がるばかりで、開けた地形はないに等しい。
道の先を見通すと、あるところでいよいよ森が始まっている。あれが入口だろうか。
――夜空を見上げる。満点の星々が広がっている。しみじみとした表情で、視線を前に戻すと、
「!」
誰かが……目の前を通り過ぎようとしている。
この近くに住んでいる人だろうか?
「……こんばんは」
ついうっかり、挨拶をしてしまう。
「? 人がいたのか。あんた……見ない顔だな」
暗い。顔がよく見えない。
低めの声だった、背は高い。学ランを着ているが、あれは中学校のものじゃない。高校生だろう。
「帰りなよ。ここは危ない」
「それが、用事があって」
「ふうん。あんたがそう思ってるなら止めないよ。でも」
「……でも?」
「気が付いたら死んでいた、なんてことがないように」
言い残して、坂の下の方に歩いていく。
その姿が消えると、俺はまた
「痛ッ!」
足首に痛覚がある。
……コガネムシだった。靴下の上から俺の皮膚をガジガジと齧っている。
「え……なんで? こいつ、さっき確かに死んで――」
ポロッ。足首を齧っていたコガネムシが地面に落ちる。
「……死んでる」
変な気分だ。
すっと立ち上がった。また歩みを進めよう――