「いてて……」
三日ほどが経っている。まだ痛む箇所を押さえながら学校に向かう。
午前八時前。誰もいない通学路。誰もいない……はず。
今になってもにやつきが止まらない。やった、俺はやったんだ。来年からは公務員として――親父、なんて言うかな。栞はどうだろう。喜んでくれるに違いない。
ゆっくりと歩いていると、誰かが近付いてくる感じがする。
「よ、渉!」
「尚吾か。不良のくせに――」
「朝早いじゃろ?」
これまでに百回以上は交わしてきたやりとりだ。
「もっと遅く来てもええじゃろうに」
「あんまり遅いと教室に入る時にさ、あいつがうるさいんだよ。『挨拶したの?』って」
「そんな奴、おったか?」
「いるだろ。ひとり」
「ワシでもない、渉でもない、砂羽でもない、篤でもない。一体、誰じゃ?」
……え?
「おい、尚吾。冗談きついぞ」
「なにを言っとる?」
「……キツイって」
「どうかしとるんじゃないんか」
……さて。これはどういうことだ? 何が起きている?
* * *
ガラガラと音を立て、3年3組の教室のドアが横に滑る。
「……おはよう」
「おはよう、渉くん!」
安田だった。お手本のような笑顔を振りまいている。
いつもの四人グループで雑談をしていた。あれ、今日は、机の上に参考書が置いてあるぞ……。
でも、宮本さんは元気がない。瞳が沈んでいる。
両手に包帯を巻いていた。ケガ……をしてるようには見えないんだけどな。
「いつも早いんだね」
「まあな。最近は、安田も早いじゃん」
「みんなで朝勉強してるんだ。もう受験だからね」
「あー、受験かーって、あれ。由香里は、まだ……来てない?」
「……?」
お前は何を言ってる? そういう目。
「あ、別のクラスの子だった! ごめんよ」
どっと、笑いが起きる。
「え、もしかして、ボケた? 渉くんが?」
安田は俺の肩を抱いてくる。
「そうそう、渉くん。もっとさ、級友に心ひらいてさ」
「はは……ありがと」
微妙な雰囲気のまま、自分の席へと。
……篤と砂羽がいる。篤は、今日も勉強か。こんな朝早くから勉強なんて、俺には絶対できない。って、おいおい、砂羽まで勉強してる。今日は太陽でも降るんじゃないのか?
「篤、砂羽。おはよ」
「おはよう」
「……はよ。ねえ、どうしたの? さっき、なんか、おかしかったよ」
砂羽。それ以上、言うな。
「ゆかりって、誰?」
やめろ。やめてくれ。
篤が席を立った。俺の近くに来ると小声で喋り始める。
「渉。さっきの、人として正しい行動だと思うよ。でも、
「あ……ああ。そうだった。俺、なんかおかしいかも」
「気にするなよ。僕だって、人と交わりたい――そんな気持ちになることがある」
「……」
俺は、頭を掻きながら席につく。
『……いや、待て待て。おかしいだろ』
あるじゃないか。由香里の席が。俺のすぐ後ろに。
「……」
ある。あるのに。
「どういうことだよ……」
それから、いつものように朝礼が始まって、授業があって、昼飯を食って、掃除をして、終わりの会があった。
今日は一日が早かった……ような気がする。
由香里、由香里……由香里。
* * *
下駄箱を眺めている。
ひとつずつ名前を確かめて、視線を移していく。
……誰かが後ろを通り過ぎた。
「あいつ、なにやってんだ?」
「あれだよあれ。変質者の見習い」
気にしない。探し続ける。
「やっぱり、ある」
「……」
靴に履き替えて歩を進める――下駄箱を出て、駐輪場に向かう。脇にあるアルミベンチ。誰も座っていない。
「よし。考えよう」
ベンチに腰をかけて目を閉じる。
「由香里は、どこにいる? わからない。見当がつかない。では、問いを変えよう。由香里は、どんなことが原因でいなくなった? 答えは……」
目を見開いた。
「さらわれた。まず、ここから考えよう。由香里がいなくなった。いなくなると……どう困るって、説明はできないけど……とにかく、俺は困る。嫌だ……よし、次。では、見つける方法は? 見つける方法、見つける方法……まったくもって見知らぬ人間にさらわれた場合。これは手がつけられないから後に回そう。では、見知った人にさらわれた場合は?」
足をぶらぶらさせる。
天井を見上げた。打ち放しのコンクリートが視界に映る。
「親しい人物である可能性が高い……親しい人……篤や砂羽の可能性はゼロと考えていい。じゃ、尚吾……」
あの夜の記憶が頭をもたげる。
ベンチに座っているのが嫌になった。あの時の、具体的なシーンが脳裏に浮かんでしまう――
いや、違う。尚吾じゃない。
昨日、尚吾から彼女の紹介を受けたばかりじゃないか。彼女の正体は、あの夜、あいつが軽トラックで自転車ごと田んぼに突き落とした、あの娘だった。そう……塩飽縁。あの
あの場でこっそり、勇気を出して尚吾に聞いてみたじゃないか。そしたら、大した驚きようで、『あいつはのう、ああいう過激な状況でしか興奮できんのじゃ……』って、もの悲しく言ってたじゃないか。
あいつの胸に手を当ててみたけど、真実だった。あの娘の胸に手を当てる? できるわけねーだろ。
ため息をつく。
「……それじゃ、ほかに誰がいる?」
考えたくはなかった。でも、考えなくちゃいけなかった。疑わなくちゃいけなかった。
できなかった。目を逸らしていた。恐かった。信じていた。
骨の髄まで疑って、それでも確証がなければ、それでいいはずだった。でも、結局、疑うことすらできずにいる。今日まで、ずっと。これからも続いていくのか?
……身体が勝手に歩き出していたみたいだ。西の校門まで来ている。
「教育委員会って、どのへんにあったっけ?」
東門に引き返す。歯軋りをしながら。
五月の半ばにしては冷たい風が吹いている。