卑密の太陽   作:渡邉 実一

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#03 なんの取り柄もない自分にただひとつ(1)

「やっと終わった」

 

 午前七時五〇分。

 昨日、組み上げたばかりの型枠の中に、メッシュ筋なるものを固定する作業が終わったところだ。午後からのコンクリート混入の準備として、塗装コンパネにレベルラインを描き入れる。

 メッシュ筋というのは、コンクリートの強度を増すための格子状になった鋼鉄であり、レベルラインというのは、コンクリートの高さを均一に保つために書き入れる印のこと……らしい。

 今日は、朝の六時半から作業をしていた。ヨレヨレのクタクタで教室に入る。ほとんど誰も来ていない。

 と思ったら、見知った顔がひとり。なにやら、黒板に落書きをしている。

 

「おはようさん」

 

 鵜飼尚吾だった。

 

「尚吾、おはよ。いつも朝早いよな。不良のくせに」

「家におってもやることがないけえの。テレビもない、携帯もない、風呂もない、水道も――」

「やめてくれ。悲しくなる。俺んちも同じようなもんだ」

「知らんもんに話したらびっくりされるじゃろ?」

「そりゃそうだ。今どきあんな家はない。俺みたいな貧乏人だってわかる」

 

 尚吾は、急にけらけらと笑い出した。

 すぐ傍にあった教壇をバシバシと叩いている。

 

「気にするな! 箸が落ちてもおかしいってやつじゃ……ま、それはそれとして。今日も早朝作業をしとったのう」

 

 つい、訝しげな視線を送ってしまう。それに気付いてか、落書き作業に戻る。

 

「お前が上手くまとめてれば、こんなことにならなかったのに。なあ、うちの学校で一番ケンカが強いんだろ、鵜飼尚吾くんは」

「ワシにも立場ってもんがある。お前らのことを考えて、それでいてあの連中のことも考えるのは無理じゃ」

「ああ、わかる。わかるよ。俺たちのこと考えてくれてたの」

 

 すると、尚吾がこちらに寄ってきて、ガバッと首に手を回してくる。

 

「どしたんだ」

「そりゃそうよ、だってのう」

 

 一瞬の間。

 

「……あの時、ワシらのこと殺そうと思ったら殺せたんじゃろ? 神部のやつ」

「!」

「感付かれるまでもなく」

「ちょっと黙れ」

 

 即座に、周りの気配を窺う。

 

「……よかった」

 

 わかる。誰にも聞かれていない。

 

「ほかの奴には言うなよ、口が裂けても。じゃないと」

「わかっとる。まあ、同じ集落の出身じゃろ、ワシら。仲良くやろうや。山野辺が懐かしいな」

「……」

 

 俺は、人差し指で髪の毛を触り始めた。

 ああ、なんでだろう。日常会話の範疇なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。

 

 *  *  *

 

「はい、それでは。ここまで植物について復習をしてきた。植物の種類や作り、生育環境、成長というのは、高校受験での出題確率が高い分野だ」

 

 池上先生による理科の授業――いつものように、雑談で騒がしい教室だった。

 が、今の「受験」という言葉に対応してか、少しばかり静かになる。

 

「えー、どんな分野でもそうだが、実際に見て触ってというのが、理科における理解や関心を高めるポイントになる。みんなも、今日のうちに適当な葉っぱを真っ二つにしてみるといい」

 

 明らかにお喋りが止んだ。静聴モードに入ったようだ。

 うちのクラスにしては珍しい。

 

「葉っぱの断面に目を凝らしてみよう。今、先生が黒板に書いているとおりのものが見える。すなわち、葉緑体、細胞、葉脈、気孔だ。葉緑体は、目がいい人でも難しいかもしれない。でも、見える。いつもみんなに伝えているけど、理科というのは、ひたすらに現実感だ。無味乾燥な知識は、あまり役に立たない。いつかは忘れてしまう言葉の羅列にすぎない」

 

 喋り声がなくなった。

 

「最後に、少しだけ。これは受験とは関係ないが」

 

 池上は、黒板にグラフを描き始めた。

 最初は、数学で習った四象限に分かれるグラフ軸を。次いでY軸の上半分に『累積量』、X軸の右半分に『時間』、最後に、原点よりもわずかに上の地点から伸びる曲線を描くのだった。曲線は、Sのような形状に曲がりくねっている。

 

「これがなんだか分かる人」

 

 誰も手を挙げない。

 ……が、ここで「植物の成長?」と誰かが言った。

 

「そのとおり。これは、ロジスティクス曲線という……このグラフの意味を探ってみよう。まずは、時間tがゼロの地点だ。みんな、イメージしてみよう。どこかの原っぱでも、学校のグランドでもいい。ある植物の群れが芽生えを完了させ、これから成長しようとしている。これが「時間tがゼロの地点」。時間の経過とともに、これらの植物がぐいぐいと成長していく。ものすごい勢いで。イメージしてみよう、最初は十本だった草が、次の世代では二〇本、さらに次の世代では四〇本、といったように倍々で増えていく感じだ……みんな、どうかな? ここで、グラフのある地点に注目してみよう」

 

 池上が、S字になったグラフの転換点のひとつを指し示す。

 ここから、累積量Nの伸びが明らかに鈍化している。どういうことだろうか。

 

「ここで問題。どうして成長が止まったと思う?」

 

 誰かが、「増えすぎ?」と叫んだ。

 多分、今の声は篤だと思う。

 自信がなかったんだろうか、いつもより小声だった。

 

「そのとおり! イメージしてみよう、学校のグランドにたくさんの植物が生えているとする。そうすると、草一本あたりが受け取ることができる太陽光や、水分が減ってしまうよな? ということは、淘汰されて死んでしまう植物が出てくるということだ。それでも、植物は絶えず増えていくから、植物全体の総量、つまり累積量Nだな、これは増加を続ける……でも、いつかは限界に達してしまう。それ以降は、この曲線の頭打ちになっているラインでNは動かなくなる。これが均衡状態」

 

 教壇から身を乗り出すようにして反応をうかがっている。

 

「さて。これは植物の場合だ。自然の作用によって、最終的には総数が安定する……ところが、人間は違う」

 

 再び、反応をうかがう。そして、

 

「私や君たちの先祖、だいたい百年ほど前かな。当時は、「間引き」という習慣があった。間引きとは、つまり……自分の子どもを親が殺してしまうんだ」

 

 教室が、わずかにざわめく。

 

「習ったことがあるかもしれない。昔は、親が子どもを育てられないと判断した場合、赤ん坊だったら生まれた時に殺してしまっていた。ある程度、育っている場合は、人買いに売ったりする。子どもじゃないけど、老人、例えば自分の親だったら、こっそりと山に連れ出して捨ててくる……悲しいけど、これが私たち人間の歴史だ。人間は弱い。誰だって妥協をするし、嫌なこと、辛いことから逃げ出したりする。みんなは、小さいうちからお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんが偉いといって育てられてきたよな。でも、そんなことはない。誰かが誰かに対して偉いだなんて、そんな馬鹿なことはない。みんな、同じ人間なんだ。弱い存在なんだよ。自分は、教師としていつも考えていることがある。教え子には、不当な権力、不当な権威に屈することのない、そんな立派な大人になって欲しい、っていう思いだ」

 

 ガタタ、という、机と椅子とがずれる音がした。

 尚吾が、椅子の上で膝を組んだから。

 

「だったら、池上先生が実行してみせえや。世の中には偉い奴がたくさんおるじゃろ。例えば、ほら、校長や教頭には頭があがらんじゃろ」

 

 堂々と横槍を入れる。

 俺にはどうでもいい話題だったが、池上が尚吾にどう反応するかは、さすがに気になる。

 

「……鵜飼君。疑問をもってくれてありがとう。でも、先生たちは、ちゃんと有言実行しているよ。例えば、公立学校の教職員は公務員だから、憲法の理念に従って行動する責任と義務がある。でもね。文部省……校長先生なんかよりずっと強い権力をもっている人達は、それを許さない。入学式や卒業式などを行うにあたり、国旗を掲げたり国歌を歌わなければならないという強制を行っているんだ。もちろん、そんなことを書いてある法律は今のところ存在していないから、学校に従う義務はない。ないんだけど、強制される……ひどい目に遭うぞって、懲戒処分をちらつかせてね。いいか、みんな。これが権力の恐ろしさだ。国家の前には、個人の良心や思想の自由が有名無実になってしまう。私たち先生は、今までそういう連中と戦ってきた。戦いたくはなかったよ、平和でいたかった。しかしながら、そうでもしないと、今度は君たち生徒が国家権力の違法かつ不当な行使に苦しむことになる」

 

 そして、ひと呼吸おいてから、

 

「私たち広島県労働者連合会は、国旗掲揚・国家斉唱の強要に対して、断固反対する! 個人の思想・信条の自由への侵入をわずかでも許したら最後、権力者は国民を自分達の餌とみなすからだ!」

 

 すっかりと静粛になった3年3組。と、ここでまた尚吾が、

 

「池上センセー! でも、こないだ和田先生が、教頭相手にヘコヘコしとったで」

「和田先生は、教師として適格な方ではないよ。失格とまでは言わないが。権威や権力に対して従順すぎるよ、彼女は。同じ理科教師として恥ずかしい。かくいう私は、教頭や校長なんぞにヘコヘコしたことはないよ。それどころか、広島県労働者連合会ハッピーマウンテン支部執行委員のひとりとして、校長に対し、『学校活動の自由と自立を確保し、不当労働行為を一切行わないものとする』という旨の確認書を書かせたよ」

 

 一部の生徒から、「すごい」という声が上がる。

 「え、なんでなんで?」との声も。

 

「『教務主任』という教師の取りまとめ役があるんだけど、それをなんと、教員全員の総意ではなく、校長が独断で決めるなんて言い出したんだ! まったくふざけている。いいか、みんな。この社会にはたくさんの矛盾、おかしいことが存在するし、これからも新しく生まれてくる。そういう矛盾というのは、自分の権利をはっきりと確かめたうえで、主張して、打破、打ち砕くしかないんだ。だから先生、言ったんだ。みんなには権威や権力に屈することがない、立派な大人になって欲しいって」

「へえ、そんじゃあ」

「なんだい、鵜飼くん」

「おい、池上!」

 

 空気が凍りつくのを感じた。

 おいおい、いったいどうなるんだ?

 

「……どうしたんだい、鵜飼くん。なにかあるなら言ってみないと。何も解決しないよ」

 

 何事もなかったかのような。そんな感じだ。

 先生の方が一枚上手だった。

 

「ち、つまらん」

 

 広げていたノートに視線を落とした尚吾。

 またいつものように、何人かがお喋りを始める。

 

「ふあ~あ」

 

 あくびが出る。眠かった。

 今日も、早朝から働いていたから。

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