どこにでもあるような光景。
臆病な少年の真っ直ぐすぎる想い。
彼が見つめるのは───
見上げる太陽は眩しいけれど、見つめずにはいられなかった。
それが綺麗だと思ったから。
たとえ次の瞬間に目が焼かれても、後悔なんてしない。
──そう思っていたんだ。
炎天下の校舎の中、想いを馳せる。
彼女のことを、目が追いかけるようになったのは、いつからだったか。
それは、おそらく最初から。
50音で並べられた席で、隣にいた彼女と挨拶を交わした時から──
「私、山吹沙綾。これからよろしくね」
「よろしく、山吹さん。僕は──」
どこにでもあるような、日常会話。
周りの席や、隣のクラスでも行われているような、普遍的な光景。
それでも、彼の中では特別だった。
この時から、胸の中の種は芽吹いていた。
その芽が育つのはしばらく期間が空いた後の体育館。
学園祭のライブの中、突如として現れた沙綾。
その輝きに目を奪われて、胸の中の花が、咲いた。
それは、
学園祭が終わると、席替えが行われた。
想い人の隣から離れるというのは悲しくもあったが、少しだけ安堵の感情もあったのかもしれない。
存外隣に座られると落ち着かないものであったからだ。
しかし、そんな感情も束の間のもの。
すぐに現実を思い知ることになる。
次の日から、接点は急速に減っていった。
加えて、距離的な近さというアドバンテージを失ってしまった彼は、ただみつめることしかできなかった。
しかし、それでも良かった。
自分が好きな彼女をみつめられるのなら、と。
それに、接点が全くなくなったわけではない。
朝、昇降口で出会えば挨拶を交わす。
放課後ふとした時間に会話をすることもある。
そして、それはたまに2人だけの時も。
そんな小さな幸せに甘んじていた。
(今だけでも、僕の前で笑っていてくれるなら、良いじゃないか)
そうやって自分に
そんな日々が連綿と続き、彼女らのライブに呼ばれた。
学園祭の時とは違い、練習を重ねた結果の、完成度の高い音楽。
初回とは比べものにならない程の輝きがライブハウスに満ちていた。
それを目にした彼は輝きに目を奪われてしまった。
想いを抱いている自分しか見えなくなるほどに。
そして、今。
夏休みが明けた教室に一番乗りをして、自分の席に着く。
少し後ろに目線をやれば、沙綾の席がある。
早く会いたい、という想いが彼をこの校舎へ駆り立てた。
級友たちが続々と教室に入ってくる中、待ち焦がれる彼女もまた、教室へ。
(あれ?)
かすかな、ほんとうにかすかな違和感。
理由もなく感じたモノに彼は戸惑ってしまう。
普段見ていた沙綾と、今いる彼女のズレ。
それを敏感に感じ取るも、誰かに、まして本人に聞くことが出来るはずもなく。
彼はただいつも通りに自分の胸中へとしまい込む。
「あ、おはよう!」
「おはよう、山吹さん」
そのいつも通りは、彼だけのもの。
日常というものはいつのまにか非日常へ。
普遍的な出来事が特別だったと感じるのは、そう遠くない未来。
始業式のその日。
半日だけの学び舎だが、その分配り物が集中する。
プリントを後ろの席へ回す時、チラと目に入る沙綾。
ただ、やはりどこか引っかかりを感じる。
そして、気づいた。
結わえるリボンの色が違う。
いつもはライトイエローのリボンであった。
黄色が好きというのは本人も言っていた。
今日、彼女の髪を彩るのは、スカイブルーの淡い青だった。
続けて、2枚目のプリントも同じように回す。
そういう気分の日もあるのだろうかと、考えながら、また視界が沙綾を捉える。
そうして、その理由にも気づいてしまう。
まるで、出来の悪い試験の答え合わせのような、知りたくない答えに、辿り着く。
後ろを向いていた彼女の顔が、それを物語っている。
その表情を知っていたから。
たまたま不意に、彼女と目が合ってしまった時の彼と、おそらく同じ表情だった。
その胸の鼓動は激しくなっているであろうことも、用意に想像がついた。
プリントを配り終え、前へと向き直る。
彼の胸は、静かだった。
ただ、静かに心を締め付けていた。
(大丈夫、わかってる)
理解できる。
そういうことだと。
彼女も、沙綾も誰かに恋をしていると。
自分と同じように。
些細なことで喜んでしまったり、心臓の位置を意識しまうほど、鼓動がうるさくなってしまったり。
たまに、どうしようもなく不安になって、涙が浮かんできてしまうことも。
(いいこと、だよ)
言い聞かせようとする。
喜ばしいと。祝福しようと。
それは本心だった。
(でも)
それでも──
(それでも、好きなんだろうな)
どれだけ胸が痛くても。
どれだけ涙を流しても。
それだけは変わらないのだろうと。
流石に彼も教室で涙を流すことはなかった。
ただ、その心は泣いていた。
想いを伝える事が出来なかった彼はそうするしかなかった。
想いを秘めながら、自分の中に溜めていくことしか、知らなかったから。
家に帰ると、そのまま自室へ。
共働きの彼の家は、もぬけの殻だった。
ちょうどよかった。
限界だったのだ。
込み上げてくるものを、学校からここまで、抑えてきたのだから。
道中溢れ出しそうになったそれも、抑える必要がなくなれば、たやすく表に出てくる。
だから──
「っく……」
口から嗚咽がもれる。
手にした鞄を放り出して、そのまま寝台に突っ伏して──
「ぁ───く……」
声にならないものを吐き出す。
自分の胸を鷲掴みにして、想いを絞るように。
せめて、今だけでも忘れられるように。
涙とともに流すように。
そうしたらもう、止まらなかった。
(わかってる。わかってるけど……!)
最早意味のない言葉をただ胸の中で反芻する。
必死に誤魔化そうとしていたにも関わらず、溢れてしまった感情を再び抑えることなど出来るはずもなく。
ただ、咽ぶ。
これが彼に最後に許された、想い。
独り泣く事だけが、彼に残された手段だった。
それが最後の、彼の恋の証。
数刻の後、ようやく涙が止まった。
否、枯れたと言った方が正確だろうか。
それほどまでに泣いていた彼の目の周りは、赤く染まってしまっている。
それでも、気持ちが収まることはない。
ただ、落ち着きはしたのだろう。
冷静な思考をする余裕は生まれたらしい。
(どうしようもない)
たどり着いた結論。
悲しいし、寂しい。
それに胸が痛むが、仕方がなかった。
沙綾が好き。
こればかりはどうしようもなかった。
どんなに忘れようとしても、忘れられない想いがあった。
ほんの小さな思い出さえも宝物のように感じて。
だから──
(好きでいるだけなら、いいよな)
今更だが少しだけ、自分に素直になれた。
それはもう、恋心とは違うものになってしまったけれど。
敢えて言うのなら、未練というものなのかもしれない。
夜に咲く向日葵はもう、太陽の光を浴びることはない。
厳しい残暑が続く中、また学校を目指す。
普段ならばこの道のりも苦ではなかったのに、つらいと感じるようになったのはいつからだろうか。
昇降口で、彼女を探さなくなってしまったのは、いつからだろうか。
教室で、彼女を心待ちにしなくなってしまったのは、いつからだろうか。
ふと目があった時に、胸が高鳴る代わりに痛むようになったのは、いつからだろうか。
いつも通りが一変してしまったのは、いつからだったか。
思い返せばすぐにわかる。あの日、彼女の顔を見た時からだ。
初めて人を想って泣いたあの日から。
もう未来を望むことがなくなってしまった彼に残されたのは、未練と自己嫌悪。
想いを捨てられない自分と、それに対する嫌悪感。
それほどまでに大きな想いだったのかと、今になって実感する。
(もう、届かないのにな)
また今日も見えてきた校門を一瞥して、校内へ。
いい加減この痛みに慣れたいものだと思いながらも、胸の痛みの激しさは、増すばかり。
夏は、終わろうとしていた。
季節は巡り、雪の降る季節になった。
昼食の後、休日に家で過ごすのももったいない、と気まぐれに外出する彼。
葉の落ちた街路樹達を目にすると寂しさを感じる。
(今日、意外と寒いな)
想定外の寒さに足を早める。
とは言っても、目的地は決めていなかったが。
しばし歩くと、ショッピングモールのある通りに出た。
いい加減この寒さにも耐えられそうになかった彼はそのままモール内に足を運ぶ。
自動ドアの隙間に入り込むと、暖気が彼を包み込んだ。
目的の無い人間に丁度良く、所狭しと店舗がならんでいる。
歩きながら数店舗、物色する。ウィンドウショッピングは彼の趣味の一つだった。
その中で目に留まったモノがあった。
(確か、集めるの好きっていってたっけ)
もう、朧げになるまでに擦り切れてしまった記憶から掬い上げる。
ボロボロになってしまっても、大切にしたまま抱え込んでいる。
そんな彼が目にしたのは、ヘアアクセ。
夏の前ならば、夢想したのは隣にいてそれを付けて微笑む彼女であったのかもしれない。
今思い浮かぶのは、自分ではない誰かに向ける微笑み。
「……はぁ」
小さくため息をついてその場を離れる。
(本当にどうしようもないな、僕)
自分に嫌気がさして、足早にそこを去る。
まるで何かに追い立てられるかのように。
そうして入ってきた時と同様の自動ドアに向き合う。
ドアが開いた瞬間、気づく。
(あ……)
思い焦がれていた、彼女がそこにいる。
隣にいる好青年風の男子に向けて、微笑みながら。
その男のことは知っていた。いつも、彼女の視線の先にいたから。
わかっていた、いつも見ていたのだから。
それでも、胸が張り裂けそうなほどに、痛む。
今までに感じたことがない程に。
彼女は、彼に気づかない。
そのまま通り過ぎる。
チラと盗み見る横顔はなんとも幸せそうだった。
嬉しいことだ、彼女が幸せであることは。
なのに──
(どうして、涙が出るんだろう)
心の中で祝福を送りながら、彼は、泣いていた。
涙を流しながら歩いていると、気が付けば日が沈んでいた。
痛いほどの寒さも気にならない程に胸が痛んでいた。
だからなのだろうか、寒空の夕焼けの下、公園のベンチに座り込んだのは。
(楽しそう、だったな)
──良いことだ。
(幸せそうだった)
──良いことだ。
(それでも)
──それでも。
(僕は……)
──隣に、居たかった。
あの時のように激しくでは無かったが、涙が流れる。
感じているのは、寂しさなのか、悲しさなのか判別はできなかった。あるいは、そのどちらもであるのかもしれない。
冬の夕焼けはやけに短く、気が付けば星が見えた。
彼は星に明るくは無かったが、知っている星座が1つだけあった。
『おうし座』
彼女の誕生日の星座。
いつか聞いたそれを見つけた。
その星座に願い事をする。
(僕が好きだったあの子の笑顔が、ずっと続きますように)
最後の想いを空に託して。
彼は、また歩き出した。
夜空の赤い星はその願いを確かに聞き届けた。