カルナと主人公の関係と、暗躍する神とドゥリーヨダナの話。
これにて因子は揃いました。
次回で第1章が終わります。アルジュナと主人公の話になる予定です。
消化不良の試合の後、カルナはドローナの元を訪れていた。
「……──と、俺が撒いた種で悪いんだがこれ以上はおまえの面倒を見れそうにない」
「構わん、もとより無理な願いだったのだろう」
ドローナの言い訳をカルナは静かに聞いている。
「カルナ、おまえならすぐ師匠ができるさ。そうさな、俺の師匠のパラシュラーマを頼ってもいいかもしれん」
とはいえ、私欲のためにカルナを利用したのにはドローナも思うところはあったようだ。何の助言もせずに放り出すのもいかがなものかと考えたのだろう。慰めの言葉とともに、これからの導きになるような一言を添えた。
「まぁ、クシャトリヤ嫌いのあの御仁との約束を破って、バラタの王族に武芸を教えている俺の言えた義理ではないが。……頼むから、俺の名前だけは出してくれるなよ。その時点でおまえの首がはいさようならになりかねん」
「承った。これまでの教えに感謝する、ドローナよ」
「ああ、おまえの先行きが明るいものであるように」
そうして別れの会話が落ち着いた頃、カルナはすっとアドルシタの方を向いた。
「──そちらは、アディティ女神の導師だろうか」
アドルシタは二人の様子を黙って見守っていたのだが、まさかこちらに会話の矛先が向くとは思わなかった。
「ええ、あっているわ。何かご用事?」
「折り行って頼みがあるのだが……」
今までためらいなく話していたカルナには珍しく、歯切れが悪そうにしている。
「──少し、話す時間を貰えないだろうか」
アドルシタとドローナは顔を見合わせた。
無言のまま、ドローナがカルナを指差す。
おまえ、こいつのこと知ってたのか?
対してアドルシタは肩を竦めた。いいえ、知らないわ。
目を丸くしたふたりとは対照的に、カルナは懇願の色を浮かべて彼女を見上げていた。思い詰めた様子だ。
悩める人々に対して、導師は道を示すものである。
なので、アドルシタはその申し出を受けることにした。
「いいでしょう。ここはそろそろ清掃の手が入るでしょうから、中庭にでも行きましょうか」
先程のアルジュナとカルナの試合によって熱に浮かされたクシャトリヤ達がふらふらしているようなところで会話するわけにもいかない。
とはいえ、人目の少ない場所に未婚の男と婦女がふたりきりになるのもちょっとどうかと思う。
カルナを伴って高座の出口に向かうアドルシタは、ちらりとドローナを振り返る。ドローナは頷いた。
「話を聞く気はないが、近くにいても構わんな?おまえは王宮勤めではないし、身元の保証人も必要だろう」
「構わない、好きにするといい」
アドルシタがカルナを伴って訪れたのは、中庭の噴水の近くだった。
夕日を受けた水しぶきが宙を舞っては、きらきらと橙に輝きながら再び来たところへ帰っていく。
それに向かってゆったりと歩を進めながら、彼女は周囲に目を向けた。
ここで五兄弟と決起会を開いたのは昨日のことなのに、もはや遠い昔のできごとのようだ。
当の王子たちは今頃ねぎらいの宴であろうから、ここに来る心配もない。
人気がなく閑散とした中庭にはただ静かに水のせせらぎばかりが響いている。
アドルシタは噴水に背を向けて、カルナに正面から向き直った。
移動中もずっと黙りこくったままだったカルナは、歩幅三歩分くらいの距離を開けてアドルシタを見つめている。身動きひとつしないその様子は白い肌なのも相余って、まるで彫像のようだ。
カルナの水色の瞳に浮かぶのは戸惑い。先ほどの試合で堂々と語っていたとは思えない様子である。
彼女は少し困り気味に眉尻を下げた。
何か用があったのではなかったのだろうか。
「……あなた、カルナといいましたね」
いかんともしがたい沈黙に、ついにアドルシタは口火を切った。彼が話さないというのなら、こちらから気になっていたことを聞くまでだ。
「御前試合はいかがでしたか?なんとかドローナとあなた方の試合が成立するように粘ってみたのだけれど、目的は果たせたかしら」
ぱちぱちと空の青を映して澄んだ目が瞬きをする。
少しだけ視線を上げて遠くを見るような表情をして、そこで初めてカルナは口を開いた。
「……願ってもみない場だった。舞台に上がることを決めたのは、師の指示だけではない。オレの意思だ。あの男の技を見て、競いたくて足を踏み入れた」
ただ、思うことがあるとすれば。
「惜しい──惜しい戦いだった。あの王子は、アルジュナは大した戦士だ。悲鳴を放ってまでも弓を引こうとする勝利への執念は、オレにはとても真似できん」
謙遜も過ぎれば毒だ。ともすれば、皮肉なのかと思われそうな言葉選びではあるが、カルナは至って真剣だった。言葉を尽くそうとする気配があった。
ならばそれは嘲りの意味ではなく──素直な称賛だ
「えっと、もしかして、戦えなくて残念だと言ってます?」
「……そうだ」
称賛にしては鋭い刃のように率直だが、きっと自分が気を反らして台無しにしてしまった試合の結果を残念だと思っているのだろう。
そこでアドルシタは思い付く。もしかしたらこの男はアルジュナとの再戦のための橋渡しを彼の従者であるアドルシタに頼みに来たのではないかと。
しかしカルナは首を振った。
「いいや、オレがここへ来たのは確かにおまえに用があったからだ。導師よ」
意を決したカルナは顔を上げる。
無言だったのは、口に出すのを恐れていたからだ。否定されるのが怖かったからだ。
だが、彼はここで確認しなければならない。
カルナには、物心ついたころから探している人間がいる。それは彼女でなく、他の誰かかもしれない。
しかし、彼の直感は告げている。アドルシタは姿形は変わっていても、探し人そのものなのだと。
「オレのことを、覚えているか」
「いえ、恐らく……初対面だと思うわ。きっと、一度会えばあなたのことは忘れないと思うから」
彼女の答えに、カルナは目を見開いた。
生まれたときから苦難の中にあったカルナは物事の本質を見抜くのに長けている。
深奥まで覗く瞳が彼女の言葉の真意を探って、その言葉が事実であると理解した。
彼の目尻に透明がにじむ。今にも水が溢れそうなほど張り詰めたそれに驚いてアドルシタは声を上げた。
「カルナ……?」
透明が、こぼれる。
びゅうと吹いた風が、零れた雫を攫っていった。
「……──ああ、そうか。ああ……そうか……」
すっくと直立したままの武人は、少女の姿をした女を前にして、ただ静かに涙していた。
「もういないのだな。オレが待っていた、おまえは」
希望がついえたような諦めと、それでいて熱くあふれる血潮のような涙。
アドルシタはカルナのことを知らないふりをしているのではなく、知らないのだ。
カルナの知っていた、あの人格は永遠に失われたのだ。
……かつてカルナは、まだアドルシタが女神の化身であった頃に、その命を救われたことがある。
ヴィシュヌ神とスーリヤ神の相争う余波で荒れた大地でひとりカルナの前にまっすぐ立って、人々を守り続けていた背中を覚えている。
天上界と地上は時の流れが異なる。彼女が地上に降りたころには、すでにカルナは自我が芽生える歳になっていた。
『きっと迎えに来ますから』
だから、その約束を覚えていてずっとカルナは待っていた。来ないならば探しに行こうと、父の仕事について色んな町を見に行った。
……本当は、約束が破られたことなどどうでもよかったのだ。
カルナはかつて見た儚くも強いものに、命を救われた礼をしたかっただけなのだから。
目の前で泣く男にアドルシタは手を伸ばさない。
記憶のない、初対面の彼女は彼の想いにかなうだけの気持ちを持たないからだ。彼より優先して心より慈愛を捧げる相手がいるからだ。
──ああ、全部なくしてしまった女には大事なものができたのだ。喜ばしいことだ、喜ばしい限りだ。
そばにいるのがカルナでなくても、他の誰でも、それはさして重要ではない。
大事なのは、かつての恩人で今や新しい人格として生まれた彼女が幸せでいること。それ以上のものはなかった。
「見苦しいものを見せた」
手こそ伸ばされないものの、狼狽えながら手拭いを探す様子に彼女の根っこは変わっていないことを察する。
カルナは僅かに口角を上げて、先程義父にしてみせたようにアドルシタの前に跪いた。
──報恩するべき相手はいない。ならばオレは、この新しき芽を守るための傘となることで、その代わりとしよう。
「確かにおまえと会うのはこれが初だったな。しかし変わらぬものもあるらしい。オレは
「導師よ、おまえの名はなんという?」
今度は黙り込むのはカルナではなくアドルシタの方だった。
聖人めいた男の祝福に見合うだけの名前を、彼女は持っていなかったので。
かつての女神の化身と──まだ誰も正体を知らないが──女神を敬愛する太陽神の血を引く半神の男。
それが元の定めであったかのように出会った彼らの逢瀬を影から見ていた者がいた。
それは、友となったカルナと親交を深めに来たドゥリーヨダナである。
・・・・・・──ドゥリーヨダナは筋金入りの神嫌いである。
カウラヴァの百人の王子とひとりの姫君はこの世に生まれ出たとき、ひとつの異形の肉塊であった。
百一個に分割され入れられた壺の中から、はじめて赤子が──長兄たるドゥリーヨダナが産声をあげたとき、この国にあらゆる凶兆が襲いかかった。
そのため、彼は悪鬼たるカリの化身であると囁かれ続けてきたのだ。
深い愛情を向けてくれた両親に比べ、王宮の者達が彼らに向ける目は冷たかった。
幼い子どもは敏感だ。理由は分からないが兄弟に向けられる目や心無い言葉をよく思っていなかった長兄は己が役目としてその不躾な目線から兄弟妹達を庇ってきた。
言葉であるいは行動で───相手が精神的にあるいは肉体的に再起不能になるまでぶちのめして───確かな自分達の存在を守ってきた。
凶兆がどうした。不吉だからってどうだと言うんだ。神が定めた規則や運命なんぞ知ったことか。
売れるものなら神サマにだって喧嘩を売ってやろう。
────そうして形作られたのが、神の力が三分の一とはいえ浸透しているドヴァーパラ時代において異端中の異端の存在。ドゥリーヨダナという王子だった。
彼は為政者だ。
だが、虐げられる者の心も、その連鎖が産むものも分かっている。同じような境遇にある者には手を差し伸べることもあるかもしれない。
しかし、ドゥリーヨダナは聖人君子ではない。
カリの化身と言われようと凶兆の子と言われようと彼は人間だ。
人としての際限のない欲のために働き、王家の血を引くものとしての誇りもある。故に報復は怠らない。
それでも、一度懐に入れた者に関しては寛容で話していて気持ちの良い男であることは間違いなかった。
繰り返そう。
ドゥリーヨダナは筋金入りの神嫌いである。
生まれた時に定められた運命や盲目的に神を信仰する人々に苦しめられてきた彼にとって、少しの戯れの感覚で人の世に手を出す神々はそれこそ憎しみ、恨みの対象であった。目の前に現れようならばちぎってすり潰して粉にしても足りないほど。
彼は、おのれを兄弟たちを悪であると決めつけた神の力、在り様そのものを疑っている。
だからこそパーンダヴァの半神の王子たちに対しても食ってかかるのだ。
それが、ドゥリーヨダナにとっての存在証明であるから。
神も精霊も目の前に出てこれないならば、いないも同然。いたとしても、その強大な力でハンデも負わずやりたい放題なんぞズルだ!
そう宣う彼だったが、逆に言えば確かな証拠があるなら信じるということでもあった。
────ドゥリーヨダナは『神サマ』に会った事がある。
それは、彼がまだ幼かった頃の話だ。いとこ達のことを知らず己こそ王を継ぐものだと無邪気に信じていたある日、ドゥリーヨダナは神に謁見した。
兄弟達と遊んでいたかと思えば、ふっと途切れた意識。気が付けば彼は海の真っ只中に立っていた。
斜陽の赤光が一面に広がる大海を照らす。東の方は既に夜の帳が降り、小さな星々が輝いていた。遥か果てに見える大地に座した霊山ヒマラヤの山間に沈みゆく太陽のあらかたは雲の翳りに隠されている。僅かに覗く姿が地上に光明を投げかけていた。
足の下、すぐ側には底知れない深淵が覗いている。
突然眼前に広がった広大かつ、のしかかるような圧迫感を纏った空間。現実に限りなく酷似していながら、どこか致命的にずれた領域。
幼い王子は、即座にここは人の居ていい場所ではないと理解する。
「───バラタの国の王族にして、凶兆の表れ、ドゥリーヨダナ。神ならぬ定命の者よ」
不意に地の底から響くような声が聞こえたかと思えば、ぞぞぞぞと目の前の海面が隆起し始めた。
波を掻き分け、飛沫を上げて。最初に現れたのはてらてらと鈍く光る面の集合のようなものだった。ドゥリーヨダナの身長ほどもある楕円に近い形の青い板が幾つも幾つも水平に連なっている。
・・・・・・いいや、それは板ではない。
それは蛇であった。しなやかな巨躯を波間に埋める水蛇であった。
板のように見えたのは鋭く研がれた刃を思わせる鱗だった。どうなっているのか不思議なほど水を弾き、表面には雫ひとつ付いていない。じっと人の子を見つめる切れ込みの入った爬虫類の目。それは鮮血のような荒々しい色と相反して奥に深い叡智を宿していた。
───その
完全な均衡が取れた体は人知を超えた美しさを保ちながらも、その存在は非現実的だった。
人の美醜の感覚を逸脱したそれは見るもの全てを魅惑し、狂わせることだろう。
少年がそれを見て驚き慄くだけで何の異常もきたしていないのは、一重にその神が彼に合わせて己の神格を落としているからに過ぎない。
そこで少年は気付く。
金色に輝く千の星。点として空に散らばる星その全てが一点に───自分の方を向いているということを。そう、神にとって星とは己が目も同然の存在であった。
「────我が名はヴァルナ。アーディティヤの宗主にして、アスラの代表なり。母なる女神より生まれし第一の子である」
化蛇の王、ナーガラージャは語る。
「私はこの目で見た」
「これからおまえは苦難に立ち向かうことになる」
「栄華への道は茨の道だ」
「その道を選んだなら最後、必ずおまえは戦乱の種となり、五つの美徳が人の形をとって立ち塞がる」
「法、力、技、美、知。いずれも人として尊ばれる徳のひとつだ。それに抗うのなら、おまえは自身を悪性であると自ら定めるに等しい」
その予言をドゥリーヨダナはどこか冷めた気持ちで聞いていた。
いかにヴァルナが堂々たる姿で現れたとしても、ドゥリーヨダナは神サマを信じていない。
これは甘言である。神には何か意図があり、ドゥリーヨダナを操ろうとしているのだ。
「──彼らを退けたければ、女神の化身を探すがよい」
だから、その言葉に対しても話半分で聞いていた。
少し先の未来で、条件に当てはまるアドルシタをあり得ないと笑ったように。
話半分で、聞いていたのだ。
しかし──その認識は瓦解した。
目の前で、神の子が泣いている。
ドゥリーヨダナはカルナのことを何一つ知らないが、神の血を引くパーンダヴァに引けを取らない腕前、精神性をもつ彼も恐らく同類であろうと思っていた。だからカウラヴァに引き込んだ。パーンダヴァに対する矢とするために。
それがどうだ。そのカルナが、たったひとりの女の前で泣いている。
屈強な戦士が家族でもない女に膝を付いていて、ただ親愛の情を示している。
あれが、女神の化身でなくてなんだというのだ。
ドゥリーヨダナは戦慄した。
崩れ落ちそうになる膝を叱咤して、壁に背を預ける。
冷や汗を拭うように手で顔を覆った。
「はは……」
怯えている?いいや、これは歓喜だ。
身体の奥底から湧き上がる喜びに震えてすらいた。
神はいた。打ち倒すべき敵は確かにいたのだ。
そして、ヴァルナは真実を言っていたのだ。もちろんただ女神の化身を探すことだけが真意ではなかろうが、少なくともそれが実在することは確かだった。
ドゥリーヨダナは冷静に考える。
アドルシタを、女神の化身をカウラヴァの手中に収めた時のメリットを。
今まではあれはパーンダヴァのお気に入りで、カウラヴァへも礼を示す鑑のような臣下だと思っていただけだったが、どうも彼女の持つ価値はそれだけでは無さそうだ。
あの女は、カウラヴァが勝利するための鍵となる。
彼女は五兄弟が生まれたときから彼らのそばで師としてあり、引いては現在は三男の従者をしている。
つまり、彼女を奪えばパーンダヴァは支えのひとつを失う。
難攻不落と思われた、神の力を瓦解させる一手となる!
そこまで考えたところで、間近で聞こえた足音にびくりと体を揺らした。
「──おい、そこでなにをしている。盗み聞きとは趣味が悪いぞ」
「ドローナ師匠!」
物陰から現れたのはドローナだった。
険しい顔をしていた彼だったが、ドゥリーヨダナの姿を認めて目を丸くした。拍子抜けといった感じだ。
「なんだ、ドゥリーヨダナか。カルナを迎えに来たのか?」
「──はい、早速友との親交を深めようとしたのに見当たらないのでね。おれ様直々にこうして探しに来たというわけです。忙しそうだったので、ここで様子を伺っていました」
嘘はついていない。最初はそのつもりだったので。
「ほう、そうか。なら急いだほうが良かろうな。カルナはさっき外の方に歩いていったぞ」
「いつの間に……こうしちゃいられん!ドローナ師匠、失礼します!」
ドゥリーヨダナは立ち上がって、足早にそこを去った。
カルナと合流したら、早速帰って戦略を練らねばならない。
彼は今日の出来事を今のところ誰にも知らせるつもりはなかった。もちろん、ヴァルナ神でさえもだ。
神の予言を安易に信じる気はないし、情報が漏れることを防ぎたいからだ。
今はこの仮説を、ドゥリーヨダナの中だけで留めておく。
そうだ、従者と仲の良いドゥフシャラーや共感を持っているヴィカルナにも今のうちに話を聞いておこう……。
駆けていく彼の頭はこれから巡らす策略の種でいっぱいだった。
──ここに宿命がまたひとつ生まれた。
パーンダヴァとカウラヴァ。アルジュナとカルナ。
そして、ドゥリーヨダナとアドルシタ──いやここは、彼女の主であるアルジュナを挙げるべきか。
いずれきたる業の終着点で、因と果は結ばれる。
それはまさに、転がりだしたら止められぬ車輪のように。