授かりの英雄には精霊の従者がついている   作:修行者‪α‬

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1章エピローグです。ちょっと長め。
ドゥフシャラーとの茶会とカウラヴァ次男の襲来、クリシュナの再訪。
そして、自覚してしまった■の話。


10.王子と従者

 御前試合の前日にドゥリーヨダナ伝手にドゥフシャラーから託されたのは桃色の花。丸く蕾を付けた可愛らしい五弁の花が指すのは、茶会の待ち合わせ場所。

 ──約束の日にルクリアの木の下で会いましょう。

 そういう意味だった。

 

 王宮の誇れる庭のひとつ、二家の王子たちの居住区からも離れた東屋。普段は王家の女性たちの憩いの場として利用されているそこは、ルクリアの甘く優しい芳香に満ちている。

 その中で、アドルシタとカウラヴァの末妹ドゥフシャラーは向かい合って絨毯に座っていた。中央には茶器があり、淹れたてのチャイがこれもまた芳しいスパイスの香りを発している。

 

「そういえば、あなたも聞いた?アンガ王の噂を。王宮中その話で持ちきりで困っちゃうわ」

 

 強靭で高潔な武人。または、自分で挑戦を不意にした愚か者。

 カルナは現在王宮でそのように賛否がきっぱり分かれた評価をされている。大体内訳は前者が王宮勤めの女性たちで、後者がクシャトリヤの男たちだった。

 

「はい、噂好きの侍女たちが賑やかに話していましたね。渦中のドゥフシャラーさまは彼らに集われて大変だったことでしょう」

「本当にそう!あくまでお兄ちゃんの客人であって、私はご挨拶くらいしかしていないのだけどね。なんなら、もう王宮にいないし……」

 

 ドゥフシャラーは小さな砂糖菓子をひとつつまんで、東屋の外を見た。

 彼女の言う通り、一躍時の人となったカルナはすでに王宮を発っている。領地となったアンガに赴く必要があったのもあるが、一番は友のためにもより強くなろうと武芸の師を探しに行ったとのことだ。実にストイックな男である。

 

「まぁ、数日もすれば落ち着くでしょう。それよりも、私が聞きたいのはあなたの話よ!前夜祭すごかったそうじゃない!」

「まったくどうしてドローナもあなたさまも……。みっともなくて、こちらは思い出したくもないほどだと言うのに」

 

 アドルシタは頭痛がするとばかりに、こめかみを親指で押さえた。

 返礼の白いサリー。純白の花飾り。そして、自分の色に染め上げて何よりも得難い宝物のような扱いをする主。

 彼女にとって、あの夜はちょっとした悪夢であった。どこの世に養君に着飾らされて公の場に連れられていく乳母がいるのか。

 アルジュナの恥になりたくはないので、なけなしの気力をかき集めて卒倒することだけは免れたが、とんでもない晒し者であった。

 

「あら、お似合いだったわよ。見た目だけならあなたたち、おんなじくらいだもの」

「でも実年齢は親と子ほど違いますから…………。同じ武家のお嬢様と結ばれるのが一番苦がありませんよ」

 

 もちろん、他の階級に好いた相手ができたなら、それはそれで応援するつもりではあるけれど。

 以前ビーマや実母クンティーはアルジュナに甘いと評していた彼女であるが、方向性は違えど彼女もまた彼に甘いのである。

 しかし、対象が自分自身ともなればそれはまた別の話だ。

 

「まぁ、夢がないわね」

 

 ドゥフシャラーはつまんないの、とでも言いたげに目を伏せて、落ちてきた花びらを弄ぶように指先に絡めた。その様子を見たアドルシタは口の端をきゅっと引き結んで目を細める。

 

「……さては、私のあれこれをつまみにしていらっしゃいますね」

「あはは!ばれちゃった!」

 

 ドゥフシャラーはきゃらきゃらと笑った。悪戯がばれたのを喜ぶ子どものようだ。

 アドルシタはひとつため息をつく。

 チャイを口にして茶器を盆に置いた頃には、目の前のその笑顔は少しだけ曇っていた。

 

「──だって、王宮の浮いた話を聞くくらいしか楽しいことがないのだもの。そこは私も、侍女たちも一緒ね」

「ドゥフシャラーさま……」

 

 彼女たちの世界はこの王宮といずれ嫁ぐ家だけだ。楽師しかり、道化しかり無聊を慰めるものはあっても、やはりここが箱庭であることには変わりない。

 しかし、その湿っぽい気配はドゥフシャラーがふんと腰に手を当てたことで霧散した。

 

「やめましょう。今日はそんな辛気臭い話をしたかった訳ではないの!」

「ふふ、そうですね……」

「そう言えば、あなた。少し顔色が良くなったんじゃない?やりたいことをしている!って感じの満足げな顔。良いことね」

「わかりますか?実は最近楽しいのです。戸惑うことも多いですが、やはり大手を振ってお世話をできるというのは良いものですね」

 

 まったく、そばにいるだけで良いと思っていたのに、それが満たされれば今度は相手の喜ぶ顔が見たくなる。人とは強欲なものだ。

 でも、それは悪い変化ではないのだとアドルシタは思う。

 なにより今は苦しむ彼に差し伸べる手も、慰める声もあるのだから。いつぞやのホットミルク以上のことが、今の彼女にはできるのだ。それが何より嬉しかった。

 

「……そう言えば、ドゥフシャラーさまにお土産を持ってきたのです。受け取っていただけますか?」

 

 会話が少し落ち着いたころ、アドルシタは脇においていた小包をドゥフシャラーに差し出した。ドゥリーヨダナやヴィカルナに伝えていたように、彼らに渡したお守りと同じカウラヴァの姫君への贈り物を渡す時が来たのだ。

 

「あら、なあに?中身は小箱かしら」

 

 包を解き、小箱を開け、中から現れたのは小さな花飾りだ。

 ラクシュミーの座す蓮の花をモチーフにした金属片をつけた組紐。男性が異性に贈るような華美なものではなく、普段使いで目を楽しませるようなそれに、ドゥフシャラーの目が輝く。

 

「ありがとう。綺麗ね。本当に手先が器用で羨ましい。大事に使わせていただくわね!」

「ええ、姫君に幸運の女神の祝福がありますように」

「あなたにも、ね」

 

 そうして微笑んだ彼女は、次の瞬間あっと声を上げた。忘れたことを思い出したと言わんばかりだ。

 

「そういえば、導師さま。いつになったら私はあなたの名前を呼べるの?友人をいつまでも精霊や見えないものだなんて呼ぶのは寂しいのだけれど」

「……アンガ王にも言われました。なんだか今更のような気がして、中々一歩踏み出せないのです。私自身はそこまで困っていませんし……」

「ほんとに?初対面の相手に名乗るのに躊躇するのが困ってないっていうの?」

「……困ってます」

 

 ドゥフシャラーの言う通りだ。

 養父であるグルが名前に縛られるのを厭うていることを知っている自分にとっても、いつの間にか名付けとは重たいものになっていた。だから、日常の不便を見ないふりをしてもそのままでいたのだ。

 

「ふふ、いい機会だと思うけどね。頼んでみたらいいじゃない。王子さまに。多分、いい名前を考えてくださるでしょう」

「うぅ……ですが、重たくはありませんか?」

「なにが?」

「侍従の名前を、考えろなどと……。私個人を指すなら精霊や役職名で十分ではありませんか?」

 

 ドゥフシャラーは片眉を上げた。信じられない、といった表情だ。

 

「……いきなり卑屈になったわね。いつものびしばし言う淑女はどこに行っちゃったの?」

「びしばし……あなたからはそう見えているのですね」

 

 はぁ、と一息ついて言葉をまとめたアドルシタは再度口を開く。

 

「あのですね。幼い頃は保護者としてあればよかったですし、ここ数年のそもそも認識されていなかった間もその延長で問題なかったのです。だから、あまり考えたことがなかったのですが……役職でなく、私個人のあり方を見られるのはなんともむず痒いのです。こう、子どもに親の不出来を見られた時のいたたまれなさというか……」

「こっちはこっちで拗れてるのね……」

 

 ──安心なさいよ、きっと大喜びだから。

 

 

 

 

 

 楽しい茶会もやがて終わりを迎える。

 アドルシタはドゥフシャラーと別れ、菓子の手土産を抱えてひとり歩いていた。

 もう一刻もすればクンティーの見舞いに出向いている主が帰ってくる頃だろう。今日の手土産は王子と一緒に八つ刻にでもいただこう。

 そんな事を考えながら庭の角を曲がったその時。

 

「──おい、まてよそこのチビ」

 

 前からかけられたぎらぎらとした低音。見上げれば、高所から睥睨する冷たい白眼。

 意地の悪そうに上げた口の端が嘲笑いを浮かべている。

 その男は覆いかぶさるようにしてアドルシタの進む先を塞いでいた。

 カウラヴァ百兄弟は多過ぎて流石のアドルシタも全員覚えているかはちょっと怪しいが、この迫力の持ち主はさすがに分かる。カウラヴァの次男坊。むくつけき卑劣漢、ドゥフシャーサナだ。

 

「ドゥフシャーサナさま、何用ですか?」

 

 貼り付けたような無表情のまま、アドルシタは尋ねる。

 茶会の場所は彼女もドゥフシャラーも気を遣って考えたものであるが、このドゥリーヨダナの番犬──もはや狂犬であろう──相手では役に立たなかったようだ。

 

「それはこちらの台詞だな。パーンダヴァの侍従が何のご用だ?我らが姫君に何か吹き込んでるんだったら……どうなるか分かってんだろうなぁ」

 

 王子たちの中にはパーンダヴァの侍従である彼女とカウラヴァの王族が手引きをしているなど考える者はいない。ただ、それを口実に因縁をふっかけてくる者はいる。今目の前にいるドゥフシャーサナがその筆頭であった。

 この男がいることが、パドゥカを贈った際にドゥリーヨダナが彼女をカウラヴァの敷地に踏み入らせようとしなかった最大の理由であろう。

 ドゥフシャーサナは長兄を慕っているが、感情第一で動く彼は兄の手綱を引きちぎることがある。故に狂犬だ。

 

「ただ茶会をしていただけですよ。さぁ、そこを通していただけますか」

「ほぉ」

 

 その素気ない態度はドゥフシャーサナの期待通りではなかったようだ。青筋を浮かべた少年は何かをアドルシタの足元に叩きつけた。象の刺繍された袋──彼女がカウラヴァに贈ったくだんのお守りである。

 ドゥフシャーサナはそれをそのまま見せつけるようにゆっくりと踏みにじる。

 靴の下で袋が破け、金属片が砕けた。

 

 それを目撃したアドルシタの胸中に冷たいものが滴り落ちた。

 象は王国の象徴、金属片は幸運の女神ラクシュミーの履物を象ったもの。

 それを砕いてまで見せたかったのが、この子どもの癇癪のような敵意らしい。

 なんと──なんと、お可愛いらしいこと。

 

 アドルシタは表情を変えぬまま、じっとドゥフシャーサナの顔を見つめる。脳裏に浮かぶのはドゥリーヨダナとヴィカルナの顔だ。どうしてこの兄弟は顔の基本的な造りは同じなのに、性格がここまで違うのか。

 そうして眺めていると、ドゥフシャーサナはにやと笑った。

 

「……なんだ、そんなに見やがって。見惚れたか?いいぞ、好きなだけ見るがいい。なにせ、おれの顔は美しいからな!!」

 

 勘違いもはなはだしかった。

 呆れ返ったアドルシタは腕を組んだ。実に面倒ではあるが、釘を刺しておく必要はあろう。これでも人に教えを授ける身だ。道を正すことを試みるまでの責任は持とう。しかし、改心するかどうかは人の勝手である。それから先は知ったことではない。

 

「お好きにどうぞ。あなたが受け取った時点で、それはあなたのものですから。どう扱おうとあなたの自由です。私の感知するところではありません」

 

 ああ、でも。

 

「──そんなに嫌ならば断ればよろしかったのに。受け取りはしたのですね?」

 

「──ッ!!」

 

 瞬間、沸騰した。アドルシタの一言は彼の逆鱗に触れたらしい。勢いよく胸倉に伸びてきた手が彼女に狙いを定めている。

 アドルシタは足に力を入れた。逃げるなら今である。

 首に下げた護身用の包を投げるために手に握り、僅かな魔力で強化した足で地面を蹴ろうとして──。

 

「──あーやだやだ。どうしてカウラヴァというのはこんなに品が無いのか」

 

 ──ドゥフシャーサナの腕は彼女に届くことはなかった。

 それは、彼よりも長い腕に捕らえられていたからである。

 

「てめぇ、クリシュナ……!邪魔をするな!!」

「違うよ、君たちが僕の進行方向の邪魔をしているんだ」

 

 アドルシタの背後から現れたのはクリシュナであった。

 掴まれた次男坊の腕はぴくりとも動かない。見た目の体格こそ勝っているものの、上背は青年であるクリシュナの方が勝っている。

 だがこの怪力はそれだけか?状況だけでは説明のできない事象にぞっとドゥフシャーサナは顔を青褪めさせた。

 

「離せ……!」

「いいよ、はい」

 

 すんなりと解放された腕を庇いながらドゥフシャーサナは後退りする。クリシュナ自身に明確な敵意はないようだが、彼はパーンダヴァの後ろ盾である。こうなっては分が悪い。去り際に彼は憎悪の籠もった目でアドルシタを睨みつけた。

 

「この仕返しは必ずしてやる……!覚えていろよ能面女!!」

「あはは、負け犬もここに極まったね。好きに吠えるといい!」

「死体に鞭打つのもほどほどに……」

 

 走り去っていったドゥフシャーサナを見送るのもそこそこに、クリシュナはくるりとアドルシタの方を振り返った。

 同年代でこそないものの、血縁であるからかクリシュナと主の顔はよく似ている。

 整った鼻梁、きりりとした眉尻、意志の強そうな目元。優美な印象を保ちながら精悍な顔立ち。

 アルジュナが青年期に差し掛かればこのような顔になるかもしれない。表情から受ける印象はまるで違うけれど。

 ただその顔は今、わざとらしいほど綺麗な微笑みを浮かべていた。

 

「で、君は一体何をしているのかな」

 

 あ、これ怒ってるな。

 

 

 

 

 

 

 場所は変わって、主の居住区の応接間。

 積もる話もあるでしょうし、とアドルシタがクリシュナを招いたのだ。

 クリシュナはむっと唇を尖らせたまま、少々不貞腐れた様子で肘置きに体を預けている。問いかけを躱されたのが気に食わないのであろう。

 

「この間の返礼に花を、とでも思いましたが。クシャトリヤの方々の宴で呼ばれた仕入れ屋から新鮮な穀物と果物をいただきましたので、よかったらどうぞ」

「ありがとう!ラーダーといただくよ!……じゃなくてね。話を逸らさないでくれるかな。いとこと君の近況を聞きに来たのに、今にも殴られそうなところを見せられた僕の気持ちを考えて欲しいよ。なに?治安が悪過ぎるだろう王宮。ほんとにいつの間に貧民窟になったの」

「ふふ、大げさだこと。助けられたのはありがとうございます。でも、私だって無策で刺激した訳ではないのですよ。あの方に絡まれるのは珍しくありませんので。それに、誰かが近付いてきているのも分かっていました。まさかそれがクリシュナ、あなただったとは思いませんでしたが」

「……そもそも、なんで避けようとしなかったのさ」

「誰も来なければ、目つぶしと身体強化で逃げようとしてました」

 

 そう言ってアドルシタは首元の袋を揺らした。中にはすり潰した香辛料の粉が入っている。有事にはそれをぶつけて行動不能にするつもりだったということだろう。

 確かにあの狂犬相手では、下手に出てもつけ上がらせるし、正面から向かうのも悪手だ。怪我でもさせれば、執念深く追ってくることだろう。

 それは分かるけども。

 クリシュナは盛大に胸に溜めていた息を吐いた。心配した俺が馬鹿みたいだ。こちらは本当に肝が冷えたというのに。

 女神に似た顔が痣だらけになるなど到底見ていられない。クリシュナは化身がカウラヴァ側に着くのを阻止したいだけで、断じて痛めつけたい訳ではないのである。

 眉をハの字にして呆れたとばかりに青年は手の甲でひらひらと力なく手を振った。

 

「まったく元気過ぎるくらいで何よりだよ!いとこが思いやられるね。そんなじゃじゃ馬のような様子では煙たがられたりはしないかい?」

「そんなことはありません!」

 

 ぷん、とほおを膨らませて宣言したアドルシタであったが、その自信はすぐにしぼんでしまった。

 

「……ない、はずです」

 

 不安げに肩を落とした姿を見て、クリシュナは口を開けたまま固まった。なんなら、手に持ってた菓子を取り落としかけた。

 珍しいものを見た、どころの騒ぎではない。理解できないものを見ている。

 クールで、したたかで、恥などというものとは無縁の肝っ玉。

 確かに彼女の本体は人間すべてを愛しているが、それはあくまで人間という種の持つ可能性の話だ。

 博愛とはよく言ったもので、個で見ると何者も特別ではないからあまねくすべてに愛情を与えられる。それだけの話である。

 そんな母というシステムの欠片でしかなかった彼女が、しおらしくなっている。

 スーリヤの時でさえ、そんな弱々しい顔はしなかったじゃないか!

 

「え、え〜?なんだよその顔!ちょっと僕が来てないうちに何があったのさ!」

「何か?……アルジュナさまに見えるようになったことくらいでしょうか」

「それは知ってるよ!俺がやったんだから!聞きたいのは、いとこと何があったのかってことだ!試合があったのは知ってるけど、それだけでこうはならないだろう!」

「あ!やっぱりあなただったのですね!」

「それはいいから……。まぁいいか」

 

 埒が明かない。反応を見る限りクリシュナの一手は悪い結果を呼んだわけでは無さそうだ。

 アルジュナとアドルシタの距離が近付いてお互いの状態が分かるようになったのならば、今はそれでいい。

 静かにクリシュナは目の前の化身を観察する。

 クリシュナにとって女性とは、何者であってもそこにあるだけで心身、魂ともに美しいものであるが──自然のままの姿がより好ましい。

 その点について言うと、呪いの影響による不自然さは少し鳴りを潜めていた。現に彼が手を加える前は精彩を欠いていたアドルシタの外見は、健康的な丸みを帯びはじめている。鶏ガラなどとはもう呼べない。

 本来の姿に戻りこそしないものの、もう少しすれば見た目の年相応の青い実のような瑞々しい美しさをたたえることになるだろう。

 名実ともにファム・ファタールだ。なんてこった。

 

「はぁ……用も済んだし、今日のところは帰るよ」

「あら、アルジュナさま目当てだと思っていました。お会いになられないのですか?」

「ん〜そのつもりだったけど大きな試合のあとだろう?色んな意味で今は邪魔しないでおいたほうがよさそうだ。励ますなら君の方が適任だろうし」

「……そうですか」

「お土産だけ渡しておいて。これ、うちの領地で取れた乳を使ったお菓子」

 

 確かにクリシュナの言う通り、御前試合のあとからアルジュナは少し危うい状態にある。日課の鍛錬にも出ていないし、食事も喉を通らないようだ。

 憧れに対面させるよりそっとしておくのがいいと判断したのであろう。アドルシタも無理に引き留めることはしなかった。

 

「よろしくね、いとこのこと」

「はい、お任せください」

 

 クリシュナを見送りつつ、アドルシタはふとなにか忘れていることに気が付いた。

 

「そういえば、先ほどの礼はいいのですか?あなたにまた借りを作ってしまったのではと思ったのだけれど」

「ああ、犬を追っ払ったやつ?いいよ、俺の役目みたいなものだし。懲らしめるくらいがちょうどいい」

「役目?」

 

 クリシュナはその問いに答えぬまま話し続ける。

 

「……ほんと、我が兄弟に殺されたせいで計画より早めに落ちちゃった時はどうしようかと思ったけど、結果的に正解だったね。いとことの年齢差はあるけど、こうして近くで君たちを見守ることができた」 

「あなた。前から思っていましたが、本当に何者なのですか?」

「俺?そうだな、ヴィシュヌ神の化身だよ」

「え」

 

 なんてね、そう言って愉快そうな笑みを浮かべてクリシュナは帰って行った。

 

 

 

 

 

 

 頭の中でずっとあの日の光景が繰り返し流れている。

 

 放った弓と、白い背中。そして、侍女たちの悲鳴。

 アルジュナは王子として正しく高潔でありたいと願うなら、あの一矢を放つべきではなかった。そのことをずっと悔いている。

 だが、一方で初陣前の己が武勇を成せたことを誇りに思う戦士らしい昂りあった。

 だからあの場で讃えられるのに相応しかったのはアルジュナではなく、なく──―。

 まんじりともせず、思考の檻の中で自問自答を繰り返す。

 

 答えのない堂々巡りの考えに終止符を打ったのは、背後からの物音だった。

 とんとんと壁を伝う軽い打音が精霊の来訪を告げる。

 

 瞬時に切り替えて、アルジュナは体を起こすと身嗜みを整えた。

 見渡せば帰ってきた頃にはまだ顔を出していた太陽はとっくに暮れて、屋外はすっかり暗くなっている。

 なんということだ、鍛錬も夕食もすっかり忘れていた。

 怒られるだろうかと振り返った先には、優しく微笑む精霊の姿がある。一仕事終えてきたというように満足げな表情だ。

 そして、彼女はなんのてらいもない様子で告げた。

 

「アルジュナさま、少し私と足を伸ばしてみませんか」

 

 予想だにもしなかった誘いだ。

 寝台から立ち上がりかけた状態で固まった少年の腕を女の小さな手が拾い上げて、奪っていく。

 それがあまりに自然な仕草だったものだから、成すすべもなくその後を追うことしか彼にはできなかった。

 

 ここ二日ばかりの無残な有様に言いたいこともあるだろうに、背を向けたまま迷わず進んでいく彼女は何も聞かなかった。アルジュナも何も言わなかった。

 一体何を告げろというのだ。試合をできるように整えてくれた感謝か?それとも、王子らしい行動ができなかったことへの謝罪か?

 どれもアルジュナの苦悩を代弁しているとは言いがたい。きっと、何を言っても嘘になる。

 そうしてぼんやりとした気持ちのまま項垂れて歩くこと十分ほど。

 すん、と覚えのある香りに小さく鼻が鳴った。染み入るような冷たい空気、清らな木々の香りだ。

 顔を上げればそこには見慣れた小屋がある。

 

「ここは……」

 

 ──バーンダヴァの五王子たちの生家である。

 

 王宮に来てからは中々様子を見に来る暇がなく、やっと来れたかと思えばかつての暮らしが嘘のように寂れていたそこ。

 最後の記憶ではボロ家のようになっていたその家の中には今、薪の火が灯り往年のあたたかな様相を彼に見せていた。

 

「さ、ここは冷えますから。中に入りましょうか」

 

 緩く繋がれた手がそっと引かれる。いつの間にかアルジュナは足を止めていたようだ。

 逡巡は一瞬。逆光の中で微笑む彼女のあとについて、彼は懐かしい我が家に足を踏み入れた。

 

 

 焚き染められたジャスミンの、甘く華やかでありながら心を穏やかにさせる香り。

 外に面した壁の開口部からはラートリー(夜の女神)がもたらした天幕とその中で輝く数多の星たちが見える。

 アルジュナたちが訪れたのを察知した侍従たちが、部屋の中央に敷かれた絨毯の周りに果物や菓子を置いては辞していく。

 壁を照らすオイルランプの合間をすり抜けた精霊は、絨毯の上に正座で座った。

 

「アルジュナさま、こちらへどうぞ」

 

 どこか甘やかな雰囲気にどぎまぎしながらアルジュナは隣に座ろうとしたのだが。それは不思議そうな顔をした彼女に止められた。そのまま手を引かれて、頭部が平たい腿に導かれる。

 ──膝枕である。

 

「ッ!?」

 

 細くて、けれどもやわらかくて、あたたかなそれ。

 混乱する頭の中でよぎるのは、確か幼い頃もたまにこうしてくれていたか、というつぶやき。

 現在の熱量を持った感触に、陽だまりのような記憶が上書きされていく。

 あの頃は精霊の方が大きかったものの、今ではアルジュナの方が上背がある。それは体重も同様だ。

 こ、これは俺のほうが肩を貸すべきなのでは。

 アルジュナは緊張のあまり頭の中で愛の教えを三回ほどそらんじたが、この場の最適解は何も出てこなかった。

 ……流石に同年代になった乳母との関わり方なんぞは伝えられていない。

 知識は圧倒的な現実の前ではたまに無力になる。

 

 勝手に跳ね上がる心臓に、アルジュナは今が夜であったことを感謝した。オイルランプの灯りほどに色付いた顔色はきっと日向の下では誤魔化せなかっただろうから。

 

 多感な時期の浮つく心に悶々とする彼を他所に事態は動いている。

 

「ドゥフシャラーさまから砂糖菓子を、クリシュナさまから焼菓子をいただきました。あなたはどちらがお好みですか?」

「え?……焼き菓子が好きですね」

 

 そうですか、とつぶやいて小さな手がアルジュナの頭の上を通って器に伸ばされる。そうして摘んだ一粒を静かに彼の口元に近付けた。

 あ、と開口を促すように開いた唇を認識して、一拍遅れて彼女が何をしようとしているのか理解する。

 

「や、やめてください!俺は子どもじゃないんですからっ!」

 

 慌ててアルジュナはその菓子が彼女の手によって口の中に入る前に、自分の手で奪い取るようにして食らった。

 湿り気を帯びた食感にギー(済ましバター)の甘ったるい油の風味が口内に広がる。あ、食べてしまった。別に奪い取る必要はなかっただろうに。そう思ったが否や腹の上のあたりが切なくなる。

 鬱々とした感情で誤魔化されていただけで、随分と空腹のまま過ごしていたらしい。

 精霊が手ずから食べさせようとしたのも、それを心配していたのかもしれない。

 

「子どもじゃない……確かにそうですよね。ごめんなさい、またやってしまいました。やめますか……?」

「……いえ、このままで構いません。ただ、給餌は勘弁していただけると。私の面目が立ちませんので」

 

 そう言ってアルジュナは彼女の眼差しから逃げるように顔を外に向け、もうひとつ菓子を口に入れた。その耳は赤い。……別に膝枕が嫌な訳ではないのである。

 

 

 熱源があっても少し冷える夜の中。寒さから護るように緩く抱かれた肩と、頭の後ろばかりがぼんやりと熱を持っている。

 たまに聞こえる子守唄のハミングが部屋を満たしていく。

 精霊は意味のあることは何も言わない。

 久方ぶりの穏やかな雰囲気に、うとうとと半ば夢うつつの気分になってきた。

 

「……いささか、甘やかし過ぎではありませんか」

「そうですか?甘いばかりは困りますが、たまには甘やかしも必要でしょう。頑張った愛し子を労うのは自然なことかと思いますが」

「……」

 

 頑張った。頑張った、なぁ。本当にそうだろうか。アルジュナはあの御前試合で空回りしただけではなかったのだろうか。

 

 固くなった心が少しだけ、絆される。

 いつの間にか、彼の口はぽつりぽつりと胸の内を吐露するようになっていた。

 

「……今日は、母上の見舞いに行って参りました」

「ええ、うかがっております」

「一時的に心に負担がかかったための卒倒だったようです。……何事もなくてよかった」

 

 ただ、クンティーはアルジュナの功績を褒めることはしなかった。もちろん自身の体調が悪かったのだから、それが理由であれば仕方のないことだと考える。

 でも、彼女は言及したのだ。アルジュナでなく、あの対戦相手のことを彼に聞いたのだ。母の意識の中にあの対戦はあったのだ。

 

「……カルナがまだ王宮にいるかどうかを、気にされていたようです」

 

 揺れる心を抑えて、カルナはもうバラタを発ったようだと伝えれば、母は本当に安心したように息を吐いた。

 その理由はアルジュナには分からない。知りたくも、なかった。

 

 アドルシタは悔いるように眉を寄せた王子の様子を見て、予想通りあの試合の結果が彼の奥底に暗い影を落としていることを知った。

 

 重い沈黙が落ちる。少しして、彼女は初めて己から口を開いた。

 

「──ねえ、アルジュナさま。こんな話をご存じですか?」

 

 ……あるところにひとりの剣士がいました。

 彼の前には彼の身長ほどもある大きな岩。それを割るために来る日も来る日も剣士は鍛錬を続けていました。

 その訓練の甲斐もあり、剣士はいつしかそびえる立つ巨大な岩をも砕けるようになりました。

 しかし、その栄光も長くは続きませんでした。

 ある日、彼は自ら砕いた岩に押し潰されて怪我をしてしまったからです。

 彼は岩を砕く方法を極めていても、落ちてきた破片から身を守る術は知らなかったのです。

 

「これはただの例え話ですが──反射行動って、訓練によるものも大きいんですよ」

 

 市井の暮らしは危険も多い。そういう場所で育ったカルナが危機察知に優れていても不思議ではない。

 対してアルジュナは成人になっておらず、敵地での初陣もまだの身だ。

 森で暮らしていた過去はあれど、武器を持って敵と対峙し、瞬時の状況判断を迫られるような喧騒の中に身を置いたことはない。

 だからこれは、カルナが優れている、アルジュナが劣っているという話ではないのだと。

 

「こんな言葉であなたの憂いが晴れるとは思っていません。……私には、あなたの痛みのすべては分からないから。そしてそれは、きっと誰にも分からない」

 

 ともすれば、冷たい拒絶のような一言にアルジュナは目を見開いた。

 

「でも、それが当たり前なんです。自分だけの痛みを抱えるからこそ、私たちは自分らしくあれるのです」

 

 しかし、アルジュナの手にできた硬い弓だこを労るように撫でる手は優しかった。

 

「分からなくても、こうして、寄り添うことはできるんですよ」

「……──精霊」

 

 見えなかった頃も、見えるようになった後も、変わらぬ愛を与えてくれる。

 それは揺れる毛布やホットミルク、お守り、試合の助言、そしてこのつかの間の休息。

 アルジュナというひとりの人間に向き合う姿勢を、いつでも彼女は形として彼の前に示してくれた。

 それが例え親代わりの親愛から来るものだとしても。

 彼女はずっと、彼の前では一生懸命だった。

 

 この得難い献身に、アルジュナは一体何を返してやれるだろう。

 いつだって貰ってばかりのこの身では、良い案がまったく浮かばない。

 

「私はあなたの献身に、どう報いればよいのでしょう……」

「お役目と私の勝手ですので、気になさらずともよろしいのですが……。そうですね……」

 

 ──どうか、あなたから私に名前を授けていただけませんか。

 

「私が、あなたに名前を、ですか」

「はい。私はこれまで養父にならって、名らしい名を持たずに過ごして参りました。今まではそれをあまり苦に思っていませんでしたが、交友が広がる中やはり自分の芯のようなものは持っておいたほうがいいかと思いまして。……ずっと精霊と呼ばれるのも、少し気まずいでしょう?」

 

 それは、彼にとって重たい願いだった。

 アルジュナが己の名の通り、『白』という善良さを背負うように、名を与えるということはその言葉で存在を縛ることでもある。

 彼女自身の根幹を託されたようなものだ。生半可な気持ちでは付けられない。

 

 ──しかし、その『名付け』を任されたという事実はひどく心地が良いものであった。彼女が誰かの視線を奪う度に、ちりと痛んだ胸が満たされる気配がする。

 

 気を取り直し、膝の上から見上げた彼女の後ろに広がる満天の夜空。

 アルジュナひとりであれば、感慨深く見上げることはしないであろうそれ。

 責任と理想の間で苦しむ己の前で、いつでも道を示して一等輝くあなた。

 そうして浮かんだ名前を、万感の想いを込めて口にする。

 

「……あなたは、アルチャヤティ。輝かせるもの」

 

「──アチャー、私の世界はあなたのおかげで煌びやかに見えるのです」

 

 それを聞いて、少し瞑目したあと、彼女は破顔した。

 あ、笑った。そう思った時にはもう遅かった。

 

「それは──それは、私にはもったいないくらいの名前でございますね」

 

 とろりと融け出すような蜂蜜色の目を伏せて、精霊が……アチャーが面映そうに浮かべた微笑みは、どうしようもなくアルジュナのやわらかいところに突き刺さってしまった。

 

 いつでも他者の前では導師として毅然としている彼女の、他の誰の前でもしないであろう表情。

 彼女と他者との関係が羨ましかったものだけれど、ほんとうに欲しいものは近くにあったのだ。

 

 ──これは、きっと彼だけの特別だ。

 

「──あぁ」

 

 理解すると同時に、最後の砦が決壊した。

 

 触れたところが焼きごてを押し付けられたように熱かった。

 心拍数が上昇する。耳の奥で響く動悸が、到底正常な状態ではないことを知らせてくる。

 見開いた目はからからに乾いて、痛いほど。

 ──こんなものはアルジュナではない。

 今にも逃げ出したいくらいなのに、やっと手に入れた黄金の魔力は彼を雁字搦めにして離してはくれなかった。

 

 だから、アルジュナは。

 ()()を嘘偽りなく正面から自覚してしまった。

 

 

 ──それは遅効性の毒のようなものだ。

 意識していない頃は何でもないくせに、気付いたころにはもう手遅れ。

 それの鋭い(やじり)は心の臓まで達している。

 次第にじくじくと膿んで治らぬ傷となり。処置が悪ければあえなく死に至ることもあろう。

 

 劇的で、熱烈で、破壊的。

 自覚してしまえば最後、不可逆の変化を強いられる。

 

 

 

 ひとはそれを、恋と呼んだ。 

 

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