建国祭での活躍と、インドラ神への謁見、お忍びでお祭り参加。
そして、想いは密かに育ちゆくのです。
11. 清廉なる王子と背徳の芽生え
章イラスト↓(オリ主・オリキャラ外見、原作キャラ年齢操作あります)
触れれば身を蝕むと知っていて。
拒めなかった愚かな火遊び。
──轟々と火が燃え盛っている。
黒煙が上がり、宙に火の粉を纏った灰が舞う。
周囲には溶けた
まだ燃え残って形が残る壁に背中を預け、身を潜めながら覗いた部屋の中にふたりの男女の姿がある。いずれ打ち克たねばならぬ宿敵と、アルジュナが誰よりも信を預ける従者だ。
「──オレと共に来い、アルチャヤティ」
「いいえ、私は参りません」
この燃える館より新芽を救い出すべく迎えに来たカルナに対し、アルチャヤティはその手を握ることを拒んだ。
灼熱の中。煤けた顔をものともせず、彼女はぐいと口元を上げて不敵に笑ってみせる。
「──我が忠義はアルジュナさまの元にあります」
アルジュナの手首の篭手──彼女の首飾りと対になった金輪──が熱を放ち、最愛の危機を伝えている。しかし、当の彼女は今この瞬間、一番の輝きを放っていた。
これ以上なく晴れやかに、何よりも誇らしく。そう言ってのけた女を手放し難く思うようになるのはきっと必然だっただろう。
──例え、抱く感情の色がどうしようもなく異なっていたとしても。
……遠く祭礼の鐘の音が聞こえる。
ちりちり、しゃらしゃらと小粒の鐘を幾多も打ち鳴らして、澄んだ音色で神々を歓迎する。宮殿のあちこちに供された花々が風や砂埃でくすんだ赤い壁を鮮やかに彩っていた。
バラタの国は建国祭を間近にして、1年のうちで一番の盛り上がりを見せている。
そんな誰も彼も気忙しく動き回っている中、回廊を進んでくる貴人達の姿を認めた侍従達はささっと脇に控えて彼らの行く手を空けた。
パーンダヴァの上二人の貴公子と、その従者たちだ。
「さて、母上の直々の呼び出しとは珍しいことだ」
「祭りの準備で忙しいってのによ。まったく」
「ふふ、おまえが一番持てはやされる時期だものね」
ユディシュティラの揶揄するような発言に、ビーマは指折り任せられた仕事を数える。
「材木運びに荷下ろしに、獲物の解体。全部俺の力目当てじゃねぇか……ま、役に立つってんなら悪い気はしないがな!」
豪快に笑うビーマがふと、回廊の先に目を移した。角を曲がって悠然と歩んでくる黒髪の少年は彼の弟である。
「アルジュナ!」
「はい、ユディシュティラ兄上、ビーマ兄上。ご健勝のようでなによりです」
にこりと嬉しそうに破顔した主の後ろで、アルチャヤティもまた無言のまま胸の前で合掌した。それを見て目を輝かせたビーマは彼女に近づいて、いつものごとく頭を撫でようとして──。
「ビーマ兄上」
しかし、その腕は静かな声に横から制される。振り向けばアルジュナが少しだけ眉を下げた微笑みのままビーマを見ていた。
「彼女は淑女ですから、あまり無造作に触れては。周りの目もありますし、どうか控えていただけると助かります」
その言葉に少し考え込むビーマ。ほどなくして、彼は手を合わせると彼女の礼に応えた。その眼差しは子どもを可愛がるものではなく、大人を見るものに変わっていた。
仕えるべき主に見てもらえないという彼女に憐れみのような気持ちを抱いていた自覚はある。しかし、その憐憫はもはや不要であろう。
「ふむ……確かにそうか。つい、幼子を愛でるようにしていたが、悪かったな。髪を整えるのも大変だろう」
「いえ、いつも親愛を示してくださって嬉しかったですよ。ありがとうございます。ビーマさま」
彼らの様子を横で見ていたユディシュティラは、内心感心していた。一時期は舞い上がっていたふたりめの弟は一皮剥けたらしい。主として従者を守るという姿勢に落ち着いたのだろう。良いことだ。
「兄さま!」「兄上!」
穏やかに歩く彼らにナクラとサハデーヴァも合流する。五人の王子の行く手には、王妃ガンダーリーと前王の妃クンティーの住まう離宮があった。離宮のほとんどは王以外の男性の立ち入りは禁制となっているが、入口のほど近くに面会のための広間がある。その広間で、クンティーは息子たちの訪れを待っていた。
「──よく来ましたね、わたくしの子どもたち」
高座に腰を下ろし、切れ長の目をやわらかく細めて彼らを迎えたクンティーに五王子たちはそれぞれ腰を折って礼をした。しかし、すぐに手が振られ、立つように促された。
「久しぶりに集まったのだから、あなたたちの顔を母によく見せてちょうだい」
少しだけ気恥ずかしげに顔を上げた彼らであったが、ふとクンティーの後ろを行き来する侍従たちが持っているものを見て目を丸くした。
白い陶器の象である。象はバラタの象徴で、それだけなら何もおかしくないが、その量が量であった。両手どころか籠にも壺にも、はたまた荷車にも。実に視界を真っ白に埋め尽くすほどの象が王宮の外から離宮に運ばれていくのだ。
「……これはまた、立派な象の群れですね?」
「ふ、すべてこれは不良債権よ。ガンダーリーが鋳造させた同じ値段の金の象に負けた、ね」
「不良債権……。もしや、すべて商人から突き返されたというわけですか!」
ユディシュティラの追求にクンティーは答えない。その沈黙がすべてを物語っている。
前王妃と王妃の不仲は有名だ。夫の呪いさえなければ今もなお王妃の座にいたであろうクンティーと、お飾りの王と呼ばれる盲目王の伴侶たるガンダーリー。いずれも脛に傷を持つ彼らは時たまこうして権力と金を武器に水面下で殴り合っている。
ともすれば、真正面からぶつからない分息子たちの確執よりも陰湿だったかもしれない。
「カウラヴァを増長させぬためにも、こたびの催しでガンダーリーに負けるわけにはいきません。あなたたち、何か良い案はあるかしら」
本題はそれであった。カウラヴァに負けたくないのは王子たちも同様である。考え込む彼らの中で真っ先に口火を切ったのは中でも聡明なサハデーヴァであった。
「あの、象に芸をさせてはいかがでしょうか。財力に財力で対抗するのは難しいですが、知力であれば……」
「そうね、でも覚えさせるには時間が足りないし、神の使いである聖獣に芸を覚えさせるというのもバラモンたちに反対されそうね……」
クンティーの言葉を受けて下がった五男の代わりに歩み出たのは美男子ナクラである。
「見栄えには見栄えで対抗するのはいかがでしょう。象自体を貢ぎ物で着飾るのです! これぞ数多の金に勝る唯一の輝き!」
「悪くない考えだわ。でも、職人たちに作らせた報酬を払えば赤字になる以上、少し懐が厳しいわね……」
ナクラもまた撃沈する。次に歩み出たのはビーマだ。彼はクンティーの前でぐっと筋肉に力を漲らせてみせた。
「俺が象を担いで都を回る。どうだ母上?」
「今のところ一番現実的ね。少し武力に偏ってはいますが、パーンダヴァの力は示せる!」
満足気に下がったビーマに代わって、ユディシュティラが前に出る。
「象たちにレースをさせるのはいかがでしょう。騎手たちの育成も支援でき」
「却下よ。賭け事は確かに衆目を集められるけど、隙も多いわ。カウラヴァたちに取り入らせるつもり?」
「……そうですね」
提案途中で下された、にべもない答えにユディシュティラはすごすごと引き下がる。これで残されたのはアルジュナだけだ。
「──アルジュナ、あなたはどう思う?」
彼は他の兄弟たちの答えを聞きながら、黙って考えていた。
見栄えや時間を補う財力は底が見えている。賭けはクンティーの言った通り。ビーマの提案の五王子の力を見せるという方向性は良いが、怪力のみであればそれはビーマに偏った演出だ。もしかすると、象を持ち上げて回るだけならカウラヴァのドゥフシャーサナにも可能な芸当かもしれない。
ならば、パーンダヴァだけが持っていて、示すことができるものと言えば──それは神威であろう。
「我が父、インドラ神の
「できるの?」
神の乗騎を呼ぶというのは、神そのものを降ろすよりも実現の難しい偉業である。バラモンたちが儀式を行ってやっと神の力を扱うことができるというのに、神象を借り受けるためにはインドラ神に謁見した上で許可を貰わねばならない。
「わかりません。できなければ、ビーマ兄上の提案で行くまでです。試す価値はあるかと思います」
「……わかったわ。やってみてちょうだい。神降ろしは誰に頼もうかしら。王宮のバラモンに頼むのはガンダーリーにも伝わりそうだし……」
こめかみに指を当てるクンティーに、この場は見守りに徹していたアルチャヤティがすっと手を挙げた。
「僭越ながら、発言の許可をいただきたく」
「いいわ。導師であるあなたの考えも聞きたいところだったから」
「クンティーさま、ありがとうございます。……よろしければ、その祭礼は私が執り行いましょう。インドラ神はアディティ女神の縁者です。実子であるアルジュナさまもいらっしゃれば、こちらの呼びかけに応えていただける可能性は高いと思われます」
アルチャヤティの進言にクンティーは顔を明るくして頷いた。そのまま、そばに控えていた近習を呼び止める。
「早速、儀式の準備をなさい。離宮中の酒を集めるのです。あの方は酒精がお好きですから、きっとなにかの手助けになるわ」
どうやら方針は固まったようだ。クンティーの答えを受けて、ユディシュティラは再び礼を取る。準備に取りかかった母にならって、彼も彼がするべき仕事に戻ることに決めたのだ。
アルジュナもまた、従者を伴ってアイラーヴァタ降臨の準備のため広間を去ろうとしたのだが。クンティーがそれを引き留めた。
「アルジュナ、あなたの従者を少し貸しなさい」
「ええ、構いません。ただ、アルチャヤティにも準備があると思いますので早めに返していただければ」
「大丈夫よ。少しふたりで話がしたいだけ」
渦中のアルチャヤティは目をぱちぱちとしばたかせて、クンティーのもとに歩み寄る。アルジュナはその小さな背中を見送って、少々名残惜しげな眼差しを送りつつ広間を去った。
「こうして、あなたと向き合って話すのもいくらぶりかしら。導師アドルシタ──いえ、新しい名はアルチャヤティと言ったわね」
「そうですね、最後に御報告に伺ったのが御前試合の前でしたから……三ヶ月ぶりといったところでしょうか」
クンティーはアルジュナを一等可愛がっているが、その私生活については割と放任主義だ。先ほどのアイラーヴァタの件や公的な試合などについては、王家の面目に関わってくるので彼が失敗しないように先回りして口出しすることもしばしばあるが、それ以外は何をしていようと基本は干渉することはない。アルジュナが優秀であるので、あまり心配していないというのもあるだろう。
「御前試合ね……。侍女から聞いたわ。あの子、試合の後落ち込んでいたんですって?」
「そのようですね」
クンティーの問いかけに対して、アルチャヤティは深く語ることなく頷いた。あの数日の苦悩は、アルジュナにとって知られたくないものであろう。命令か、彼自身が許可を出さない限り彼女自身の口から語られることはない。
その様子を見て、クンティーは羽根扇の裏で微笑みを浮かべた。彼女はこの年若い少女の姿をした導師の、外見に似合わず口が硬い所を信用している。
なにより、王子が気落ちしていたという情報の源は、彼の侍従の内に忍ばせているクンティーの手のものからだ。つまり、本来なら彼女が知るはずのない情報である。それを分かっていて、アルチャヤティは僅かな動揺も見せはしない。そういうところがお気に入りだ。
「……わたくし、気にしていたのよ。あの子が褒められたがっていることを分かっていたのに、望む言葉をかけてあげられなかったわ」
目を伏せて、悔いるように告げた言葉。それは王族らしくない弱音であった。長年の関係があるからこそ、話せる心の内。
「──ですから、導師アルチャヤティ。向き合えなかったわたくしの代わりに、あの子の憂いを払ってくれたことを、感謝します」
「そんな、もったいないお言葉でございます」
クンティーの発言に少し焦った様子でアルチャヤティは応えた。役目とただ愛し子を見守りたいという私情からの行為であるので、クンティーに必要以上に下手に出られると彼女も困ってしまう。
なによりも、彼女はどうしてクンティーがそのような行動をしたのかについて気になっていた。
「差し出がましい質問であれば申し訳ないのですが、クンティーさまとあろう方が殿下をないがしろにされるというのは、滅多にないことと存じます。……何か気にかかることでもあったのですか?」
つい、とクンティーは外に目を向けた。アルチャヤティが知る限り、その方角にあるのはアンガの国。かの聖人の如き男の行先である。
「あの武人は、わたくしの……。いいえ、今言うべきことではないわね。いつか、そう、いつか。わたくしに覚悟ができたら、この胸の重みを軽くするために聞いてくれると嬉しいわ」
「分かりました。お待ちしています、いつまでも」
クンティーとアルチャヤティの縁は長い。そのはじまりはクンティーが前王パーンドゥの元に嫁いできた頃まで遡る。出会った頃クンティーはまだ少女であり、従者は養父に連れられるばかりの導師の卵であった。
パーンドゥが呪いが元で森に住むようになる際に連れていける侍従は少なかった。そのひとりとしてアルチャヤティを選んだのはクンティーである。導師となる前は侍女として働いていた経歴があり、外見から夫パーンドゥを誘惑することもないであろう身持ちの固い女。クンティーはアルチャヤティに友にも近い一定の信頼を置いているのだ。そのため、今でも愛息子の従者を務めさせている。それはきっと、これからも。
「──アルチャヤティ、我が子のことをよろしく頼むわね」
「その法衣姿も懐かしいですね。大事な授業の教壇に立つときや叱るとき、あなたはいつもその姿をしていていました」
「あら、そうでしたか? 一番威厳のあるものだからかしら。よく覚えていらっしゃいましたね」
「ふふ。野外授業をさぼりがちだった双子が、その姿を見るがいなや逃げ出していたのを見ていたので」
「ああ、そんなこともありましたね。確かナクラさまが汚れるから嫌だと言っていて……」
「サハデーヴァは疲れるから、でしたね。まったくどちらも困ったものです」
後日、アルジュナとアルチャヤティは儀式の準備をしていた。ところはアルジュナの居住区の、そのまた人目の届きにくい倉庫である。
正装したふたりの周りを離宮中から取り寄せた酒瓶が囲っていた。蓋を開けずとも酒精の濃厚な香りが漂っているため、彼らは口の下半分を打ち覆いで覆っている。
地面にはその他多くの貢ぎ物が所狭しと並べられ、彼らのいる場所と神を招く陣以外は足の踏み場もない。
これよりふたりは インドラ神に目通りするための儀式を執り行うのだ。アルジュナは呼び手兼触媒として、アディティ神の導師たるアルチャヤティは儀式の結び手として。
「……果たしてうまく行くでしょうか」
「さて、どうでしょうね。しかし可能性は高いでしょう。建国祭で各所の祭壇に祀られている今は一番神々との距離が近くなる時期ですし」
もしかしたら、クンティーさまのお言葉通り、離宮からなくなったお酒を探して現れてくださるかも。とは続けなかった。いきなり沸いた突拍子もない考えであるが、あまりにも神に対して
彼女はインドラ神に出会ったことなどない。かつての、記憶を失う前の自分はどうだったかは知らないが。
「どうかされましたか?」
「いえ、大丈夫です。始めましょうか」
陣の近くに跪いたアルジュナの背後でアルチャヤティは祝詞をあげる。オイルランプの火だけが主従の姿を見守っている。
厳かに進む儀式の静けさが破られたのは、程なくしてからだった。
どかん、と青白い稲妻が走り儀式の陣を粉々にする。失敗したか。危険な予感に咄嗟にアルチャヤティは主の前に踊り出た。この場に暗器は持ち込んでいないため、徒手である。
「アルジュナさま! 私の後ろに!」
「アチャー! 危険です!!」
アルジュナもまた、従者を陣から遠ざけようとして彼女を後ろから抱き抱えた。
雷光が次第に人の形を取って彼らの前に姿を現す。これぞ、神の玉体の降臨、と思われたが。
「──なんだ母上呼んだか!!」
しかし、黒い煙をまとって現れたのは怒り狂う神ではなく、酷く焦った様子の神であった。
「誓って
灰色の長髪、青灰色の肌、二対の腕。雷鳴のごとき声で叫ぶ姿は確かにインドラ神の写し身である。落ち着きなく周りを見渡して、パニックになっていることを除けばだが。
そして、目の前で縮こまっているふたりの人間の姿を認めてはた、と動きを止めた。片方は自分に似た気配だ。いつぞやのマントラで授けた人間の息子である。もう片方もまたよく知る気配に似てはいるものの、非常に薄い。つまり、ここに母はいない。よくよく考えればアディティ女神の本体は長い眠りについている。インドラ神が深酒をしている間に目覚めたのでない限り、目の前に現れようはずもなかった。
「なんだ、おらんではないか。母に付き従うばかりのただの導師か」
そう呟いて居住まいを正した神は、息子の正面に座り、そのままだんまりを決め込んだ。勝手に申せ、と言わんばかりの態度だ。
「は、私はパーンダヴァの三男アルジュナです。この度は偉大なる神々の王インドラ神にお目通り願えてとても嬉しく思います」
神は何も口にしない。
インドラには父母の愛がわからぬ。父神はインドラ自身の果てしない痛飲の欲が元で起きた争いの果てに帰らぬ人となり、母神はその父殺しを受けてインドラを地上に放逐した。幼き日は母を恨んだものだが、己より弱きものを見ることで、力の制御を覚えさせようとしたのだと理解してからは少し態度を改めた(今でもその反抗の名残はあるが)。
決して愛されていなかったわけではない。ただ、まっとうな親子の関わり方というものは彼のこれまでの生において無縁のものであった。彼にとって親とは試練に他ならなかったからだ。
故に、息子を前にしてインドラは沈黙する。
「……私にあなたの愛騎アイラーヴァタを貸し与えていただきたいのです。一日で構いません。私が彼の渡る橋を作ります」
彼はまっとうな愛し方はわからないが、それはそれとして息子にちゃんと承認を与えてやりたいし、力を貸したいと考えている。なので、その申し出に対して一も二もなく頷いた。
そして、現れた時の狂乱が嘘のように、インドラ神は数多の酒瓶と共にすうっと空気に溶けいるようにして消えていった。
残るは稲妻の痕跡ひとつ残さず綺麗になった地面と、その中央に置かれた酒瓶のみ。不死の神酒ソーマでこそないが、一生に一度飲めるか飲めないかくらいの上等なものであろう。ぽかんと見つめる彼らは知る由もないが、インドラ神は人間の息子に頼られて嬉しかったのである。
「……私の願いは聞き届けられたのでしょうか」
「恐らく大丈夫ですよ。ほら、あそこにお土産が」
「まだ酒を飲める年齢ではありません……」
「……成人のお祝いにとっておきましょう!」
建国祭当日。大勢が集う街道の上、雲ひとつない晴れやかな空に天地を繋ぐ絹の橋が架かっている。
アルジュナが天幕に向かって射た数多の矢によってしっかりと張られたそれを支えにして、ゆっくりと白い巨像が降りてくる。四面の顔に四つの牙を付けた勇壮な姿。七つの鼻から吹き上げた水が、都に大きな虹をかけた。
インドラ神の遣わした神象アイラーヴァタと、彼の渡る道を作ったアルジュナ。引いてはパーンダヴァの持つ神威に民は大きな歓声を上げた。
「見たかしらガンダーリー! これがわたくしのもてなしよ!!」
神象の勇姿を残そうとする民たちの求めによって、離宮の奥で山と化していた陶器の象たちは再度運び出される。終いにはひとつ残らず捌けてしまった。
──クンティーの計画は大成功に終わったのである。
「──アルジュナ殿下、今日は素晴らしいご活躍でしたね」
「これはどうも、ありがとうございます。しかし私だけの力ではありません。民たちの声援あってのことですよ」
煌びやかに飾られた広間。祭りにふさわしい豪奢な食事。周りを囲むのは有力なクシャトリヤの息女たち。見事にアルジュナと年齢のそう離れていない者たちで揃えられている。なるほど、建国の祝いにかこつけた未来の配偶者候補との顔合わせというわけである。
クンティーはアルジュナたちがインドラ神との謁見を成功させた時にパーンダヴァに追い風が吹いてきたと判断したのであろう。今のこれがその流れを盤石にするための一手ということだ。
アルジュナは表では誠実な対応をしながら、内心溜息をついていた。
インドラ神への謁見、アイラーヴァタの降ろし方についての検討。そして、極めつけは昼の偉業である。流石のアルジュナも天幕に向かって矢を射たのは初めてである。アルチャヤティと彼女に連れられてきた養父グルの助力がなければ、アディティ女神の支配が及ぶ天空に杭を打つことは難しかっただろう。
正直なところ、ここ数日の心労が祟っている。今すぐこの場を辞して休みたいくらいであった。
周りの目を盗んでちらりと周囲を見渡すも、今一番会いたい姿はここにはない。当たり前だ。彼女はこの場ではあくまでアルジュナの従者。彼が求めなければ、宴に参加することなどない。それに元の導師の立場であったとして、高位であるバラモンの娘が呼ばれることはなかっただろう。
「──よう、アルジュナ。少し外の風を浴びに行かねぇか」
長く賑わいの中心にいて、疲弊しつつあったアルジュナに声をかけたのはビーマであった。
「すみません、少し兄に着いて参ります」
「アルジュナ殿下、行ってしまわれるのですか?」
寂しそうに縋り付くような素振りを見せた大臣の娘に、そっと眉を下げて微笑んでみせる。しかしその手を取ることはない。妙な期待をさせれば、家同士の遺恨になるからだ。
静かに踵を返したアルジュナは広間を振り返ることなくビーマの後に付いていった。
回廊を歩く影はふたつだけ。ここでは気を遣う必要はない。
「ビーマ兄ちゃん、ありがとうございます。実のところ少々困っていたのです」
「なに、いいってことよ! それに、俺はこれからちょっと外に出るんでな。誰かに伝えておきたかっただけだ」
「外出……?」
なにやら雲行きが怪しい。もう夜だというのに供も連れないで兄は外に出る気らしい。
「いけませんよ! 先触れもせず行くなんて!」
「そう言うな、民の普段の様子を見るのも立派な仕事だろう?」
未来のハールーン=アッラシード──あるいは水戸黄門──みたいなことを言っている。ビーマは恐らく城下町の祭りを見たいだけである。
「ですが……」
「おまえも来るか?」
なおも言い募るアルジュナであったが、にこにこと笑うビーマに二の句が継げなくなった。アルジュナだって、少しは興味がある。宮殿内の窮屈な祭事でなく市井の祭りであれば、きっと彼女だって──。
「──はぁ、何事かと着いてきてみれば。ふたりだけでは許可できませんよ。せめて私を連れて行ってください」
そんな考えを見抜かれた訳はないが、後ろから投げかけられた声にびくりとアルジュナの肩は跳ねた。
「アチャー……」
恐る恐る振り返ればしょうがないとばかりに腕を組んで仁王立ちになるアルチャヤティがいた。
自分が行かないと言えば、アルチャヤティは兄に着いていくかもしれない。行くとも言っていないのに、知らぬうちに外堀が埋められていた。
進むも地獄、退くも地獄。アルジュナには逃げ場がない。ええい、ままよ。彼は思考を振り払うように首を振って、力強く頷いた。
「……行きますっ!」
「そういえば、昨日は本当に父がすみませんでした」
「ああ……いえ、強烈な御仁でしたね……」
王宮から城下町への抜け道を通りながらしばらく。ふと、アルチャヤティは思い出したように謝罪の言葉を述べた。それに遠い目をしてアルジュナは先日のことを思い返した。
──空に橋を架ける? 夜を征服した王子は、昼まで征服しようというのか! これは面白いね。物理的に実現不可能なことを除けばだが。
どうしたんだい、娘よ。今お父さまはこの王子と話しているのだけれど。
なに? 彼は本気だと?
……冗談は天空の前に太陽に矢が届いてから言うんだね。それができたら、僕は力を貸してもいいぜ。
そんなグルの言葉で一日千本の遠矢を五日間試みることになったのは記憶に新しい。肩が壊れる前に矢の方がなくなりかけた。何しろ、日輪を目指した矢など当たる前に燃え尽きるのが道理なので。落ちて人に当たる心配がないのが唯一の幸いである。
どうにか届かせたいとスーリヤ神を頼ったところ、インドラ神と異なりこちらは返答がなかった。
悩みに悩んだ果て。つい昨日になって、燃えているなら届いてるのだろう、という暴論でグルが助力を決めたことで事なきを得た次第である。それなら初日から手を貸して欲しかった。
「恐らく、ですけど。あの人はアルジュナさまが難題に対してどう対応されるかを見たかっただけだと思います。なんというか自由を教義にしながら、その自由を獲得するために人はどう抗うべきなのか、なんてことを説いているひとなので。変人なんです」
「ヴェーダの伝統に真っ向から喧嘩を売っているようですね。それは破戒僧というのではないですか?」
「うーん否定はしません。信者というより、学者気質なんですよねぇ」
アルジュナは眉をひそめた。アルチャヤティの養父とはいえ、そんな不和を呼びそうな男がどうして王宮付きの導師として招かれているのか。王宮にはまだ彼の預かり知らぬことがあるらしい。
話しているうちに大通りの賑わいが近くなってきた。変装のための鉢巻きを整えたアルジュナの横で、アルチャヤティは背後から付いてきているであろう次男を振り返った。
「ところで、ビーマさま。道はこちらでよろしかった、です……か」
「兄ちゃんいませんね……」
「……まったく!」
ぷんと頬を膨らませるアルチャヤティの横で片手で顔を覆うアルジュナ。
恐らく、ビーマはわざと逸れたのだろう。市井のスパイスを見に行きたかったのもあるだろうが、ようやくアルチャヤティと交流できようになったアルジュナを慮ったに違いない。彼が抱いているのが道ならぬ恋とは思いもしないで。なんてことだ。
仕方ないと言い訳して、ここは楽しむことにした。
「ビーマさまも探さなくてはなりませんしね」
そうして、前を歩いて行くアルチャヤティの手を握った。驚いたようにぱっとこちらを見上げた顔に、なんてことのないように微笑むことはできていただろうか。
困惑の色がよぎる金の瞳に少しだけ、気が引けた。それでも手を離すことはない。
「……はぐれてはいけませんから。一緒に行きましょう」
──アルジュナは、あの夜空の下で自覚した恋心を今は秘しておこうと決めている。この想いを他者に悟られれば、主従である以上にかつて乳母と養い子という関係であった彼らは引き離されかねないからだ。
それだけではない。
父パーンドゥは欲のために禁を破り死に至った。インドラ神は欲のために女神を力付くで我がものとした。
アルジュナにとって、恋とはそのような破滅と暴力の色を帯びている。制御できぬ欲心は、いずれ自他の区別なく被害をもたらす厄災となるだろう。
故に、アルジュナはこの心を誰にも見破られないよう律し続けることを決めたのだ。少なくとも表面上は、今までと何ら変わらぬ高潔な王子であるように。
「あ、アルジュナさま! あのマンゴー、おいしそうですよ!」
「はい、喉も乾きましたしね。丁度よい。あれを買いましょうか」
確かに握られた小さな手をゆるく握り返す。
どうか、今だけは。このまま僅かな熱を享受させて欲しい。──それだけでいいから。
瑞々しいマンゴーに齧り付き、口内に溢れ出た甘美な果汁で背徳の苦みをごまかした。
象の仮面や花輪を付けて束の間の休息を楽しむ主従の背中が雑踏に消えていく。薪に照らされて長く伸びた影ばかりが、ゆらゆらと背後で揺れていた。