カウラヴァ三男、ヴィカルナが舞台に上がります。
雨期の王宮でうごめく陰謀、従者に近づく柔和な影。
敵は己の悪心のみとは限らないのです。
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よろしくお願いいたします。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=336679&uid=188455
【Warning:観測記録閲覧における注意】
本記録は、以下の要素を含むシミュレーションログです。
[未登録霊基の介入]:データベースに存在しない変数(属性:女性)による因果干渉。
[神話解釈の変容]:マハーバーラタおよびインドの神格への独自設定・捏造。
[未実装個体の出現]:原典由来のキャラクター(カウラヴァ等)の独自描写。
[倫理規定の低下]:尊厳喪失、鬱屈した展開。
【System:最終座標は「ハッピーエンド」に固定されています。どのような地獄を経由しても、必ず夜明けに到達します】
◆
──あなたは灯火。暗い森の中で、道を指し示す光。
悪徳の中で貫く道理。それは生きたまま身を焼かれるようなもの。
それでも私は、美しいもののためにありたいのです。
どうか、ごらんください。
──我が煉獄への道行きを。
◆
雨季。日差しが傾いて夜に近付いた
そんな叙情的な雰囲気をかき消すように、金属と金属のぶつかり合う音が鈍く響いている。
「──!」
「──ふっ」
かたや、腰ほどまでもある湾刀を携えた黒衣の大男。かたや、矮軀をひるがえしながら暗器を振るう女。鉄塊の質量は当たればただではすまない暴力であるが、女はそれに暗器を横からぶつけることで紙一重で回避し続けている。
すべては背後に庇った主君と、彼女の使える王家の子息を守るため。
競り合いを続けること数合。しびれを切らしたらしい男が一歩引いて湾刀を振り上げる。
「アチャー……!」
「アルチャヤティ殿!」
飛び道具の使い手に距離を取るのは愚策である。敵自ら隙を作るという暗殺者らしくない動作に、女は瞬時に反応した。利き手の得物ではなく、二本目。逆手で取り出した短剣を投擲する。
──刃が男の仮面を割り、ぱっと赤い飛沫が散った。
◆
雨季に入る少し前のこと。
早朝、人気のない練武場に弓の鳴弦が響いている。湿度を増しつつある空気は、弦を握る手を湿らせて的への距離感を狂わせる。だからこそ、不利な状況を想定した練習にはちょうどよかった。
アルジュナは弓をつがえ、放ち、またつがえる。機械のような反復動作。それは動きばかりではなく、結果もまた同じだ。今まで放った矢はひとつ残らず的に突き刺さっている。
「……限界だな」
流石に的に刺さった矢が多過ぎる。的はもはや針山のようだ。
は、と留めていた息を吐き出したアルジュナはゆっくりと弓を下ろした。左右を振り返り、危険がないことを確認して的に歩を進める。矢を回収しなければ。
鏃や矢羽根に問題がないことを確認しつつ、一本、二本と矢筒に仕舞うことしばらく。にわかに外が騒がしくなった。……いるのは、待たせているアルチャヤティだけのはずだが。
アルジュナは最後の一本を矢筒に入れ、踵を返す。どことなく不穏な予感が風となって彼の背を撫でた。
「──そういえば導師よ、いい縁談などはないのか?」
アルジュナが戸口を抜けた先には、従者に話しかけるドゥリーヨダナがいた。アルジュナが来たことに気が付いたのか、カウラヴァの長兄は含み笑いのまま振り返る。
「ああ、アルジュナよ。今日もご苦労だなぁ。まったく弟たちに爪の垢を煎じて飲ませたいものだ」
「どうも、ドゥリーヨダナ。思ってもいない世辞は結構です。それで、何用ですか?」
「いや、なに。おれ様はこの導師に用があってな。いい話を進めにやってきたのだ」
「……縁談などと。この間、私をちんちくりんだとおっしゃっていた方が、ずいぶんなことを言いますね」
ドゥリーヨダナにうろんげな眼差しを向けるアルチャヤティに対して、彼女の背後に陣取ったアルジュナは話の流れを察して静かに緊張した。じわりと握りこんだ指に汗が滲む。
従者に縁談? ありえない、馬鹿げた話だ。彼女の主は俺だ。そのような話題は自分を通してからにしてもらおう──。
そう返すよりも、ドゥリーヨダナの勢いの方が速かった。
「──例えばそう、おれ様の懐刀にしてカウラヴァの参謀! ヴィカルナは自信をもって勧められるぞ」
アルチャヤティはいぶかしそうに眉をひそめた。確かにヴィカルナと言えば、カウラヴァ随一の良識のある人物であり、人望も厚い。しかし、わざわざ身内を縁談の相手に勧めてきた理由がわからない。
「……ドゥリーヨダナさま、なにを企んでおられるのです?」
経験上、このようにドゥリーヨダナが振る舞うときはあまりよい流れではない。すでに盤上に駒は配置されている。返礼のサリーの件もそうだった。
「いやいや、おれ様はおまえを思ってのことだとも。アディティ女神の導師であるおまえが、パーンダヴァの従者に収まっているなど勿体ないと思ったまでだ。導師として、婿取りなどどうだ?」
確かに、嘘は言っていないのだが。
好き勝手言い募るドゥリーヨダナに、アルジュナは堪忍袋の緒が切れそうになる。しかし、彼が口を開く前にドゥリーヨダナの首が傾いた。
「いだ、いだいだだだだ!!」
「──いない人間のことで、よくも楽しそうに話をしているじゃないか。なぁ、兄上」
ぐいぐいと引っ張られる耳。いつの間に近付いていたのか、影のようにドゥリーヨダナの背後から現れた、くだんの人物ヴィカルナの仕業であった。涙目の兄を戸口から引き離す彼の顔には、少々疲労が滲んでいる。
ほぼ同時期生まれなので、カウラヴァはあまり年功序列の意識がない。流石に長兄はやはり特別であるが。時にはこうして、実力行使でしょっぴかれることもある。
「アルジュナ、アルチャヤティ殿。兄が失礼をしました。……こんな与太話は無視していただいて構いませんよ。ひとごとに介入したところで混乱しか起こさないのだから、この男は」
そこで、ちらとヴィカルナはふたりの方を窺った。静かに成り行きを見守っているアルチャヤティに対し、アルジュナは──。アルジュナは、無であった。正しくは無であろうと尽力していた。その視線の鋭さは見なかったことにしたいくらいだが。紛うことなく、兄は逆鱗の上でタップダンスをしたらしい。清廉な主君の忠臣に粉をかけるなど、竜の守る至宝に手を出したようなものだ。
「……ふむ、邪魔をしたようだな? では早々に退散しましょう」
「こら! 離さんかヴィカルナ! おれ様をなんだと思っている!」
「もちろん敬愛しているとも。たまに……いや、頻繁にかなり憎らしい兄上ですが、なにか」
「なにをー!」
一礼ののち、暴れるドゥリーヨダナを引きずってヴィカルナは練武場に背を向けた。わめきながら運ばれるドゥリーヨダナだったが、その内心では微笑みを浮かべていた。
──計画通り、だ。
「相変わらず、嵐のような方ですねぇ」
アルチャヤティの、渦中にいるのにどこか他人事な感想に、アルジュナはすぐに返答を返せなかった。
「……ええ、本当に」
数秒遅れて、喉から声を絞り出すように同意する。嵐は引っかき回すだけ引っかき回して、去ってしまった。
残るはこの、やり場のない憤りばかりだ。
アルジュナは渡された水で喉を潤し、手拭いで汗を拭った。そして、再び矢筒を手に練武場に向かう。
「……アルジュナさま、続けられますか?」
「はい、少し頭を冷やそうかと」
背後からかけられた声に、平坦な返事をするのがやっとであった。そんなアルジュナの内情など知らず、彼女はいつも通り微笑んで彼を見守っている。
「わかりました! では、私は甘いものでも用意して待っています」
戸口から入り、アルチャヤティの目が遮られる。暗がりへ荒い足取りで踏み入れたアルジュナが纏うのは間違いなく怒気である。道場に乱れた心で入るなど愚の骨頂。しかし、彼はもう、彼女の前にいられなかった。
これ以上、そばにいれば──縁談を考えたことがあるのか、などと。踏み込んだことを聞いてしまいそうだったから。
深呼吸ののち、気を静める。弓をつがえ、ただまっさらな的にのみ集中する。いつもと同じだ。射れば当たる。
そうして放つ瞬間、汗と湿気でぬめり気を帯びた弦の狙いがわずかにずれた。
「……チッ」
矢はあらぬ方向へと飛んで、そのまま落ちた。
──毒は、静かに彼を蝕んでいる。
◆
ざあざあと雨が降っている。
暗い空の下、回廊を駆ける侍女。その足取りは不規則で、確かな向かう宛もない。ただ一心不乱に足を動かすばかり。
ひたひたと影が迫っている。
女は姿の見えない追跡者から逃げていた。回廊を曲がっても、その音は途絶えない。ひたすらあとから付いてくる。
曲がって、曲がって、曲がった先で彼女は袋小路にたどり着いた。雨に濡れて黒く沈んだバルコニー。もうどこにも逃げる先はない。なのにずっとそれは、追いかけてくる。
ああ、まるで──その足音は。
頭の中で、響いているみたい──。
これは夢かうつつか。その答えはどこにもない。
堂々巡りの思考を終わらせるため、狂った脳は狂った答えを差し出した。
そうだ、ここから逃げられるならなんでもいい。
女はそのまま身を乗り出して──落下した。
◆
「──ねぇ、聞いた? 後宮付きの侍女の話」
「ええ、飛び降りで大怪我しちゃったんですってね。なんか追われてたみたいな噂を聞いたけど」
「最近物騒よね。不審者騒ぎもぜんぜん収まらないし」
「結構、襲われた人も多いみたいね。この辺は出てみないみたいだけど、ひとりじゃ歩けたもんじゃないわ」
「確か名前は……ええっと──」
「「『
◆
「ッ──これは予想外ね……! まったく、天候の占いが外れるなんて……!」
突如大荒れになったスコールの中、アルチャヤティは走っていた。ぱしゃぱしゃと踏みしめた地面は水はけが悪く泥となり、サンダルを汚す。よりにもよって、着ているのは白いサリー。せめて汚れぬようにと裾をたくしあげて走るばかりだ。とんだ淑女もいたものだ。
それもこれも、今朝の礼拝所からもたらされた天気占いが外れたせいだ。
「インドラ神も気まぐれだこと!」
当のインドラ神がいれば、
そうして広過ぎる中庭を抜け、逃げ込んだ先は宮殿の外れ。少し寂れた東屋。そこにえいやとばかりに転がり込んだ。
「──何事だ!」
雨音を割る、鋭い一喝。それに彼女はおっかなびっくり肩を跳ねさせて振り向いた。
それを見て、敵襲に備えるように立ち上がった男の桃色の目もまた、驚いたように丸くなる。
──彼女にとって誤算だったのは、雨のカーテンを抜けて勢いよく飛び込んだ先に、先客がいたことだろう。
「──すみません、このようなものしかなく。寒くはありませんか?」
見事な濡れ鼠となったアルチャヤティの様子に、少年は不躾にならない程度の自然な動作で目を背けて、予備の肩布を差し出した。それを受け取り、彼女は肩に纏わせる。
少し陰のある濡れた土の香りが鼻をかすめる。彼の
「ありがとうございます、ヴィカルナさま。私の落ち度ですのに、こんなによくしていただいて……」
「いえ、婦女を雨の下に放り出さぬのも責あるものの勤めでしょう。さぁ、アルチャヤティ殿。こちらもどうぞ」
新しい杯で手渡されたチャイを口に含んで、ほう、と息を吐く。雨の冷たさが遠ざかり、スパイスの効果もあって芯から少しずつあたたかくなっていくようだ。……これだって、本当は彼自身のために用意したものだろうに。
至れり尽くせりの気遣いにアルチャヤティは眉尻を下げる。そこに滲んでいるのは申し訳なさだ。
スコールがやむまでここにいたらよいと言ったのはヴィカルナだが、まさかここまで世話を焼かれるとは。最近は物騒ですから、ひとりで行かせるわけにはいきません、ともっともらしく言われれば、アルチャヤティにはどうしようもなかった。
「しかし、このような荒れ模様の日に外れの客間を使われるとは。珍しいことをなさいますね」
「王宮周辺の応接間が貸し切られておりまして。このあたりしかなかったのです」
「貸し切り、ですか。それはまた不運な」
「ええ、普段はこのようなことはあまりないのですが……」
「そうですか……」
なにか気になることでもあったのか、ヴィカルナは手元に広げたヤシの葉にインクでなにかを書き付けている。束ねられたそれは、よくよく見れば王宮の見取り図を分割したもののようだ。
「なにか調べ物を?」
「はい、少々最近の夜荒らし騒ぎの動向が気になっていましてね。警備の見直しなどを考えているところです」
「まあ、ご立派だこと」
パーンダヴァと異なり、カウラヴァは生まれたときから王位継承権がある。そのために幼少期から王族としての責務や立ち振る舞いを学んでいるものだが、それにしたって成人前から政務に関わるほどだとは。
「いえ、私が担当しているのはあくまでカウラヴァの居住区周辺の配置だけですよ。他はただの私的な興味です。……よし、これでいい」
そう言うと、ヴィカルナは葉に余ったインクを吸わせるようにくるりと筆先を回して絨毯の上に置いた。そのままアルチャヤティの方に体ごと顔を向ける。
彼にもやることがあってこんな外れにいるのだろうが、今はこのまま彼女の話し相手になってくれるつもりらしかった。
「──ああ、そのサリーを着てくださっているのですね」
今彼女が纏うサリーは、あの前夜祭の日に彼女が渡したお守りの代わりにドゥリーヨダナが命じ、ヴィカルナが手配したものである。主であるアルジュナに合わせた純白の衣。カウラヴァの印こそ入っていないが、彼らの間では通じる友誼の証である。
「ええ、いただいたものこそ使わなければ。まぁ、今日は選択を間違えた気がしますが……。まったく、快晴の予定だったので私ときたら傘すら持ってきていないんだから……」
「……快晴、ですか?」
ヴィカルナは少し不思議そうに目を丸くした。
「おかしいですね。今日はちょうど今のように、昼頃から大雨の予報だったはずですが」
「そうなのですか?」
記憶違いか伝令が間違っていたのかしら、と頬に手を当てるアルチャヤティに対して、少年は茶化すでもなくじっと考え込んでいる。
……しかしまぁ、よくできた人物であること。
ドゥリーヨダナのように不遜な様子でも、ドゥフシャーサナのような居丈高でもない。まさに貴公子然とした姿だ。このような人格者ならばドゥリーヨダナが太鼓判を押すのも納得だった。──愛し子であるアルジュナと年齢がひとつしか変わらぬという時点で、彼女にとっては縁談の話は現実味を欠いた、あまりに不釣り合いな戯れ言でしかないが。
アルチャヤティにとって彼らは将来が楽しみな少年たちであり、それ以上も以下もない。そんな彼らを導くことこそ己の矜持であると認識している。だから、彼女の心の中に腫れた惚れたが入り込む余地は微塵もないのだった。
ふと、そこで思う。そういえばこの王子は今までアルチャヤティの前で慇懃な態度を崩したことがなかった。この間もそうだった。彼女の主でありヴィカルナにとってはいとこであるアルジュナに先に話しかけながら、その敬意自体はアルチャヤティの方に向けられている。
「……ヴィカルナさまは、どうして私にそのような丁寧な対応をなさるのですか?」
導師としての位は持つが、基本的に法衣を纏わぬ内は彼女はアルジュナの従者である。王子にそのように尊重してもらう立場ではない。同じ世俗に生きる者でも、王子たちの師としているドローナと、かつて師でありながら今は王子の侍従としてあるアルチャヤティでは状況が異なるのだ。
まぁ、アルジュナ以外の兄弟が彼女に気安いのは野外教室のころの態度が残っているのをそのままにしているだけというのもある。
「簡単なことですよ。あなたは確かにパーンダヴァの従者ですが、カウラヴァの臣下ではありません。それに他の者たちは忘れているようですが、あなたの本来の階級はバラモンだ。普段は世俗にいるとは言え、まさにアイラーヴァタの件のように有事の際には神意を問う導師。それをどうして敬まずにおれましょう」
にこりと笑ってヴィカルナはそう述べた。アルチャヤティは彼のあまりの聖人ぶりに頷いて感心するばかりだ。
「まぁ……ずいぶんと敬虔な方なのですね。バラモンと一口に言っても、色々な者がおりますのに」
しかしその賞賛にヴィカルナはうっと息を詰めたような顔をした。痛いところを突かれたような顔だ。そして、いたたまれなさそうにゆっくりと目を脇にやると、彼はようやく口を開いた。
「……いえ、なによりも私個人として、位に関係なく主君のために尽力するあなたを尊敬しているのです。なにより高位なバラモンが、人の従者として尽くしている、それはとても尊い行いでしょう。こちらは主でなく兄や民たちで比べられるものではなりませんが、似たような立場なので……その、ある意味理想であると言いますか……」
そうして、はにかむように頬をかく仕草は年相応の愛嬌そのものだ。なんというか、ドゥリーヨダナを相手にしているときよりも、その表情は幾分もやわらかかった。
「あら、それはありがとうございます。縁あってのことですけれど、嬉しいですわ」
かわいらしいこと、と微笑ましそうに頬を緩めたアルチャヤティは、そのまま東屋の外に目を向けた。降りしきる雨の向こうから近付いてくるような人影は見えない。要人のそばには護衛や世話係が付いているものだが、彼のそばにはそのような気配はなかった。先ほどのお茶だって、彼自ら用意していた。こんな静かで、人気のない場所に王子がひとりでいるなんて珍しいことだ。
「そういえばヴィカルナさまは、侍従を連れていらっしゃらないのですね」
疑問をそのまま口にすれば、彼は朗らかに笑った。
「ははは、カウラヴァは王子が多過ぎてひとりひとりに付けるのはとてもとても! ……何なら我々の方が居住区の侍従より多いくらいですからね。気が付けば、外出時はお互いが持ち回りで護衛するようになっていました。今は私の代わりにドゥフシャーサナが兄上に付いていることでしょう」
「それで……今日はおひとりなのですね」
「ええ、賑やか過ぎる兄弟たちと一緒にいると進むものも進まないもので。時たまこうして離れたところで過ごしております。おまえを見ていてもつまらないと言われて、この通りです」
さびしいですね、などと続ける彼であったが、言葉とは裏腹にその顔は満足げだ。
……まぁ、確かにドゥフシャーサナとまではいなくても、彼の0.75が百人近くいるとなると……大変だろうなぁ……。
ぼんやりとアルチャヤティが考えていると、目の前が静かになったことに気が付いた。ヴィカルナは黙り込んで彼の分のチャイを見つめている。杯の縁をなぞる指は少し神経質で、思い詰めた様子だ。
「ヴィカルナさま?」
「……ああ、すみません。無作法をしました。事件のことが頭から離れなくて」
ごまかすように苦笑するヴィカルナであったが、アルチャヤティは笑わない。ただ、静かにその先を待っている。その様子に降参とばかりに少年は両手を顔の横に上げると、苦笑を消してみせた。
「……では、導師としての見解をお聞きしたいのですが。アルチャヤティ殿。先日の不審者の件、あなたはどのようにお考えですか」
なるほど、それが本題であったか。今このタイミングで第三者の見解を欲しがると言うことは、先ほど彼自身が口にした警備の見直しで留まるつもりがないということだ。ヴィカルナは真犯人の究明を行っているらしい。
アルチャヤティは事件の被害者とおぼしき同僚たちへの直接の関わりこそ少ないものの、主であるアルジュナの暮らす王宮が危険に晒されているのを見過ごすつもりはなかった。解決に役立つならいくらでも、と彼女は自身の心境を述べることにした。
「……いささか、できすぎかと。今までに何人か怪我人がいるのに、不審者の姿を視認していない、あるいは呪術による探査に引っかかっていないというのはおかしな話です。まるで、最初からそこに穴が空けられていたみたい」
「──同感です。この事件は状況が整い過ぎています。警備が死角の監視を怠るなどありえない。見えないところにこそ悪徳は蔓延るのです。ならば、そこに常に目を向けておくことこそ抑止というもの。それが働いていないということは……」
「……ヴィカルナさまはもしや、内部の犯行であるとお考えですか」
その問いにヴィカルナは黙って膝の上で手を組み合わせた。少し、力が入り過ぎて白くなった指。それが、なによりの答えである。
一呼吸ののち、少年は真剣な顔でアルチャヤティに向き直った。
「導師アルチャヤティ、あなたに頼みがあります。どうか、被害を受けた人々の慰安のため──ひいては、真相を探るための隠れ蓑として、あなたの力をお貸しください」
──アルチャヤティはその申し出を受けることにした。
「──ああ、雨がやみましたね」
「付近まで送っていきましょう」
「お言葉に甘えましょう。……あ、少し上がられますか? たいしたお構いもできませんが」
「あー……、魅力的なお誘いですが……。そちらはやめておきます。私はアルジュナと事を構えたくはありません」
冗談めかして告げた言葉であるが、あながちそれは嘘ではなかった。先日、ドゥリーヨダナが縁談の話をした際、アルジュナが彼らに向けていた視線──あれは独占欲であった。竜が宝玉を囲うような剥き出しの攻撃性をヴィカルナは正しく認識している。清廉潔白で知られるいとこが持つ、主としての意識。人間らしいその片鱗を少しだけ微笑ましく彼は思っている。
ただ、ヴィカルナの誤解があったとすれば──その独占欲は洞穴の主として宝石を守る竜だけではなく、得物を囲う飢えた獣の側面を備えていたことだ。
いとこが彼女に抱いているのが恋情であると知っていたのならば、ヴィカルナはアルチャヤティにこのような形で助力を願うことはなかっただろう。──まさか神の正義の膝元、パーンダヴァの王子たるアルジュナが年の離れた乳母に懸想しているなど予想のしようもないことだが。
いずれにせよ、導師への敬意のためにアルジュナを通さず直接要請をしたことが彼の悪手であった。
「では、次のスーリヤが微笑む日に」
「ええ、また後日あの東屋でお会いしましょう」
◆
「アチャー、お帰りなさい」
アルチャヤティが帰還すると、そこには、満面の笑みで手ずからリネンをもって出迎える主がいた。なんでさ。
「ただいま戻りました。ところで、なぜアルジュナさまがお迎えを?」
「迎えがいるというのは素敵なことだとこの間学びましたので。……やはり、濡れてしまったのですね。傘を持っていっていなかったようなので心配していたのです。拭っても?」
「はい?」
疑問の声はイエスと捉えられてしまったらしい。そのままそっとリネンをかけられて、優しくぽんぽんと髪の水気を拭われる。
「よい生地ですね。借り物ですか」
ヴィカルナから借りた肩布はついでとばかりに奪われてしまった。他意はなく、ただ単に拭くのに邪魔だったらしい。
「いや、あの、それは確かに借りたものですけど……って! お待ちくださいアルジュナさま! 主が侍従の髪を拭くだなんて!」
リネンの下でわめく間にも、手は止まることなく髪の一房一房を挟んで確かに湿気を拭い去って行く。神の手腕である。こんなところに、技量の才を使わないで欲しい。
「私はいつもあなたからこれ以上のものをいただいていますよ。なに、そうしてもらったものを返しているだけです。乳母が風邪を引きそうなときに、労うのは悪いことでしょうか?」
ここで乳母と養い子の関係を出すとは。ずるい。恐ろしい少年に育ってしまった。ぬぐぐ、と歯を食いしばるばかりのアルチャヤティである。
「耳、拭いますね。くすぐったかったらすみません」
「わっ」
しかし、その手がリネン越しにやわらかく耳を挟んでくると流石にその状態に耐えられなくなった。
「──もういいですから! ありがとうございます! 私は、湯浴みを、してきます!」
彼女はリネンを奪い取ると、脱兎のごとく駆けだした。照れているというよりは、毛を逆立てて威嚇する野生の小動物のそれである。その場に留まったアルジュナは、少しだけばつの悪そうに眉を下げて、されど幸せそうに眺めていた。しかし、回廊の先に消えるすんでのところで、くるりと彼女は振り返る。
「どうしました?」
「あ、これはお伝えしておかねば。最近の夜荒らしの騒ぎでヴィカルナさまに協力をお願いされたので、これから数日空けることが多くなると思います! 導師としての慰問です! 申し訳ありません!」
「は」
ぴしりと笑顔のまま固まったアルジュナを振り返ることなく、小さな影はその場で礼をして去って行った。
彼の手に残った肩布ばかりが水を吸ってひどく重たかった。ようやく意識を向けたそれは、パーンダヴァの居住区では嗅ぎ慣れぬ、湿った樹木の気配を纏っている。地に足を着けたおおらかな根の香りの裏で、かすかに香るのは熟れた花蜜を煮詰めたような重みのある甘やかさ。
アルジュナの涼やかな白檀をかき消すようなそれに、じわりと足の先から淀みが這い上がってくるような気がした。