兄たちをのさばらせておくのも/彼女を余所の男に貸しておくのも……さすがに我慢の限界だ!
※年齢不詳の少女姿の人物が飲酒をする描写があります。中身は成人済みの人外です。ご容赦ください。
※ピアスで少し耳を痛める描写があります。
※あとがきに短話あり。
王宮の外れ、木々に囲まれたそこには療養施設がある。白壁に囲まれた施設は静かで、自主的に訪れる者は患者か見舞いの者ばかりだ。
今日はそこに珍しい客人がいた。職員に案内されながら、静かに正午過ぎの回廊を進むのは法衣を着た導師だ。
定期的に聖堂から祝福のために導師が来ることはあるが、このように供も連れずひとりで来訪するのは珍しい。──特にそれが女の導師ともなれば、なおさら注目の的であった。
緊張しているのか固い歩みになっている職員とは対照的に、彼女の歩みには迷いがない。視線を気にすることもなくまっすぐに前を見ている。
「こちらです。それで、あの、そのぉ……」
「ええ、長居はするつもりはありません。急な伺いでしたのに、引き受けてくれてありがとう。あとは問題ないわ。どうぞ、あなたの仕事に戻っていただいて」
ははあ、と恐縮して背を向けた職員を見届けて、導師は衝立の前で深呼吸をした。
これより彼女が挑むのは戦地である。剣や棍棒でなく、知と言の葉がものを言う戦──すなわち、情報戦である。
「こんにちは、セーラム。女神の活力があなたにありますように。……お休みのところ、ごめんなさい。今、時間に問題はないかしら」
「おお、これはアディティ女神の導師さまではありませんか! 女神の恩寵に感謝いたします。……ところで、あたくしのような者にどのようなご用事で?」
「昨今、王宮が賑やかでしょう? 平穏を届けるようにと聖堂より慰問に参りまして」
「そ、そうでしたか。ありがたいことです」
頭を下げる中年の男に穏やかにアルチャヤティは話を続ける。彼が負ったという刀傷の調子や日々の仕事ぶりの賞賛、療養生活で困ったことはないかなど、内容は他愛もないことだ。
話ながら彼女の顔はゆっくりと部屋を見渡していた。目を留めたのは寝台横のテーブルだ。そこには療養中の清貧な生活をしているとは思えないほど新鮮な果物が置いてある。それから、慌てて隠したと見えるリネンの端から覗く鈍い輝き。
彼女がなるほどと独りごちたときだった。急に外が騒がしくなった。
悲鳴のような叫びとおやめくださいと咎めるような声。そして、大きくて威圧的な靴音。その騒ぎは丁度、彼らの部屋の前で止まった。
「──はは、導師サマ直々の訪問とは。たかだか庭師のおまえがいいご身分じゃねぇか、ええ?」
なぁ、セーラム。
衝立の裏からのそりと顔を出した少年は、そのまま荒っぽく壁に背を預けて部屋の中にいる彼らをゆっくりと睥睨する。
華やかで大きな耳輪、胸元を惜しげもなく晒すように着崩した服。額をあらわにするように後ろに撫で付けた前髪。それは──。
「ひぃドゥフシャーサナさま!」
暴虐の化身のような姿に、セーラムはぶるぶると震え上がる。
「……ここは療養のための場所ですよ。ところを弁えてください」
「王宮はおれたちの庭のようなものだろう。おれの好きなようにして何が悪い?」
そういって彼は口の端を釣り上げて残忍に笑った。そして、ぐいっと腕を上げて、そこに巻かれた包帯を見せつける。
「おれはただこいつを診て貰うついでに、そいつに会いに来ただけだ。……なぁ、セーラムよ。いつまで寝ていやがる。
がん、と一度壁を蹴り付けて彼は寝台の方に向かってくる。
その様子にセーラムは慌てた様子で少年とアルチャヤティを交互に見た。
「な、何を言うんですかいドゥフシャーサナさま! 仕事ってあたしの仕事は庭の管理さ。それ以外に何があるって言うんだ!」
「それ以上近付かないでください。彼は怪我人ですよ。刺激してはいけません」
セーラムを庇うように立ち塞がるアルチャヤティであったが、片手で肩を押されて体勢を崩してしまった。小さな身体はあっけなく地面に膝をつく。
「ッ……」
地に伏した女を見下ろす目が細められ、瞬きをひとつ。
「──どけよ、チビ。おまえはお呼びじゃない」
しかし、そのまなざしは次の瞬間には冷たい視線に変わっていた。それに彼女はきっと睨み返して、そのまま小走りで去って行く。後には興奮したような声で喋る男の声だけが密やかに響いていた。
──へへ、ドゥフシャーサナの旦那。うまくいきましたねぇ! まさか依頼された他のご兄弟でなく、あなたさまが来るとは思いませんでしたが。あたしの演技もすてたもんじゃあないようだ!
◆
「──たい……ッへん、申し訳、ございませんでした……ッ!」
アルチャヤティは困っていた。目の前でビーマほどではないとはいえ、大きな体格を丸めて脚の裏に腕を回し耳を掴む
一般的には可愛らしくも見えるポーズであるが、彼女の位置からはヴィカルナの耳たぶが炎症を起こして赤くなっているのがはっきりと見えている。
ただでさえ似合わぬピアスで耳を痛めているのだから、自ら痛めつけるのはやめて欲しかった。
「あのですね。推測するに、私への暴言とか……」
「うっ」
「……肩を押したことなどを気にされているのだと思いますが……」
「ああ……!」
ヴィカルナはやっとムルガーを解いて脱力したように療養所から少し離れた東屋の柵にずるりと、体を預けた。許されたと思っているのではなく、どうにでもなれと白くなってうなだれている様子だ。こうなると手が付けられない。アルチャヤティの言葉も耳に届いていない様子である。まったく、としばらく腕を組んで眺めるのみに留める。しかし彼女の気はさほど長くはない。ついに実力行使に出た。
「ヴィカルナさま! 失礼しますっ!」
伸ばした両手で彼の頬を掴んで左右に引っ張る。みょいんと小さな痛みと共に間抜けに伸びた頬。仮にも王子への態度とは思えない仕草に、ヴィカルナは目を白黒させてアルチャヤティを見た。──ようやく目が合った。
「どれもすべて油断させるための計画の内! 押されたときに倒れたのはわざとです! あなたの力が弱かったから……あれじゃ疑われるでしょう! あなたが私を共犯者にしたのですよ、もっと堂々となさい!」
「ひゃ、ひゃい……すみまへん……でひた」
アルチャヤティの身長に引っ張られる形でヴィカルナは膝から地面に付いた。心なし垂れた犬の耳が見えそうなほどのしょぼくれ具合であったが、その身なりは対照的である。金のアクセサリーをじゃらじゃらと腕に付け、服は金糸をこれでもかと織り込んだ豪奢なもの。油で固めた前髪をヴィカルナが煩わしそうにかき混ぜて下ろしたことで、ようやっと威圧が弱まり普段の穏やかさが顔を出した。
──そう、先ほどまでセーラムを脅し……鎌をかけていたのは、ドゥフシャーサナ……ではなく。兄に似せた装いをしたヴィカルナであったのだ。
「というか、よくそれだけの飾りを用意しましたね。ヴィカルナさまご自身は装飾品を集める方でもないでしょう?」
「ええ……その通りです。これは兄たちから押しつけられたものでして。使い道に困って死蔵していたのを引っ張り出してきました」
つまらなさそうに彼の指が装飾品の鎖をつまみ上げる。じゃら、と音を立てたそれを引きちぎるように外して脇に置いた。
「正直なところいくらか侍従達に渡したいくらいなのですが……すべてカウラヴァの印が入っておりましてね。そのまま渡すと角が立つので困ったものです」
「知り合いにいい金細工の職人がいますよ。少し売値は下がりますが、印を削ることはできるかもしれません。ご紹介しましょうか」
「ほんとうですか! 助かります。しかし……はは、なんとなく闇取引じみてきました」
「違いありません」
ははは、と冗句のように軽く笑ったヴィカルナだが、やはりその表情はいまいち明るくなりきれないといった様子だった。
ついにはアルチャヤティの目から逃れるように腕で顔を隠し、膝を抱えてしまった。
──実のところ、ヴィカルナが悔いているのは彼女へ暴言を吐き、無体を働いたからというだけではない。
ヴィカルナは未だ落ち着かぬ自身の高揚感に後ろめたさを覚えていたのだ。あの狂犬のような兄の真似をして、威圧的に振る舞い、立場の低い者を恫喝する。ああ、その堕落の体験のなんと甘美なこと!
「ああ、穴に入りたい……」
念には念をと纏ったサフランのかぐわしく蠱惑的な香りすら生々しい。ここにいるのがアルチャヤティでなければ、ヴィカルナは自己嫌悪と罪悪感のあまり、水路にダイブしたい気分だった。いや、流石に迷惑なので実際にはしないだろうが。少なくとも即座に水浴びをしていたのは間違いなかった。
──どれだけ抗おうと、やはり私は悪徳のひとつなのかもしれない。
特に今回の調査で判明した事実もそれに拍車をかけている。夜荒らしとして王宮を騒がせ、混乱の種を蒔いているのは何を隠そう──自分の身内、なのだろうから。
「──私はアルジュナが羨ましいです」
ぽつりと、彼の口から弱音が漏れた。
「悪徳の中でなく神の正義の元で臆することなく力を振るえる彼が……」
すみません、忘れてください。続ける言葉はか細くて、今にも失せてしまいそうだった。
「……ヴィカルナさま」
正直なところ、アルチャヤティの感想は真逆であった。経緯はどうあれ、動機は王宮の難を除きたいという立派なものだ。そのために泥を被ったことは誇りこそすれ、責められることではないだろう。誰も傷付けてはいないのだし。それに、なによりこうして悩んでいる時点で悪逆にはほど遠い人間性だった。
立場こそ違えど、彼女の主とよく似た抑圧具合である。
彼女の頭には先日市井の祭りを楽しみたいからという理由で王宮を抜け出そうとしたビーマが浮かんでいる。あるべき道を少しはみ出したことを楽しく思うのは、夜中に食べる間食のようなものだ。健全な心の働きであろう。適量なら息抜きである。……実際アルチャヤティだって。
「私は少し、楽しかったですよ」
「楽し、かった……?」
しゃがんだヴィカルナと対照的に、アルチャヤティはひょいと東屋の欄干に飛び上がって腰を下ろした。ゆらゆらと放り出した足まで揺らす。常の淑女らしくない、どこか少女めいた仕草であった。
「はい。変装して潜入して、いつも通りの日常を過ごしているみなさんをちょっぴり騙して、成果を勝ち取ってくる。小さな冒険のようなものですわ」
ぼうけん、とヴィカルナは小さく口の中で呟いた。今の一言で彼女の印象がひっくり返るような心地がした。外から見ているだけでは分からなかったが、思いの外この女性は遊び心に溢れているらしい。ヴィカルナが苦悩する横で、楽しんでいたなどと言うのだから!
しかし、彼はそれを否定できなかった。道を外れる高揚感以上に対等な誰かと共に自分の信念を実践するというのは得難い経験であったからだ。
「ヴィカルナさまは……民のためと言いますが、本当にそれだけで、そんなに辛い思いをしているのですか?」
先ほどとは打ったかわった静かな問いに、ヴィカルナは組んだ拳に力を込める。
「……私は、許せないのです。自分の立場にあぐらをかいて、まるでその輝かしさが己だけのように振る舞うことが。我々の生は数多の汗と血涙の上に立脚しているというのに」
王族やバラモンは確かに煌びやかな生活を送っている。されど、それはヴァイシャや不可触民達の日々の働きと上納によって維持されるものだ。彼らが一斉にボイコットをすれば、立ちゆかなくなる制度である。兵を出して鎮圧はできても、一度崩れた均衡は長くは持つまい。
「捧げられたのなら、せめて我々は彼らを守らねばなりません。それこそが責任であり、あるべき報いです」
震える声で、されど最後まで告げる。今まで誰にも話したことのない、彼の信念の一端だ。
甘いのかもしれない、為政者としてはあまりに威信が欠けているものかもしれない。されど、一度戦地に行けと命じたのならば、その責を負うことこそが為政者が示せるなによりの誠実さであると彼は信じている。
果たして彼女はどんな反応をするのだろう。顔を見るのも、言葉を聞くのも恐ろしかった。
「なるほど、ご立派。しかし、たまには息を抜かないと、先にあなたが折れてしまいそうですね」
されど、答えはそんな淡々としたもので。更には頭に布まで降ってきた。アルチャヤティがわざと落としたものらしかった。日よけ代わりのリネンのストールである。
「わぷっ」
遮られた視界。眩い太陽はここにはない。ただ、それがもたらす光と影だけが弱い輪郭でヴィカルナの視界を刺激する。
ああ、なんてここは、息がしやすい。
「──ヴィカルナさまは、私の養父をご存じですか?」
薄い壁の向こうから彼女が問う。
「は、はい。あの、ご高名な導師グルですよね。自由という概念の実践的な伝授者として民にも人気だとか」
「はい、とても綺麗な言い方をしてくださってありがとうございます。その、一歩間違えたら現体制に喧嘩売ってるようなファンキー僧侶です」
「はい?」
聞き間違えかな、ヴィカルナは布の中で首を傾げた。なにか今、高名なバラモンを評するとは思えない発言が聞こえた気がするが。
「え? ファンキー僧侶です」
聞き間違いじゃなかった。
「えっと、そうだな……以前顔を合わせたことがありましたね。その調子で頑張りなと背中を叩かれたのでよく覚えています」
「ああ、ヴィカルナさまは評価が結構高かったんですね。確かに、あの人のお気に入りになりそうな気がします」
「それはどういう……?」
アルチャヤティはそれには応えず、話を続けた。
「知っているなら話は早いです。私の養父、グルはですね、名前を捨てる前はとんだやんちゃ坊主だったそうです」
「それは……兄上たちよりも、ですか」
「そうですね……悪辣さでは流石に負けると思いますが、少なくとも容赦のなさと冷酷さではカウラヴァのみなさまをしのぐかと。出会った者は死を覚悟しろと言わんばかりの戦闘人形ぶりだったそうで」
兄弟たちがより悪辣であると評価されたことを喜べばいいのか、悲しめばいいのか?
それにしても、冷酷とは。流石に戦闘人形というのは比喩であろうとヴィカルナは思う。彼はグルについての事情はまた聞くばかりだが、そのような話は聞いたことがない。しかし、彼女の口にする人柄は現在のグルの人を食ったような発言と奇抜な振る舞いとは雲泥の差であった。
「とにかく、彼は昔は多くの人を悲しませたそうです。でも、今はどこに出しても一応恥ずかしくはない善の求道者です」
だから、とアルチャヤティは間を置いた。何故このタイミングでそんな話をしたのか? その理由ははっきりしている。悪徳の中で善を目指した者、その例えが今誰を指しているか、なんて。
欄干から身を乗り出した彼女の顔がストールの向こうから覗く。黄金の、神秘的な瞳が彼を見ている。
「──だから、ヴィカルナさまのその苦悩は決して徒労なんかじゃないです。きっとそれは──あなたがあなたらしく、あるための戦いだから。生まれがなにであるかより、どうありたいのかが大事だと……私は思います」
まぁ、あの人の受け売りも大いにありますが。そうまとめた彼女は顔を上げる。まっすぐな眼差しが布に隠れて見えなくなった。
「……ッ」
それを追いかけようとして──ヴィカルナはやめた。
今朝のことを思い出したからだ。あのスコールの日に彼女に貸した肩布は至極丁寧に洗濯されて戻ってきた。アルチャヤティでなく、その主アルジュナの名義で返却されたそれには、返礼とばかりに包みが添えられていた。中身は香木、アルジュナの薫衣香である白檀のそれである。開けた瞬間、絶句したものだ。
社会的に認知された己の香を他者に贈る意味。流石の彼でも理解する。これは牽制であると。
──竜の逆鱗に触れたのは、兄ではなく、己であったのだ。慇懃無礼に振る舞いながら、聖域を踏み荒らしたのは己だったのだ。
これ以上は踏み込めない。踏み込んではいけない。更に進めば後戻りができなくなる。何よりも争いを厭う己こそが、骨肉を絶つような醜い修羅場の引き金となる。
きっとその結果になによりも悲しむのは、今隣にいる女性であろう。
だから、ヴィカルナは身を引いた。
「ヴィカルナさま、どうかされましたか?」
「──いいえ、なにも」
灯火は近く、されどこんなにも遠い。
ただ。そう、ただ──一瞬。美しいものに、焦がれただけ。
初めから手に入らない華を、泥の中から見上げただけ。
ああ、だがそれでもと、やわらかな布に顔を寄せた。鼻腔をくすぐる、さっぱりとしたハーブの透明な香り。
高貴な、ともすれば毒々しい色に容易く染まらぬ、清らなあなた。それは今彼の頭にかけられた日よけのように。
──気遣い過ぎず、見過ごすこともない。少し荒っぽい優しさが。泣きたくなるほど嬉しかったのです。
人気の無い中庭に、さらりと涼やかな風が凪がれて梅雨時の湿り気を攫っていく。雲間から覗いた太陽はしばらく隠れそうになかった。
「……ここまで大々的に動いて何も分かっていないのは、それを握りつぶせるだけの権力があるから。あれほどわかりやすい反応をされては認めるしかないな。どうやら主犯は私の身内のようです」
「そうですね……。夜荒らし騒ぎのはじまりは協力者であるセーラムの狂言。他の被害者もまた意図的に用意されたもの、といったところでしょうか」
「しかし、目的が読めない。なぜわざわざ隠れて不和の種を蒔くような真似を……。当時の警備兵にも改めて話を聞いてみたいが……」
「警備兵ですか? それなら、私が昨日聞いてきましたよ。やはり、口裏合わせをするように買収されていたようです」
ヴィカルナの独り言にアルチャヤティが反応する。
「聞いて……? どういうことですか」
彼は目をぱちぱちと瞬きさせる。昨日の日中は今日の潜入のための打ち合わせを行っていたはずだ。そんな暇などどこに──。
そこまで考えたとき、背後が騒がしくなる。
「……親父ぃ! 頼むからしっかり歩いてくれよ!」
「馬鹿を言うな。俺が揺れているんじゃない。地面が歪んでるんだ!」
わいわい言い争いながら、療養所の向こうから歩いてきたのは……ドローナ親子であった。アシュヴァッターマンに肩を貸されながら歩くドローナは危うい足取りである。そんな様子であったが、導師はアルチャヤティ達の姿に気が付いたようで東屋を指さして向かうように促している。それを受けたアシュヴァッターマンは何事かぶつくさ呟きながら、東屋に足を向けた。
据わった目で近付いてきたドローナは、旧友の影にしゃがみ込んだ少年の姿を見つけると、面白そうなものを見たと言わんばかりに口の端を吊り上げる。
「ほう……これは随分ゴキゲンな姿じゃないか、色男。花街にでも行ってきたのか?」
「これは尊師ドローナ……花街? いえ、私は……」
「絡むのやめろって親父! どう見ても、今! 俺たちは邪魔者だろうが!」
「うるさい。声を抑えろ、頭に響く」
横でわめく息子をどこ吹く風で受け流すドローナは、よくよく見れば赤ら顔である。うっすら酒の匂いもさせていた。
「いえ、ただ話をしていただけだから別に邪魔ではないわ。……というより、ドローナ。あなたふらふらじゃない。もう夕方なのに、まだ酔っ払ってたの?」
「まだ?」
訳知り顔のアルチャヤティの発言に、アシュヴァッターマンは勢いよく振り返る。
「ああっ、導師アルチャヤティ! あんた、今朝親父と一緒にいましたよね! まったく、とんでもないことしてくれやがった! あれからひでぇのなんの! はぁ、おかげでこうして療養所に駆け込む羽目になった……」
額を掌で押さえながら首を振るアシュヴァッターマン。間に挟まれたヴィカルナは何が何やらさっぱりである。
目を丸くして見つめる彼に気付かぬ様子で、アルチャヤティは更に火薬を投下した。
「そう、先ほどヴィカルナさまにお話していたことなのですが。昨日、いかにも怪しい同僚がいたので、酒盛りに引きずり込んで吐かせていたのです」
「酒盛り……おひとりで……?」
「いえ。日頃の訓練協力の謝礼という形で呼び出してもらったので、このドローナと一緒にですね」
いつも通りの冷めた表情でけろりとのたまう姿に、少年は絶句した。娼婦でもない淑女が、夜に男と酒杯を交わすなんて! それも複数で!
「なにをしていらっしゃるんですか!? せめて、事前に連絡をしていただければ陰ながら護衛もできたのに……!」
「ご冗談を! 育ち盛りの王子にそんなことはさせられませんよ」
頬に手を当てて告げるアルチャヤティにはまるで危ぶんだところがなかった。前言を撤回しよう。このレディ、遊び心があるどころではない。なまじ頭が回って更には能力がある分、危機感というものが死滅している。
──アルジュナ、よくおまえはこの女性を身近にして正気でいられるな。
安心してほしい、パーンダヴァの三男はすでに正気ではない。
「……まさかそこで寝てしまったなんてことは」
「まさか! みんな潰しましたよ!」
「ほんとうになにをしていらっしゃるんですか!?」
上品に手を口に当てながら放たれた豪快な答え。驚愕のあまりヴィカルナは開いた口が塞がらない。しかし、それをまったく気にしていない様子でアルチャヤティはアシュヴァッターマンに向きなおった。
「アシュヴァッターマン。ドローナは勝手に飲み過ぎただけですからね。途中で樽を奪って水と取り替えたのだけれど、この通り」
「……自業自得じゃねぇか!」
勢いで実父の肩を小突いたアシュヴァッターマンの脳天に即座にゲンコツが降ってくる。流石、ドローナ。酔っていようが容赦がない。
「いってぇな! クソ親父!!」
いささか苛烈な親子漫才……喧嘩が繰り広げられる横で、ヴィカルナはちらりとアルチャヤティを見た。
先ほど、アシュヴァッターマンは今朝と口にした。つまり、彼女は夜更けから朝まで居住区に帰っていないということになる。彼女自身は問題なかったとしても──。
「アルジュナは……あなたのことを大切にしているように見えます。きっと心配していたのではないですか」
薫衣香を返礼にするほどのテリトリーの主張ぶりだ。何もなかったとは思えない。ヴィカルナの問いに、アルチャヤティは一瞬息を詰めたような顔をして逃げるように目を背けた。
……何かあったなこれは。
「ハ、心配する必要はねぇぞ。ずっとこのふたりは! 眠り込んだ警備兵の前で、俺とアルジュナを酒の肴にして飲んでただけだからな! やれ、私の主は最高だの……俺のむ、息子は……だの」
最後は苦虫を踏み潰したような顔で尻すぼみになってしまったが、おおむねヴィカルナは理解した。目の前で酒盛りの光景が浮かぶようだ。アシュヴァッターマンとしては、その親馬鹿会議ぶりには照れを通り越して、いたたまれなかったことだろう。
そもそも愛妻家のドローナとあるじ命のアルチャヤティ、悪友のふたりの間で何かが起ころうはずもなかった。
「……朝迎えに行ってみりゃあそんな調子だったから、ずっとそうだったんだろうぜ」
「俺は途中から記憶がないがな……」
グロッキー状態のドローナに対して、アルチャヤティはぴんぴんしている。酒精の香りすらさせていない。いつものミントと──ミルクのまろやかな甘い香りがするくらい。
「ああ、こいつにとっては酒なんぞ水みたいなものだ。おい、アルチャヤティ。おまえ酔ったことあるか?」
「うーん……あんまりないわね。導師に任命されるとき、神々の振る舞った祝い酒で少しふわっとなったくらい……」
「ほら、こいつ自身が捧げられる対象か? ってくらいザルなんだ。いかれてるよ。ソーマ神の酒かアムリタでも持ってこないとこの女は潰せないだろうさ」
流石に立っているのに疲れたらしいドローナが、庵の床にどかりと座り込む。帰りたそうにしていたアシュヴァッターマンは渋々その横に胡座をかいた。
「まぁいい。おまえがあの御仁に呼ばれた訳でもなく法衣なんぞを着ているということは面倒事だろう? どれ、俺にも聞かせてみろ」
その申し出にアルチャヤティとヴィカルナは顔を見合わせた。調査も少し行き詰まりを感じていたところだ。この辺りで第三者の意見を聞いておくのも良いだろう。ヴィカルナは手書きの地図を取り出して、東屋の真ん中に広げて見せた。
「不審者の出没したらしい箇所と被害者の発見場所など、それから警備範囲を記しています」
「……目がぼやけてるな。アシュヴァッターマン、代わりに見てやれ」
自分から言い出しておいて役に立たぬドローナであった。眉間を揉む父にあきれ顔をしながら、ぐぐっとアシュヴァッターマンが地図の上に身を乗り出す。王宮の見取り図の各所に付けられた印、その位置を彼の目が追っていき、数秒ののちに口を開いた。
「……なんだこれ、てんでばらばらじゃねぇか。これを許してるなら節穴だぞ。わざと死角を狙って……いいや、
「そう。君の言うとおりだ、アシュヴァッターマン。アルチャヤティ殿が言った買収の件はこれだろう。それに、出没地点が王宮の入り口より内部に多いことが私は気になっている」
侵入者の犯行なら入り口にほど近い場所から様子を見ていくだろう。しかし、内部に偏っている。まるで、あとから移住してきた入り口にほど近いパーンダヴァの目を避けるように。
「あとは、俺たちの行動範囲……聖堂付近もまるきりねぇな」
そこで、ちらとドローナはヴィカルナの顔を伺う。顔色はあまり良くないが、ヴィカルナは目を逸らすことなく地図を見ていた。
「……なるほど、大体分かっているんだな」
「はい」
ヴィカルナが本当に知りたいのは
「犯人は分かっているが、信じたいがために証拠を集めているのか。難儀な道を往くな。俺には分からん考えだ。どうやら、気骨に関してはおまえは兄たちに勝るらしい」
そこでだ、とドローナは言葉を切る。そして、そのままヴィカルナに向かって手招きした。内緒話といった様子である。
「──おまえにとって不都合な事実なら喋らない方がいいかと思ったが、その様子なら問題なさそうだ。ひとつ、俺がついさっき見聞きしたことを教えてやろう」
──
ドローナの発言にヴィカルナは目を見開いた。
「なに……!」
「……八尺近い大男、鉄の塊みたいな湾刀、重たい黒衣に仮面。そして獣のような俊敏な動き。動きづらいそんな風体で、堂々と武器を振るえるものは、俺が知る限りひとりしかいないな。だが、しかし、その何者かにはすでにアリバイがあるようだ。──つい
「ッ──!」
それは彼にとって、認めたくない事実であった。ドローナの言葉が意味することは──ヴィカルナの行動すら読まれていて、兄のアリバイ作りに加担させられていた。そういうことなのだから!
確かな証拠などない。ヴィカルナが直接その大男を見たわけでもない。あくまで、ドローナの武人としての知見から導かれた推測だ。だが、長兄ならば画策しかねなかった。あの曲者のドゥリーヨダナならば。
「う……」
ヴィカルナは思わずといったように口元を抑える。ドゥフシャーサナに変装するであろうことも彼の手の内だとすれば。あの、正義の名の裏で感じた高揚も手の内だとすれば──ヴィカルナの自由意志など、どこにあるのか。
──ああ、ほんとうに、どこまで行っても泥の中だ。
「ヴィカルナさま……どこかご加減でも悪いのですか?」
気遣うようにかけられた声に、はっと我に返る。胸に手を当てて吐き気をなんとか飲み下す。彼女にだけは、これを知られてはならない。これは己だけが背負うべき咎だ。
間違っても、ヴィカルナに協力しただけのつもりで、黒幕に加担していたなどという事実を伝えるわけにはいかない。
「大丈夫です。少し、気分が悪くなっただけで……」
そう言いながら、ヴィカルナは装飾品を持ち上げてみせる。あくまで慣れないアクセサリーを付けているからだと、思われるように。それもまた事実には違いない。
「……まぁ居場所を偽るなぞ、神の御業か呪いでも使えば簡単なことだな。しかし、それは潔白だといっておこう。夜荒らし事件が起きてから、呪術痕の調査協力以外に依頼が来た実績はない。モグリは知らんが、そのような人物が王宮に入った記録もないな」
すっとドローナが離れていく。その情報をどう扱うかはヴィカルナに任せる、ということだろう。
「まぁ、頑張れよ。若人」
そしてそのままアシュヴァッターマンを招き寄せると、彼の肩を借りて立ち上がった。そうして、背を向けて去って行こうとしたとき。
「ああ、そういえば──アルチャヤティ」
「なに?」
「おまえにひとつ、伝え忘れていたことがあった。……あの御前試合の日を覚えているか」
「ええ。あの日は色々あったから、覚えていますとも」
主の晴れ舞台に武人の乱入、そして渦中の彼からの祝福。彼女が名前を得ようと思い始めたきっかけの日。忘れるにはあまりに濃い思い出である。
「試合の後、おまえとカルナが話していただろう? ──あの場に、ドゥリーヨダナがいた」
「ドゥリーヨダナさまが……? カルナを迎えに来ただけではないの?」
思わぬ名前であった。しかし、懐に入れたものには甘いドゥリーヨダナのことだ。あの場にいたというだけでそこまで警戒するような言い方をする必要があるだろうか。
「いいや、俺にはそれだけとは見えなかったな。なんにせよ──おまえが思う以上に、あの男はバーンダヴァを恨んでいる。蹴落とすためにはなんでも使うだろう。隙は見せない方がいいぞ」
「忠告をありがとう。……普段、あんまりそういうこと言わないくせに、どういう風の吹き回し?」
「簡単だ、俺はおまえをいざというときに助ける気がないからな。俺は金と地位がすべてだ。いざこざに巻き込まれるのは御免被る」
こいつ……という顔でドローナを見るアルチャヤティのまなざしは呆れかえっている。アシュヴァッターマンは言わずもがなだ。
それをはっ、と笑い飛ばしてドローナは今度こそ背を向ける。そして最後にぽつりと独り言のように呟いてみせた。
「──だが、まぁ、旧知が見えている罠にはまるのは目覚めが悪いんだよ」
そうして親子が去っていくと、東屋にはうなだれた様子でいるヴィカルナと、ドローナたちの消えた方向を眺めているアルチャヤティだけが残された。
ヴィカルナが顔を上げれば、ぼんやりと何事かを考えている彼女の横顔が見えた。それを焼き付けるようにして、再び目を伏せる。
──ああ、アルジュナの牽制がどうという話ではない。最初から私にこの女性のそばにいる資格など、なかったのだ。
それでも、だからこそ己が立たねばならぬ。そう念じて、くじけそうになる足を叱咤した。
この歩みが煉獄の長い浄化の旅であろうと、進まねばならない。そこに苦しむ民がいるのだから。
泥中であろうと目指す先は変わらない。蓮は泥の中から伸びて、水面を目指して咲くだけだ。
この身が泥だというのなら。溶ければひとつとなって判別できぬ泥だというのなら。己だけにできることを生きた証としよう。
──そうだ。せめてもの償いを。きっと、何よりの被害者であった無辜の民へ安寧を。
「アルチャヤティ殿。明日、もう一度だけ私に付き合っていただけませんか。今度はまがい物ではなく、ほんとうの慰問です」
……それで、最後だ。それから先はきっと会わない。
まばゆく美しい白昼夢は、これで終わりだ。
◆
光あるところには影がある。それは、神の御許たる聖堂とて同じだ。
表の荘厳さから遠ざかるように奥へ奥へと分け入れば、暗色の壁が見えてきた。視界に収まるほどの大きな平屋の建物である。高さはないものの、そこには薄ら寂れた重苦しい雰囲気が漂っている。窓は小さく高く閉ざされ、外からは中の様子は窺えない。まるで煉瓦でできた棺のような建造物だった。
「……ヴィカルナさまがここに来たいとおっしゃった時は驚きました」
案内のために先行していたアルチャヤティは振り返らぬまま、ぽつりと呟いた。
「ここは王宮でも日陰の場所です。その存在を知るものはあっても、生涯立ち入ることはあるかどうか……。縁のない方が幸せというものですから。私も養父に連れられて案内されたのが最初で最後でした」
そこはただ押し込められるだけの場所であった。貴人の暗殺を企てたもの、神へ刃向かう思想犯、敵国の捕虜──そして、表に出せぬ後ろ暗い事情を持つもの。
簡単には命を奪えぬ者を聖堂による保護の名目で閉じ込めておく、一度入れば出ることは難しい監獄。神々の宝物を強奪したアスラ族の大罪人より名前を取って、そこはただナラカ、とだけ呼ばれていた。
──ひとつ何かが違えば、僕はここの住民だったかもしれないぜ。
そう冗談めかして言っていた養父の姿が目に浮かぶようだった。
「……ここに重要な参考人がいると聞いたもので。どうにか会って保護したいと考えていたのです。しかし、私ひとりでは目通りが叶わず……。アルチャヤティ殿がいてくださって助かりました」
門番の許可を得て、暗い門より中に入る。雨季の水分によって湿り気を増した建物内は、酷く居心地が悪かった。こつりこつりと乾いた音を立てるのは、石畳くらいだ。地上の生気に溢れた香りとは異なり、風通しが悪く据えた匂いばかりが漂っている。
「ここです」
辿り着いたのは簡素な衝立が立てられた部屋だった。他の牢のように鉄柵はなく、元は倉庫だったと思しき場所である。そうっと中を覗けば、隅の方に布の塊がある。小柄なアルチャヤティの後ろからヴィカルナが顔を出すと、その塊はびくりと震えた。布の影から覗くふたつのおぼろな光。ぶつぶつとした呟きに混じるしゃっくりのような掠れた声。鳴り止まぬそれでヴィカルナは理解した。──あれこそ、目当ての参考人。そして、最後に残った被害者のひとりであると。
──夜荒らし事件の被害者と思しき者は複数人存在する。しかし、その中にひとり、毛色の異なる人物がいた。後宮付きのある侍女である。
負傷の原因は、刀傷でなくバルコニーからの落下。低層だったことで一命は取り留めたものの、寝台からしばらく自力で起き上がれないほどの重傷だったという。なにより酷かったのは、外傷ではなく錯乱であった。なんでも、常に誰かに見られている、追われているのだと話していたのだそうで。
治療もろくにできない怯えようにさじを投げられ、かといって放置していくわけにもいかないということで、彼女はこのナラカの浅いところに軟禁されていた。……確かに、誰も手が出せないという意味でどこよりも安全であることには違いない。
ただ、どれだけ整えられていたとしてもやはりそこは監獄でしかないのだ。病んだ心に冷たく寂しい牢は堪えるだろう。兵達の噂話を聞く度に、侍女をそこから出してやりたいとヴィカルナは思いをはせていた。
彼女に罪はないのだ。これまでに判明した事実と照らし合わせる限り。ほんとうに、微塵も。
ここに来るのが遅くなったのは、先に対処すべきことがあったからである。もしも凶行の主が外敵であったならば、対処しなければ被害者は増え続けるばかりであるし、王子がひとりでこんなところに来ては怪しまれるだろう──。
そこまで考えて、ヴィカルナは小さく首を振った。
……ああ、そんなものはすべて言い訳だ。
ヴィカルナは恐ろしかったのだ。王宮の暗部を覗くことが。自らの身内のせいで苦しめられた者に正面から向き合うのが。
だから、きっと彼は。今まさに、ためらいなく女の元へ向かおうとしているアルチャヤティがいなければ。導き手がいなければ。この奈落の縁に足を踏み入れることはついぞなかったかもしれない。
導師は侍女を刺激しないようにそっと近付くと部屋の中程に膝をついた。法衣が地面の埃を拾って黒ずむが、彼女がそれを顧みることはない。
「──こんにちは、ゾヤ。私はアルチャヤティ、アディティ女神の導師です」
侍女は……ゾヤはその言葉にはたと動きを止め、そっと布の奥から顔を覗かせた。ほんの数日だというのに、落ちくぼんだ眼窩。その中でぎらぎらと光る充血した瞳。かさかさに乾いた唇。
「……落ち着かない日々を過ごしてきたのね」
「ね、眠れるわけがありません……! 今もあの恐ろしい怪物は、王宮に潜んでいるかもしれないのに……」
「だって、わ、わたしは──
──そうだ、彼女は夜荒らし事件の直接的な被害者ではない。事件への恐怖と重責から自分の頭の中に、恐ろしい怪物を作り出した二次的な被害者だった。
哀れな話だった。そして、むごい話であった。結局のところきっかけは、侍女が忠誠を誓う王家の王子達が戯れで生み出した狂言なのだから。
彼女は見えない追跡者に精神を蝕まれている。
「……守りたかったから、恐ろしかったのですね」
アルチャヤティは侍女の慟哭を否定しなかった。導師として、あるいは母のように穏やかな声で言葉を紡ぐ。侍女が見た影が幻覚であろうと、彼女を追い詰めた
「ここにいては、またあの影が来るかもしれない……。そうお思いですか?」
侍女が小刻みに頷く。 それを見て、ヴィカルナが一歩前に出ようとする。私が守ります、とでも言おうとしたのだろう。 しかし、アルチャヤティはそれを片手で制し、提案した。
「ならば、里に帰りなさい」
「え……?」
「恐ろしいものがいるのは──この王宮です。ここは今、少し風通しが悪いの。傷ついたあなたが無理をして留まる場所ではないわ」
アルチャヤティは懐から小さな金の徽章を取り出した。アディティ女神の象徴する天空と蓮をかたどったシンボルである。それを、震える侍女の手に握らせた。
「これは私の紹介であることを示すものです。里に帰って、私の知己であるバラモンの寺院を頼りなさい。そこで静養するといいわ。……たまに様子を見に行くから」
それは、王宮という権力の檻から脱出するための許可証のようなものだった。 侍女は恐怖と重責の板挟みとなった結果、心が折れたのだ。王宮の闇がすぐに取り除けるものでない以上、アルチャヤティたちにできるのはそこから一時的にでも解放してやることだけである。あとは、本人に任せるしかない。
徽章をぼんやりと見つめていた侍女の目に徐々に涙が浮かぶ。安堵の涙だ。
ヴィカルナはその光景をじっと動けずに見つめていた。そっと胸元に手を当てる。そこにあるのは、彼女から贈られたバドゥカだ。
──尊いものを美しいと思う。
美しいもののためにありたいと思う。
この世は、綺麗なもので満ちあふれている。
己という牢獄から救いを求めて手を伸ばす人間と、その手を取って共に苦悩をどうするべきかを考えようと膝をつく聖女。
彼にとって、美の極致とは──眼前のこの光景のことであった。
アルチャヤティが背後を振り返ったことで、彼は我に返る。すぐに気を取り直すと、侍女に向き直った。
「……アルチャヤティ殿の言う通りです。あなたや王宮に住まう者たちを脅かす影は、我々が必ず追い払います」
ヴィカルナはアルチャヤティのそばに片膝で跪き、自らの胸に手を当てる。そして、誠実な誓いを口にした。それは責任ある王族としてであり、ひとりの信念に生きる人間としてのものである。
「ですから、安心して待っていてください。王宮が再び安全な場所となった暁には──必ず、私があなたに連絡を差し上げる」
「ヴィカルナさま……」
「──約束しよう。この国の王子として、あなたがもう二度と怯える必要のない平穏を取り戻すと」
その言葉は、嘘偽りのない彼の正義だった。
ああ、そうだ。兄たちはヴィカルナの一番強固な部分を踏み抜いた。
……民への見返りなくして、政は成り立たぬ。
それを分からぬ為政者がいるのならば、我が身を賭しても糾弾する必要があろう。侍女ひとりの悲劇ではない。王宮に疑心暗鬼の種を蒔き、民の安寧を蹂躙したのが他ならぬ王位を継ぐべき王子であるという事実を、彼は断じて許すことはできなかった。
◆
アルチャヤティの慰問が終わった。ナラカより出てしばらく、ヴィカルナは一言も喋らなかった。ぼんやりと何かを考え込んでいる様子だ。しかし、先日の東屋での憔悴具合とは異なり、その瞳には静かな熱が灯っていた。
「ヴィカルナさま、大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫です。少しぼうっとしていました──アルチャヤティ
「はぁ」
知らぬうちに名前の敬称がランクアップしていた。そばで目を丸くするアルチャヤティに気が付いたようで、慌ててヴィカルナは訂正した。
「すみません! アルチャヤティ殿! つい、普段の……呼び名が……」
恥ずかしそうに顔を背ける彼の耳はうっすらと赤い。普段の呼び名ということは、まさかヴィカルナは他者にアルチャヤティのことを話すときそのように呼んでいるのだろうか。しかし、その真意を確かめるより彼が正気に戻る方が早かった。
「──ここ数日、私のわがままに協力していただいて、本当にありがとうございました。従者としての業務もあるでしょうに、こうして幾度もお呼び立てすることになり……。申し訳なく思うばかりです」
彼等の距離は並んでいても遠い。アルチャヤティからは木々の幹のように感じられる高みから、穏やかなまなざしが降る。上背がある割には威圧感の無い佇まいだった。もしかしたら、彼自身が努めてそうしているのかもしれないが。
「いいえ、感謝の言葉を述べるのはこちらの方です。私ひとりではどうにもならない事態でしたし……。権力が絡んでいる以上、他の誰にも解決は難しい課題だったことでしょう」
「……そうですね」
少しだけ気にかかるのは、動機を除いて事件のあらましを知った彼がこの先どうするつもりなのか、ということだ。自らの身内が王宮に混乱を引き起こしたという事実に対して、自分の気持ちに、あるいは責任に──どう始末をつけるつもりなのであろう。バラモンを味方につけての告発、継承権を問うという手もあるが……アルチャヤティとしてはあまり気が進まなかった。カウラヴァもパーンダヴァも成人年齢に達した継承権を持つ者がいない。ユディシュティラでさえ、十五の年を迎えるのはあと数ヶ月先である。まだ若いのだ。誰も彼も。動機が何であれ、それだけを理由に排斥することははばかられた。もちろん、軽はずみな行動が民を危険にさらすことはきっちり理解してもらわねばならないが。
なにより、現王の息子の継承権を疑うということは、現体制に逆らうことと同義である。下手すると旗頭として立った者が反逆罪でナラカに送り込まれかねない。そんな事態が起これば、王宮の平穏を守りたいアルチャヤティにとっては本末転倒である。とりあえず今度ドゥリーヨダナに会ったら内情を聞きだして、きゅっと締めておくか……彼女がそう考えたときだった。
「──やるべきことが見えました。私は、兄上たちに
──What? 聞き捨てならない言葉が聞こえたぞ。え、と歩み出した足のまま思わず固まったアルチャヤティを置いて、颯爽と少年は回廊を進んでいく。
これはまずい。さっきのナラカの件が彼のまっすぐな義侠心に火をつけたらしい。確かに立派な志ではあるが、行動するのは今ではない。少なくとも、相手の目的が分からない以上藪をつついて蛇を出す事態になりかねない。あわあわと慌てて後を追ったアルチャヤティはヴィカルナの横顔を見た。さっきの穏やかさはすでにそこになく、こめかみに青筋さえ浮かんでいた。
わぁ、恐ろしくキレてますよこの王子さま!
アルチャヤティは思い出した。ヴィカルナはただの切れ者ではない。他の兄弟たちの悪行に隠れて目立たぬだけで、あのドゥフシャーサナに次ぐ武闘派である。恐るべきはその爆発力。知将が道理を投げ捨てて、その知恵でもって最大効率で武力を振りかざせばどうなるかは……言うまでもない。
「ヴィカルナさま、告発を行うおつもりなのですか……!?」
「ええ、それもいずれは。身内の巻いた火種ですから、私がおさめなければ。……まずはドゥフシャラーを安全なところへつれていくか。ユユツに協力を頼むのも悪くはない」
もう彼の頭の中では布陣が展開されているようだ。本当にまずいことになった。誰か、ヴィカルナを止めてほしい──そう切実にアルチャヤティが願った時だった。
──静まり返った回廊に響く鋭い足音がひとつ。それはヴィカルナから十歩ほど離れた正面で止まった。
「──私の従者をつれて、そんなに足早でどこへ行こうというのですか。ヴィカルナ」
まっすぐなまなざし、緩やかに笑みを浮かべた口元。
──パーンダヴァの三男アルジュナが、彼らの前に立ち塞がっていた。
確かに誰か止めてくれと願いましたが、あなたじゃないです
【いつかどこかのお茶会】
「――アディティ女神の導師さまは、灯火のようなお方だと思うんだ」
「ふぅん」
「説法会で間近でお目にかかって確信した。彼女ほど慈愛にあふれた導師はいない。ただでさえ性別や不遇の身で苦労しておられるのに、誰よりも民の心を大事にしておられる」
「よかったわね、会えて」
「選んだサリーも似合っていて……ああ、ほんとうにアルジュナのそばにある彼女はとても輝いている……」
ついにヴィカルナは膝に頭をつけるようにうなだれてしまった。対面のドゥフシャラーといえば少し引き気味のあきれ顔である。
「……ちょっと、お兄ちゃんったら。私の友人が素敵なひとだっていうのに異論はないけど、一刻も喋り倒してよく話題が持つわね。そんなに好きならこのお茶会にでも呼べばいいでしょう?」
がばりとヴィカルナが起き上がった。さっきまでの恍惚や陶酔の欠片もない真顔である。
「いや、それはできない。だっておまえと彼女が話す時間を奪ってしまうことになるだろう? 私がいては公務になってしまう。それは避けないとな」
すん、とそんなことをのたまう兄にドゥフシャラーは手元の茶器を投げつけたくて仕方がなかった。照れ隠しゆえに、または怒りのために。
「……これだから! ヴィカルナの馬鹿兄貴は!」
――もちろん、高貴な姫君は罵りこそすれ、物を投げることはしないが。
(彼は同担歓迎過激派強火オタク)