授かりの英雄には精霊の従者がついている   作:修行者‪α‬

16 / 16
『渇望』のために空回り、
『憧憬』は決して輪に入れず、
『讃美』のために泥に沈み、
『不和』によってねじ曲がる。

ーージャイ、カウラヴァ。

――――――――――――――――――
※軽い戦闘シーンと流血描写があります。
※強い執着・依存・支配的な関係性が出てきます。
※ピアスで耳を痛める描写があります。


14.ほころぶ義心(後)

 正義の中で己の悪心に苦しむもの。

 悪徳の中で美徳に焦がれるもの。

 

 ──ここに一対の鏡がひとつ。

 異なるカタチ、対の立場、正逆のあり方。

 照応の鏡が割れたならば、もうひとつもいずれ割れるでしょう。

 つまるところ、それは呪いの目には同じものだから。

 

 

 衝立越しに月がわずかに光を投げかける冷たい夜。

 寝台の上でアルジュナはまんじりともせず、部屋の角を見つめていた。寝返りを打っても、見えるのは影ばかりだ。

 眠れなかったのは今夜ばかりではない。アルチャヤティがヴィカルナに協力すると言ってから、彼は寝付きが悪かった。

 特に今夜は特別だ。夕方にドローナ達と飲みに行くといって出ていったアルチャヤティはどっぷりと日が暮れてアルジュナが寝床につく時間になっても戻らない。今までこんなことはなかった。見えないころだって、置かれた飲み物や灯りを消す気配で存在を感じていたのに。ああ、見えるようになった後の方が不在に苦しむとは。なんたること。

 ほんとうなら今ここで飛び出してアルチャヤティを迎えに行きたいくらいなのに、彼に付き纏う責任と侍従たちの目がそれを許してはくれない。きっと、彼女は不在にする前にアルジュナをよろしくと厳命していったことだろう。

 すん、と己の身から香るミルクの香りに目を伏せる。彼女から貰った香油が今ばかりは逆にアルジュナの身を苛んでいた。

 ──どんなに甘やかで優しい香りでも、あなたがいなければ意味がないのに。

 そう、彼女がいなければ、アルジュナにとってこの世界は怖いものしかいないのだ。

 目をこらせばそこには闇がある。暗がりに浮かぶ罪の姿(エーカラヴィヤ)脅威の姿(カルナ)は、あの名付けの日からずっと沈黙している。その代わりに影は別の男の姿を取って、アルジュナの寝台に腰を下ろしていた。

 理想の姿(ヴィカルナ)は言った。──君もまた王子であるならば、民のために働くべきだ。

 ──そうだ、アルジュナにとってヴィカルナという男はある種の理想であった。幼少期を森の中で過ごしてきた少年にとって、煙たがられるばかりの環境でこっそり王族としての振る舞い方を教えてくれたのはその年上のいとこであったから。

『王宮というのは堅苦しいところだろう? けれど、作法というものは身につけておいて損はないぞ。君自身を守るためにもな』

 ユディシュティラもまだ王宮に慣れず、クリシュナもいない時期のこと。寝物語で聞く貴人のような振る舞いを地でやっていたヴィカルナはそれこそ理想の体現であったのだ。

 理想を語りながら、地に足をつけた高潔さこそが、ヴィカルナという男の象徴であった。

 だから、王子としてどう振る舞うべきかを考えたとき、こうして影はカウラヴァの三男のカタチを取るのであった。

「……分かっている。俺だって何もしていなかった訳じゃない」

 穏やかで、されど嘘偽りを許さない誠実なまなざしから逃げるように寝返りを打つ。 

 そう、夜荒らしの事件が起こってすぐにアルジュナはユディシュティラに相談しに行った。しかし、後から来たよそ者であるバーンダヴァは王宮内には干渉しづらいという理由で断られてしまった。

 アルジュナも神の力の大きさは理解している。

 先の神威を示すような派手な演出や、外敵の対応ならばパーンダヴァに敵う者はいないが、こと政治と言えば分が悪い。

 神の血筋と、圧倒的な力。それを持つ彼等の発言や行動はどうしたって人々に逆らえぬ圧を与えてしまう。

 ……だが、断られたからといって黙って手をこまねいていたわけではない。いつ夜荒らしに遭遇してもいいように、いつもより鍛錬を増やしている。また、戦士階級の長である王家の人間が出歩いていれば牽制になるだろうと考えて、ビーマを誘って王宮の見回りに繰り出すこともあった。

 しかし、今日の夕方。アルジュナは見てしまった。王宮の外れの東屋で、アルチャヤティとヴィカルナが真剣そうに何事かを話しているのを。

 そのまま声もかけられずに逃げ出して、今に至っている。

 ──わかっている。アルジュナとて、色恋沙汰によって責任感を捨て去って盲目になるほど愚かではない。アルチャヤティとヴィカルナは、仕事として一緒にいるのだ。

 かつて暗殺者に対して瞬時に対応して見せた彼女のことだ。王宮内で不祥事が起きていると察すれば、自ら動いてみせるだろう。それも恐らく、アルジュナ自身の安全のために。

 わかっているのだ。

 だが、理性は納得できても、感情はそうではない。

 年上のいとこの姿をした影の、柔らかな微笑みが少しずつ褪せていくのを感じていた。理想、それどころか憎しみに近いだろう。だって、今アルジュナが彼に抱いているのは……嫉妬、なのだから。

「そうだ……。彼は俺にないものを持っている」

 そう、それは──乳母に懸想する後ろめたさ。恋が生む破滅の道。そういうものを持っていないという事実である。

 アルチャヤティは彼の前ではただの女性としてあれるのだ。

 ……それがとても羨ましくて、見ていられなかった。

 ──東の空がしらみはじめている。影は薄らと消えていく。アルチャヤティは未だ帰らない。結局アルジュナは一睡もできぬまま朝を迎えてしまった。

 しかしこれはある意味僥倖だった。だって、いつもの鍛錬の時間になったのならば、アルジュナが何をしようと咎められるいわれはないのだから。

 

 

 翌朝、まだ暗さの残る時間。

 アルチャヤティはそろりと音を立てずに居住区の回廊を歩いていた。酔い潰れたドローナが息子に保護されたのを見届けて、そのまま夜陰に紛れて帰ってきたのである。現在彼女はまだ寝ている侍従たちを起こさないように、こっそりと湯浴みを済ませて自室に帰るところだった。酒の余韻を消し去って、実によい気分である。

 幸い彼女はグルの仕込みのたまものと言うべきか、一日二日くらいは寝なくても普段通りの活動が可能だ。さて、今日の予定は午後にヴィカルナと会って作戦を決行するのみであるし、今日はこのまま起きて一日を迎えようか──そう彼女がぼんやりと考えながら自室に至る角を通り過ぎたそのときである。

「──アルチャヤティ」

 前方にぼんやりと灯が灯っている。欄干に腰を預ける主が、蝋燭を片手に彼女を待っていた。湿気を含んだ白い夜着を纏ったままのたたずまいは、泉から抜け出してきたアプサラス(水精)のようで、アルチャヤティはぱちくりと目を瞬かせた。

「……おはようございます、アルジュナさま。あの、なにかご用で……?」

 普段のアルジュナならば今は鍛錬に行くか行かないかの時間だ。どうしてその彼がここにいるのだろうか。あとのことは頼むと他の侍従には言い含めていたはずだけれども。

「ええ、おはようございます」

 しかし、その問いは振り返りざまの綺麗な微笑みに黙殺された。……これは見たことがあるぞ。クリシュナの怒った顔に似たそれは、普段アルジュナがアルチャヤティに向けるものではない。──いわば、余所行きの笑顔である。

 ひとまず近寄って話をしよう。正面に立てば、アルジュナもまた欄干から立ち上がり居住まいを正した。頭ひとつ分ほど上の高さから静かな瞳が彼女を見下ろした。

「──主には自分の財を管理する義務があります。その財が人であろうと同じこと。……私がどれほど心配したか、おわかりですか?」

 否、静かに見えるのは表面上だけだ。どこか咎めるような鋭利さもそこにあった。確かに朝に帰ってくることなどこれまでなかったものだが、そこまで主が目くじらを立てるようなことだっただろうか。

「すみません……。ドローナとの話が盛り上がってしまって」

「そうですか。……尊師とはどのような話を?」

「えっ、それは……」

 アルチャヤティは言い淀む。まさか、ずっとアルジュナの話をしていたとは言いづらい。しかし、その発言をどう捉えたのか、しゅんと眉を下げた愛し子に慌てて言い直す。

「いえ、あの! ……ずっとアルジュナさまとアシュヴァッターマンさまの……話を……」

「……そう、私の話を」

 途端、少し機嫌をよくしたらしいアルジュナは瞳の光をやわらかくした。その様子にほっとアルチャヤティは胸をなで下ろす。端から見ていると、朝帰りを妻に咎められる夫の有様である。内実は、咎めている方が男性の主君で、咎められているのが女性の従者であるが。

「さて……」

 だが、その受け答えで引いてくれる訳でもないらしい。

 ふ、と仕切り直すように細く息を吐き出したアルジュナは、欄干に蝋燭を置いた。

「ご覧の通り、あなたがいつ帰ってくるのかが心配で今夜は眠れなかったので……」

 蝋燭を持つ代わりにすっと伸びてきた指がアルチャヤティの持っていた湯浴み道具の籠を攫っていく。少し屈んで目線を同じ高さに合わせたアルジュナは、続きを口にした。

「──埋め合わせて、くださいますよね」

 細められた目とともに浮かべられた薄い微笑み。普段しっかりと己を律している彼に似合わぬ、その美しくも危うげな姿を見れば都のどのような者であったとしても、一も二もなく従ってしまうことであろう。

 底の見えない黒曜に射すくめられるようだ。それこそ、的に狙いを定められているような。

 変化した愛し子の雰囲気に対して、口を開けたままのアルチャヤティは──ふいに我に返ると、彼の頬を両の手で包み込んだ。

「なにを……?」

「あっ! ほんとうに寝ていないのですね! 隈ができていらっしゃいます!」

 小さな親指が蝋燭によって照らされたアルジュナの目元をなぞる。優しげな仕草とは裏腹に、彼女は眉を怒らせて、飛びつかんばかりの勢いだった。

「いや、あの、離して……!」

 触れられたアルジュナといえば、先ほどまでの雰囲気はどこへやら。肌を青くしたり赤くしたりと忙しい。蝋燭を倒さないように注意するので精一杯だった。

 後ずさりする彼の腕を逃げられないように掴み、どこぞへと向かおうとする彼女に迷いはない。完全に乳母の顔をしている。 

「鍛錬などもってのほかです! 健康を害されては、戦士の責務など果たせません!」

 

「どうして……こうなった……?」

 小さな五指を振り払うこともできず、気が付けばアルジュナは自室の寝台に逆戻りしていた。ご丁寧に毛布を首までかけられて、寝かしつけられている。

 ちらと、横を伺えばやり切ったといわんばかりに満足げな彼女の姿がある。腰に手を当て、胸まで張っている。可愛らしい、でもそうじゃない。

「今日の午前の鍛錬はお休みです。きちんと寝ること! よろしいですね!」

「……はい」

 まったくはい、の気持ちではなかったが、世話焼きモードに入っている彼女に逆らうのはよくない。アルジュナが寝るまで監視しかねない。いやまてよ、監視? 彼は目を細め、意地の悪い笑みを浮かべた。これは使えるかもしれない。消えかけていた渇望の炎がちらりと顔を出す。

 アルジュナの脳はその回転力にふさわしい名案を得た。ただし、徹夜明けと連日の睡眠不足のため、それはあまりにも欲を優先した斜め上のアイデアではあったが。

「アチャー」

「はい? どうかされま……わぁ!」

 おやすみなさい、と今にも去ろうとしていた彼女の手を取ると体勢を崩した小さな体が傾いで、寝台に手を付けた。一拍置いて、支えきれなかった女の身体は肩から沈む。

 編み込まれたロープでできた寝台は反発が強い。軽い身体は一度軽く跳ねて、そのまま寝台の上に収まってしまった。

 鼻腔をくすぐるミルクの香り。横たわったまま、向かい合う視線。完全に彼のテリトリーに入ってしまった。主従として近過ぎる距離感。普段なら見上げなければ合うことのない視線が、今は目の前にある。

 従者ははっと我に返って反射的に距離を取ろうとする。しかし、まだ取られたままの手がそれを緩やかに留めた。

「……寝不足なのはあなたもでしょう、アルチャヤティ。俺に寝ろと言うのなら、あなたもせめてこの午前中くらいは寝るべきだ」

 内心の焦りは微塵も見せず、穏やかに紡がれる言葉にアルチャヤティはうっと息を詰めた。

 さらに追い詰めるように、アルジュナの指が彼女の細い指の背をなぞる。これが在りし日の夕日の中の講義のように対面ならまだしも、今は同じ寝台の上。労るような手付きもどことなく危うい色を孕んでいた。

「それに、ひとりにしておいたらいつ私が起きるかもわかりませんよ。寝かしつけてくださると、あなたも安心なのではないでしょうか」

 彼はアルチャヤティが己に対して甘さがあることを把握している。彼女は寝不足のアルジュナに寝させることは頑固として譲らないだろう。しかし、そのためにアルチャヤティを使いたいという形の提案に対して彼女は滅法弱かった。

 だから、あと数年で成人する少年の、眠れないから添い寝しろ、などという危うい要望を断り切れない。

 彼女にとって彼女自身は道具であるからだ。

「……はぁ」

 片手で眉根を抑えて、彼女は竦ませていた肩から力を抜く。観念したと言った様子だ。

 何より毒気を抜かれたのが大きかった。漂う甘やかなオイルの香りは、かつてアルチャヤティが与えたものだ。

 あの夜のホットミルクのように、少しでも彼の安心に役立てばと贈ったものである。

 彼の身支度を手伝う折に嗅いだこともあるため、特に気にしていなかったが──改めて考えると、ずっと彼は好んでこれを使っているということだ。

 そんな養い子のいじらしい行為になんだか毒気が抜かれてしまった。

 ……いずれ為政者となる王子を、このように甘やかすのはあまり褒められたことではない。しかし、ついこの間まで面と向かって甘えることもできなかった彼のことだ。少しくらい休める場所があってもいいだろう。アルチャヤティがここ数日留守にしていて不安にさせているのは事実であるし。

「アチャー……? 」

 ──子の心、親知らず。彼がまさに彼女の愛を自分の都合のよい形で享受しに来ているとはつゆ知らず、アルチャヤティは彼の手を取って小さな両手で閉じ込めてしまった。

 古傷の残る彼の指先が、彼女のみずみずしい肌にざらとした感覚を残していってもかまわぬとばかりに。

「──仕方ありませんね。お昼まで、ですよ」

 近付いた距離にうっと息を詰めたのもつかの間。アルジュナは彼女のまっすぐな眼差しと、やわらかな微笑みに眉を下げる。どこまでいってもそこにあるのは慈しみの愛だ。

「……ありがとうございます」

 想いはすれ違う。気が付かれていない安心と裏腹なやるせなさで、自嘲気味に漏れたのは力のない笑みだ。アルジュナは毛布をめくると、彼女をその内に入れることで、その微笑みを隠してしまった。

 

 まだやわらかな日差しの差し込む部屋で、アルチャヤティはぽつぽつと子守唄を歌っていた。都の朝は日中に比べてまだ涼しい。眠りが必要なほど疲れてはいないはずだったが、流石に寝台に横たわっていれば眠くもなる。夜荒らし事件の全貌が判明してきて、アルジュナへの影響は少なそうだと理解した安心もあっただろう。その声は次第に小さくなっていった。

「──アルチャヤティ」

 もう少しで意識が落ちそうなその時だった。静かな声で名前を呼ばれたのは。

「ん……まだ寝ておられなかったのですね……。ちゃんと寝ないと、駄目ですよ……」

 アルジュナの顔は少しだけ彼女より上の位置にあって、寝ぼけ眼ではその表情は窺いにくい。くすとやわらかに笑うような気配だけがあった。 

「すみません。ひとつだけ、約束していただきたくて……。──次お酒を飲むときは、私の成人の祝いにしていただけませんか。インドラ神……父神から頂いた酒があったでしょう?」

 お酒。そういえば、酒盛りからの帰りであった。愛し子はそれをアルチャヤティと迎えたいという。なるほど、記念ということだ。もうあと1年と少し。彼女に断る理由は特になかった。

「お酒、ですか? うーん、構いませんよ……もとより飲む頻度が高い方でもありませんし……。神の酒ならば、きっと美味しいこと、でしょうね……」

「ハハ……そうですか、それは重畳です。ああ、今から楽しみですね──」

 アルチャヤティには分からない。

 己の寝台の上で、安心して目を瞑る彼女の姿を穏やかなまなざしでアルジュナが見ていることも。

 その裏で、白檀ではまだ足りぬ、とばかりに悪い虫には釘を差しておこうと決意していることも。

 いびつであっても、今ここにある静かな時間こそ彼の欲しいものであったということも。 

 ──アルチャヤティは何も知らず、ただ安らかなまどろみに落ちていった。

 

 ◆

 

 その後のアルチャヤティの行動はご存知のとおりである。昼に起きだした彼女は、もともとの予定であったヴィカルナとの療養所への侵入を敢行し、翌日にはナラカへと向かった。

 ──そして、事はここに至る。

「──私の従者をつれて、そんなに足早でどこへ行こうというのですか。ヴィカルナ」 

 じわりと手のひらに汗が滲むような湿った空気。日が陰り、青みがかった宮殿。人通りの少ない回廊。

 怒気をあらわにした王子とかたや静かに佇む王子。それを後方から様子を窺っている女。

 末期の日差しが彼らを照らし、壁に長い影を投げかけていた。

 アルジュナが訪れたのは偶然ではない。

 彼はあの朝からずっと介入の機会を伺っていたのである。

 アルジュナはヴィカルナの性質を理解している。それだけ、見てきたから。そう、ヴィカルナは慎重に策を巡らし自らも精力的に動くタイプではあるが、物理に訴えるのは最終手段だ。その彼が性急に動いたのならば、恐らく元凶はすでに確定している。

 だからアルジュナは待っていた。

 ヴィカルナが動きだす、このタイミングを。

 故にその光景は、満を持して訪れたのであった。

「……アルジュナ、おまえには関係のないことだ」

「関係がない? ……ええ、そうですねヴィカルナ。あなたがどこに行こうと、何をしようと私のあずかり知らぬことです」

 アルジュナは歌うような調子でそういった。どこか芝居がかった、優雅な振る舞いである。しかし、そんなものは彼が身に付けた仮面でしかない。浮かべた笑顔が口元を覆った手のひらの向こうに隠された。

「しかし、彼女は違うでしょう? 私の従者を返していただきたい」

 仮面の下から底冷えするような視線がヴィカルナを射抜く。今まで見たことがないほど、熱のない視線にヴィカルナは一瞬怯んだ。

 それは、正当な権利の行使であった。そうだ、真犯人がヴィカルナの中で確定した以上、アルチャヤティとこの先も行動を共にする必要はない。むしろ離すべきなのだ。守りたいと思うのなら。だが、ヴィカルナの脳裏には一抹の不安が残っている。ヴィカルナは民への暴挙を見てこうして奮起した。しかし、兄弟たちの動機(Whydunit)が分からない。

 ヴィカルナをも駒として使っていたほどの大規模な計画だ。最悪を想定するなら、この夜荒らし事件の目的は民を苦しめることではなく、王宮の騒動によって誰かを動かすことではないかと考えている。

 つまりその場合、一番の候補はここ最近ヴィカルナと行動を共にしていた──。

 ヴィカルナの思考はそこで止まった。

 強制的に中断された。

 ちょうど頭上を通り過ぎた雲が投げかけた影が周囲を一段と暗くする。

 理由はそれではなく、同時に現れた明確な異常の存在だ。

 ヴィカルナの左手、回廊の外。中庭の真ん中にそれは滲むようにして立っていた。

 地面と同化した闇色の外套を羽織ったそれは、静かに音もなくそこに佇んでいた。豹を象った無骨な白い仮面ばかりが不気味に中空に浮いている。

 空気が冷える。それが物理的な干渉か、緊張故かは神秘に明るくないヴィカルナには分からない。

 ──わかるのは、大きな湾刀を構えたそれが明確な敵だということだ。

 それを理解するが否や、彼は腰の剣を抜き放った。ちらと横を覗えばアルジュナもまた同じく、鍛錬用の弓を構えているところだった。衛兵は──いない。彼らは完全に孤立していた。

 正体不明な敵であれば、まずはその出方を待つ。そう、戦士として理想的な反応であった。

 ──だからこそ、彼らは()()に後れを取った。

 異常を認識した瞬間、その小柄な影は戦士たちの横から飛び出していた。それは武器を取り出して構えるなどという悠長なことはしない。即断即決で敵の懐に肉薄しつつ、暗器を抜き放っていた。白刃を黒く塗りつぶした短剣の刃が、中空に閃く。

「アチャー……!」

「アルチャヤティ殿!」

「──」

 背後から呼ぶ声を無視した無言の特攻に、それは一瞬の動揺を見せる。しかし、瞬時に気を取り直して湾刀の石突で応戦した。大男と小柄な少女の肉体。競り合えば弾き飛ばされるのは後者であろう。しかし、彼女は無策で飛び込んだわけではない。

 握った短剣に力を込める。

 彼女の脳裏に浮かぶのは暁の大空だ。彼女は落下しながら、天上の無数の星を見た。ひとつひとつは小さくても、決して潰えることのないきらめき。彼女が唯一覚えている原初の光景。

 ああ、この身はきっとあの星たちに届くことはないだろう。

 されど、伸ばした手が、その憧憬が、彼女の奥から力を引きずり出した。

 ──この(かいな)は、あの光のために。

 反転する重力。現実に戻る視界。魔術回路(マジックサーキット)が回り出す。

 構えた暗器が、衝突の瞬間に淡く黄金の輝きを放った。強化の魔術である。

 ぎぃん、と鈍い音をたてて、得物が交差する。

 ──初太刀はお互い防がれた。初手で決められたのならよかったものの、そううまくは行かない。

 湾刀を受け止めた暗器から伝わるのは不規則な圧力の感触だ。アルチャヤティは確信した。これは亡霊のようなものではなく、確かに肉の器を持った実体のある存在であると。瞬時に優先タスクを索敵から制圧へと切り替える。

 短剣を引き、その勢いで男の背後に回り込んだ。狙うは四肢、もしくは正体を明らかにするための仮面である。

 正面から向かうのは分が悪い。彼女の膂力はどこまでいっても普通の人間の範疇だからだ。ただ物を持ち上げるだけの身体強化なら問題ないが、戦いながら操作を続けるのは厳しい。

 魔力についても、あまり余裕のある状態ではない。彼女は太源(マナ)への接続機能が制限されている。そのため、体内の小源(オド)の魔力を使うしかない。

 今も駆動する回路で生み出している魔力が底をつく前に制圧する必要がある。

 生成に伴う痛みは、ぎりぎりまで知覚の外に。ただ、目的のみに集中する。

 刹那、追いついてきた湾刀。強化した短剣を横から押し当てて最小限の動きで回避を行う。男は軌道を逸らされた湾刀に気を取られてバランスを崩した。アルチャヤティはその足を蹴って、圏内から離脱する。──離脱したのだが。

「ッ──!」

 ──思いのほか復帰が早い。

 地面についた手を支えにして繰り出された飛び蹴りが、アルチャヤティのすぐ横を通過する。

 背後に着地した仮面の影は、ゆっくりと重たげに鉄塊を肩に背負い込んだ。現れてすぐの得体のしれなさは少し失せて、どこか豹のようなしなやかさを纏っている。

 湾刀を振るう腕と、身体がまるで別の生き物のようだった。端的に言えば、湾刀のような大きな得物に慣れていない。本来ならば他の武器を扱っているのではないだろうか──そう思わせるような動作の乖離だった。

 それを見て顔を青ざめさせたのはヴィカルナだ。たら、と脂汗が地面に落ちる。やはり、夜荒らしの()()は──。

 彼が動くよりも早く、再び両者は交差する。大男の体勢が完全に戻る前に、アルチャヤティから攻勢を仕掛けたのだ。

 競り合いの鈍い音が響く。至近距離で、次々に体勢が入れ替わる戦闘にアルジュナですら一矢を差し込むことができない。なにより、彼女に矢を向けるなど許せることではない。ただ、忸怩たる思いで構えるばかりだった。

 緊張の時間はそう長くはなかった。痺れを切らした男が一歩引いたからだ。これがとどめとばかりに振り上げられた湾刀。無骨な暴力が、少女の矮躯を叩きのめさんと頭上から落ちてくる。

 ──アルチャヤティはこの隙を待っていた。男が大きく正面のガードを失うこの時を。

 獲物を持たぬ左手でもうひとつ忍ばせていた暗器を引き抜き、そのまま投擲した。

「──!!」

 狙うは顔面。空いた手で庇おうとしたものの、もう遅かった。開いた指の間を抜けて黒い刃が仮面を割った。

 勢いでのけぞった頭部から血飛沫が舞う。湾刀を落として、慌てて庇った顔の半分からわずかに覗いたその瞳を、ヴィカルナは目撃した。

 ──血走った白目、紫がかった桃の瞳孔。それは。

 男の判断は早かった。即座に湾刀を拾って身を翻すと、屋根を蹴って、壁の向こうへ去っていった。

 アルジュナは追撃を放とうとしたが、横のヴィカルナに制されて、怪訝そうな表情で弓を下ろす。アルチャヤティも追わなかった。正体を暴くことも、制圧もかなわなかったものの、ひとまず王子たちの安全は確保できたからである。

「──はぁ……。残念、逃げられましたか……」

 本当は衛兵に突き出してやりたかったのだが、仕方ない。

 短剣を下ろし、回路を止める。どっと疲れが襲ってきた。ふらりと傾いた体を受け止めたのは、弓を放らんばかりの勢いで駆けてきたアルジュナであった。

 すぐにヴィカルナも近くに走り寄って来る。

 似たようなうろたえ方の二人の王子は、彼女の身体に目立つ傷がないことを確認し──そして、見る間にその目を吊り上げた。

「危ないではないですか!」

「危ないだろう!」

 両側からの非難にアルチャヤティは目を白黒させる。何を焦ってるんだこの王子たちは。役目は果たしたじゃないか。

 この体勢も耐え難い。なんとかアルジュナの肩に触れて腕の中から出ようとする。しかし、腕の拘束は硬く逃してはくれなかった。

「いや……私、これでも訓練を受けている護衛でして……」

「それでもです! あなたの行動は無謀だった! あれは私達にも見えていた! それなら本職である戦士に任せるべきです!」

 絞り出した抗議の声は、被り気味の叱責に飲み込まれる。それに彼女はう、と息を詰めた。普段、アルチャヤティと話すときのアルジュナは穏やかだ。見えない精霊であった頃も、彼は弱音や憤りこそ零したものの、このように強い口調で直接彼女を咎めたことはない。ヴィカルナも珍しいと思ったのだろう。まったく周りが眼中にない様子に、少々目を丸くしていた。

 しかし、その叱責の内容を素直に受け入れることはアルチャヤティにはできなかった。彼女はアルジュナの従者であり護衛である。彼を守ることは、クンティーから頼まれた大事なお役目なのだ。なによりも愛し子たちの危機を黙って見ているわけにはいかない。

「まぁ! その間に何か仕掛けてきたらどうするんですか!」

「それはあなたにも同じことが言えます! 相手が力を隠していたらどうするつもりだったのですか!」

「どうにもしません! できることをします!」 

 口論は終わる気配が無い。ぽかんとその光景を眺めていたヴィカルナであったが。いつだって涼やかな態度を崩さないかったいとこの、必死でありながらも微笑ましい様子についに決壊した。

 返礼の時の執着ぶりにも驚いたが──おまえ、そんな顔もできたのか! 

「は……ははははっ!」

 急に笑い出したヴィカルナに、今度はアルジュナとアルチャヤティが呆ける番だった。

「な、いきなり何ですか! ヴィカルナ!! 」

「ふふ、悪いな。からかっているわけではないんだ」

 一方的に羨ましく思っていた男の、人間らしい一面を見て緊張が解けただけの話である。

「──アルチャヤティ殿」

 不意に名前を呼ばれ、アルジュナの腕の中でもがいていたアチャーはぱっと向き直る。少しだけ恥ずかしそうに顔を背けた様子を見て、その場に跪いたヴィカルナは柔らかく微笑んだ。

「あなたの守護は私より適任がいるようです。なので、そちらにお任せしましょう」

 そして、ちらりと最後に苦虫をかみつぶしたような表情でいるアルジュナの顔を見て、立ち上がった。

 一片のためらいも、心残りもない動作であった。

 そして、くるりと踵を返す。

「それでは──私はこれにて」

「あ──ヴィカルナさま……」

 アルチャヤティは思い出した。そもそも彼女はヴィカルナの無謀な特攻を止めようとしていたのだ。その彼が、自ら去って行こうとしている。

「アチャー、だめです。まだ立っては」

「ですが……」

 しかし、その声にヴィカルナは反応しない。伸ばした手もアルジュナに取られて、その内に彼等の距離は遠く離れてしまった。

 ──その断絶が、この先数十年続くことになるとは、誰も思わぬまま。

 

 ◆

 

 ヴィカルナは角を曲がって足早になった。

 その顔にすでに導師へと向けた微笑みは無い。すれ違った侍従たちが肩を跳ね上げるほどの冷徹そのものであった。

 脳裏によみがえるのは先ほどの光景だ。

 ああ、完全に二人だけの世界だった。日頃の精錬で涼やかな姿や凜とした高潔な振る舞いなどかなぐり捨てて、互いを想い合う。そんな姿を見せられては、己の力不足を痛烈に思い知らされるというものだ。だが、それこそがあるべき美しい形であろう。清らな香りは、同じく清廉な白のそばにこそあって、讃美されるべきだ。

 ──己のように、汚れた泥などでは無く。

 かつかつと靴音を響かせて、さらにヴィカルナは角を曲がった。

 割れた仮面から零れた血の匂いを追うように。あの黒衣の裾のひらめきを幻視するように。

 ──そして、その先で紛れもない証拠(血痕)を見た。

 点々と続く血の跡を追って、カウラヴァの所有する倉庫の扉を開け放つ。

 ばん、と音を立てて内側に開いた扉。その先に広がっていたのは──彼の予想したとおりの地獄であった。

「──ああ、早かったな。ヴィカルナ」

 濁った獣のようなうなり声。それを遮って、ぽつ、ぽつ、と水滴のしたたり落ちる音が奇妙に反響する。

 うち捨てられたかぶり物。無残に破られた黒衣。転がった湾刀。そして、その奥に。壁に背を預けて座る長兄と彼の腕の中でうずくまる次兄の姿があった。

 ドゥリーヨダナはこの状況を予期していたようで、普段通りの様子でヴィカルナを眺めていた。

「そこで何をしているのですか、兄上」

「見てわからんか? おれ様の悪辣でかわいい弟が怪我をして帰ってきたのでな、慰めてやっているところだとも」

 その言葉にヴィカルナは目を──見ないようにしていた次兄へとその冷ややかなまなざしを向けた。

 薄汚れた床に投げ出された長い手足。髪や半身を少なくない赤に浸した有様。少し乾きかけている様子を見るに、治療はすでに施されているのだろう。大きく息を吸って、吐いてを繰り返す様子は痛みに耐えているようにも見えるが──。

 向けられた視線を察したらしいドゥフシャーサナの眼球が、ぎろりと弟に向く。顔の半分を赤の滲む包帯で覆い、眉尻を悪鬼のようにつり上げた凄惨な形相。血走った目に映るのは痛みへの恐怖では無く、あふれ出さんばかりの怒気であった。

「ヴィ、カルナぁ……」

「……」

 絞り出すような声色。開いた口には赤が混じり、その傷は口元から耳の近くまで達していることが容易に察せられた。

「……クソっ……あの能面女がぁ……! 許せねぇ……このおれの、美しい顔に傷つけやがって……!」

 ぶは、とドゥリーヨダナは吹き出した。

「いやおまえ、おれ様と同じ顔だろうが」

「あぁ、そうだよ! ! あの女は、()()()()()()()も同然っつってるんだ!! 」

「ッ、は! ふはははは! おまえは本当に、おれ様が好きだなぁ!! 」

「ふんっ」

 すねたような仕草にも面白がるようにドゥリーヨダナは笑みを浮かべるばかりだ。

「その程度の傷など、治療師に頼めばちょちょいのちょいであろう? おれ様と同じ顔を誇りに思っているのならさっさと治せばよい」

「いやだね!」

「なんだと?」

 ドゥフシャーサナは身を起こすと、傷が開くのにもかまわず頬に爪を突き立てた。

「──あの女が一番惨めなときにこの顔を見せてやるんだ……! おまえの所業がこれを行わせたんだってなぁ!」

 はは、はは、ははははは!! 狂ったように高笑いするドゥフシャーサナ。ドゥリーヨダナはその様子に手に負えないとばかりに軽く肩をすくめると、薄い笑みを浮かべたままヴィカルナに向き直った。

「まったくあの導師もじゃじゃ馬なものだ……。短気なこやつをここまで切れさせるとは」

「兄上──!」

 ヴィカルナは一歩踏み出した。悪びれのない兄の口からアルチャヤティの話題が出たことで義憤がよみがえる。彼はそのままその怒りをぶつけようとしたのだが。

「──それで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? ヴィカルナ」

「……、……え?」

 空気が凍った。 

「ふむ、どこから話すことにしようか? そうだな、おまえの考えもあるだろう? 話してみるがいい。なんでも答えるぞ」

 ヴィカルナの顔から血の気が引いていく。ふらり、と膝から力が抜けかけたのを叱咤してなんとか立ちなおした。まだ、まだだ。今のはこちらを揺らすための一言。決定的な本心をドゥリーヨダナは口にしていない。 

「……違和感はありました。アルチャヤティ殿は用意の良い方です。雨の日に雨避けを忘れることなどない。つまり、それは()()()()()()()()()()()ということだ。東屋に彼女が来たのは、兄上の差し金ですね?」

「肯定しよう。おれ様が伝令を買収して、偽の予報をあの女に渡させた」

「王宮の応接間を貸し切ったのも兄上ですか」

「ああ、ちょうど配下の者にあの導師に会いたがっていたものがいたのでな。そいつを焚き付けたうえで、他の応接間は諸々の予定で埋めてやった。もちろん、カウラヴァ以外の名前も使ってな。──すべて、おまえと導師を会わせるためだとも」

 どくりどくりと鼓動の音がうるさい。

「……であれば、診療所の件は。あれも、私の行動を読んで、噂の発端となった庭師をあそこに押し込めたのでしょうか」

「そのとおりだ。買収はしたが口は少ないほうがいいからな。そもそも、関係者の少ない診療施設に置いたのだ」

「庭師、ハッ! 庭師なぁ……! なんて名前だったか? 忘れたが、まさかおまえが本当におれの真似をするとはね! くく、その姿を見てみたかったなぁ!! ──さぞかし、色男なことだったろうよ」

「……ドゥフシャーサナ、その口を、閉じろ」

 敬称すら忘れ、ヴィカルナは兄の合いの手に絶対零度の眼差しを向ける。弟の静かな怒気に片眉を上げて、ドゥフシャーサナは口を閉じた。その口元だけは楽しそうに歪めたまま。

「はぁ……後宮の侍女を、巻き込みましたよね。あれについてはどう弁明をするつもりですか。故意であろうとなかろうと、王族が自ら混乱をもたらすなど許される所業ではありません」

「……ああ、その件については確かにな。完全に予想外だったのだ。おまえが支援に回ってくれたおかげで助かった。いやはや、侍従にも見上げた精神の持ち主がいたものだ。我々は彼女に報いねばなるまい。もちろん──十分な恩賞を与えよう」

「ふ、いけしゃあしゃあと。もしも私が動かなければ、放置していただろう、兄上は」

 顔を歪めて吐き捨てた言葉に、ドゥリーヨダナは答えず薄く笑みを浮かべるのみであった。

「しかし、わかりません。兄上が私と彼女の距離を縮めようとしていたことは理解しました。だが、そのためになぜ襲わせる必要があったのです」

「ふむ、そうだな。簡単なことだ。おれ様はおまえがあの導師とともに調査に乗り出すことはわかっていた。似たような理想を持つおまえたちのことだ。勝手に親密になることだろう。しかし、決定打には足らん。だから劇薬を投入したのだ。襲撃者という明確な敵をな。その凶刃から、おまえが彼女を守ることで、ほれ成就! ということだ」

「……」

「……まあ、そううまくいかないのが世の常というやつでな。おれ様が思うよりあの導師はじゃじゃ馬で、こいつは堪え性がなかった。さらには、まさかのパーンダヴァの三男の乱入ときてはなぁ……。こらこら、暴れるんじゃない。ううむ、これはおれ様の人選ミスだな。あとで踊り子たちを呼んでやろう。機嫌を直せ、ドゥフシャーサナ」

 ヴィカルナはそのふざけたやり取りにめまいを覚えるしかなかった。

「なぜ……私だったのですか。彼女に嫌がらせをしたいだけなら、ドゥフシャーサナだけでもよかったはずだ」

 ヴィカルナの問いに、ドゥリーヨダナは笑みを消し、目を伏せる。底知れぬ深みを載せたまま、すい、と彼はヴィカルナから視線を外して、ぼんやり壁を見つめた。

「嫌がらせではない。パーンダヴァに対してはその色があったとしてもな。……最初はこいつの激情をぶつけることも考えたのだ。しかし、どう考えても優しくは扱えんからな。いずれ身内になるものを壊すのは気が引けるであろう? だから、おまえをぶつけた」

「いずれ、身内になる……?」

「ああ、そうだ。おまえも薄々勘付いているのではないか? あの女の価値に」

 曰く、あの女はパーンダヴァの精神的支柱である。

 曰く、あの女をカウラヴァに引き込めば、神の力は容易く瓦解する。

 曰く、警戒心の強い彼女を懐柔するために最も適した毒は、カウラヴァ一の良識人であり、彼女と近しい価値観を持つヴィカルナの()()だったのだと。

「──おまえのその甘い義侠心も、彼女に向けたまっすぐな親愛も、すべておれ様の手のひらの上のことよ。見事、あの導師はおまえを信頼した。おまえの正義は、あの導師をカウラヴァの泥沼に引きずり込むための、最高の餌だったというわけだ」

 ヴィカルナの視界がぐらりと揺れた。呼吸の仕方を忘れたように、喉がひゅっと鳴る。

 己が民のためにと奮い立った正義が。あの東屋で彼女と交わした美しい協力関係が。すべては、この兄の悪徳を完成させるための、用意されたシナリオに過ぎなかったというのか。

「──私は、告発します。兄上たちのこの所業を、王や国父に」

 絞り出すように放ったヴィカルナの最後の反抗。しかし、ドゥリーヨダナは痛くも痒くもないというように鼻で笑った。

「やれるものならやってみるがいい。だが、その時はあの女の首も飛ぶぞ?」

「な……」

「王族であるドゥフシャーサナの顔に、傷をつけたのだ。いかに正当防衛とはいえ、それを黙認するほどこの国は甘くない。さらには、あの女が他国の王となったカルナと逢瀬をしていたという事実もある。これらを並べ立てられれば、あの女はどうなるかな?」

 そう、ドゥリーヨダナが圧をかけた。が、ドゥフシャーサナが間髪入れず包帯の奥で獰猛な獣のように吐息を漏らす。

「はっ、冗談じゃねぇ! 兄上! おれは傷を残すと言ったが、それはおれが能面女に味わわされた屈辱を忘れないためだ!! こんなザマを他人に知られることなぞ許すものか!」

 彼は兄を敬愛しているが、従順という訳ではない。感情のままに動くため、こうして時には相容れず、和を乱すのだった。

「わかったわかった、おれ様とてその気はない。おまえにしろカルナにしろ、雑に扱う気はない。あくまで可能性の話をしている」

 どうにもしまらぬとばかりに肩をすくめるドゥリーヨダナであるが、対してヴィカルナの顔からは完全に血の気が引いていた。

 内部告発など、できはしない。己だけの破滅では済まなくなってしまった。もしも告発などしようものなら、それはアルチャヤティの名誉も傷付け、最悪──ナラカ送りか、命を奪うことになる。

 すべてが、詰んでいた。

 最初から、彼らはこの泥沼からは逃げられなかったのだ。

 

「──理解したからには協力してくれるな? ヴィカルナ」

 

 ──尊いものを美しいと思う。

 美しいもののためにありたいと思う。

 この世は、綺麗なもので満ちあふれている。

 

 だが、どこまでもこの身は泥の中。

 

 ──いかに善を成そうと目指しても、私は。

 どう足掻こうとこの悪徳のひとつなのだ。

 

 ヴィカルナは、認めた。

 自身の義心は結局のところ、泥の中で咲く蓮の花のようなものだった。水面を目指して咲いたとて、その泥という拠り所がなくば、たやすく潰えるものであると。 

「いいでしょう……。だが、兄上にも誓っていただきたい。この先、パーンダヴァと彼女以外をいたずらに巻き込むことはしないと──!!」

 だが、それならそれで構わぬ。

 ──私は悪徳の中で、その悪の矛先を絞る観測手となろう。

 偽善であったとしても、少しでも民に累を及ぼすことのないように。

 そのヴィカルナの決意に、ドゥリーヨダナは鷹揚に応えた。

 即答であった。

「いいぞ。誓おう──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と」

 しかし、その契約は無償とはいかないらしい。ドゥリーヨダナは懐に手を入れて、小さな何かを取り出すと、ヴィカルナの足元に投げた。それは、黄金の輝きを纏ったピアスであった。

「では、おまえもおれ様に誓ってもらわねばな」

 ヴィカルナは、それを震える手で手に取る。ずしりと感じる重たさ。あれほど醜悪と憎んだ財が今や、命綱とは。なんという皮肉だろうか。きれい事だけでは覆せないものも世にはあろう。ならば──。

 ためらいは一瞬。まだ熱を持って腫れている耳たぶに──兄のような身なりをして痛めた戒めの場所に黄金の針を当てる。やわらかな皮膚の抵抗は彼の力の前ではあってなきがごとし。ヴィカルナは、自ら己を犯すような昏い衝動のまま、力任せに打ち込んだ。

 ──ぷつり。

 皮膚を食い破り、異物が肉を押し広げて貫通する、おぞましくも甘美な鈍い音。 脳髄を揺らす鋭い痛みに、ヴィカルナの背筋がぞくりと跳ねた。

「ぅ、ぐ──ッ!」

 耐えきれず苦悶の声が歯の根から漏れる。訓練で付くような切り傷や打撲傷とは異なり、人体の中でも神経の集まる箇所への無理矢理の痛苦である。クシャトリヤとて、そう我慢できるものでもない。

 つうと熱い液体が顎から首筋に沿って流れ出し、衣を赤く染め上げる。

 悪徳によって、清流は濁る。熱い義心はほころんでゆく。もはや、後戻りなどできはしまい。

 ヴィカルナは痛みに歯を食いしばり、睨めつけるようにして顔を上げた。普段の穏やかさはいずこにか。脂汗と血に塗れ、苦痛と背徳感で紅潮した顔は、鏡を見るまでもなく、さぞかし無様であろう。

「は、ぁ──これでご満足ですか、兄上」

 しかし、そんな弟の醜態を目にして、ドゥリーヨダナはすべて許すと言わんばかりに微笑んでいる。愛おしいものを見るように、ゆったりと目を細めてヴィカルナを歓迎している。 

「ああ、似合っているぞ俺の弟よ! まったく派手にやったものだ。さぁ、こっちへ寄るがいい。治療してやろう」

 その言葉は、呪いであり、祝福であり、所有の宣言であった。

 泣きながらゆがんだ笑みを浮かべる三男。それを高らかにあざ笑う次男。弟たちの様を我が事のように悠然と眺めている長兄。

 煉獄の浄化など夢のまた夢。償いなど水の一滴の価値もない。そろいもそろって神に見放された、地獄の住人の宴であった。 

 ヴィカルナは耳元の熱に焼かれながら、絶望的な安堵を覚えていた。この地獄は、少なくともひとりの道行きではない。

 ……あいつもこいつもこの私も、みんな変わらぬ泥のそこ! 

 

 ──だって、同じ肉塊から生まれた「ひとつ」だから! 

 

 ◆

 

「──あの、アルジュナさま、離してください」

「……」

 アルチャヤティは困っていた。

 つい先日、囚われていた寝台の上に、今は張り付けにされている。細くとも質量のある腕に抱き込まれた身体。魔力も失った小さな矮躯では、ろくな抵抗もできはしない。いや──彼女に愛し子を拒む意思はそもそもないのだが。

 それはそうと、この体勢になってもうしばらく経つ。肩口に顔を埋めるアルジュナの吐息が静かに空気を揺らすばかりだ。じんわりと熱い体温が、触れたところから冷たい身体になじんでいく感覚に慣れずに、少し身動ぎをする。縋り付く様は子どものようだが、その質量はもう大人の男のものだ。

 魔力不足か、それともこの命の熱故か、ぽうっと頭の芯がぼやけるような感覚のまま、彼女は己に縋り付くアルジュナの背中を安心させるように撫でた。

 ヴィカルナと別れて即座に、従者を休ませなければ、とアルジュナが切り替えたはいいものの、そのまま腕から降ろされることもなく、ここに至っている。

「──しんでしまうかと、おもいました」

 ぽつりと溢れた本音。僅かに顔を上げたアルジュナの頬にはきらきらと水跡が光っている。静かに彼は泣いていた。

「大丈夫、大丈夫ですよ。昔、言ったでしょう? ──あなたが望む限り、あなたのそばにあると」

「はい……、ずっとそう望んでいますから。どうか、俺から、離れないで。自分の身を危険に晒すことはやめてください」

 その素直な言葉にアルチャヤティは仕方なさそうにゆるく笑みを浮かべた。そして、ぎゅうっと彼の頭を抱きかかえた。

 ああ、それは母が子にするような優しいものだ。

 アルジュナは彼女の腕の中で、静かに涙を零した。

 ──どこまでも交わらぬ感情に、今は蓋をして。

 

 ◆

 

 ──かつてクリシュナは、いずれ英雄となるいとこを女神の化身がカウラヴァに与しないようにするための楔として扱うために、化身にかかった呪いを緩和した。それによってアルジュナは化身を視認できるようになったのである。

 クリシュナが望んだのは和合による拘束だ。しかし、彼には誤算があった。当のアルジュナ自身の、感情の揺らぎである。

 アルジュナにとって乳母は世界のすべてであった。必然、その光を人の身で手に入れようとするならば、それは化身の零落を伴うものとなる。

 

 手始めとして、アルジュナは命名による同化を試みた。我が世界を輝かせるもの。従属によって、彼は彼女を己の一部として定義した。

 ──求めるものには気付かれず、避けるべき難を逃れられない。アルチャヤティの受けたその呪いは、アルジュナのものでもある。

 たとえその命名が、無意識下で行われたものだとしても関係はない。

 

 だから、この恋は──叶わない。




難産でした。
次回、キリ―ティの幕間予定です。

また、以下の活動報告に同人誌の続報をおいています。
【同人誌サンプル】FGOオリ主、精霊従者1巻
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=340767&uid=188455
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

姉様、姉様、ごめんなさい(作者:イエスアマゾネス)(原作:Fate/)

死亡フラグ100%の種族にTS転生


総合評価:1823/評価:8.93/連載:4話/更新日時:2026年05月28日(木) 16:08 小説情報

いつか何処かの戦場にいた誰かの記録(作者:防水工)(原作:Fate/)

神話や伝説に描かれる英雄、偉人、勇士、豪傑の、煌びやかで荘厳な物語。▼世界各地に散らばる英雄譚は数しれず…。▼しかし思い出して欲しい。▼英雄譚の裏には、血と汚泥に塗れ、愛する者の元へ帰りたいと願った、“名もなき兵士達や戦士達”がいた事を。▼こんなサーヴァントがいたっていいじゃない、と思い投稿▼そこそこ評価されたら続き書き〼▼生成AIで作ったソルジャーさんのセ…


総合評価:2290/評価:9.08/連載:17話/更新日時:2026年04月26日(日) 12:39 小説情報

七崩賢『強欲の魔女』エキドナ(偽物)(作者:魔女の茶会のお茶汲み係)(原作:葬送のフリーレン)

 フリーレン世界にエキドナ憑依系TS転生者をぶち込んで、ただただエキドナロールプレイさせるだけの愉快なお話。▼「ボクはただ、君の全てを知りたいだけさ」▼ なおスペックは、種族が魔族になった以外まんまエキドナと同程度の力を扱えるが、頭が少しばかり残念になってます。▼「お前はその好奇心を満たすためにどれだけの人間を殺したんだ」▼ ちなこの転生者は人殺したことはあ…


総合評価:4816/評価:8.38/連載:2話/更新日時:2026年04月05日(日) 22:18 小説情報

転生したらORTだった件(作者:装甲大義相州吾郎入道正宗)(原作:転生したらスライムだった件)

転スラ世界に迷い込んだのは、型月作品最強種のORT…に転生した主人公。これなら無双出来ると思いきや、リムルやその仲間って普通にそのレベルじゃない? 敵対したら勝てるのこれ? なんて疑問を持ちつつ彼は己の無法ぶりを自覚していない。


総合評価:5155/評価:7.99/連載:4話/更新日時:2026年01月17日(土) 11:57 小説情報

浅葱の影(作者:CATARINA)(原作:Fate/)

▼幕末最強の人斬り集団、新撰組。▼その影に暗躍した一人の男の物語____▼「クソッタレ……! こんなのが経費で通るわきゃねぇだろ土方ァァァ!!!」▼新撰組の黒羽織、鬼の金庫番。▼名を秋無出雲、脳筋バラガキの中で必死に資金繰りに苦しむ勘定方筆頭であった。


総合評価:6339/評価:8.89/連載:67話/更新日時:2026年05月24日(日) 08:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>