授かりの英雄には精霊の従者がついている   作:修行者‪α‬

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全知の導師は使命と最愛のいとこのために、少しだけ。
見逃すことにしたのです。

(クリシュナはヴィシュヌ神の意識が強いときは一人称に『俺』を使っています)


3.従者は主を抱きしめてあげたかった

 法と正義の神ダルマの子、品行方正な長兄ユディシュティラ。

 風神ヴァーユの子、逞しく闊達とした次男ビーマ。

 雷神インドラの子、戦士として優れた資質を持つ三男アルジュナ。

 三人とは異なる母を持つ双子の医術神アシュヴィンの子ら、聡明で好奇心旺盛なナクラとサハデーヴァ。

 

 王妃クンティーのマントラによってこの世に生まれ出たパーンダヴァの五兄弟はそれぞれ際立った性質を持っていた。

 

 その中でも自分の仕える主人は一番繊細で、優しいおひとなのだと従者は思う。

 

 

 

「・・・・・・私が、ちゃんと引き止めればよかったんだ」

 

 あれは彼らの父が死に、生まれ育った森から離れて王宮で暮らすようになってしばらくしたある日の夜のことだった。

 

 数日前にビーマが元々王宮に住んでいた百人のいとこ達の長兄ドゥリーヨダナの怒りを買って、睡眠薬を飲まされ縛られたまま川に流された。

 兄弟四人でやっとの事で見つけ出したのがほんの数時間前のことで、命に別状はなく彼は自前の頑丈さに誇らしそうに笑っていたけれどその身体は酷く冷えきっていた。

 

 兄がもしかしたら帰ってこなかったかもしれないという不安が今になって襲ってきたのだろう。

 まだ慣れない石造りの寝台の上に膝を抱え、小さい身体を更に小さくして、声を押し殺すようにしてアルジュナは涙を流していた。

 そっと側に近寄ってせめて冷えぬようにと掛布を肩にかけて、背後から寄り添う。

 たとえその熱が、伝わらないとしても。

「・・・・・・そこに、いるんですか」

 

 ───ええ、そばに。

 

 呟いた言葉は主には聞こえない。ほんの数年前、彼が七つの誕生日を迎えたその日から認識されなくなってしまった。

 声も、温度も、形も────そして共にあった記憶さえ忘れ去られてしまった。

 王宮付きの呪術師や仙人に調べて貰っても皆口を揃えて強い呪いだと言うだけで、詳しいことは分からずじまい。

 誰がかけたのかも、いつかけられたのかも、どうしたら解けるのかも不明なままだ。

 七つまでは神の子だという。だから、その年まで彼には従者が見えていたのではないか、というのが仙人たちの結論だった。

 元々、縁あって始めた宮仕えというだけで、必ずしも侍従を続けなければならない立場でもない。

 他者に害はないといえ、本当ならその時点で従者はその任から外されているはずだった。

 

「おまえのそばにいるのはきっと精霊だよ」

 ────ユディシュティラの言葉がなければ。

 

 幼いながら浮かべた優美な微笑は常と変わりなく、ただその目は悪戯っぽく輝いていた。

「おまえを守ってくれる少し厳しくて優しい精霊だ・・・・・・だから、手放してはいけないよ」

「分かりました・・・・・・?」

 兄の言葉によく分からないと言った様子で首を傾げつつも主が頷いたことでそれまで通り従者は彼に仕えることになった。

 

 

「アルジュナにはあなたが必要だ。私たちではあの子の内面まで見通すのは難しい。半分育ての親として、教師として、あるいは姉として側にあったあなただけにしか分からないこともあるからね。だから────頼んだよ『精霊』さん」

 

 わずかな寂しさを滲ませた言葉の意味を従者は理解できてしまう。

 主は優しいお人だ。優しくて、繊細な方だ。五人兄弟の中でも一番人に近い感性を持っていると彼女は思う。それが悪いこととは言わない。むしろ、人の国を統治する立場の者としては必要なものである。

 

 ただ与えられた役割の大きさからすれば、それは辛いことなのかもしれない。

 

 彼は生真面目で、生来不安や疲弊を貯めやすい性質であった。

 他人の機微に敏く、それこそ気付かなくていいことまで気付いてしまう。

 責任感が強いため一度背負ったものはやり遂げる。それを達成できるだけの能力があっても、やはり避けられぬ負担はあるのだ。

 身近にいる『正しい』存在、ユディシュティラやクリシュナを目標にしているようなのもそれに拍車をかけているだろう。

 ユディシュティラはそれを分かっていた。

 

 

「・・・・・・見て、いたんです。ビーマ兄ちゃんが、いとこ達と仲良くなろうとして、遊びに誘って。森には神の血を引く俺たちしかいなかったから・・・・・・力加減を誤って、腕を折ってしまって・・・・・・驚いて腕を動かしたのがまずかった」

 

 振り払われた形になった軽い子どもの身体は簡単に吹き飛んで川に落ちた。腕が折れているためろくに水掻きもできずに溺れかけた百兄弟のひとりを水から引き揚げたのが彼女であったから、その時のことはよく覚えている。

 

 いとこ達の方へ向かうビーマに力加減をするように言っていたのはアルジュナであったし、それに大丈夫だと笑って歩いていったビーマの背中を見つめていたのも彼であったから。

 主を後ろから眺めていた従者はすぐに気が付くことができたのである。

 

「ドゥリーヨダナは怒っていました」

「・・・・・・後で次男のドゥフシャーサナが兄さんはとても兄弟を大切にしているんだって言っていた。いつもは好き勝手させていて喧嘩したって見向きもしないけど・・・・・・。兄弟が百人もいるんだから、ひとりひとりまで目が届かなくてもおかしくないのに、ドゥリーヨダナはそれぞれを可愛がっている」

 

 ────ここに自分たちの居場所はない。

 

 それは王宮に迎えられてはじめて感じたことだ。

 歓迎する雰囲気の中に神の子を恐れる気持ちと、何故帰ってきたとでも言いたげな空気が漂っていた。

 凶兆だと言われている百兄弟も、要らぬ火の種と大差ない神の子の五兄弟も、王国の安泰を願う者達にとっては等しく厄介者であった。

 ────彼らはいとこという関係である前に政敵であるのだから。

 

「仲良くしたいと望んでも、向こうはもうお互いだけで充分なんだ」

「でも・・・・・・羨ましいなぁ」

 

 あんな風に笑い合えるのは羨ましい。

 

 五兄弟の仲が悪いというわけではない。ただ全員が同年代な百兄弟と違って、一年ずつ離れているため距離が遠いように感じることがある。

 一緒に遊ぶというより、遊んでくれる、遊んであげるという感覚が近いだろう。

 これまではそれが当たり前だったが、百兄弟の仲の良さそうな様子を見れば寂しさが湧くのも無理はない。

 

 沈んだ様子でうつむく主に何かできることはないものかと従者は考えた。

 人肌は落ち着くが自分の状態では到底無理だ。

 何か代わりになるものはないかと考えて────思いついた。

「精霊、どうかしたのですか?」

 肩にかけた布が落ちる。

 問いには答えられないから従者は布の端を握って振るのみに留める。

 

 部屋の扉を開けて向かう先は厨房だ。

 

「精霊・・・・・・っ!」

 少しお待ちください。礼をしたところで見えはしないが、礼は欠かせない。見えないところにこそ礼儀は宿る。

 

 

 

 

 

 ────しばらくして戻ってきた従者がアルジュナに差し出したのは杯である。

「これを、私に?」

 すっと杯がアルジュナの方に近付く。

 

 中を満たすのは温めた牛乳に蜂蜜と香りつけに少し酒精をいれた────後世の言葉でいえばホットミルクだ。

 温めた牛乳はそれだけで精神を落ち着かせ、良い眠りに導く効果がある。蜂蜜の自然な甘さは彼の心に残るわだかまりを溶かしてくれることだろう。

 

「ああ・・・・・・良い味です。あたたかくて甘くて、あなたと同じ気配がする」

 

 気配など本当は分からない。

 けれど、いつだって今のように形として差し出される想いとホットミルクの味は同じ優しさで出来ている。

 

 従者に任されたのはあくまでアルジュナの身の回りの世話だけで、そのように接する義務はないというのに。

 ただ寄り添ってくれるというその行動に何度救われたことだろうか。

 

 だが、それだけでは足りなくなってきたと感じるのも事実だ。

 

「昔は見えない誰かが話を聞いてくれる事が心地が良かったけれど・・・・・・」

 もう一口杯を傾ける。

 

「・・・・・・俺にもあなたが見えたらいいのに」

 

 そうぽつりと零して、少年は目線よりも少し上の辺りに目を向けた。視線が交わったような錯覚を覚えるも、寂しそうに揺れる黒曜の瞳には相変わらず部屋の内装だけが写っているのを見てとって従者は静かに目を閉じる。

 

 

 昔、アルジュナのためになるならば自分は見えない『精霊』でも構わないと彼女は考えた。

 例え見えなくても、支えることができるならそれでいいと。

 

 彼は忘れていても彼女は覚えている。

 産まれたばかりの赤子に触れた時のあたたかさを。

 手を繋いで森の夜道を歩きながら話したことを。

 母の次にあなたに見せたかったのだと笑って差し出された花を、覚えている。

 ───それだけで、良かったのだ。

 

 ・・・・・・けれども、今願うのは別のことだ。

 ただ黙って抱きしめてあげたい。

 言葉はいらない、報いもいらぬ無償の愛を彼に。

 己の子のように愛するこの王子の苦しみをそれでやわらげられるなら、彼以外に見えなくなったって構わないのに。

 どれだけ強く想っても体温は伝わらない、声は空気を震わせない、姿は目に映らないまま。

 

「────触れたいと、そう願っていたのは私だけではなかったのですね」

 

 泣き疲れて眠ってしまった少年の頭の上をそっと細い指が撫でていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は導師である。

 

 人を光へと導き、己の身の内にある真理────『(アートマン)』を追い求める探求者。

 武芸を極めることで境地に挑もうとするドローナもまた導師であり、全知のクリシュナ、『英雄』を導くべしと使命を受けそのために行動する彼もまた導師である。

 ただ彼らと異なる点は彼女が探し求めるその『我』は自らの正体と直結しているのだと感じていることだろう。

 

 およそ三十年と少し前、彼女はこの世界に生を受けた。

 生まれた、というには語弊があるかもしれない。はっきりと自身を自覚した時にはもう既に少女の年齢の姿だったのだから。

 それ以前の記憶はなく、すっぽりと抜け落ちている。

 時を経るにつれて薄まっていったが、思い出さねばならぬという強迫観念にも似た強い感情だけがあった。

 

 精神年齢で言えば彼女はドローナとほとんど同じくらいだ。

 

 

 

 

 

 ────その中身は大人であるはずの彼女は今、王宮の庭である男の胸元を掴んで睨みつけていた。

 

「あだだだ、痛い痛いよ!首折れちゃう!!」

「馬鹿な。あなたと私の力にどれだけ差があると思っているんですか。たいした痛さではないでしょう」

「だって君離してくれないんだもの!あるかどうか分からない情にだって訴えるさ」

「・・・・・・クリシュナ、私何度言いましたっけ」

「・・・・・・何のこと?」

 

 男の服装は簡素だが見る目のあるものには仕立ての良いものだと分かるそれ。

 首元を掴まれてなおも飄々と振る舞う男の名はクリシュナという。パーンダヴァの年長三人の母方のいとこであり、アルジュナの親友である彼は良く王宮を訪れていた。

 

「王子をあなたの夜の御趣味に誘うな、と何度お伝えしましたか?まだ彼は十三歳、成人していませんから少し待てと何度言いましたか?」

「・・・・・・うーん、三回?」

「残念、これで十回目よ。そしてこうしてあなたに直談判しに来るのは五回目です。頭はよろしいようですけど、記憶力はどこに置き忘れてきたのかしら」

 

 そう、このやり取りは日常茶飯事なのだ。

 例え、その場所が王宮の屋根の上でも────今のように水面に浮かぶ大鬼蓮の上でも。

 ぷかぷかと浮かぶ大きな蓮の葉の上に、彼らは向かい合って座っている。

 

 はじめは付けていた敬称は段々馬鹿らしくなっていつの間にかどこぞへと飛んでいってしまった。

 丁寧に呼んでいたときはなんとなく居心地が悪そうにしていた癖に、初めに『クリシュナ』と呼んだ時は今までにないほど機嫌が良さそうだった。それが何故なのか、従者には分からない。

 

「うん、大丈夫だよ。多分この国の誰よりも記憶力はいいだろうから・・・・・・水浴びしてる時見ちゃった君の姿だって────待って待って僕が悪かった!お願いだから縁の方にじわじわ押さないで!!」

「一言多いとそろそろ自覚なさい」

「わぁ君のような美少女に睨まれるのって新たな扉開けそう。たまには食べたことのないものを食べてみるのも良いよね。どう?僕に一日時間を預けてみない・・・・・・?」

 ここぞとばかりにオーバーな反応を潜めて、片目を瞑って艷やかに微笑んでみせるクリシュナであったが。

「・・・・・・懲りないわね」

 対する従者の態度は冷静だった。

 

 外見はともかく、それなりに時を送ってきた従者は本気でもない言葉に心を揺らすほど初心ではない。だがこうも息を吐くように口説かれると流石にうんざりしてくる。

 

「面倒ですね。もう落としてしまおうかしら」

「この体勢からだと君も落ちると思うんだけど。水の滴る良い女って言うけどさ、そんな格好で愛するいとこの前に出れる?」

 

 にっこりと笑いながらクリシュナは従者の手首を握った。道連れにする気満々の行動になおも彼女は表情を変えずクリシュナを見た。

 

「別に構いません、私の姿はアルジュナさまには見えませんから」

「見えないところからぽたぽた水滴が垂れてるのって凄く不気味だよ」

 

 ここで耐えて自分の精神を削るのと、水滴が滴る様を見た時主が受ける衝撃を天秤にかける。

 

「・・・・・・いいでしょう」

 礼節を弁えた彼女は舌打ちこそしなかったが、酷薄に細められた目には仕方ありませんねという気持ちがありありと見える。

 

「そんなしょうがないなって感じで離さなくったって・・・・・・」

「あら、別に蓮の外に出しても良いのだけれど?あなた、この後アルジュナさまに会う予定があったのではなくて?私は着替えて行けば良いだけですからね」

「あはは何言ってるんだい冗談だよ」

 

 

 

 

 

 

「────それにしても、『君』がこちらにつくなんてね。偶然っていうのも分からないもんだねぇ」

 ふと、蓮の上に胡座をかいて座っていたクリシュナの雰囲気ががらりと変わった。

「『楔』がないからふらふら向こうに行っちゃいそうなのが難点だけど、さ」

 

 たまに彼はこうなる。

 

 真っ直ぐに見つめてくる目は不思議な色をしている。

 目の色は変わらず黒のままだが、その奥は揺らがずどこか無機質な────目の前の従者を見ているようでどこか遠くを見ている。

 その目が彼女は苦手であった。

 まるで自分の目だ────。水面に映った自身を見ているようで居心地が悪い。

 そういう時は決まってこちらには良く分からない話をするのだ。分からないのに、本能は警告してくる。

 ────危険、だと。

 

「・・・・・・」

 呑まれるな。不安を握りつぶすように拳を握り込んだ。

 

「俺でもいいけど、ちょっと近いかも・・・・・・情もなく君を手篭めにしたなんて知れたら今度こそ八つ裂きにされるな。いとこなら直系じゃない四分の一、ぎりぎりいけるか・・・・・・?」

「・・・・・・物騒、ですね。何を仰っているかは不明ですが」

「いずれ分かるよ。君に課された使命も、正体も」

「素直に教えてはいただけないと?」

 ふふ、とクリシュナは可笑しそうに笑う。

「今の言葉は聞かなかったことにしよう。・・・・・・分かっているだろうけど君は己の『我』を探す求道者だ。君自身で探し出さねばならないものだから、ある意味同じ立場とはいえ俺から答えを出す訳にはいかないよ。それに俺は本当に大事なことは必要に差し迫った時にしか喋らない性質でね」

「・・・・・・ああ、これは甘えたことを言いました。忘れる必要はありません。むしろ覚えていてください。自分の発言を誰かが覚えているという戒めにしますから」

「結構、それでこそ君だ」

 

 それでこそ、ね。

 何も分からないこちらからすると自分らしさもなにもあったものではないが、彼の言葉には妙な説得力がある。

 

「・・・・・・あなたに言われても複雑な心境にしかなりませんが、甘んじて受け入れましょう」

「辛辣だね!?そんなこと言うのは君くらいのものだよ!!」

 

 だって、何だか抗いたくなるんだもの。

 

「あなたの顔のせいよ」

「理不尽!」

 クリシュナの整った顔付きを見ていると、無性に素直に従いたくなくなってくる。

 子どものようだと思うがそれは自分だけではない。彼もまた普段の優しげな顔をかなぐり捨てて真っ向から言葉をぶつけてくるのだ。

 

「君のことは好きだけど、苦手だなぁ」

「あら似たようなことを思っていたのですね。私はあなたのことは苦手ですが、好きですよ」

 従者が常日頃思っていたことを口にすればクリシュナは片眉を上げておかしな表情を作った。

 同じような響きだが、そこには感情の強弱、優先度の違いがある。

「流石我が母の化身・・・・・・その包容力で太陽神を骨抜きにしただけのことはある」

 

 不意にぼそりと零した言葉は小さくて全ては聞き取れなかった。

 

「何かおっしゃいました?」

「何も」

 はぁ、と溜息をついたクリシュナは胡座のまま腕を組んで考える体勢に戻った。

「でもどうするかな。そもそも視認されてない訳だし・・・・・・」

 

 しばらくうーむと唸っていた彼は唐突に真面目な顔をして。

 

「ねぇ、僕の愛人にならない?君は養子とはいえバラモン、僕はクシャトリヤ。身分上はあまり問題もない」

 

 そう、言った。

 

「あなたの中で何がどうなってそうなったのか分かりませんが・・・・・・色々考えた末、そこに戻りますか。愛しいラーダーの前でも言えるなら考えますけどね」

 

 ラーダーはクリシュナが王宮に来る前に羊飼いをしていたころ熱烈に────それこそ命をかけて愛した女性だ。

 主に引き合わされたのち、何を気に入ったのか従者によく絡んできたクリシュナ。彼がその度に口にしていた惚気はそれこそ、そのよく回る口を縫い付けてしまいたいほど聞いた。

 

「あー・・・・・・それは無理だな。うん無理」

 

 予想通りあっさりとした回答である。

 

「でしょうね」

「それに良く良く考えてみれば君を本命じゃなくて愛人にする方がまずかった。肉片一つ残さず焼かれちゃう」

「八つ裂きから更に物騒になりましたね。例のその人とは気が合いそうです」

 

 良くもまぁ天気の話でもするように屋根の下へ誘うものだ。この男、常識をどこに置いてきたのだろうか。

 ・・・・・・自分のことを棚に上げているが、冷静に言葉を返す彼女もただびとのような情緒をしていないという点では同じ穴の狢である。

 

「そもそも私はただ一人の主に仕える身ですから。アルジュナさまの許可を得ない内はどれだけ袖を振っても無駄です」

「だろうね・・・・・・ん?ちょっと待つんだ。君、導師としての地位も持ってるだろう?別に侍従の任を離れても生活は問題ない、はず・・・・・・あぁ、なるほど」

 

 ────理想の主に仕えているのに、その他の主君にかしずくのは嫌ってことかい?

 

「なにせ僕の最愛にして最優のいとこだもんなぁ」

「別に王子が才のあるおひとであるから側にいるわけではないので、理想というと語弊がありますけど──―おおむねそのとおりね。赤子の頃から関わってきた愛し子の成長を見届けたいと思うのは何もおかしなことではないでしょう?」 

 そっかぁ、と頷いてそれきりクリシュナは黙った。

 他の男ならもっと追求してくるだろうが、どこか浮世離れした彼の反応はこちらが拍子抜けするほどあっさりとしたものだ。ともすれば冷徹な程に。

 主に近しい人物に抱く感情以外にも芯に似通ったものを感じるから付き合いやすい。

 本人に伝えはしないが。

 互いに苦手だからこその気の置けない関係、そんなものもある。

 

 そうしみじみと考えていると。

「しかしそれだと今のままではいけないね。見えないことが回り回って、いとこの危機に繋がったら大惨事だ」

 黙り込んでいたクリシュナが唐突に言葉を発した。

 どうやら長らく沈んでいた思考に一応の決着がついたらしい。晴れやかな顔をしている。

 だからといって輝くような目を向けられても従者は困るのだが。

 

「はい?」

「完全に解くのは無理だけど、気付かせるくらいのことならできる」

 

 ふと憶えた嫌な予感。

 しかしここは蓮の上、逃げる場所などどこにもない。

 

「・・・・・・クリシュナ、何を言っているのですか?」

 にっこりと笑った彼は彼女に向かって手を伸ばして────

 

「大丈夫心配しないで、少し弄るだけだから。次目が覚めた時にはきっと良いものが見られるはずさ」

 

 ────ぷつり、と意識が途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めればそこは主の自室の中であった。

 部屋の隅の彼女の待機場所、毛羽の整えられた絨毯の上に横たわっていた。

 ゆっくりと身を起こして、入口を見やれば既に外は暗くなっているようで、室内には月と灯火の明かりが差し込んでいる。

 

「・・・・・・困りました」

 

 弄ると言っていた割には特に従者の身体に不調はない。それよりも、だ。もしやあの男、気絶した自分を抱えて部屋に運んだのではないだろうな。

 そちらの方が彼女にとっては問題だった。

 誰かに騒がれる心配はしていない。人に見られるような愚行を犯す人間ではないからだ。従者が心配しているのは─────借りを作ってしまったことに対してである。

 手を出したのはクリシュナだとしても話の通じる男ではない。確実にこれは借りを作ったことになる。

 

 今日何度目かのため息を付き、向こうが言い出す前に花束でも投げて慎ましい見た目を少しは華やかにしてやることにしようと思考を切り替える。

 そろそろ主が帰ってくる頃だ。無様な姿のまま迎える訳にはいかない。

 従者はすっくと立ち上がり、乱れた服装を整えたあといつものように部屋の隅に控えた。

 

 

 少し待てば扉が開き、部屋の本当の主が帰ってきた。

 今日も間近に控える御前試合のためにしっかりと特訓をしてきたようで、満足気な顔をしていた。

 成長期に差し掛かったのかほんの数ヶ月前まではほとんど変わらなかった身長はぐんぐんと伸びているところだ。もう指十本分位離れてしまった。

 もう後ろから寄り添っても、背中全部を覆うことは叶わないだろう。

 少年から青年へとなりつつある姿に嬉しく思うが一抹の寂しさもあった。

 

 楽な格好になって寝台に横たわった主を見届けて、自らも目を閉じる。もちろん立ったまま寝たりはしない。さっきまで眠っていたようなものだから眠たくないというのもあるが────今宵は月が綺麗だ、もう少し起きていてもいいだろう。

 

 

 御前試合に向けて五兄弟に贈ろうと考えているお守り袋にそれぞれ何を刺繍しようかと考えていた時、ふと主が起き上がる気配を感じた。

 何か忘れものがあるのかもしれないと思い、従者は目を開けぬまま黙って立っていればどうもおかしい。近寄ってくるような、足音が。

 足音は目の前で止まった。月明かりが遮られて瞼の裏が暗くなる。なんとなく恐ろしい気持ちになって目も開けられぬままでいると、腕に熱を感じた。

 

 指、である。自分のものでなく主の、アルジュナの。

 

 己を認識できていない彼に触れられるはずがないというのに。

 

 従者は混乱した。

 混乱故に固まった。頭の中にいくつもの疑問符が飛ぶ。自分はきっと立ったまま寝ているのだ。

 これはあまりにも主のことを想い過ぎた自身の願望が見せた都合のいい夢であると侍従は己に言い聞かせる。

 

 腕の次は頭の方に手が伸びた。

 髪に触れる恐る恐るとした動きが次第に優しく撫でるような触れ方になる。正直に言おう。肉体の年齢に精神が引っ張られているのか凄く心地がよい。

 擦り寄りそうになるのを鋼鉄の精神で耐えた。夢だけど夢じゃなかったらどうする。憤死ものだ。

 

 今にも崩れ落ちそうな理性を既のところで押しとどめる。

 とどめたが、何かを確認するように服で隠れない手の甲に触れた手に表面を撫ぜられて・・・・・・限界を迎えた。

 

 ────もう無理だくすぐったい!

 

 かっと目を見開けば、驚いたような濡れ羽色の目と目が合う。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 いや、まさか。嘘だろう、彼は部屋の隅に用があったのだろうと従者は先程までの晒されていたはずかしめを忘れてそろりと横に二、三歩移動する────ついてくる視線。

 

「もしや、見えているのですか」

 

 疑問形にすることすら忘れて聞けば、呆けた表情のまま彼は頷いた。

 

 

 主にまさか見えているなんて。

 

 そう、これは夢。夢なのだ。

 ならば覚めないうちに兼ねてからの願いを達成してしまうのに限る。

 

 従者は現実逃避した。

 

 斜め上の方向にふっきれた彼女は未だに半腰でいる彼の頭を抱えて、自らの肩口に引き寄せた。

 

「・・・・・・ずっとこうして、さしあげたかったのです。もう、夢だっていい・・・」

 

 くっきりとした目元からほろりと流れ落ちた雫がアルジュナの肩を濡らす。

 

 

 もう十分だと離そうとした手が強く引き寄せられて、小さな身体はすっぽりと少年の腕のうちに収まってしまう。

 抱きしめたら、抱きしめ返された。

 

「・・・・・・やっと、あなたに触れられた」

 

 離さないとでもいうような力の強さに相反して、吐かれた言葉はやわらかな響きを伴っている。

 まだ薄く膜を張った黄金に黒曜をしっかりと合わせて、彼は笑った。

 幼き日のように眩しいほどの喜びをたたえて。

 それでいて、青年期にさしかかった苦みの影が見える。

 様々な感情が混ざりに混ざった笑顔。今までに見た事の無い顔。

 

「全部思い出しました。あなたと交わした会話も、あの夜の美しい星々も、中々表情が変わらないあなたの笑った顔が見たくて花を渡していたことも・・・・・・すべて」

 

 ────だから、夢にされると困ります。

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