────愛とはあまねく全ての許容であり、恋とは自他の身すら削る自傷である。
昔の話をしよう。
一人の王子と、彼に仕えた従者の話だ。
遥か昔の、それこそ人がまだ神に従って生きていた時代のことだ。
断っておくならばこれは幸福に終わる話ではない。それどころかまるで救いのない終焉を迎える話だ。
始まりから間違っていた。
いや、そもそも正しかったところで残酷な事には変わりない。ただ登場人物が変わるだけのこと。
正しいことが幸福とは限らない。
前提からボタンを掛け間違って、ずれにずれて、修正も効かぬまま最後まで到達してしまった───そんな、話。
言葉にすれば悲劇と呼ぶにふさわしい。
悲劇、そう悲劇だと物語であるならばそう呼んだであろうが。ああ、この世界においては史実だった。
──これは一人の王子が『英雄』に至る物語だ。
二つの大陸が衝突する所、隆起した霊山は点を突くほど高くそびえている。
その遥か頭上に広がる雲のそのまた上、陰りの見える太陽が照らす天上世界───人の暮らす地上とはずれた位相にあるそこに一つの神殿があった。巨大な石壁は古い神話の場面が意匠として施され、鮮やかに彩られている。
神の一柱の住まう壮麗な神殿。しかし、それは少し前までの話。
そこは今では太陽の光が当たることなく影に包まれており、往年の色合いは褪せている。
極めつけは神殿を上覆うどろどろとした黒い雲。
長く降り続いた雨で異常なまでに成長した樹木が神殿を取り囲み、内側まで侵入していた。
神殿の中央に一箇所だけ侵食の及ばぬ洞が存在する。
円形に広がった洞はわずかに光を持ち、そこには一人の女神が静かに横たわっていた。
なだらかな波を描く長い髪。はっきりとした凹凸。
艶のある黒いやわらかな肌は見る者に劣情を抱かせ、女神に対してそんな感情を持つことさえ禁忌だと思わせるほど美しい。
──そんな彼女の傍に佇む青年の形をしたが神がひとり。
日輪の如き輝きを纏った白皙の肌、鈍い光輝を放つ金色の髪。
肩から伸びた二対の腕を持つ常人ならざる者。思考の読めない冷たい眼差しは畏怖さえ抱かせる。
しかし彼は妖の類でもなければ、ましてや女神の姉ディティの血に連なる魔の者でもなかった。
無拘束の名を持つ女神の子の一人であり、数多くいる太陽の化身の中でも一際日輪に結びついた存在───太陽神スーリヤ。
そして彼の前で眠りについている女神こそ、母アディティであった。
「スーリヤ」
「来たか、兄弟よ」
先程まで何も無かった一角から低い呼び声が響く。
丁度影になって姿ははっきりと見えないが、スーリヤにはそれが兄の一人であることが分かっていた。母に近しい一番上の兄である。
これがインドラでなかったことに彼は密かに安堵する。まぁまずもって素直でないインドラが母に会いに来ることはないだろうが、もしものことがある。昔戦車の車輪を奪われたこともあって、彼とは良い関係とはいえないのだった。
「おまえがここに篭もり始めて三十一回、星が巡った」
「三十一、か。もう千年も待った気でいたのだが」
「代わりも長くはもたぬぞ」
「分かっている」
女神アディティの化身が地上に堕ちて三十一年。不死身とはいえ兄弟の一人を殺して三十一年。
人の感覚でいえば人生の半分に近い時を洞の中で過ごした。
ほとんど人間に近くなってしまった化身の気配を天上から見つけるのは容易いことではない。藁の山から針の一本を見つけ出すようなものだ。その上、何か障壁のようなものまで感じるのだ。
天の星と同じ数の目を持つ兄───ヴァルナでさえ見つけることは叶わなかった。
人であれば長く感じる時間も神の感覚でいえばほんの粒のようなもの。しかし、スーリヤにとってはそうではなかった。
ただ母の目覚めを待ち続ける日々。地上を照らすという役目すら放って過ごす日々。
他の神々には無為なことをすると罵られようと必要なことであった。
女神の為でなく、自らの為に。
スーリヤは己の怒りを覚えている。ヴィシュヌの呪いがアディティの化身に放たれた時、体の奥底から湧いてくるような灼熱の怒りを。ヴィシュヌと己自身に向けた怒りを。
そも、彼は元々そこまで感情を顕にする神ではない。
生まれつき高熱を発する体のせいで見初めた相手には嫌がられる。・・・・・・母の様に放り出してももう一度拾い上げてくれる方が珍しいのだ。
伴侶のサンジュニャーなど仕舞いには分身を置いて逃げ出す始末。
そんなことが何度も続けば性根が暗くもなる。冷えた諦観を宿す目は太陽の化身というには似合わない。
一番は母で、その次に己の役目、妻兄弟、息子、以下諸々。彼は自分の中の優先順位について明確に線を引いている。太陽の化身らしく万物鷹揚に受け入れるが、良く言えば揺らがず悪く言えば情動に乏しい。
だからこそ、スーリヤは恐れる。
天上に神群の母を脅かすような危険などない。だがもしも、もしもだ。己がここを離れている内に女神が傷付きでもしたら?
───きっとその原因を許しはしまい。
前は兄弟を完膚無きまでに叩きのめしたのだ。今度こそ何をするのか分かったものではなかった。
故に、スーリヤは自ら女神を守ると決めた。
「そろそろ本来の役目に戻らねばならない。それは分かっている。・・・・・・だが、母のそばを離れたくはない」
離れられない、のではなく。離れたくない、のである。
「・・・・・・そう答えると思っていた」
スーリヤの抱える母への想いを兄神は承知していた。
それは愛しい者に触れることが出来ない、という彼自身の欠点を唯一肯定した存在への依存だ。
ただの甘えん坊というには些か彼の抱える情は強すぎた。スーリヤが邪な性を持たぬが故、この状態で済んでいるが・・・・・・はてさて、彼が純粋ではなければどうなっていたことやら。
もしもそうなったとしても母は構わず受け入れるのだろうけれど。
女神の長兄は深い溜息をついた。
全く懐が深過ぎるというのも問題である。沼どころか底なしの大海に沈むだけだ。
スーリヤはこの通り、インドラは酒に目がなく怠惰にふるまい。主神のはずのヴィシュヌは役目は果たすが、根は愉快犯である。
どうしてうちの末弟どもはこうなのか。
いや、彼等だけではない。片割れのミトラなど全てこちらに面倒事を押し付けてくるのだからもっと質が悪かった。
「スーリヤの説得とか、面倒そうだな~。頑固の相手は頭の回るヤツがいい。片割れ、よろしく。おれは寝る」
待てよ、奴は契約を祝福するのが役目ではなかっただろうか・・・・・・?なぜ、この契約の場にいない。
───役目は契約を履行することのはずの兄は考えることをやめた。何も好き好んで気付かなくて良いことを閃く必要はない。
「兄弟よ、どうかしたのか」
言葉が続くかと思えば黙りこんだ長兄を不思議に思ったスーリヤは小首を傾げる。
「・・・・・・何故私がここに存在しているのか、理解しているな」
「容易だ、処遇が決まったのだろう。ここは俺の神域・・・・・・たとい、兄弟といえど境を無視するほどの理由がなくては、正規の手順を通さずこの地に足を踏み入れられる筈がない」
彼の述べた通りこの神殿は太陽神の神域、陣地だ。インドラの治める広大なインドラロカとは異なり、その面積は小さい。小さいが隅々までに彼の力は行き渡っている。
主の許しなくば足を踏み入れることさえ叶わない。それはかつて天空全てを統べる事象として存在し───海を司る具象へと成ったヴァルナとて同じことだ。
───本来ならば長兄が神殿に足を踏み入れた瞬間から彼の身の安全はスーリヤの手の内にあった。だが、侵入に気付いた時点で放った排除の意思は効力を発揮することなく消え去った。
確かに陣地の格は役割を半ば放棄している主によって、鬱々とした外観相応に下がっている。結界を破るのは難しくはない。
だが原因はそればかりではないとスーリヤは察する。
今の己の持つ力以上に何らかの大きな力が働いている。一柱でなく幾らかの神々の力が。
淡々と推察を述べる弟にヴァルナは些か、げんなりした様子でため息をつく。
「ああ!その通りその通りだとも!お前の言う通り正規の手順ではないさ。──権能だ」
神の持つ、唯一無二の力。それぞれ小なり大なり己の本質に起因するものを持っている。しかし、ヴァルナの言うそれは本来持つものとは別個の、神群の宗主のみに許された力だ。神群に属する全ての神々への命令権──そして、限定状況下での彼らの権能の無効化。
至高にして、最大。最大にして、最終。
だが、ヴァルナはその行使を他の誰よりも嫌っている。
あるだけで抑止になるものをわざわざ使う意味があるか?
いや、あるまいよ──。
かつて兄がそう口にしていたことを覚えていたスーリヤは乏しい表情に驚愕の色を浮かべて兄を見る。まさか、状況はそれを使うほどに不味いのか。
「驚いた、兄弟がそこまでするとは」
「誰のせいだと思っている・・・・・・!?」
「俺か、ヴィシュヌか、母か」
「全てだ馬鹿者」
これから告げねばならない事を思うと頭痛がするようだ。
「・・・・・・私は神群の宗主としてアーディティヤに連なる太陽神達の総意を伝えに来た。フン、一番上が使い走りと言うのも妙な話だがな・・・・・一度しか言わん、心して聞け」
だが、これはヴァルナに課された使命だった。宗主として、契約を司る神として、神々の前で己のすべき役割を自ら破るような真似は出来ないし、するはずもない。
凛、と纏う空気が変わる。
今までが血をわけた身内に対するものだとすれば、それは神として一個の神格に対するもの。
効率を求めた機構そのものとして活動する為に彼は情動を殺す。
「──聞こう、ヴァルナよ」
決定事項は三つ。
───ひとつ、スーリヤに太陽神としての役目を果たさせること。
「承る、日輪は再び空に輝くだろう」
さぁと周囲に清涼な風が吹き込み、辺りの景色が瞬く間に作り変えられていく。
樹木は消え、淀みに覆われていた神殿は再び鮮やかな色へと。
朽ち果てた床は元の滑らかな見た目へと戻り、空からは穏やかな陽の光が差し込んだ。
頭上に輝くは大いなる日輪。それが太陽神の肉体を照らし、失った光輝を纏わせる。
今この時、スーリヤはかつての輝きを取り戻した。
───ふたつ、力の一部を剥奪すること。
「これは一時的な措置である。おまえが粉骨砕身役目を果たすなら、百年もせず元に戻るだろう。妥当なのは地上への干渉を禁ずる辺りか。見ることは構わない」
ヴィシュヌを代表とする新しい神々の『神は管理者である』という考えと、母アディティを代表とする古き神々の『神は見守る者である』という考えは対立関係にある。ヴァルナは『現状維持』、中立の立場を取っているが、スーリヤの自身の考えは本人が意思表示していないのもあってどちら寄りなのか判別しがたい。
ならば今のうちにどちらにも加担できないように封じておくに限る。
二度目、三度目の衝突は起きてはならない──それがアーディティヤの総意だった。
「承る、我が力の一端を預けよう」
自由を著しく制限する決定にも関わらずスーリヤは躊躇いなく頷く。
役目を放棄すること、それは太陽神としての在り方を放棄することであり、自らの存在を脅かすほどの禁じ手である。
アムリタによってもたらされた不死不滅の命を剥ぎ取られ、定命の存在になることくらいは覚悟していた彼にしてみればまだ甘い。
みっつ──ここでヴァルナは一瞬、言葉を止めた。
「・・・・・・おまえを女神の守護の役目から外す」
「それは、俺の元でなく他の神が母の守護につくという意味か」
「ああ、そうだ。我が直轄、深海の域に連れていく」
これまで動じることなく受け入れていたスーリヤの目の色が変わる。
「正気か」
その短い問いには二つの意味が含まれていた。
──争いの火種となるものを自ら取り込むのか。
──もしもの場合の彼の暴走を受け入れる覚悟があるとでもいうのか。
「無論」
対するヴァルナの答えは簡潔かつ堂々としたものだった。
「・・・・・・兄弟よ、おまえは不死身ではない」
「そうとも、殺されれば死ぬぞ」
ヴァルナはアスラ族の主である。かつての乳海攪拌の折に天の座から引きずり下ろされた彼らは霊薬の恩恵に預かることは出来なかった──不死性を持っていないのだ。
「兄弟よ、おまえには力がない」
「そうとも、私はおまえより弱い」
天の光輪、暁の炎、灼熱の眼光、燃える車輪を持つ戦車──太陽に由来する数え切れないほどの豪華絢爛たる武具をスーリヤは持つ。
対してヴァルナといえば持つのは千の星の目、海の如く深き叡智。化蛇の王として巨大な水蛇を初めとした眷属を多数持つとはいえ、太陽神の前では塵に等しい。
神格、年月に置いては勝っているとはいえ物理的な力では敵わないだろう。
「・・・・・・それでも尚、母を守る、と。そう言うのか」
「──ああ、私が守る」
その瞬間、空が燃えた。
スーリヤの身体を包み込んで巻き起こった炎は彼の激情を表すように、高く高く伸びて天を焦がす。上がる火の粉が宙に舞い、落ちていく様は幻想的であり恐ろしいものだ。
轟々と燃え盛る炎の最中に女神の血を思わせる金色が三つ揺らめいて、そのどれもがヴァルナに視線を向けた。
「・・・・・・フザケタ事ヲ言ウ」
纏っていた皮が剥がれ、身に付けた理性を削がれ、具現化した本能のみがさらけ出される。
太陽神は怒り狂っていた。
「アノ時、アレガ、女神ノ邪魔ヲスルノヲ止メモシナカッタオマエガ!良ク言エタモノダ!!
コノ手ニ握ルダケデ吹キ飛ブ命ニ何ガデキルッ!!」
言葉の内に含まれた唾棄するような響きは、人の形をとっていた頃にはなかったものだ。
「ふざけてなどいない。その節は悪かったがな。私にもそれなりに責任というものがある、どちらかに味方するわけにはいかなかった。・・・・・・仲立ちとして割って入れば良かったとは思う。すまなかった、その事については謝ろう」
それに怯えもせず、静かに佇むヴァルナは本心を告げた。
しかし、面倒なことになった。だから弟から母を引き剥がすような真似は止めろと言ったのに。
───彼は権力や力に拘る性格ではない。寧ろそれを厭うような節がある。
片割れのように自由な奔放さも。
ヴィシュヌのように合理的な思考も。
スーリヤのように動じない豪胆さも。
インドラのように勇猛な精神も持ち合わせていない。
他の神々に比べれば格が低いような印象を受ける。
・・・・・・だが、彼には知恵があった。万物一切を見通す目があった。
俯瞰する思考は、彼を場に合わせて変幻自在にふるまわせる。それは、まさしく水のように。
飄々として肝の座った在り方は、個性の強い神々を纏めるのに適していた。
だからこそ支配者たる天空の神の座を明け渡したのちも、彼はアーディティヤの宗主を務めているのだ。
彼の役目は天地の平定。二柱の神が地上に堕ち、意見が割れている中、一番避けなければいけないのは神々同士の殺し合いだった。
──例えば今のような一触即発の状況など避けるべき最たるものである。
場合によっては、スーリヤには水神の地位とともに母の守護を任せ、己は再び天上の座に戻っても構わないと思っていた。
ブラフマーによって奪われた始源神としての神格、ヤマに成り代わられた司法神としての神格──かつて手放したそれら全てを取り返し、天に立つ。
それすらも厭わない思いでいたのだが。アスラ族が権力を握ることを恐れる兄弟達には受け入れられず結果としてこうして自ら赴く羽目になってしまった。ヴァルナの他には誰もスーリヤには代わって母を守ると言ったものはいなかったから。
・・・・・・まぁ、当然ながら誰も好き好んで八つ裂きにされたり、灰にされたくはないのだった。
被害は及ばぬだろうと悠長にしていたのだろう兄弟の誰かの悲鳴が聞こえる。
もしもヴァルナに何かあれば、次は自分だと少し考えれば分かるだろうに。
そちらを見ることもなく、ふんと鼻を鳴らして彼は日輪そのものと化した弟を見た。
「だがな、話が終わらないうちから早とちりをするな馬鹿者。この程度で我を忘れるようでは再びおまえ自身の熱が母を傷付けるぞ」
そら、今も。
指で指し示したのはスーリヤの足元。
「ウゥ・・・・・・ッ!」
横たわる女神の豊かな黒髪は彼の放つ熱で縮れ、肌は火傷を負ったように赤く爛れた箇所がある。
それはまるで、彼の内に残る原初の記憶と全く違わない姿だった。生まれつきこの身に宿っていた灼熱で母を焼いたその時と。
助けるどころか、守るどころか・・・・・・また、傷を、付けた。
「おまえの
「・・・・・・」
太陽神は女神から離れるとしばらく黙っていたが、真っ直ぐな視線に矛を収める。
炎が一度揺らめいたかと思うと瞬きをする間に元の青年の姿へと戻った。その眼差しは先程まで宿していた熱から反転して冷えきったものだ。
「それで」
「───化身が死ねば、魂は戻り、母は目覚める」
ただし真っ当な死に方で、という注釈が付くが。
「かと言って我らが直接手を下す訳にはいかない。下手をすれば彼女の魂を損なう可能性があるからな。何年かかるかは分からないが長くとも百年前後。我らの寿命からすれば些細な時間だ。その間に化身は死ぬ」
母のことを愛している。
神でありながら非情さを持てず、人のような慈しみの心を持つ慈愛の象徴のような彼女が己に近しいものであることを何よりも誇らしいと思っている。
だが、ヴァルナにとって化身はあくまで化身でしかない。女神と等価値に見ることはできない。
愛情を向ける対象でも、嫌悪の対象でもない。言うなれば無関心。
進んで関わることはないが、女神を目覚めさせるためには死んでもらうのもやむなし。
彼が持つ感情はその程度のものだ。化身をも守ろうとしたスーリヤとは一線を画す。
「既に手は打っている。───人間の協力者に化身を探してくれと言ってきた。神側でなく人間側の方だ。元が『凶兆』などと言われて神に恨みを持っている人間だ。その定めをもっていい具合にドヴァーパラの終わりを引っ掻き回してくれるだろう・・・・・・どうだ、どちらの目的も叶えているだろう?」
混沌が深まれば深まるほど、後に来る世界の正しさは確固たるものになる。ヴィシュヌは更なる混沌を望んでいることだろう。
一方、人間と接触することは神への抑止に繋がる。同時にアディティの望みも叶えている。
「・・・・・・兄弟は中立だろう」
「そうだな。ヴィシュヌの味方でもなければ、母の味方でもない。確かに私は中立だ。──だが、手を出す気はないといつ言った?」
言っていない。
中立を表明してからこれまで一度もそんなことを彼は口にしていなかった。
ヴィシュヌは勘違いをしているかもしれない。間接的に行われたとはいえヴァルナの介入があった以上、奴の独壇場にはなり得ない。最も、その状況を楽しんで受け入れるのかもしれないが・・・・・・。
「先程・・・・・・おまえは私に母が守れるものかと言ったな?」
「・・・・・・ああ」
「私の神域は地上と空と海に隔絶された所にある。この世で最も干渉が及ばぬ場所だろう。誰かの目に入る所に置いておくつもりもない。武力で敵わぬのなら、知恵で追い込むまで」
ヴァルナとて怒りを覚えているのは同じだ。
邪なことを考える輩なぞ、まず神域内に入らせることはないだろう。
「仮にそのような不届き者が居たとすれば──兄弟はどうするつもりだ」
スーリヤは少々血の気の引いた顔で必要ならば化身を殺す、と他愛もなく言い放った兄に問う。
決まっている、とヴァルナは薄らと笑みを浮かべた。
「───殻の消滅など生ぬるい。業に相応しく畜生から生まれ直して貰うとしよう。塵一つ、涅槃の境地に至らせてやるものか」
たまには息子の様子でも見ておくといい、目はそのために残しておいた──。
暗に優先順位にばかり縛られるなよ、と女神を抱え深海に消えていった兄を見送ったスーリヤはその場にがくりと座り込んだ。
納得してしまったのだ。ヴァルナのやり方に。
人の世には影響を与えるがそれは折り込み済み、むしろ望むところである。一方神側が払う代償は少ない──考えられる限り最善で最良の策だ。
恐ろしい男だと思う。穏やかにみえるとはいえ、あれは神で、己よりも年月を経た神だと改めて認識した。
だが。
──人というのは『可能性の獣』なのです。
かつて母が口にしていた言葉を思い出す。
──未完成だからこそ無限に成長する余地がある。古来より語り継がれる英雄の存在はその最たるものでしょう。
何万分、いえ無よりも低い確率を打ち破り不可能を可能にする彼ら程ではなくとも、人間は誰しも可能性の種を持っている。
不確定なもの、善悪に振り切れない曖昧さを持つ彼らをわたしは愛します。
完璧に思えるヴァルナの策が失敗するとは思えない。
けれども、彼の胸には一抹の不安が残った。
女神が目覚めるのは果たして、いつになるだろうか。