従者による久しぶりの1on1講義とパーンダヴァの決起会。
再会の感動が落ち着けば、昔の美しい思い出と成長を迎えた今とのへだたりが見えてくることでしょう。
次回、名前ばかり存在感を示していたあの王子のメインのお話です。
もう何年も前のこと。
とっくに日の暮れた森の中。
夜は魔物の時間だと兄達は言っていたけれど、それが嘘のように空の星は輝いて地上を照らしている。
「もう少しですよ、アルジュナさま」
手を取って少し先を歩くのはいくらか上に見える少女。歩幅を合わせているけれど身長差があるからどうしても疲れてしまう。それが分かったのだろう、彼女はふいに足を止めると振り向いた。
「疲れたらいつでも言ってくださいね。背中をお貸ししますから」
「……だいじょうぶ、です」
金色の目を細めてやわらかな雰囲気のまま紡がれた言葉に反抗するように口を尖らせる。
───それは駄目だ。はっきりした理由なんてないけれど、それだけは駄目だと思う。あと少しだというのなら、どうにか自力でたどり着きたい。
幼い自分はそんな意味の言葉を告げたように思う。
今思えばあれは生来の負けず嫌いの発露だったのかもしれないし、親というには遠く従者というには近い彼女───そばにいる女性に立派なところを見せたいという、幼いながらも男としての自尊心の表れだったのかもしれない。
兎にも角にもそのとき自分はそう返して、一歩前に足を踏み出したのだ。
深い叡智を秘めた凪いだまなざし、穏やかな物腰……それでいて立場が上の者にもしっかりと意見を口にするしたたかさを持っている。彼女は私にとって乳母であり、従者であり、師であった。
国の外の世界の話。
星々の名前の由来。
魔獣を倒した英雄たちの逸話。
王宮に来る以前の記憶がないと言いつつも、その口から語られる話は他の教育係も知らないようなものばかりだった。
「知識の源泉はどこなのかは分からないのです。ただ何か話そうと思ったら自然と口が動いている……こんな何年経っても姿形が変わらない自分が何なのか、と考えるのは少し怖いですけれど……それでも、私は知りたいのです」
───自分が何者なのか知りたい。
遠くを見る姿に何故だか今にも目の前から失せてしまいそうな錯覚を覚える。
彼女は魔術を使う者でもなければ聖仙でもない……。
だから、一瞬のうちに消えてしまうことなどあるはずがないのに。
「……そばに、いてください」
握られた手に力を籠め、自然と零れた言葉。
無意識のままに口にしたその意味を理解するまでに時間がかかった。
今、自分はなんと言った?そばに在ることを乞うなど──まるで母を求める子のようではないか!
驚いたように彼女は足を止めて、振り返る。
「───ええ、そばにいます。あなたに私が必要なくなるまで。あなたが望む限りそばにいます。だから、安心してください」
ふっと穏やかな笑みを口元に浮かべると再び彼女は歩み出した。
先程と同じような、されど少しだけゆっくりとした歩みで進んでいく。
鬱蒼とした森を抜ければ、少し小高い丘の上に出た。
「私の秘密の場所なんです……皆さんには内緒ですよ」
伸ばされた手につられて空を見上げれば──目の前に広がったのは満天の星空だった。
御前試合まであと二日。
午前のうちに日課の講義を終わらせたアルジュナは時間が許すまで武芸の訓練をしてきた所であった。
「……」
ちく、ちくちく、ちくちくちく。
細い針が絹の表から裏、裏から表へと入っては抜けるのを繰り返し、刺繍を縫い付けている。
夕日の差し込む中、窓辺に座っている女は丁度帰ってきた己の主に気付いていない様子で裁縫を続けていた。
裁縫とは儀式に通ずるものだ。古来より針を使っている女性の邪魔はしてはいけないと決まっている。
ここで声をかけるのは悪手だ。
けれどもそんなに熱心に何を縫っているのだろうかという少年らしい好奇心も顔を出す。
アルジュナがせめぎ合う心の内に迷ったのは一瞬。
そろり、と一本足を踏み出し背後をとる形で従者に近付いた。窓の縁に手を掛けて背後からそっと手元を覗く。
従者の手が添えられていたのは小袋のようなもので、吊り下げることができるように長い紐が付いていた。針を操る手付きは鮮やかでまだ未完成とはいえ手元で徐々に形を成していく刺繍は見事なものだ。
それが何であるのかアルジュナには分からない。
流石にしばらく視線を向けていれば気配に気付く。
振り返った従者は彼の姿を認めると声もなく目を見開いた。同時に驚いたように跳ねる肩。
細い、華奢な身体だ。幼い頃見ていたそれと同じだというのに、知らない内に自分は一回りも二回りも大きくなってしまっていた。
「申し訳ございません、お迎えしなくてはならなかったのに。……おかえりなさい、アルジュナさま」
道具をその場に置き立ち上がって礼をした従者の言葉にぴたりと動きを止める。
先程まで自分のしていたこと───婦女の背後を取り、手元を覗き込む────が酷く礼を欠いていたことに遅ればせながら気付いたのもあるが、それ以上に……。
おかえりなさい、などと自分の帰りを純粋に喜んでいるような声をかけられるのは久しくなかったことだったからだった。
───アルジュナには母がいる。他の二人の兄と同じ血の繋がった母親がいる。
しかし、あちらは前王の妃、こちらは現王の養子として迎えられた関係もあって中々表立って会いに行くことはできない。
兄弟はそれぞれ別室であるため、迎えの言葉などたまに宮殿の外に出た時位のものだった。
「……っ」
懐かしい響きに言葉が詰まる。不思議そうに首を傾げた姿を見て、ようやく口を開くことができた。
「───ただいま、戻りました」
「はいお疲れ様でございました」
ずっと主を立たせている訳にもいかない。日干ししたばかりの絨毯を敷き、その上に座るように従者が促すと王子は腰を下ろした。
ふいに目にした日干しレンガの壁にかけられた大きな袋、その口から従者が持っていた小袋と同じような袋がいくらか姿を覗かせている。
「熱心に取り組んでいたようですが、何を繕っていたのです?」
「これはお守りを入れる袋に刺繍をしているのです。少しずつ合間を見て袋から作っていたのですが……御前試合が近いでしょう?後は刺繍だけでしたからそれに間に合わせようと思いまして。アルジュナさまのものはもう完成しておりますよ」
「私のもの、ですか。他の兄弟の分も?」
「はい、パーンダヴァの皆さまとカウラヴァの皆さまの分まで。明日の前日祭前にお渡しするつもりです。流石に手が及びませんでしたので、カウラヴァの皆さまの分はこの都ハスティナープラの象徴である象の刺繍だけですが……」
従者は残念そうに目を伏せた。
繕いに手をつけたことはないので、それがどれほどの苦労かは分からないが、大したものであろうとアルジュナは思う。
いとこの分を含めれば百は当然超えてしまうだろうに。
思ったままを口にすると、表情は変わらないまでも金色がゆるりと細められた。日を受けて輝く麦の色は彼女の機嫌を表すように明るい。
「慣れればそうでもありませんよ。聖典を唱えることと何ら変わりありません。伊達に二十年……いえ三十年やってませんからね」
三十年。凡そ自分の二倍と少し。少女のような見た目からは想像できない年月だ。
彼女の姿形は当時から変わっていない。
幼い頃は姉のように思っていたものだが、今ではまるで逆転してしまったようだ。
再会の日は、まるで童心に戻った気持ちで抱きしめてしまったけど、今の自分がそれをやるのはどうなのだろうか。
アルジュナは少しだけ、距離感を測りかねている。
「……アルジュナさまもやってみますか」
「私が、ですか?」
未だ慣れず戸惑いがちに絨毯の上を当てもなく見つめる目線をどう取ったのか、柔らかな声が降る。
開いたままの手の前に針と布が差し出された。
「確かに裁縫は儀式に通ずるものですが、女性のやるものでクシャトリヤの王族がするものではないと……」
「ええ、そうですね。こんなことをあなたに言ったと知れれば、私は怒られてしまいます。けれど」
「……けれど?」
「もしもあなたのそばに私や他の従者がいられない時、頼りになるのはあなた自身です」
従者がそばにいない事態?そんな事があるのだろうか。
「……本当はそんなこと起きて欲しくはありません。ですが、少しずつ翳りが見えています。王宮の近くにも、他の国々にも。ビーシュマさまには伝えていますが、万が一に備えておくべきなのでしょう」
彼女はふと視線を外の夕暮れに向ける。その目は仕えるものとしてでなく、人を導く者としてのもの。アルジュナには見えていないものを見ているようで一気に距離が遠ざかってしまったように感じられた。
「ええ、脅すのはここまでにして。色々と申しましたが王子に心労をかけるほどのことではありません。些細な問題……ここからが本題です。実のある話を致しましょう」
だがそれも一瞬の事。けろりと正面に向き直った従者に調子が狂わされる。本人は至って真面目な顔を保ったままなので嘘か誠かも分からない。
「私は女ですから、戦場ではあなたのおそばに控えることはできません。仮にその時、衣服が破れたり鎧の結び目が切れたら王子はどうなさいますか」
髪を纏め服を男物に変えれば少年のように見えないこともないのでは、と一瞬頭に過ぎったがそれは今口に出すべきことではないだろう。
「他の侍従に頼みます」
「はい、クシャトリヤらしい模範の答えですね」
よくできました、と従者は微笑む。
質問はここで終わり……ではない。
「ではそこから一歩踏み込んでみましょう。……王子は運悪く戦場で孤立してしまいました。従者達は誰一人周囲にいません。唯一荷物を積んだ戦車の御者のみがそばにいますが彼に繕いものはできませんでした。その状況で先程申し上げたように具足に重大な不備があった時、どうなさいますか」
アルジュナは具体的になった状況設定に惑うが、よく考えれば難しい質問ではないと察する。
もうしばらくすれば彼も成人。初陣を迎える身だ。師範から戦に出る時の心構えやしきたりの手ほどきは一通り受けている。
「……常なれば荷物の中に予備の服や鎧があるはずです。それと今身に付けているものを交換します」
「よい答えです。では条件を追加しましょう。この辺りは滅多に雨が振ることはありませんが、その日は珍しく雨が降っていました。その影響で普段は硬いはずの地面には泥濘ができています」
考え込む王子が理解しやすいように、そこで従者は一旦話を区切った。
「はい」
「雨は滅多にないからこそ恐ろしいものですが……特に問題はないだろうといつも通りに進んだ戦車はぬかるみに嵌り込み、横転しました。丁寧に積まれていた荷台の縄はその拍子に解け、予備の具足は全て泥の中に落ちて使用できないほど汚れてしまいました」
「は──」
「運良く泥にも塗れず怪我することもなく王子も御者も馬も無事でしたが、予備を失った今身に付けている具足をどうにかする以外手はなくなってしまいましたね?」
どうなさいますか、と三度目の問いかけに言葉が詰まる。ここまでくれば分かり切った答えだ。
確かに誘導はされた。けれど話を聞くうちに自然と浮かんできたそれはアルジュナ自身の思考から生まれたものだと自信もって彼は言える。
「なるほど……自分でどうにかするしか、ない。ということですか」
「────そうですね、今のは極端な例です。こほん、何分王子相手は久しぶりなもので少々具体化と誘導が過ぎました。あなたは豪運の持ち主ですから、まずこんな
けれど。
「もうお分かりですね?糸で縫う技を識っていればほつれたのに気付いてすぐに衣服を縫うことができます。糸を扱う技術があればより合わせて鎧の繋ぎにすることもできる。身に着けた知恵はあなたの生存に役立つことでしょう。身分に応じた役割というものがありますから、時と場所には気を付けねばなりませんけれどね……」
とうとうと語る姿に幼い頃の記憶が蘇る。
───そうだった、こういう人だった。
何せ、勉学が嫌いというわけではないが気ままな風らしくじっとしていられないビーマが席を立たずに話を聴いていたほどだ。
話に引き込まれて気付けばやる気にさせられている。教えるとなれば加減はしない。
彼女の追求するものは外になく、自身の内側にある。故に、求める者には惜しみなく知恵を授ける。
しかし……はて、ここまで彼女は口数の多い方であっただろうか。そう思わないこともないが、昔から変わらない様子に懐かしさを覚える。
勤勉なアルジュナは少しでも多くの知識を吸収しようと距離を縮めた。
「御自身の御髪を使うことはお勧めしませんが、毛髪も糸や綱の代わりになります。腐らず柔軟、熱には弱いですが切れにくい。何本か束ねればそれなりの強度になるはずです…………ああ」
ぴた、と話が止まったかと思えば、従者は瞼を下ろした。
「良くないわ。良い傾向ではありませんね」
結われた黒髪が少し俯いた顔の動きに合わせて幼さを残す顔の輪郭に沿ってさらりと流れた。
最早そこには知識を説いていた導師の面影はなく、恥じ入るように口をゆがめている。
「どうかされたのですか……?」
「少々熱くなり過ぎてしまったと思いまして、こんな調子ではクリシュナさまに笑われてしまいますね。────柄にもなく浮かれているようです」
そっと伸ばされた指がアルジュナの手の甲に触れる。
彼女の手は小さくて、両手を包み込むには至らない。だからもう一方の手も使った。
まだ稽古の熱が残る肌を労わるように撫でてゆく。
「……私よりも、あなたの話を聞かせてください」
話したいことがあった。不思議だと思っていたことがあった。
それを誰かと共有したくて、答えが欲しくて……その誰かのことが分からなかった。
けれども、今は違う。
久方ぶりの王子と従者、二人の会話はディティが支配する夜を迎えるまで続いたのだった。
翌日、前夜祭の少し前。
宮殿の中庭にはパーンダヴァの王子達が一堂に会していた。
それはアルジュナも例外ではなく。脇に弓を抱えてやってきた彼はいつも通り三歩距離を置いてかしづいてきた従者に目を向けた。
彼女の足元には大きな麻袋が転がっている。小さな金属を包んだ五つと百の小袋が入った麻袋は重たい。
けれど、重さを一切意に介していない様子で従者は袋を持ち上げるとその中に手を入れた。
「ナクラさま、サハデーヴァさま。これはラクシュミーの加護を祈ったお守り、パトゥカです。大事に使ってくださいませ」
双子の王子に向けて差し出した二つの袋に入っているのは、ラクシュミーが大地を踏んだ足跡を象ったと言われる金の板。
これを肌身離さず持っていれば、持ち主に幸運が訪れるという。
「精霊!」「精霊」
「「ありがとう」」
快活に笑うナクラ。彼ほどではないが、微笑を浮かべるサハデーヴァ。
お守りを受け取った彼らは袋を見て目を輝かせた。
金糸で刺繍されていたのは、彼らの父であるアシュヴィン双神を表す象徴である鷲だ。
アルジュナの分は朝方既に渡されており、彼の首にかかったお守りには父インドラが乗る白象の刺繡が施されていた。
象の形を浮き彫りにするようにきらきらと光る金糸に結いこまれた白いシルクの稲妻はおそらく彼だけの特別だ。それがすこし誇らしかった。
「おや、精霊さん。私の分はないのですか?」
「まさか。あなたさまに捧げるものもございますよ、ユディシュティラさま」
双子の後ろからするりと音もなく近寄ってきた長兄に従者はそっとお守りを差し出す。
「天秤か。我が父ダルマの象徴だね」
ありがとう、その言葉とともに普段の涼しげな顔を緩めて、あどけない笑みを浮かべるユディシュティラ。
流石美男子。まだ年若いながら象の都一の将来有望な男と言われるだけはある。
しかし従者は知っている。……隠れて人気が高いのはやはり己の主であることを。
彼女は長く勤めているだけあって侍従長やその他の侍従たちのみならず、都の住民とも縁が深い。大概の情報はわざわざ収集せずとも入って来る。主の名声はいかなるものであろうと、己のことのように誇らしい。
「……なんだか邪なことを考えてはいないかな?」
「いいえ、そんなことはございませんとも。深読みのし過ぎですわ、ユディシュティラさま」
はっはっは。ほっほっほ。
和やかな会話の裏に潜む何かを感じてアルジュナはひとり背筋を震わせた。
されど他の王子たちとは言えば特にその様子に変わりない。これが普段の彼らの距離だったのかと気付く。
ただの王子と臣下には近く、家族には遠いそんな距離感。
「あれは……」
「次は俺だな!……なんだ、兄貴。どうかしたのか?」
最後のひとりは残すところビーマだけ。
成長期を迎えた彼の身体は流れる風神の血を色濃く示すように筋肉隆々としている。
兄の身長をも超し、見上げるほどに大きい巨体を揺らして前に出てきた彼は入れ替わるようになった兄のおかしな挙動を見咎めた。
庭から見える王宮の柱に向かって手を振るような、そんな仕草。
「……ううん、大したことじゃないよ」
ビーマがそちらに目を向けても何の人影も見えない。
兄が言うならば彼にとっては本当に大したことではないのだろう。兄にとって価値がないなら自分もまた同じ。
まあよかろう。うーむ、と一息つくと意識の外に押しやった。
そして、彼は巨躯を縮こまらせるようにして従者の前にしゃがむ。に、と口角を上げて勇ましく笑った。
「び、ビーマさま?」
「なぁ、精霊。そいつを俺の首にかけてくれないか」
「よ、よろしいですが……えッ、きゃっ」
今日のビーマはなぜか知らないが三割増しに上機嫌なようだ。
あまりの勢いに驚いた従者が目を白黒させているうちに彼の腕が従者の腰を掴んで抱え上げた。
「おやおや」
「兄上、何を……!?」
主が心配している。けれど、半ば豪快に笑う彼はただお守りをかけて欲しい、それだけの様子で。顔の合う位置に従者を抱えたまま今か今かと待っている。
「───ではビーマさまにはこちらを。ヴァーユ神の竜巻を象ったお守りです」
そろりそろりと手を伸ばして、ビーマの首にかければ満足そうに頷いた。
「ありがとな!大事にするぜ!」
風に乗って良く響く大きな声は喜色に溢れていて、自然と従者の口元もゆるむ。
「どうか御前試合で実力が発揮できますように。そう祈って作ったものです……みなさまに喜んでもらえてよかった。明日の活躍を楽しみにしていますね」
夢のようだ、と従者は思う。
かつてはこのように自分も含め、皆が集って賑やかに過ごすことは無かった。
己はバラモンの階級に属するとはいえ、賢者に養子にして貰った身の上である。
導師として森で教鞭を取っていた頃ならまだしも、五兄弟水入らずの場所に自分がいる訳にも行かない。故に少し離れたところに控えているに留めていた。
だから、こんなことができたのはそれこそ主が七つになる前までのことで───。
「精霊」
「はい、なんでしょう?」
「───本当によかったな。おまえも、あいつも笑っているのが、俺は我が事のように嬉しいぜ」
「────」
ビーマの視線の先には彼の弟の姿がある。己の主たるアルジュナが。
数日前から顔には出さないが彼女は浮かれていた。そのきっかけになったのは、彼に認識されるようになったことで。
きっと、ビーマが言っているのはその事だ。
つ、と見開いた瞳に薄く膜が張る。
────力強さを感じさせる体躯とは裏腹に、パーンダヴァの次男の心根は優しい。
風は暴風のように吹き荒れることもあれば、優しく包み込むように吹く時もある。
幼い頃、怪力で小鳥を傷付けてしまった時涙を流していたように。
外へは苛烈でも、兄弟家族へ深い情を持っているように。
彼はあたたかな心の持ち主だった。
「……ビーマ。喜ぶのはいいが、彼女は見た目通りの幼子ではない大人の女性なのだから、いい加減に降ろして────うん?」
────嬉し涙はもう十分流してしまったというのに、ああ涙脆くなってしまったものだ。
そんなことを思っていると、不意に従者の体が浮いた。
「え」
「あっ」
ビーマの不味いと言わんばかりの声が庭園に響く。
ふわりと浮く浮遊感。見渡す限り一面の青空が視界に広がった。
一体何が起こったのだ。
その答えは焦ったように己を呼ばわる声が教えてくれた。
「精霊……!!!!」
主の声が遠くから聞こえる。
ああ、自分は今宙を浮いている。
恐らく喜びに気を抜いて腕を振った次男坊の手からすり抜けてしまったのだろう。
ビーマは加減を知らない。
身長に対して重さが平均に満たない身体は容易く空を舞う。
「っ」
……けれど、この程度なら大丈夫だろう。伊達に長年護衛も兼ねた侍従の役目をやってはいない。
多少無理な姿勢にはなるかもしれないが、少し筋肉を痛めるくらいだ。背に腹はかえられぬ。
頭から地面に叩きつけられるのよりは何倍もいい……自分にとっても、ビーマにとっても。
そうして、空中で身体をひねり、足から地面に着地しようとして────、
「───だぁからいつも言っているだろうが、この暴風馬鹿め!」
────その前に横から伸びてきた手に、彼女の体は些か乱暴に引き寄せられた。