彼女と出会った夏のお話

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向日葵、枝垂れ柳、爆弾魔

 朝、目が覚めた。

 

 ジメジメとした不快感が全身を覆っていた。肌はベタベタしていて、ベッドのシーツもぐしゃぐしゃで湿っている。

 

 気怠い体を持ち上げて、汗を流すと同時に寝癖も直してしまおうと、のろのろと風呂場に向かう。

 

 冷凍庫に放り込まれたような冷たさに思わず身震いをしたが、しばらくすればそれは心地よい音を弾ませながら体の一切合切のけがれを落としてくれているように感じた。

 

 下着だけを身につけて、窓を開ける。途端、生温い風が顔を打ち付け、買って以来一度も洗っていない薄汚れたカーテンが宙に舞った。

 

 エアコンも無く、テレビも無い六畳間は静かで暑苦しかった。

 

 太陽はとうに真上を通り過ぎていて、鳥の囀りの代わりに聞こえるのは蝉の鳴き声だけだった。

 

 遅めの朝食にヨーグルトと麦茶だけを素早く食べた。味は感じなかった。

 

 すっかりボロボロになってしまったイーゼルを日陰に置いた。

 

 使い古されたブラシに、ほとんど残っていない絵の具。色々な色がこびりついたパレットに、いつもと同じ色を落としていく。

 

 昔と同じように、絵を描く。真っ白なキャンパスだけが、今を告げている。

 

 そしてそれも、徐々に思い出に染まっていく。

 

 深い、深い群青を描いた。

 

 朔月の夜に踊る草葉を。まばらに通り過ぎる小さな人影を。

 

 いつだって鮮明に思い出せた。

 

 あの日が色褪せることは一生涯無いだろう。

 

 暗めの藍色に、白や黄色、赤の線を行く筋も描いた。記憶の輪郭をなぞるように、ゆっくり、丁寧に。

 

 そして、真ん中には、花火に照らされる大きな向日葵を。

 

 その茎を思い浮かべるだけで、満たされた気持ちになった。

 

 朗らかな茶色を描く度に、心臓は頭をけたたましく叩きつけた。

 

 ─でも、そこまでだ。

 

 そこから先は決して描けない。

 

 最後の、黄色く濡れた花弁。それを描くだけで完成だというのに、僕は描けなかった。

 

 何年経っても、何があっても、何処へ行っても、僕は続きを描けなかった。

 

 気づけば、部屋は朱色に染まっていた。

 

 耳をすますと、烏の鳴き声とともに乱痴気騒ぎが風に乗って鼓膜を揺さぶった。

 

 滲んでいた汗を再びシャワーで流し、やっと服を着る。

 

 昔と変わらず、黒のズボンに白をベースにしたシャツ。

 

 日に日に軽くなっていく財布をポケットに突っ込んで、窓を閉め、外に出た。

 

 どうやら通り雨か何かが降ったらしく、アスファルトが黒色に染まっていた。

 

 ヒグラシか、ミンミンゼミか、クマゼミか、アブラゼミか。神経を逆なでする大合唱について漠然と考えることで、蒸発してしまいそうな思考を必死に繋ぎ止めて商店街へと足を向ける。

 

 真っ赤に染まろうとしている商店街では、あらゆるところに散りばめられた提灯が淡く光ってた。

 

 商店街の中は嵐の前の静けさというべきか、祭りの開始を今か今かとと待ちわびている人でまばらながらも賑わっており、ただでさえ暑い夏により熱気が立ち込めていた。

 

 人の合間を縫って、中央の十字路まで進み、お目当ての店を確認する。

 

 もしかしたら川沿いに出している屋台に出払っているかもしれないと今更ながらに思いながら、できるだけ静かに扉を開ける。

 

 1枚板を隔てた先には、香ばしいパンの匂いが立ち込め、涼しいクーラーの風が吹いていた。所々に祭りのイラストや限定パンなんかがあったが、そこにあったのは間違いなく、通い慣れたパン屋だった。

 

「おっ、今日も来たんだ。流石にこの人混みじゃ来ないと思ってたよ」

 

 意外そうな声を上げて、店の奥から出てきたのは、この山吹ベーカリーを営む山吹家の長女であり、僕の青春の象徴でもあった山吹沙綾だ。

 

 向日葵が描かれた黄色の浴衣を青色の帯で結び、その上に橙色の腰紐を結っていた。ローズマリーの髪は、若草色のリボンで1つに纏められている。

 

「皆勤賞は逃せないからね」

「何も渡せないよ?」

 

 おどけた調子で言った冗談に、彼女はそう言って朗らかに笑った。

 

 すっかり見慣れてしまった店内で、お目当てのものを時間をかけてゆっくりと、全種類のパンを─買うつもりもお金も無いのに─じっくり見て回る。

 

「あれ、また雨だ」

 

 外を見ると、せっかく乾きかけていたアスファルトがまた黒に染まってた。

 

「ほんとだ。止むと良いね」

 

 そう言って、いつものメロンパンを手に取る。

 

「花火、見れるかな」

 

 彼女は心配そうに目を細めて、レジのところから外を見やっていた。

 

 外を見ると、夕陽が覗く中細々とした白い筋が静かに降り注いでいた。

 

「にわか雨っぽいし大丈夫だよ。それと晴れてるのに雨なんて珍しいね」

「そう言えば、天気雨はね、狐の嫁入りって言われているらしいよ」

「……嫁入り、ねぇ……。あっこれの会計お願い」

 

 そう言って、彼女の前にメロンパンを置く。

 

「ブレないねぇ。流石に飽きるんじゃない?」

「まさか。ここのメロンパンは最高だよ」

「ありがとう。腕を磨いた甲斐があったよ」

 

 彼女は慣れた手つきでレジを打ち、袋にパンを入れる。左の薬指が、蛍光灯に照らされてキラリと煌めいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女と出会ったのは、高校に入って間もない頃。当時の僕は、暇があれば絵を描いていた。

 

 昔から僕は芸術が大好きだった。音楽も弾けなければ物語を綴る才すらなかった僕は、子供の頃親に絵を褒められたから、ただそれだけの理由で、絵を描き続けた。

 自分の内的世界が筆を通して現世に象られていく快感に心が奪われたのだ。

 

 でも、他人から誹謗中傷を受けることをひどく恐れていたから、高校でも部活には入らず、家や、たまに外で絵を描いていた。

 

 だから、彼女と出会って、たとえ自分が望んだ形ではなくとも、こうやって今も関係が続いているのは本当に神様の慈悲と言えるだろう。

 

 その日は、暑い夏の日だった。朝から蝉の声がうるさくて、燦々と輝く太陽が暑くて暑くて仕方がなくて、これでは家にいても外に出ても一緒じゃないか。そう思った僕は、汗も拭かずに、スケッチブックと、いくつかの色鉛筆の入った筆箱をリュックサックに詰めて、外に出た。

 

 とは言え、どこに行こうかは全く決めていなかった。だから、ここはひとつ天に願ってみようかなと思って、適当な電車に乗った。

 

 その時に、1人の女の子も隣のドアから入ってきた。

 

 年は僕と同じくらいだろう。白いワンピースを着ていて、麦わら帽子の下からは可愛らしいポニーテールがゆらゆらと揺れている。

 

 簡単に言えば、一目惚れだった。

 

 別に、彼女が絶世の美少女とか、一際異彩を放っていたわけではない。確かに可愛い。だが、それは例えばクラスや学年、あるいは学校に1人はいるような、普通よりは可愛いね、それくらいの子だった。

 

 でも、僕が惚れたのはそこじゃなかった。僕が魅了されたのは、彼女という存在そのものだった。

 

 まるで童話から飛び出したかのような可愛らしい服装を身に纏った彼女はとても魅力的だった。

 

 青空のように澄んだ瞳。桜のような柔らかそうな唇。春の日差しのような、優しく包み込んでくれそうな柔らかな雰囲気。汗の滲む暑い日でも、彼女はずっと笑顔で、まるでこの地獄のような日差しすらも楽しんでいるように見えた。

 

 その瞳には何が写っているのだろう。その口からどんな言葉を言ってきたのだろう。どんな日々を送れば、その雰囲気を纏えるようになるのだろう。その笑顔の裏で、あなたは何を思っているのだろう。彼女の纏うその独特な雰囲気に心を奪われていた。

 

 ─描かなければ。彼女を、僕の世界に描かなければ。

 

 芸術至上主義で馬鹿だった自分は、恥も外見も捨てて急いでバッグからスケッチブックと筆箱を取り出し、ペンを走らせた。

 

 とは言っても、彼女にバレて逃げられてはいけないので、外の景色を描くふりをして、ちまちまと彼女を観察しては描いていたのだが。

 

 一体どれ程の時間が経っただろう。彼女が降りた駅は終点だった。

 

 駅を降りると、そこは田舎だった。視界は田んぼなどの緑で埋め尽くされ、遠い向こうには小高い山々が見える。

 

 彼女はその中を歩いていた。疲れを見せず、ピンと背筋を張り、どこか上機嫌そうに肩を弾ませて彼女は何もない道を歩いていた。

 

 僕はその後ろを歩いていた。陽炎と同化した彼女を見失わないように、汗を拭うのすら忘れて、何度ももつれながら彼女を追った。

 

 やがて、何もなかった道の先に、大きな向日葵畑があった。

 

 自分の背丈にも迫るんじゃないかというくらい高く伸び、顔を太陽の方に向けて凛々しく生きる向日葵が、何十、何百本も植えられていた。

 

 彼女はその目の前でじっと立っていた。

 

 不意に、風が通り過ぎた。

 

 向日葵たちが涼しい風に喜んでいた。

 

 彼女のローズマリーの髪が、片手で抑えられた麦わら帽子の下で靡いていた。

 

「ねぇ」

 

 向日葵が涼風を味わい尽くし、静けさが目立ってきた時、彼女は僕の方を向いて、声をかけた。

 

「君、駅からずっと私のこと追いかけてきてたでしょ。バレバレだったよ?」

 

 にぱっと、白い歯を見せて彼女は笑っていた。

 

「そんな遠くにいないでさ、こっちおいでよ」

 

 そう言って、彼女は手招きをする。

 

 僕は招かれたままに彼女の元へ行った。

 

「君も隣にどうぞ」

 

 芝生の上に敷かれたレジャーシートで彼女は座って、隣に僕が座るように促した。少し離れた場所に、僕は座った。

 

「ねぇ、何を描いてたの?」

 

 手に持ったスケッチブックに彼女は興味津々だったようで、僕が腰を下ろして、一息ついたのを見計らってそう聞いてきた。

 

「君を描いてたんだよ」

 

 人と話さない日々が長い間続いていた僕は、言い訳の1つもせずにそう言った。

 

「え、嘘?」

 

 予想外だったらしく、彼女は目を大きく開いてそう言った。

 

「ほんと」

 

 そう言って、僕は彼女にスケッチブックを手渡した。

 

 そこには、電車に揺られる彼女、畦道を歩く彼女、向日葵を見る彼女。彼女が何枚も、何枚も描かれていた。

 

「うわぁ……」

 

 感嘆か、嫌悪か、どちらとも言えない声を出してペラペラと捲ってはしげしげと見ていた。

 

「なんか……ごめん……。気持ち悪いよね……」

 

 すぐに消そうと、彼女からスケッチブックを取ろうとすると、彼女はブンブンと顔を激しく横に振った。ポニーテールもそれにつられて左右に揺れていた。

 

「ううん、全然嫌じゃないよ! とっても嬉しい! ただ流石に恥ずかしくてね……」

 

 あはは、と彼女は頬を掻いて苦笑いをした。

 

「じゃあ、代わりに何か描いて欲しいものはある?」

「うーん……」

 

 眉間にしわを寄せて、腕を組んだり、こめかみを抑えたり、折った膝に間に頭を埋めてみたり。しきり唸っては必死に考えてくれる彼女を見ていると、焼けてしまいそうな日差しも春のように気持ち良い熱量に感じた。

 

「じゃあ、向日葵……はどうかな?」

「向日葵……?」

「うん。好きなんだ、向日葵」

 

 彼女はじっと向日葵を見つめていた。

 

 その儚げで、満ち足りた横顔を見ていると、どうしようもなく心臓がうるさかった。

 

「……うん……いいね。描くよ、向日葵。毎日でも、毎年でも」

 

 はやる鼓動を押さえつけて、なんとかそれだけを絞り出した。

 

「ありがとう。何枚も入らないかな。だから、いつか君がこれ以上ないくらい上手く描けたっていう絵ができたら、私に見せてくれない?」

 

 顔を横に向けて、こてんと顔を膝の上に置いて、安らかな笑みを浮かべていた。

 

 風が吹いた。顔が熱かった。

 

「描くよ。きっと。だから忘れずに待っててね」

「もちろん。君こそ忘れないでよ」

 

 これが、彼女との最初の思い出だ。

 

 それから、ほとんど毎日彼女のパン屋さんに通ったりした。

 

 とにかく、最高の向日葵を描きたかった。彼女を見て、少しでもイメージを浮かべたかった。

 

 彼女と沢山の時間を僕は過ごした。彼女のバンドのライブを見に行ったり、2人で向かいの珈琲店でテスト勉強をしたり、夏には何回も向日葵畑を見に行った。

 

 彼女のことをたくさん知った。彼女の優しさも、強さも、脆さも、可愛さも。全部知った気でいた。

 

 彼女は僕が持っていなかった多くのものを持っていた。その明るい笑顔、誰も傷つけまいという信念、誰に対しても分け隔てない優しさ。

 

 彼女に憧れた。彼女を見ていると生きる気力が湧いた。胸や顔が熱くなり、満たされた気持ちになった。

 

 僕が彼女に恋心を抱くようになるのに、そう時間はかからなかった。

 

 彼女のために生きたいと心から願った。彼女の隣を歩き、その笑顔を見ていたいと。彼女が笑顔になれるような人生を歩ませられる人になりたいと。

 

 だから、あの日は今も鮮明に覚えている。

 

 君と出会って4年ほど経った、暑い日だった。その日は夏祭りで、丁度今日みたいな空模様だった。

 

 僕は、変わらず向日葵を描き続けていた。

 

 電気もつけずにいたから、外の花火がとても美しく輝いていた。

 

 それを一目見ようと、僕はベランダへ行った。

 

 外に出ると、生ぬるい大気が重たく僕を殴りつけた。

 

 空を見上げると、どうやらラストスパートらしく、絶え間なく花火は打ち上げられていた。

 

 花火は打ち上げられたかと思うと、瞬間、空で爆ぜて、果てしない夜空を箒星のように駆け巡っていた

 

 ふと、本当にふと、足元を見た。川面に映る花火もさぞ綺麗なんだろうなと。

 

 川沿いの道には彼女がいた。パン屋の娘。僕の恋い焦がれてやまない人。

 

 隣に人がいた。

 

 身長が高くて、筋肉質で、柔和な笑みを浮かべる、彼女に負けず劣らず優しそうな人だった。

 

 彼女と、男の人が並んで川沿いの道で花火を見上げていた。

 

 2人は何か話していた。彼女が横を向いて笑った。

 

 僕の知らない笑顔だった。

 

 僕の知らない彼女がそこにいた。

 

 汗が止まらなかった。胃の中のものが喉元まで込み上がる感覚がした。

 

 もう、彼女しか目に入らなかった。

 

 花火に照らされる彼女はとても美しかった。

 

 彼女が、男性の肩に頭をもたれかけた。

 

 目の奥が熱かった。

 

 目の前が二乗に滲んで、頭は現実を理解を拒んでいた。

 

 最後に、一際大きな花火が爆ぜた。枝垂れ柳だった。

 

 ─終わったね。

 

 そう彼女口を動かしたように見えた。

 

 ─花火に照らされて笑う彼女は、形容しがたいほどに綺麗で、この世の全てが色褪せてしまうくらい美しくて。

 

 ─でも、その笑顔の先にいるのは僕じゃない、知らない誰かで。

 

 もう、限界だった。

 

 急いでベランダから今に戻り、窓を閉めた。近所迷惑も気にせずにワンワン泣きながらも、イーゼルを立てて、絵を描き始めた。描かずにはいられなかった。

 

 目の前なんて何も見えてなかった。真っ暗で、滲んでいて、何処がキャンパスかも碌に分からなかった。それでも、筆を止めなかった。

 

 それは酷い出来だった。色はぐちゃぐちゃに混じっていて、濃淡もろくにつけられていなくて。

 

 それでも、描くしかなかった。夜空に咲く枝垂れ柳に、照らされる向日葵を。

 

 以来、僕は同じ絵を描き続けている。あの日から。ずっと。

 

 何度、夏が終わったことだろう。春なんてもう幾つ通り過ぎて行ってしまったか分からない。それでも、この絵を描いていた。これしか描けなかった。僕は、まだあの夏に囚われたままだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ雨、止んだね」

「そうだね」

 

 雨宿りをしながら彼女と少し話しをしたら、雨は上がっていた。

 

「じゃあ、また来るね」

 

 そう言って、店を出る。去り際に、彼女の薬指が光った。とてつもなく自分が惨めに感じて、死にたくなった。

 

 太陽は完全に沈み、地平線は水に溶けたように淡い白色をしていて、藍色に染まるのを今か今かと待ちわびている。

 

 その淡い白の中に、滲んだ虹が2つにかかっていた。

 

 袋からメロンパンを取り出して、口に咥えながら帰路につく。

 

 苦くて、しょっぱくて、結局2、3口だけ食べてまた袋に戻してしまった。

 

 商店街を出ようという頃、一人の女性とすれ違った。

 

 目に降り注ぐ夕陽のような朱色の浴衣に、幾輪もの朝顔が描かれている。薄い橙色の帯と黄色の腰紐できつめに締められていて、頭には紅い和風柄の星のチャームがついたリボンが留められていた。

 

 川沿いの道をゆっくりと歩く。もうすぐ家に着く。そしたら、また昨日と同じ日々が始まる。先週と同じ日々が始まる。去年と同じ日々が始まる。

 

 空に1つ、花が咲いた。

 

 次いで、2つ、3つ。次々と花は夜空に爆ぜていく。

 

 ひまわりが咲いた。手を伸ばすが、掴めるはずもなく、夜空に溶けて消えていってしまった。

 

 虚しくなってしまった手を見て、鼻で笑った。すぐに引っ込め、ズボンのポケットに深く突っ込む。

 

「ねぇ、待って!」

 

 雷鳴のような花火の打ち上がる音の合間から、声が聞こえた。

 

 振り向くと、彼女がいた。首や頬には汗が一粒、二粒と垂れていて、花火に合わせて強く、弱く輝いていた。

 

「やっと追いついた。君、歩くの早くなった?」

 

 浴衣を着た彼女がそう言ってはにかんだ。

 

 ━心が痛い。望んでいたはずなのに。焦がれてやまなかったはずなのに。君の笑う姿が心臓を締め上げる。その顔は、もう僕には眩しすぎた。

 

「まさか。君が遅くなっただけだと思うよ」

 

 大人になると、すぐ疲れてしまうから。走らなくても、もう幸せは君の手のひらにあるから。君は、やがてゆっくりと歩くようになるんだと思う。

 

「それよりも、どうしたの?」

 

 痛む心臓を必死に抑えつけて、それだけを言う。

 

「そうそう。伝え忘れてたことがあるんだ」

 

 花が咲いた。照らされた君の顔は、あの頃から相変わらず綺麗で、いつも同じ人をその目に移していて。

 

「今度式挙げるから、絶対来てね」

 

 でも、あの君はもう散ってしまっていて、僕だけが爆ぜずに残ったままで。

 

「もちろん、最高の向日葵を君に贈るよ」

「ありがとう。じゃあまたね」

「うん、また」

 

 そう言って、彼女は陽炎が揺らぐ祭りの中へと消えていってしまった。

 

 僕は決して君に悟られないように、終始笑顔だった。

 

 ━君を真似たんだ。君に憧れたから。君を傷つけたくなかったから。嗤っておくれ。

 

 全速力で家へ帰る。締め上げられた心臓はもうとっくに破裂していて、メッキの仮面が崩れ落ちてしまっていた。

 

 菊が咲いた。牡丹が、未来花が、千輪が、椰子の木が。蜂が飛んでは消えていった。

 

 乱暴に部屋の扉を開けた。じめりとした空気が頬を撫でた。

 

 キャンパスを手に取った。

 

 めちゃくちゃに破いてやった。

 

 穴が一つ、二つ、三つ。次々に世界が爆破した。

 

 やがて粉々の紙屑になったら、部屋の四隅に積まれた、昨日の向日葵を、一昨日の枝垂れ柳を、先週の水面を、先月の草場も、去年の群青も、スケッチブックすらも。

 

 全部、爆破してしまえ。

 

 想い出も、記憶も、青春も、時間も、苦悩も、煩いも、感情も、偽りも、全部、全部、全部。

 

 あの夏の花火にのせて爆ぜてしまえ。

 

 記憶の中で彼女は笑った。

 

 ━嗚呼、終わったとも。何もかも。

 

 大きな音がなった。

 

 枝垂れ柳が爆ぜていた。

 

 やっと、やっと最後まで絵が描ける気がした。


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