ハリー・ポッターと病める血の少女   作:ぱらさいと

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第115話

 鬱蒼とした森が曇天の下に臥せっている。

 崩れかかった風車の遺構も深い樹海に沈みつつある。

 見渡す限り色濃い影が覆いかぶさって離れない。

 あの夜の世界とは窓ガラスを一枚隔てるだけだ。

 煌々として闇を寄せつけない室内は薊の想像力が生み出しうる『貴族の邸宅』そのもので、煉瓦造りの暖炉にはオーストリアで目にしたのよりずっと上等な食器が飾られている。精緻な風景画が描かれたそれらを薊はただ「手が込んでいる」というだけで高級と判断したのだが、実際は病床の娘を想う父が職人に依頼したごく新しいものである。

 応接間へ通された薊はすっかり落着きを失っていた。

 貴賓として扱われる経験などこれが初めてだった。

 まして上流階級の作法に疎いと自覚している。そのせいで余計に緊張する。

 

「初心だな薊は。オマエが慌てているところが見られただけでも儲けモンだ」

 

 愉快げに樒は孫娘を揶揄って暇を潰す。

 菖蒲はただ無言のまま長い脚を重ねている。

 助け舟を寄越さない父に娘は無関心だった。

 

「そんなにご機嫌だと明日の天気が不安になってくる」

 

「どうせ雨か雪だぞこの季節は。出掛ける予定でもあるのか?」

 

「毎年楽しみにしてる有馬記念の心配でもすれば?」

 

「もう済んだぞ。おいおいなんだァ、新聞読んどらんのかそのトシで」

 

 樒は心底呆れたような表情を浮かべた。

 言われた薊は「どうせ負けるんだし」とそっぽを向く。

 そもそも『漏れ鍋』で日本の新聞を読む機会などない。祖父の他愛もない冗談につきあうのは不服だった。

 

「今年は勝った。いやあマヤノトップガンとタイキブリザード様々だわ」

 

「馬連でぇ? インチキでしょそんなの、未来予知でもした?」

 

「アホ。それが出来りゃ91年に大負けせんかった。マックイーンとナイスネイチャにいくら注ぎ込んだと……」

 

 苦々しい四年前の年末を振り返る。

 未成年のうえ競馬に興味がない薊は閉口した。

 旗手が誰とか生産地がどうとか、言われても分からない。

 この根っから陽気で饒舌な老人が――少なくとも戸籍謄本の表記を信ずる限り――自分の祖父である。正直なところ信じがたい。父はこの通り陰気で堅苦しく他人行儀で口数少ない。良くも悪くも社交的なほかの親戚とはまったく異なる。男子欲しさに迎えられた養子を疑ったこともあるくらいだ。

 退屈なのか興味津々なのか菫の無表情からは窺い知れない。

 少なくとも賭け事の熱狂とはまるっきり無縁だとは思う。

 何かに打ち込むにしても情熱を燃え上がらせるのではなく、一人で静かに、淡々と取り組むタイプだろう。いわゆる『オタク』気質だ。そういう意味では自分とよく似ている。

 人づきあいも不得手。視野も狭い。好奇心も人並み以下。

 そのくせ優等生のように振る舞うのだけは上手い。

 だが、つき合いの長い相手からは見透かされている。

 よくもまあダフネを言いくるめられた。失敗すると思っていたが、どうやらハリーへの恋心に冷静な判断を出来なくなっているらしい。

 いよいよ不安ばかり募ってこめかみが痛み始めた。

 それを見計らったように屋敷しもべ妖精が姿を現す。あの「バシン」という音は『姿現し』呪文のはずだ。器用な生き物だが身近にいて欲しい外見とは違う。

 

「アオイ様、晩餐会の支度が整いましてございます」

 

 錆びついた金具が軋むような声をしている。

 薊にとって屋敷しもべ妖精はずっと苦手なままだ。

 しもべ。下僕。奴隷。そういうものとして他を扱う感覚を受け入れられない気がしているものの、敢えてこの感情について顧みる必要があるか自問自答するとひどく馬鹿らしくなる。

 見慣れているのか祖父と父親はごく自然に応じていた。

 菫まで落ち着き払っているのが納得いかない。

 動物も怪物も嫌いのくせに好き勝手が過ぎる。

 馬車に揺られ、疲れ果てて、愚痴を言う気力も失せていた。

 もう晩餐など適当に済ませてはやく風呂につかりたい。

 疲れた――それが薊のいま現在の偽らざる本音であった。

 

 

 音楽室の壁に飾られている肖像画――ゴールドフィン・グリーングラスへの第一印象はそんな程度のものだった。威厳に満ちた、けれど既視感を抱かずにおられない、そんな男だ。白髪交じりのダークグレーの髪といいどこか無機質な琥珀色の瞳といい、娘のダフネとよく似ている。天井から吊り下げられたシャンデリアの光が真紅のカーペットを頼りなく浮かび上がらせ、毒々しい血色が視界を占有する。

 グリーングラス氏は亡霊じみた顔色で「ようこそ」と短く言った。

 日焼けしていない、生白い肌のせいと分かっていても不気味だ。

 大広間の奥で待ち構える様は廃城に取り憑く亡霊そのものだった。

 案内された通りの席へそれぞれ座る。樒と菖蒲、薊と菫が向かい合う形になった。

 奇妙な席順に思えた。どんな力学で決定されたのか知らない。

 のっぺりとしたゴールドフィンの無感情な顔が動く。来賓たちをゆっくり一瞥したのだ。

 対する樒はよほど歳上だろうに無邪気な笑みを返した。

 不自然に若々しく見えるのはシワの本数に限らず、精神的なエネルギーの無尽蔵さが一目で察せられるからだ。

 その意味でダフネの父と薊の父は似た者同士と言えた。

 実年齢以上に精神面で老け込んでいる。老成とか老練とはまた異なる。ただ経年数の割に摩耗しただけで磨き上げられた様子がない。

 妻と二人の娘を紹介するだけでも酷く色彩を欠いていた。

 

「妻のセレスティナで――」

 

「チェッレスティーナと申します」

 

「……フィレンツェの生まれでして。この通り、そちらの呼び方を好んでおります」

 

「存じておるとも。マダム・ボルディゲラは息災であられるかね?」

 

「今年もレモンがよく実ったと喜んでらっしゃいましたわ」

 

 ボルディゲラの名を知るのは樒だけだった。菖蒲はもちろん薊と菫も初耳で、話の流れからダフネの母方の縁戚だろうと推測するのが精一杯だった。孫娘たちの様子に老翁は「モノを知らぬのは若人の特権だな」と小気味よく笑った。世間知らずと言われて薊はいい気分がしなかったが事実は事実である。冗談とも皮肉とも取れる言葉を甘んじて受け止めた。

 

「ボルディゲラはフィレンツェの最たる名家なのだ。儂が世話になったのは分家筋の方だが、あすこの畑で採れるレモンの実に見事で――」

 

「事情通ですのね御当主。先ほど『分家』と仰いましたが、もしや古書肆のミス・アマリリーデも……」

 

 こちらは社交好きのお喋り好き同士で気があうようだ。

 控えめなゴールドフィンの咳払いが飛ぶ。夫人は短い愛想笑いを一つ発して落ち着いた。

 

「長女のダフネになります。皆様とは馴染みのあるかと思いますが」

 

 ダフネの寡黙さは実に父親譲りである。

 白っぽい肌といい琥珀色の瞳といいよく似ている。

 対する妹はむしろ母親の血を色濃く受け継いだ。

 

「次女のアストリアです。今年で十四歳になりました……」

 

 ただ年齢を告げただけながら、その声には万感の思いが籠っていた。特に鋭敏に察したのは菖蒲で未成年の二人はその点でやや疎い。

 金糸を思わせる見事なブランドにサファイアブルーの煌めく瞳。年齢を踏まえるとかなり華奢な体躯だが、神秘性を浴びた容姿から溢れんばかりの生命力を感じさせる。

 アステリアは溌剌とした笑顔である。

 天真爛漫と言っても良いだろう。無邪気に邪気を放つ異才を備えた樒とは異なる、正真正銘の無邪気で無垢な少女だ。

 

「はじめまして皆様! 紹介に預かりましたアストリア・グリーングラスと申します!」

 

 緊張が声を裏返らせた。当人も自覚して顔を赤らめる。

 病弱のためホグワーツへの道を諦めた風にはとても見えない。

 背格好に言及するなら菫と大差ない程度だ。血色の分、菫の方がよほど窶れている。

 葵家の紹介は菖蒲が受け持った。

 父親に押しつけられる形だった。

 

「……これが娘の薊です。御息女、ダフネ嬢とは面識が……」

 

「国立小笠原高等学校二年七組の葵薊です。今はホグワーツ魔法魔術学校に留学中の身の上です」

 

「ダフネから噂は聞いている。数少ない全科目履修者とも……()()()()()()()()()()として誇らしく思う」

 

「……恐縮です」

 

 悲しいかな、現五年生で全科目履修を許可されたのはグリフィンドール寮のマグル出身者(ハーマイオニー)を除くと留学生(ヨソモノ)の薊だけになってしまう。仮にも組分け帽子の裁定を受けたと言えど純粋なホグワーツ生と留学生では価値が異なる。それを踏まえてなおスリザリン出身の大物から()()と認められた意味は重い。常日頃軽く扱われているのと関わりなく薊の頭は自然と下がるのだった。

 菖蒲は一言「姪の菫です」と告げるのに大変な労力を費やした。

 菫の方はつらつらと挨拶を済ませてしまう。血縁と得手不得手の別は異なるものだ。

 

「菖蒲叔父の姉、葵椿の娘の菫です。入学以来ダフネさんには従姉の薊ともども万事お世話になっております」

 

 お世話どころか大迷惑を被った――ダフネは端的かつ鋭い指摘を必死に呑み込み、腹の底へと押し込めた。

 ()()()()()()について言及すべきかゴールドフィンが逡巡する。

 セレスティナは夫の躊躇、あるいは配慮に関わりなく「三大魔法学校対抗試合での災難、断片的ながら聞き及んでいます」と踏み込んだ。

 

「日刊予言者新聞は当時からあまり熱心に報じていませんが……けれど掲載されていた写真よりずっと綺麗で驚きました」

 

「あ、はい……恐れ入ります……」

 

 自分がどんな風に紹介されていたか菫の記憶は曖昧だった。

 被写体になるのが苦手な自覚はある。きっと不機嫌な表情ばかり撮られたせいだと思った。写りの悪いものばかり採用された原因であるリータ・スキータの存在は完全に抜け落ちていた。文字通り()()()程度の存在でしかなく、記憶に留めておく価値は微塵もない。

 それ以上に面と向かって容姿を褒められた恥ずかしさが勝る。

 顔立ちといい背格好といい――比較対象がフラー・デラクールやチョウ・チャンである点はさておく――子供っぽいと認識する菫にとって、自分はさほど女性として魅力的と考えてはいない。それを否定されると照れ臭くなってしまう。善意の称賛を否定するのは失礼だと思うと何も言えなくなるのだった。

 言葉を詰まらせる菫にアストリアが追い打ちをかける。

 

「姉様はいつも『神秘的で深淵な美人』と仰ってらしたのでわたくしも母様も写真は別の方と思っていました!」

 

「アステリア、私そこまでは一度も……」

 

 身内からの暴露にダフネも落ち着きを失う。金髪碧眼、カロー姉妹やフラーと同じタイプの美少女であるアステリアからの褒め殺しに()()()()()()菫を薊は凍てつく眼差しで睨んだ。無節操にも限度がある。

 

「けれどスミレ様へ好意を寄せる方はたくさんいらっしゃるって」

 

「そうだけれど。まず彼女には交際相手がいるのよアストリア」

 

 薊の疲労はますます蓄積していく。アステリアが菫の本性を目の当たりにする事はあるまいが、世の中には掃いて捨てるほど物好きが溢れている。ほんの少しキツい性格――そんな甘っちょろい感覚でとんでもない劇物に横恋慕するアホが一定数いるのだと知って、得体の知れない倦怠感に襲われた。

 敢えて()()()()と性別の言及を避けた理由は知らない。

 しかしアステリアは元から大きな目をさらに見開いて大きくし、格別の驚愕を示した。

 菫は恥ずかしさのあまり俯いた。

 頬の赤らみがなくとも察しがつく。

 和気藹々としたグリーングラス姉妹の様子を観察していた菖蒲が、重々しく言葉を発した。

 

「拝見する限り溌剌な様子だが……」

 

 ――果たしてホグワーツでの生活は難しいのか?

 

 省略された問い掛けにゴールドフィンは首肯する。

 

「私も経験した手前、五年目の普通レベル魔法試験の重圧が並大抵でないことは承知している。この試験結果だけが全てとは言わないが。しかし将来を決定するに極めて重要なものなのだ」

 

「マグル出身者は言うまでもありません。魔法省で得られる席次に直結するのみならず『純血』としての価値の指標になる手前、誰もが血眼になります」

 

 セレスティナの補足に樒も頷いてみせた。

 薄笑いはやや緩和され、元教育者らしい貫禄を滲ませる。

 

「学舎で得る経験は何にも代え難い。知識なぞ巷に溢れる書籍で如何様にも補充出来るが、とりわけ『学校』という異空間で重ねる見聞は唯一にして無二である。これを得る一助となるならば光栄と存ずる」

 

 文言だけを抜き取れば含蓄があるようでその実、当たり障りない。

 四代目マホウトコロ校長の肩書きが深妙の気配を感じさせる。

 この魔法なき魔法の()()()()はダフネに通じなかった。よりによって薊と菫の前でそれを言うのかと呆れてしまう。幸い表情筋が微動だにしなかったので場の空気を損なわずに済んだ。

 

「私もスミレ様やアザミ様と一緒にホグワーツへ通えるのですか?」

 

「如何にも。無論、不慣れ故の戸惑いは数多あろうがそれもまた醍醐味。何事も拒まず心から楽しむが良かろう。薊も菫もそうしておるのだから、なあ?」

 

 水を向けられた二人は揃って曖昧な愛想笑いを浮かべた。

 ホグワーツに馴染むつもりもないだろうに、器用なものだ。

 猫被りにしても生々しい。化け猫と言った方が似合うくらい巧妙に擬態するのだから騙されても仕方ない気がする。

 和気藹々した空気も構わず菖蒲が重い口を開いた。

 こちらはニコリともしない鉄仮面の有り様である。

 

「他の面々はいつになりますか。少なくともグルヴェイグとザビニは来ると思っていたが……」

 

「明日の晩餐に。こちらも『打ち合わせ』をしたい」

 

 応じるゴールドフィンも揺るぎない無感情、無表情だった。

 

「何よりもまず、せっかくの縁で結ばれたのですから。両家水入らずで親睦を深めたく思います」

 

 年端もいかぬ子供の前で悪だくみをするなと苦言を呈された。

 陰気な中年二人が口籠もる様を面白がりつつ、樒は元の薄笑いとともに「楽しみはあとに取っとけ菖蒲よ」と言った。

 

「男だけのナイショ話をするにはちと早い」

 

 日本人離れした端正な顔でちゃめだか溢れるウィンクを飛ばす。

 だがすぐ「そうだ思い出した」と枯れた右手で額を叩く。

 若々しさと老いが同居した奇妙な風貌だった。得体が知れぬのに突然、歳の離れた子を持つ親の顔を覗かせる。

 

「修学旅行ぜぇんぶ休んだオマエにゃ分からんか……」

 

「いまその話をするのか親父。冗談だろ」

 

 果たして樒の愚痴が通じるのは血縁者ばかり。

 生粋の魔法族であるグリーングラス家は誰一人として意味を理解出来ず、ただ笑って良いのか否か、ダフネに判断を求めるほかなかった。

 

「…………私に聞かないで」

 

 そのダフネとて『シューガクリョコー』の正体など知る由もない。

 知り合って五年と三年になるが、菫と薊の暮らしについて知る機会を得たのはつい最近のことなのだ。

 

「神秘的と言うか、不思議なだけだもの」

 

 鮮烈な第一印象は強烈な個性に上書きされていた。

 当初の『神秘的な美人』は『黙っていれば美人』に変わり、いまや『美人の変わり者』へ落ち着きつつある。

 本人たちの前で言っても本心は伝わらないだろう。

 だからダフネはいつも通り沈黙を選んだ。

 胸の内に溜め込んだ言葉は数え切れない。

 もし感情に質量が備わっていたらとっくに肋骨を突き破っていただろうが、幸いその未来はまだ少しばかり先らしい。

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