荒船哲次という男がいた。好戦的な本性を冷静さと知性というカバーで覆った、内心は熱い系クールガイだ。
異世界からの侵略者である『ネイバー』から、生まれ育った『三門市』を守るために、界境防衛機関『ボーダー』に入隊し、平和を守るために戦っている彼はある日、自らの野望を現実のものにするために、ある人物の元へと訪れた。
「木崎さん……、俺を鍛えてください」
荒船が野望実現のために頼ったのは、木崎レイジという男だ。
ボーダーが現在のように世間に広く周知される前から組織に身を置き、人知れず水面下でネイバーと戦い続けていた、大ベテランとも言うべき隊員だ。
大ベテランというだけで教わる価値は十分にあるが、荒船はきちんとした理由があってレイジに頼み込んでいた。
レイジはボーダーで唯一、『
ボーダーでは生体エネルギーである『トリオン』で作られた『戦闘体』を用いて隊員は戦い、そして戦い方によってポジションの名前が変わる。
剣による戦闘を生業とする『
現状、レイジしかいないパーフェクトオールラウンダーだが、荒船の目標はあらゆるポジションの戦闘スタイルや育成方法をメソッド化して、最終的にはパーフェクトオールラウンダーを量産することだった。
故に荒船は、まずは自らがパーフェクトオールラウンダーのことを知って体得するために、レイジに頭を下げて教えを請うた。
「構わない。ただし、鍛えるには徹底的にやるぞ」
荒船の頼みを聞いたレイジは、即答だった。
迷わず受け入れてくれる彼の懐のデカさに荒船は感激し、「ありがとうございます!」と声を大にして言っていた。
レイジはそれから、とある施設の住所を書いたメモを荒船に渡し、翌日そこに来るように伝えた。
荒船は次の日、メモに書いてある住所に躊躇いなく足を運んだ。だがその場所に来て、荒船は首を傾げた。
「……スポーツジム……?」
そこはいわゆるスポーツジムだった。てっきりボーダーに関わりのある施設でパーフェクトオールラウンダーに必要な技量や理論を伝授されると思っていた荒船は困惑した。しかしすぐに、ここは単なる待ち合わせ場所で、本当の目的地は別にあるんだと、納得できる理由を思いついて、それを必死に自分に言い聞かせた。
動揺して高まった心拍数が平常に戻ったところで、レイジが姿を見せた。
「おう荒船。お前来るの早いな」
片手を上げて挨拶しながら話しかけてくるレイジはジャージ姿で、誰がどう見ても運動する気満々にしか見えない。そして荒船と合流したレイジは何の迷いもなく、
「よし、んじゃ入るぞ」
目の前にあるスポーツジムへと足を踏み入れた。
「え?ちょ、え……?」
荒船は困惑しつつもレイジの後ろをついていき、そのまま受付へと連れていかれる。
受付のお姉さんから一枚の紙を受け取ったレイジは、それを荒船へと渡す。
「とりあえず、1ヶ月無料のお試しコースがあるから、それに登録するぞ。ここに名前と住所を書いてくれ」
言われるがまま、荒船は名前と住所を登録用紙に記入する。
「あ、下の方に『ボーダー正隊員ですか?』ってのがあるだろ?そこはちゃんと『はい』に丸しとけよ。正規登録してから、色々と融通が効くからな」
用紙の下の方にあって見逃しそうだった質問の場所もレイジは丁寧に教えて、完成した登録用紙は無事に受理された。
トレーニング用のウェアも貸してもらえるとのことで、ウェアを受け取った荒船はレイジに連れられてロッカールームへと向かう。そしてロッカールームに入ると同時に、荒船はたまらず尋ねた。
「あの、木崎さん……。その、俺を(パーフェクトオールラウンダーとして)鍛えてくれるんですよね?」
「ああ、もちろん。俺はこれからお前(の身体)を鍛えるつもりだ」
お互いに言葉が足りなかった。2人が共有していたのは、鍛えることのみで、その中身には多少……、いや、かなりの齟齬があった。
その日から、荒船哲次の肉体改造の日々が始まった。
初日であるこの日は、
「荒船はこういうところ初めて来ただろ?まずは色々お試しでやってみたらどうだ?」
というレイジの言葉に従い、一通り触れてみることにした。
ベンチプレス、ダンベル、エアロバイク、ランニングマシーン、その他各種のマシーン……。一通り試す頃には、荒船の体は悲鳴をあげていた。
「…っ、ぐっ……あ……、きっ、つい……っすね……っ!」
「軽い重量でも、あれだけ色々やれば流石にきついだろ?大丈夫、少しずつ慣らして筋肉をつけていけば、自然と重い重量にもチャレンジできるようになるさ。まあ、くれぐれも無理はするなよ」
息も絶え絶えな荒船にレイジはアドバイスをしたレイジは、ベンチプレスへと足を運ぶ。荒船はベンチプレスを、
「初めてだろうし、余裕を持って35キロくらいからやってみようか」
とインストラクターの言葉に従い、35キロでこなしていた。余裕といえば余裕だったが、ズシリとした確か重量を身体に感じ、これ以上は無理だと自主的に判断してベンチプレスを切り上げていた。
ところが、レイジはどうだ。
優に100キロを越える重量にセットして、それを軽々と持ち上げているではないか。
「マジかよ……っ!」
荒船はそんなレイジの姿に……筋肉に驚嘆する。
それからレイジは、
「今日は上半身をメインにやる」
と宣言して、上半身全体を満遍なく鍛えていく。
大胸筋、三角筋、上腕三頭筋、上腕二頭筋、腹筋、広背筋、大円筋……、あらゆる部位を狙い複数のマシーンやトレーニングを使い分ける様を見て、荒船は気づいた。
(これは……っ、状況や目的に応じてマシーンを……、トリガーを使い分けることに通じる!より最適な
やはりレイジは自分をパーフェクトオールラウンダーとして鍛えるつもりで、ここに連れてきたのだと荒船は確信してしまい、自ら望んで筋トレへの道へと踏み込んでいった。
筋トレへの熱意を燃やす荒船だが、翌日は久しく経験していなかった痛みに……、筋肉痛に襲われて、まともに身動きが取れなかった。満遍なく鍛えたため、全身筋肉痛の地獄だった。そんな日に限って学校では体育があり、真面目な荒船は体育でも頑張ってしまい、身体が悲鳴をあげた。
筋肉痛に悩まされている間にも、荒船はより質の良い筋トレに繋がるための行動をとる。より良い筋トレに必要なのは、食事とトレーニング前後のプロテイン&サプリメントの摂取だった。
低糖質高タンパクな食材を意識して食べつつ、各栄養素のバランスも崩さない。消化に負担をかけないメニューも心がけるようになった。
トレーニング後には素早くプロテイン+クレアチン(アミノ酸)を摂取して、筋肉の肥大化と疲労回復を狙った。
そしてその筋トレのために学んだ食事ですら、荒船はパーフェクトオールラウンダーへの心得へと変換していく。
適切な
荒船はパーフェクトオールラウンダーの基礎であり真髄を、筋トレから学び取ったのだ。
レイジに勧められたスポーツジムで筋トレを続けた荒船は、そのジムがボーダー隊員御用達だということを知った。
ある日のこと、ジムで見知った人物と出くわした。ボーダーA級5位にして、テレビ出演や広報活動を多く担当している嵐山准だ。
「嵐山さんも、ここに来るんですね」
「ああ。そういう荒船くんこそ、少し意外だったよ。前にレイジさんから聞いてはいたんだが……」
日々努力を続けていた荒船はものによるが、トレーニングの間でも会話できる程度には余裕が持てるようになり、嵐山と2人で並んでランニングマシンで走りながら会話をしていた。
嵐山曰く、メディア対策室長である根付栄蔵がどんな仕事の依頼をしてきてもいいように、日々生身の身体を鍛えているのだという。
嵐山は『ジャージの上を脱いでタンクトップ姿になって写真を撮られる』という場面を想定しているらしく、上半身の筋肉を重点的に鍛えているのだという。もちろん、バランスを崩さないように下半身の筋トレも欠かさないが、重きを置くのはあくまで上半身だという。
荒船と同じスナイパーの佐鳥賢は、『海パン姿での写真撮影、もしくは熱湯風呂に落とされる』という想定のもと、体幹をメインにしつつ全身をバランスよく鍛えているらしい。佐鳥が筋トレを始めた時期を聞いた荒船は、同じ時期に佐鳥の狙撃の安定感が増したことを思い出して、狙撃にはやはり体幹の強さが大事なんだなと確信した。
2人がどんな目的で鍛えているのかを聞いた荒船は、残る男子1人について問いかけた。
「それで、時枝のやつはどんな場面を想定してるんですか?」
しかしその問いかけに対して嵐山は顔をしかめた。
「うーん……、充はそういう話をしないから何とも言えないな。ただ、充の身体はすごいぞ」
「まじですか」
「ああ。デカい」
デカい、というのは筋肉に対する賛美の言葉の1つである。嵐山は自然と隠語とも言うべき言葉を使い、荒船もまた労せずにその言葉の意味を理解した。
とはいえ荒船も、その時は嵐山の言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。時枝充という隊員は見るからに体の線が細く、筋トレとは無縁に見える少年だったからだ。
しかし後日、ロッカールームで時枝と遭遇して彼の着替えを目撃した荒船は、嵐山の言葉が嘘ではなかったことを知った。時枝の身体は鍛え抜かれ、無駄を削ぎ落としたもので、芸術品のような美と畏怖を抱かざるを得ない雰囲気が同居していた。もし荒船自身が筋トレで身体を鍛えていなかったら、彼の身体を見ただけで立っているのとすら困難な状態になっていただろうと思えてならず、荒船はやはり筋トレは大事だと実感した。
3ヶ月近くジムに通い詰め、すっかり常連さんの顔を覚えた頃、レイジはこれまで見せたことがないほど真面目な表情で、荒船に1つの質問をした。
「荒船。お前……筋肉は
「え……?」
それからレイジは語り始めた。
古来から筋トレを生業とする者たちは、自然と『筋肉は使う者派』と『筋肉は魅せるもの派』の派閥に属し、その両陣営は長い戦争状態にあること。同じ『身体を鍛える』でも、思想が異なる両者はトレーニングの内容や食事に差が出て、そのせいで肩を並べることができないでいる。
レイジはこれまでこのジムで、彼らの戦争を何度も見てきた。昨日まで仲良くトレーニングをしていた2人が、互いの思想が違うとわかった瞬間に疎遠になったり、滅多に使うタイミング被らないマシンを使うタイミングが重なった時、
両者の間には、どんなセパレーション(筋肉間の溝)よりも深い隔たりがあることを、レイジは知っていた。
だからこそ、荒船がどちらの人間なのか見極める必要があった。もし、荒船が向こう側の……、魅せる側だったらと思うと不安があるが、それでも、確かめねばならないことだった。
両陣営にある争いを知り、その上でどちら派かを聞かれた荒船は、迷った。元を辿れば、彼はパーフェクトオールラウンダーを学ぶためにここに来ており、どちらの派閥なのかというのは考えもしなかったからだ。ならばここは、師匠であるレイジと同じ『使う者派』に合わせようと、最初は思った。しかし答えようとしたところで、彼の心に1つの疑問がよぎる。
(これで、いいのか……?もしかしたらこれは、レイジさんが俺に与えた試練じゃないのか……?敢えて対立して、より高みを目指してもらおうとしてるのか……、それかまさか…っ、俺に第3の勢力になれと言いたいんじゃ……っ!?)
悩んで沈黙する荒船を見て……、同じ派閥であれば迷わず頷く場面で答えない彼を見て、レイジはそれを
「そうか……。荒船、お前の心はわかった。もう、お互いに関わるのはよそう」
「ま…、待ってくださいレイジさん!」
静かに決別の言葉を告げて立ち去るレイジを止める術が、荒船には無かった。ただ去りゆく背中を……、冷蔵庫のようにデカい(筋肉に対する賛美の言葉)背中を見ていることしかできなかった。
レイジと決別してから、荒船は遮二無二筋トレに励んだ。師匠を繋ぎ止めるだけの力が無かったことを悔やみ、オーバーワークとも言えるペースで身体を鍛えて……否、痛みつけていった。
ボロボロになる荒船を、周囲の人間は止めようとした。だが彼はその声には耳を傾けず、ただひたすら高みへ手を伸ばし続けた。
そしてある日、荒船は自らの限界の先へと挑んだ。
ベンチプレス。
ありふれたトレーニング法だが、荒船にとって初めて見たレイジの筋トレであり、思い出深いものだった。
荒船はそのベンチプレスの重量を、自らの限界を越えたものへと設定する。
その重量は荒船の体重から計算すると、負荷が大きいどころでは済まなかった。その道のアスリートでしか持ち上がらないような重量であり、筋トレを始めて一年も経っていない荒船には到底扱えないものだった。
周囲は全力で止めたが、荒船は、
「……一回、たった一回持ち上がればいいんです……!その姿を、師匠に、レイジさんに見てもらえれば……っ!」
熱意がこもった言葉で、周りの声をねじ伏せた。
約束をしたわけじゃない。ただ、限界を超えた姿を見てもらいたいだけという、荒船のエゴだった。
並々ならぬ熱意を胸にした荒船は台に座り、精神を整えてからベンチプレスの態勢に入る。
(目線はバーの下……バーは手首の延長線上の掌で握る……、持つ時は変な角度をつけずに自然に……、ケツは浮かせず、かつ背中はアーチを描くようにして、肩甲骨を寄せる)
レイジから教わった、正しいベンチプレスのスタイルを1つ1つ頭で反復して身体に反映させ、荒船はベンチプレスの構えを完成させる。
そしてゆっくりと息を吸い、体内に酸素を行き渡らせてから、荒船は過重量のベンチプレスに挑んだ。
「ぅ…お…おお…っ!」
腹圧をしっかりとかけながら力を入れて持ち上げようとするが、バーベルの重さは想定以上だった。万全な状態なら……、いや、それでもまともに持ち上げられたか怪しい重量であり、日々の無茶なトレーニングで身体を痛めている荒船には、このバーベルは重すぎた。胸筋、上腕二頭筋、三角筋が悲鳴をあげるが、荒船は引き下がらない。
限界を超えた痛みに耐える荒船の脳裏に、
「まあ、くれぐれも無理するなよ」
筋トレに足を踏み入れた日に、レイジがかけてくれた言葉が蘇る。
(くそ、俺は……、俺はなんて大馬鹿野郎なんだっ!師匠の教えを忘れて、無理を重ねるなんて……。レイジさんに顔向けできねぇ!)
自身の過失を受け入れた荒船の身体からは力が漏れ出て、バーベルの重さが無情にもかかる。一度怯んだ分を取り戻すのは容易ではなく、荒船はここで諦めてしようかと思った。
心が折れかけた、その時、
「負けるな荒船!お前なら出来るっ!」
道を違えたはずのレイジの声が、荒船の背中を押した。声がした方に視線を向けると、そこには息を切らしたレイジの姿があった。
(どうしてここに……。そしてなぜ応援を……?俺とレイジさんは、派閥が違うのに…っ!)
目線で荒船が訴えたメッセージがまるで聞こえていたかのように、レイジは答える。
「嵐山からお前が無茶なことしてるって電話をもらったんだ!そして、気づいたらここまで来てたんだ!弟子の応援に来て悪いか荒船!」
いつもは落ち着いた筋肉と言われているレイジが、声を荒げて荒船へ力強く声援を送る。
「出来る出来る!お前なら出来るぞ荒船!そんなの軽いぞライトウェイトだっ!」
「…っ、そうだ!こんなの軽いっ!これよりも、ランク戦中に三輪が打ち込んでくるレッドバレッドの方がずっと重いんだ!あいつ遠慮なくバンバン撃ち込んできやがって!いつか絶対ぶった切ってやる!」
これよりも重いものがあるからこれは軽いと、荒船も自分に言い聞かせるとバーベルはまた上がる。
そして、
「ぐっ、お、おおぉぉぁぉあ!」
荒船は渾身の力を込めて、限界を越えた重さのバーベルを持ち上げることに成功した。
ベンチプレス成功を見た瞬間、ジム内では野太い歓声が上がった。地鳴りにも近い力強い歓声の中でバーベルを片付けた荒船は倒れこむが、それをレイジが受け止めた。
「レイジさん…」
「全く、無茶をしたな……。あとで特性のプロテインを飲ませてやる。海外から取り寄せた高いやつだ」
「そ、そんな……、いいんすか?俺は、レイジさんと派閥が……」
「ふっ……。今は派閥なんてどうでもいいさ。弟子が限界まで頑張ったんだから、師匠としては当然だ。……だが荒船、また今度今回みたいな無茶をしてみろ。俺は本当に師弟の縁を切るぞ」
「切らさないように、ほどほどに頑張ります」
魅せる派と使う派による一筋の和解への道が見えて盛り上がるジムだが、そのすぐ近くに、赤髪の巨大な影が迫る。
「ふむ、ここが兄……、いや、隊長が偵察するように言っていた『すぽーつじむ』というところか……。さて、ミデンの奴らの肉体がどれほどのものか、確かめさせてもらうぞ……っ!」
筋トレは本編中に荒船さんがやっていたような過重量なものは避けて、自分にできる範囲を見極めて行ってください。