蒼の彼方のフォーリズム EXTRA0   作:蒼崎れい

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Chapter 3

 すたっと、まるで重力など感じさせない動きで各務葵さんは降りてきた。

「どうしたんですか、先生。あ、もしかして隼人が小テストで赤点でも取ったんですか?」

「お前と一緒にするな。そっちこそ、空を飛ぶこと以外頭に入ってないじゃないか」

「失敬な。さすがに赤点取ったりはしないさ。……たまにヤバいことはあるけど」

 先生の前で軽口をたたき合う二人に、俺はただただ圧倒される。この白瀬って人も、各務葵さんと似たような感じがする。何かを超越したような、オーラ? みたいな。

「で、他の連中はどうした?」

「先輩は1年生を連れて、浜辺でランニングしてますよ。もう少したら、帰ってくると思いますけど」

 と、先生の質問に答える白瀬さん。そうだよな、FC部なんだから2人なわけはないもんな。

「そうなのか。まあいい。各務、ちょっといいか?」

「はい、私に何か用事でもあるんですか?」

「あぁ。私ではなく、この子なんだがね」

 先生に背中を押されて、俺は各務葵さんの前に立つ。今日はフライングスーツではなく、学校指定の体操服姿をしている。それでも、その存在感が霞むことはない。

 まるで夢を見てるみたいだ。俺が、こうして葵さんと会うことができるなんて。

「この子は、日向昌也くん。私の高校時代の友人の子供だ。つまり、君達にとっての先輩のお子さんでもあるわけだな」

「日向、昌也ねぇ……」

「去年の秋の地区大会で君を見て、どうしても空を飛びたくなってしまったそうだ」

「ほほー。そうかそうか。いや、女子からはよくモテるんですがね……」

 各務葵さんは中腰になって俺の顔をのぞきつつ、

「まさか、こんな小学生までとは思いませんでしたよ」

 にかっと爽やかな笑みを浮かべた。男の俺でもドキッとするほどかっこいい。

 い、いや、そんなこと、今はどうだっていい。せっかく話しかけてくれたんだ、お、俺も何か言わないと。でも、目の前には本物の各務葵さんがいるんだ。頭の中は真っ白になって、何も話題が思いつかない。おかしい、話してみたいことや聞いてみたいことなんていくらでもあったはずなのに、なんで出てこないんだよもう!

 意味もなく口をぱくぱくさせることしかできない俺を見て、各務葵さんはケラケラと笑う。

「そんなに緊張しなくても、取って食ったりはしないさ。まぁ? 私は有名人だからな。無理もないかな?」

 冗談めかして言っているのは、俺の緊張を解くためだったのだろうか。ずいぶん後になってからわかったが、この時の俺にはそこまで考えている余裕なんて全くなかった。

「昌也、だったな。そのバッグの中身はグラシュだろ? 私にも見せてくれないか?」

「は、はい!」

 各務葵さんにお願いされて、俺は慌ててバッグからグラシュを取り出す。『MIZUKI』の『飛燕』シリーズの一般モデル。まさかこんな形で見られることになるなんて。

「ほう、『飛燕』とはなかなか渋いのを選んだな。もっとかっこいいデザインのグラシュはあったと思うが、どうして飛燕(こいつ)にしたんだ?」

「…………か」

「『か?』」

「か、各務さんのと同じ『飛燕』シリーズのグラシュが欲しかったからです!」

 い、言っちゃった。全然頭が回んなくて、本当のことをそのまま言っちゃった。

 どうしよう、いや、憧れてるのは本当なんだけど、それを本人に面と向かって言っちゃうなんて。穴があったら入りたい。

「ぷっ、ぷっはははははははははっは」

 我慢できなかったらしい各務葵さんは、腹を抱えて笑いだした。それに釣られたように、白瀬さんと先生も笑い出す。

 うぅぅ、やっぱりこうなっちゃうよなぁ。でもまだ、最初は『紅燕』を欲しがっていたって知られてないからセーフ。うん、セーフってことにしておこう。そうじゃないと恥ずかしすぎて各務葵さんのことをちゃんと見れない。いや、今もちゃんと見れてないんだけど、顔を上げられなくなっちゃう。

「はははは、はは、わ、わるかった。悪気があったわけじゃないんだ。まさか、そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったから」

 各務葵さんは息を整えると、もう一度俺と視線の高さを合わせて、

「そんなによかったか? 私の試合は」

 一言、語りかけた。その問に、俺は無言で頷く。

「そっか」

 各務葵さんはちょっと恥ずかしそうにしながら、くしゃっと笑って俺の頭を撫でてくれた。この人、こんな顔もするんだ。

 雑誌で見てきた各務葵選手はいつも超然としていて、他の選手を寄せ付けない強者のオーラがあって、どの角度からの写真もかっこよかった。でも、今この瞬間の各務葵さんはなんか、不安? それともホッとしている? そんな印象を受けてしまう。

 でも、そんな気弱な表情を見せたのも一瞬。立ち上がると、ぐいっと両腕を伸ばして伸びをする。

「よしっ、じゃあ一緒に飛ぶか、昌也。そのためにグラシュを持ってきたんだろ?」

「は、はい! あ、でも俺、まだ浮けるようになったくらいで……」

「大丈夫。空中でバランスが取れるようになったら、あとは慣れだ。私もついてる、心配するな」

 俺の頭に乗せてある手が、わしゃわしゃと髪をかきあげる。

 あぁ、もう幸せすぎてヤバい。てか、え? 俺、葵さんと飛べるの? さっき言ってたよね? 一緒に飛ぶかって。

「それに、まだ50センチくらいまでしか」

「あぁ、高度制限もか。隼人」

「わかった。昌也くん、ちょっとグラシュを貸してもらっていいかな?」

「あ、はい」

 俺からグラシュを受け取った白瀬さんは、踵の部分をくいっと引っ張って手元の端末とUSBケーブルで繋ぐ。

「そういえば、昌也くんはグラシュはこれが初めてなんだっけ」

「はい、そうですけど」

「感度も目一杯下げてあるな。とりあえず……初心者向けくらいの感度にして……高度制限もっとぉ。よし、はい、どうぞ」

 白瀬さんは手早く設定を終えると、俺にグラシュを返してくれる。店員さんが間違って怪我をしないよう、感度を最低まで下げていてくれたみたい。それが普通の競技用グラシュレベルにまで戻ったとなれば、またバランスをとるのが難しくなりそうだ。

 普通の靴からグラシュに履き替え、踵のスイッチを入れると靴の両側から光の羽が現れる。

 いよいよ、緊張の瞬間だ。

「『FLY』」

 ふわりと体が浮き上がる。重力から開放された体はしっかりとバランスを保ったまま、上昇を続けた。50センチが1メートルに、5メートルに、10メートルに、未だ体験したことのない高度までどんどん上がっていく。

「いいぞー、昌也。その調子だ」

 にぃっとイタズラっぽく笑った各務葵さんは、俺を安心させるように高さを合わせてゆっくり上昇してくれる。

「どうだ? 思ってたよりも簡単だろ?」

「そんな、簡単じゃないですよ。う、うわっと!?」

 両手両足を広げて大の字になり、必死にバランスをとる。この2周間の練習のおかげもあって、基本姿勢はしっかり体に染み付いていた。もう少しすれば、基本姿勢でなくてもバランスが取れそう……取れると思う。

「いやいや、一気にこれだけ感度を上げてもバランスが取れているんだ。うまいもんさ。それじゃあ次は、ちょっと上半身を前に倒してみようか?」

「こ、こうですかって、うわぁああああっ!?」

 わずかに体を前に傾けると、自転車くらいの速度で前に進み始めた。

「慌てず、冷静に。地上と違って、ぶつかる物なんてないんだ。それに、いざとなれば私がなんとかしてやる。今は、姿勢を保つことだけを考えろ」

「は、はい。頑張ります」

 基本姿勢を崩さない。前傾姿勢を維持。慌てず冷静に……。

 まだフラフラするけど、体は真っ直ぐに進んでいる。しかも地上から50センチみたいなお世辞にも飛んでるとは言えないような高さではなく、久奈浜学院の校舎よりも高い場所を、だ。

「いいぞいいぞ~。なかなか上手いじゃないか。なら今度は、右肩をちょっと下げてみろ」

「はいっ!」

 水平に広げた腕を右側だけ少し下げる。すると体はゆっくりと弧を描き、右側に旋回を始めた。

「よーし、じゃあ次は反対側だ」

「はいっ!」

 今度は右腕を水平に戻し、左腕をわずかに下げる。

「すげぇ、すげぇすげぇすげぇ!!」

 右旋回していた体は、今度は左に旋回し始めた。すごい、自分が思った通りに飛んでいる。

 直進、右旋回、左旋回を何度も繰り返し、それに慣れてくれば更に前傾姿勢になって速度を出す。フライングサーカスのそれと比べたらまだヨチヨチ歩きみたいなものだけど、今日はじめて地上から解き放たれた俺にとって、思った通りに飛べるというのは大きな一歩だった。

「どうだ? 初めて空を飛んだ感想は?」

「すっげぇ楽しい!」

 各務葵さんの方を向こうとしてくるくると回りそうになるも、基本姿勢をとって安定させる。よしよし、なんか今日だけでもうだいぶ慣れてきた。

「それに、グラシュがあれば行きたいとこにどこでも行けそうで、今からワクワクする! まだ全然速くは飛べないけど、練習すれば飛べるようになるんだよね?」

「あぁ、それくらいならすぐさ。どうする昌也? もうちょっと飛んでみるか?」

 それはとっても魅力的な提案だ。夢にまで見るほど憧れていた各務葵選手と一緒に、しかもこうしておしゃべりしながら飛び方まで教えてもらえるなんて。正直、本人を目の前にしても未だに信じられない。

 でもこの場所に来たからこそ、もう一度確かめたいことがあった。あの時は下からただ眺めるだけだったけど、今はこうして同じ空にいる。

「……じゃあ、その。ちょっと、お願いが……えっと。あるんです、けど」

 体中の勇気をかき集め、俺は各務葵さんを正面からじっと見つめる。

「ほほぅ。なんだ? 言ってみろ。私にできることだったら、考えてやってもいいぞ」

「…………………………………………各務さんの、飛んでるところが見たい、です」

 やっとの思いで、その言葉を口にした。そう、同じ空、同じフィールド、この肌で感じられるこの距離感で、各務葵選手のフライングサーカスが見たい。

 各務葵さんは意味がわからずぽかーんとしていて、やっぱり俺のお願いの意味がわからないみたいでずっと首をかしげている。

 でも、

「そんなお願いでいいなら、いつでも聞いてやる」

 二つ返事で了承してくれた。頭を撫でようと手を伸ばしたみたいだけど、途中で引っ込めた。そしてフィールドのラインから少し離れるよう指示される。

 そういえば、グラシュを起動中に触れると、反重力が反発しあって弾かれるんだっけ。

「しっかり見ておくんだぞ」

 各務葵さんはスタートラインまで移動し、そして、

「今日は、昌也のためにだけに飛んでやる」

 一筋の光となって駆け出した。まるで音を置き去りにするかのような凄まじい加速に、目が釘付けになる。地上からでも力強かったコントレイルの光が、10倍にも100倍にもなって眼の前を通り過ぎた。最早、ただ速いという言葉だけでは言い表せないくらい速い。このまま加速し続ければ、光さえも追い抜いてしまいそうに思える。

 各務葵さんはブイにタッチすると、今度はファーストラインを逆走し始める。きっと、一番近くで俺に飛ぶところを見せてくれるためなのだろう。これ以上ない、最高の特等席だ。

 直線の急加速の次は、ブイにタッチした反動で斜め上に上昇。この動き、さっき下から見たやつと同じだ。ファーストラインの中間地点まで上昇すると、重力による落下エネルギーを使って更に加速しながらブイへと突っ込む。

 あぁ、やっぱり楽しそうだ。それに、背筋がゾクゾクするほど興奮する、体中の血が熱くたぎる。あの日感じたのは、間違いなんかじゃない。俺は飛びたい、フライングサーカスがやりたい。

 そんな風に自分の中の思いを再確認していたせいなのだろう。ファーストラインを飛んでいた各務葵さんが、いつの間にか俺の方に向かって飛んできていたのに気付かなかった。

「わっ、あわわわッ!?」

 ダメだ、ぶつかる。思わずガードするように両腕を目の前で交差する。しかし、いつまで経っても覚悟していた衝撃はやってこなかった。

「ふふふっ、こういう飛び方もあるんだぞ?」

 それもそのはず。各務葵さんはぶつかる直前、最低限の旋回だけで俺の横を通り過ぎていったのだから。

「どうだった? 満足したか?」

 俺を抜き去った後、大きく上にループして各務葵さんが戻ってきた。

「はい、めっちゃすごかったです……」

 本当に目の前を通り過ぎていった姿があまりにも鮮烈すぎて、茫然自失してしまっている。あんな飛び方もあるんだ。とにかく、もう自分の中の思いを表現できる言葉が全く浮かんでこなかった。

 俺が期待通りの反応をしているからなのか、各務葵さんはちょっと嬉しそうだ。

「私も、昌也と飛ぶのは楽しかったぞ。よかったら、飛び方を教えてやろう」

「ほ、本当ですか!?」

 まさかすぎる申し出に、急速に現実に引き戻される。いや、本当に現実なのかこれ? 今日、こうして一緒に飛べただけでもすごいのに、これからも空の飛び方を教えてくれるって……。

「こんなことで嘘ついてもしょうがないだろ。本当だよ。まあ、私も自分の練習があるから、ずっとという訳にもいかないんだがな」

 それはもちろん、俺だって憧れの選手の練習の邪魔だけはしたくない。空いた時間にちょこっと教えていただけるだけで、十分すぎるくらいである。もちろん、俺はそのお誘いを二つ返事で受け入れた。

「よかった。断られたらどうしようかと思った」

「そんな、断るなんてあるわけないじゃないですか。ぜひ、お願いします!」

「あぁ、よろしく。それじゃあ早速なんだが、さっき私のこと『各務さん』って呼んだよな? これから楽しく練習する仲として、それは他人行儀すぎると思うんだ」

「それじゃあ、なんて呼べばいいんですか?」

 と、そこで今日何度目かのいたずらっぽい笑みを口元に浮かべて、各務葵さんはこう答えた。

「私のことは、練習中は『お姉ちゃん』と呼ぶように」

 名前を呼ぶのも緊張するのに、それはさすがにハードルが高すぎるのではないでしょうか。自分が各務葵さんのことをお姉ちゃんと呼ぶところを想像して、急に顔が熱くなってきた。やばい、これ絶対耳まで赤くなってるやつだ。

 だって、葵さんめっちゃこっち見て笑ってんだもん!

「返事は?」

 こっちが黙っていると、容赦なく攻め立ててくる。逃げ場はない。それに、憧れの各務選手から直接飛び方を教えてもらえるチャンスなんだ。

 恥ずかしいのを我慢して、呼ぶしかない。いや、ぜひ呼ばせてください。

「は、はぃ。お姉ちゃん」

「ん? 声が小さいぞー。風の音でよく聞こえないなー」

「わかりました! お姉ちゃん!」

 各務さ……お姉ちゃんは自分の両肩を抱いてぶるぶると震えていた。

「隼人を見てると、こういうのも悪くないなーとは思っていたが、かなりいいな」

 海風が通り過ぎたせいでなんて言ってたのかよくは聞こえなかったが、とりあえず満足してくれたようだ。

「お姉ちゃんのこと、私から言い出したのは隼人にはナイショにしておいてくれ。二人だけの約束だぞ。わかったな?」

「わかった!」

 思わず指切りをしようとして触れたせいで、俺の体があらぬ方向へと飛んでゆく。各務さ……お姉ちゃんが基本姿勢、と叫んでいるのが聞こえる。

 くるくるとコマみたいに回りながら降下していく中、夢のような時間の始まりにオレの心は躍っていた。


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