葵さんと一緒に空を飛んだ次の日から、俺の生活は本当に一変した。休みの日は久奈浜FC部の練習後の2時間、平日も部活の後に1時間、葵さんは付きっきりで俺に飛び方を教えてくれた。自分でも日に日に上手くなっていくのがわかるくらいで、それが楽しくて仕方なかった。
一緒に飛び始めてから2週間、グラシュを手に入れてからもう1ヶ月も経った。ううん、まだ1ヶ月しか経ってないと言うべきか。充実しすぎていて、もう3ヶ月くらいはグラシュを履いているような気分である。
今日は土曜日。久奈浜学院FC部は午前の練習で終了なので、午後から練習を見てもらえる。
「行ってきまーっす!」
お昼ご飯を済ませると、俺はグラシュを履いて停留場まで全力でダッシュした。もう、普通の靴よりグラシュの方がずっと足に馴染んでいる。
停留場までつくと、空の状況を確認する。飛行規制も出てないし、近くを飛んでる人もいない。久奈島役場や葵さんから習ったルールをしっかり実践して安全確認をしたとことで、グラシュのスイッチをオンにする。
「『FLY!』」
起動ワードを口にすると、重力から解き放たれた体がふわりと浮き上がった。続けて地面を蹴り、高く空へと飛び上がる。反重力の膜──メンブレン──が全身を覆うこの感じ、首のあたりがぞわぞわして癖になりそうだ。
海上まで出ると、久奈浜学院に向けて進路を取る。今日はどんなことを教えてもらえるんだろう。もう普通に飛ぶのは何の問題もないほどになった。というよりも、使っているのが競技用のグラシュというのもあるので、通学途中の中高生くらいなら簡単に追い抜いてしまえるほどには速くなった。上下左右の移動もスムーズにできるようになったし、基本的な動作はもう完璧なのでは?
まあそれでも、俺が理想とする飛び方にはほど遠いんだけど。8月の強烈な日差しに、全身から汗が吹き出す。それなりの速度で飛んではいるけど、メンブレンが全身を覆っているのもあって風はそれほど感じない。
もっと前傾で飛べばメンブレンの薄くなったところから風を感じることができるけど、その姿勢を維持するのは体力的にちょっとキツイ。それに、そんなに早く久奈浜学院に着いてしまってが、早めに家を出た意味までなくなってしまう。
せっかく空を飛べるんだから、もっと自由に飛び回りたい。
「よぉし」
思い切り前傾姿勢になって加速する。そこから徐々に角度を上げて前進から上昇に転ずる。体の向きがだんだんと真上を向いていき、ついには背中が下を向く。大きな円を描ききるまでもう少し、というところで……、
「おっ、おわぁぁあああああッ!?」
急に体が空中で止まったと思ったら、頭が下を向いて落下し始めた。でも、そこまで慌てるような高度じゃない。海面まではまだ距離がある。落下の速度を生かして加速を続け、十分に速度が乗ったところで水平飛行に移行した。
「うーん、宙返りをやるにはまだもうちょっと速度が足りなかったかぁ……。でも、今の俺だとあれ以上速度は出せないし。葵さ……お姉ちゃんに聞いてみるか」
とはいえ、約束の時間まではまだ少しある。あちこち寄り道して空の旅を満喫しながら、ゆっくりと久奈浜学院に向かった。
久奈浜学院からほど近い砂浜、葵さんは防波堤の日陰で涼んでいた。横には飲みかけのスポーツドリンクと、食べ終わったサンドイッチの袋が転がっている。
「葵さ……お姉ちゃん! 来たよー!」
解除キーを口にして砂浜に着地。数十分ぶりの重力に、思わずつんのめってしまった。
「あぁ、昌也。今日も元気だな」
「だって、教えてもらえるの、すっごい楽しみにしてたんだから」
居ても立ってもいられない俺を見て、葵さんは苦笑しながら立ち上がる。そしてもはや定位置となっている俺の頭に、ポンと手を載せた。
「教えてもらえるって、平日だってほとんど毎日教えてやってるだろ?」
「だって、平日だと部活が終わってからだから、時間短いじゃん。それに……」
「それに?」
「部活終わってからだと、時間も遅いから。お姉ちゃんに迷惑かけたくない」
一瞬きょとんとなった葵さんだったけど、すぐにゲラゲラと笑って俺の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
「こいつめぇ。生意気に私に気なんか使って。そんな小難しいことなんか考えてないで、楽しそうに飛んればいいんだよ」
そして中腰になって俺と目線の高さを合わせてくれて、
「楽しそうな昌也が見れたら、私も元気が出るから」
な? と優しくニカッと笑った。あぁ、もう。なんなんだよ、すごい、かっこいいじゃんか。なんだか恥ずかしくてうつむきながらも、こくんと頷く。
葵さんが難しいこと考えずに飛べって言ってくれてるんだから、今日はとにかく好きにとぼう、そうしよう。俺にはよくわからないけど、それで葵さんがちょっとでも元気になってくれるんなら。
「じゃあ、飛ぶぞ。昌也」
「うん!」
二人で起動ワードを口にして、空へ上がった。葵さんの飛行姿勢を見ながら、俺もなんとなくそれに合わせて飛ぶ。
葵さんの飛行姿勢は、初心者の俺から見てもやっぱりきれいだ。たまに早く着いて久奈浜FC部の練習をちょこっとだけ見せてもらったこともあるけど、葵さんの飛行姿勢はその中でもやっぱり一番きれいだと思った。
で、きれいだと思って真似してみたら、今までより速度も出るし、安定して飛べるようになった……気がする。いや、飛行中にふらつくことは確かに少なくなったから安定してるはず!
「そうそう。お姉ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「どうせ飛び方のことなんだろ? 昌也はそれしか聞かないからな。いいぞ、なんでも聞いてみな」
葵さんは半ば呆れるみたいな口調だ。それもそもはずで、葵さんと一緒に練習を始めてからずっと、俺はグラシュの使い方のことしか質問していないからである。
でもなんかこう、プライベートのことを聞くのは気後れすると言うか、はばかられると言うか。それで機嫌を損ねちゃうのも嫌だし。
いや、葵さんがこんなことを聞かれたくらいで不機嫌になんてなるわけないのはわかってるんだけど、それでもやっぱり聞き辛いのだ。
「えっと、これ、もっと速く飛ぶためにはどうしたらいいの?」
「これ以上か? 今でも十分に速いと思うぞ?」
「えっと、笑わないで聞いてよ?」
俺はここに来る前、試しに宙返りをしてみようとして失敗したことを伝えた。
それを聞いた葵さんはやっぱり予想通りの反応で、
「っははは、そうか。失敗しちまったのか」
小さくクスクスと笑った。でも、バカにしたような感じじゃない。懐かしむように目を細めながら、まるで本当のお姉ちゃんみたいに優しく俺の言葉を受け止めてくれた。
もしかしたら、むかし俺と同じようなことをして失敗したことがあったのかもしれない。
「じゃあよく見てろよ? 私が特大の宙返りを見せてやる」
そう言うと、葵さんはいきなり速度を上げた。俺の2倍? 3倍? いや、それ以上のスピードだ。前傾姿勢というよりもほとんど海と水平な状態で加速を続ける。そして十分以上にスピードが乗ったところで、戦闘機の航空ショーさながらにコントレイルの光を引きながら葵さんは上昇を始めた。すごい、俺のときと違って上昇中もほとんど速度が落ちていない。
体の角度はだんだんと急になっていき、水平だった体は垂直に、そこからやがて背中を海面に向けながら更に上昇していく。
「わあぁぁぁ…………」
黄色いコントレイルが空に大きな円を描く。言葉も出ないくらいに、それは美しかった。
「どうだった昌也?」
「めっっっちゃすごかった!」
特大の宙返りを見せてくれた葵さんは、ちょっぴり自慢げに鼻を鳴らしながら俺のところまで帰ってきた。鼻息荒く興奮している俺に、葵さんはそうだろうそうだろうと腰に手を当てて応える。
「ねぇ、どうやったら俺にもあれできる?」
「そうだな、昌也がさっき自分でも言ってたみたいに、速度が足りなかったのも理由の1つだろうな」
「1つってことは、他にもあるの?」
「実際に見てないからなんとも言えないが、心当たりならな」
ここでいきなり答えを教えてくれないのは、この2週間の練習でわかっている。葵さんの指導はまず自分がやって手本を見せて、それから俺に実際に飛ばせて経験させて、ということの繰り返しだ。うまくいかなければコツも教えてくれるし、できるようになるまでずっと付き合ってくれる。
だから2つ目の理由も今はわからないけど、この練習が終わる頃には実体験を伴ってわかるようになっているはず。
「じゃあ、まずは、もっと速く飛んで試してみよう。さっきの私の動きを見てたのなら、どうすればもっと速く飛べるかわかるよな?」
「うん!」
俺は上半身をだんだん前に倒していき、加速を始める。普段ならある程度倒したところで止まるけど、今日は違う。普段は海面との角度が30度になるくらいで止めるけど、まだまだ倒す。
そしてさっきの葵さんと同じくらい、海面とほぼ平行になるような角度にまで上体を倒した。今まで感じたこともないような速度に、少し寒気がした。
メンブレンが薄くなった頭の方では、周囲の音が聞こえなくなるほどの勢いで風が通り過ぎてゆく。この角度になると、ここまで風を感じるんだ。まるでブレーキのない自転車で、急な坂を下っているような気分だ。
速度は間違いなく今までで一番速い。よし、今度こそ! 速度が落ちないよう、上体を起こしながら緩やかに上昇を開始する。さっきと違ってあまり速度が落ちていない、いい感じだ。
海面を映していた視界は次第に水平線を捉え、ついには青い空で埋め尽くされる。と、その時だった。青い空に見入っていたのは間違いないが、気を張っていなかったわけでもない。
なのに宙返りの頂点を目前にした時、急に失速して落下し始めてしまった。おっかしぃなぁ……。スピードは十分足りてたと思ったのに、なんで急に?
お腹の海面側に向け、両手足を広げてメンブレンを安定させる。するとそこへ、葵さんがやってきた。
「あ~あ、残念。あともう少しだったのにな」
「うん、途中までは良かったんだけど、最後にいきなりうスピードが落ちちゃって」
「なんだ、原因がわかってるんじゃないか。それじゃあ、一緒に考えてみようか」
放り投げられたスポーツドリンクを受け取って一口飲み込むと、それに大きく頷く。実践の後の考える時間だ。今日までに何度も繰り返してきたけど、この考える時間はけっこう好きだ。
こんがらがったロープがほどけていくみたいな感じで、わからなかったことが経験を伴って『わかる』のがすごく面白い。
「まず、初速は十分だった。私から見てもよく飛べていたと思う」
「そうだよね。俺、あんなに速く飛んだの初めてだったもん」
「つまり、原因は他にあるってことだ。じゃあ質問を変えるが……。昌也、速く飛ぶために大切なことは何だ?」
「飛行姿勢!」
この質問の答えはすぐに出てきた。実際、葵さんの飛行姿勢を意識して飛んでたら良くなってるんだから間違いない。空を飛ぶ上で、基本中の基本と言っていいだろう。
「そうだ、飛行姿勢が悪いと左右にふらついてしまう。それにグラシュは急な方向転換が苦手だから、速度も落ちる」
「うん、お姉ちゃんに何回も教えてもらった」
「そうだな。じゃあ、宙返りをしている最中の飛行姿勢をもう一度思い出してみようか?」
「宙返り中の、飛行姿勢……」
というわけで、今日の2回の宙返りについて思い返してみる。
宙返りの最初の方は問題なかったはずだ。普通に飛んでいる時も飛行姿勢は意識しているし、きれいな飛行姿勢じゃないとそもそもスピードが出ない。
次に海面と垂直になったタイミング。この時もまだちゃんとしていたはず、現にスピードはほとんど落ちていなかった。じゃあ失速した直前はどうだろう?
「……あれ、どうなってるんだろ」
「気付いたみたいだな」
俺の考えに気付いたらしい葵さんは、ニっと口角を持ち上げた。
「宙返りの頂点付近の飛行姿勢、自分でもわからないだろ。普段と逆の姿勢で飛んでるから、まだ頭と体がついてきてないんだ」
「そうなんだ……」
「でも、わかってしまえば簡単だ。上下が逆になった時にもいつもの飛行姿勢を意識すれば、できるはずさ。じゃあ、原因がわかったところでもう1回トライしてみよう」
「はいっ!」
やっぱり葵さんと飛ぶのは楽しい。俺はさっそく教わったことを実践すべく、思い切り前傾姿勢になって加速した。
葵さんのアドバイス──体が上下逆になってからの飛行姿勢を意識しただけで、宙返りは簡単に成功した。それが楽しくって3回も4回も繰り返していたらさすがに疲れちゃったので、今日はこれで終わり。
今は体をクールダウン? させる目的で、フライングサーカスで使うフィールドの回りを周回している。
「それにしても、この2週間でかなり上手くなったな」
「え? ほんとに?」
「あぁ、びっくりするぐらいの上達ぶりだ」
「よっしぁああ!」
葵さんに太鼓判を押してもらった。それが無性に嬉しくて思わずガッツポーズをしてしまった。そしてそのまま調子に乗って葵さんの回りをくるくる回る。学校のテストで100点を取るより嬉しい。
「それだけ飛べれば、もうどこへだって行けるぞ。空には道なんてない、昌也が飛んだ場所が道になるんだからな」
「うん。そう……だね」
認められたことは素直に嬉しい。でも、それと同じくらいの寂しさも浮かんできた。だって葵さんに認められるってことは、この時間が──一緒に飛んでいるこの時間が終わってしまうことを意味しているんだから。
その事実を認識してしまった瞬間、心の中の飛びたいと言う思いがもっとはっきりした形になっていくのを感じた。
空を飛びたいと思った。空を飛ぶことを一番楽しむために、フライングサーカスをしたいと思った。一年前に地区大会で葵さんの勇姿を見た時から、あんな風に飛べたらいいなと思っていた。
でも、今はもうちょっとだけ違う。葵さんのように飛びたい、葵さんのように飛んで、フライングサーカスがしたい。スピードを競い合ったり、背中を取り合ったりする真剣勝負がしてみたい。
今のように飛ぶことも決してつまらなくなんてない、むしろ今まで感じたことのないくらい、刺激的で楽しい。でも、間近で葵さんや他の人がフライングサーカスという競技に打ち込む姿を見て、思ってしまったのだ。
俺も、あの場所に行きたい。単なる空への憧れだけでなく、あの正方形のフィールドで火花をちらしてみたいと。
「お姉ちゃん、お願いがあるんだけど……」
俺は空中で停止して、葵さんへと向き直る。この感じ、初めて久奈浜FC部に来て、葵さんの飛んでるところを見たいとお願いした時みたいだ。夏の熱気も合わさって、のどがひりつくほどに乾いている。
「なんだ? 言ってみろ」
葵さんも俺の真剣な雰囲気を察してか、いつもの半分茶化すような感じはない。真剣な表情で俺のことを見てくれている。もっとも、今はそれも葵さんなりの照れ隠しだってことは俺にもわかっている。
だから、こうしてちゃんと聞こうとしてくれるのは、本当に嬉しい。だから、俺も……。
「お姉ちゃん、俺に飛び方を教えてよ」
「教えてるじゃないか、こうやって」
そんなことはわかっている。この2週間、自分の練習の前後にずっと親身になって教えてくれた。空を飛ぶための方法を、空が楽しいと思える飛び方を。
だから……、
「そうじゃなくて、その……。フライングサーカス、教えて欲しいんだ」
「へぇ……それはまた。どうして、私なんだ?」
そんなの、ずっと前から決まっている。
だって……、
「だって、お姉ちゃんは、俺が飛ぶきっかけになった人だから」
地区大会で見たあの日から、俺は各務葵という選手に夢中になっていたのだから。
各務葵という選手のように飛びたいのだから、あなたじゃないとダメなんだ。
「……ぷっ」
どうにか堪らえようとしたけど、無理だったらしい。破顔したと思ったら、葵さんはお腹を抱えて大声で笑いだした。
「あはははっ、ははははっ……」
「な、なんで笑うのっ……!」
「ごめんごめん、昌也がいくなり真面目ぶった顔で言うから、おかしくてな」
「もう……本気なんだよ、俺」
「……わかってる。すまなかった」
呼吸を整えた葵さんは、澄んだ瞳で俺のことを見つめてくる。
確かに言った。『わかってる』って。俺の本気のこの気持、俺が口にする前から『わかってる』って。
「えっ、それじゃ……」
「あぁ、飛び方を教えてやるよ。どこまでも楽しく、飛び回れる方法を、な」
まるで、新しい世界の扉が開かれたようだった。俺がいま一番言って欲しい言葉を、一番言って欲しい人が言ってくれた。全部の感情が消えて、心の中が真っ白になって……。そしてようやくぽつりと嬉しさが浮かび上がり、波紋のように一気に広がる。
両手でも抱えきれないほどの嬉しさに、胸がいっぱいになった。
「あっ、ありがとう、お姉ちゃん!」
あぁ、と応える葵さんも、本当に嬉しそうにしていた。やった、これでまだ、葵さんと一緒に飛べる。それだけじゃない、葵さんにフライングサーカスを教えてもらえる。
あの日、見上げた空で誰よりも力強く飛んでいた、憧れの人に。感情が爆発して、自分でも抑えられない。
「じゃあ、教えるにあたって、まずはとっておきの言葉を教えてやろう」
「言葉……?」
「あぁ。辛いことがあっても、悲しいことがあっても、力が湧いてくる言葉だ」
「すごーい、教えてっ!」
「よーく聞くんだぞ……」
その言葉は自分でも信じられないくらい、すっと胸の中に落ちた。これから先、どんな事があっても、その言葉は俺に力を与えてくれるに違いない。
葵さんから渡された言葉を胸に、俺のフライングサーカスは静かに幕を上げた。
これにて第1話終了です。
ここまで使って、まだ昌也くんがフライングサーカスを始めてないという。
次話も同じくらいのボリュームで初の大会参加あたりまで書けたらいいなぁと思ってます。
次は少し別のもの書いてるので間が開くかもしれませんが、よろしくお願いします。