そこに彼は、いた。
ある日、彼は少女に出会う。
花畑を舞う少女に義手の彼。
少女を言の葉を交わすたび、彼は昔を思い出す。
あの時から、彼は過去の檻にいる。
風が吹く。木の葉がさえずり、芝が歌う。
そこには、色とりどりの花が咲き乱れていた。
それは、暖かな赤。あるいは、涼やかな青。もしくは、爽やかな黄色。言葉に表せないくらいに、様々な色彩が一面を埋め尽くしていた。
「きれいよ、きれい!」
美しい栗毛色の髪の少女が、花畑を舞っていた。陽の光をたっぷり浴びている少女が、くるりくるりと回るたびに、きらきらと輝く。
木陰に腰を下ろして本を読んでいた。ふと何気なく目を上げたその時、視界にそんな光景が飛び込んできたのだ。見たことのない子だ。そう思いながらじっと見ていると、少女がこちらに気づいたようだ。ぱあっと顔いっぱいに笑顔を湛えて、駆けてきた。
「あなたもお花をみていたの?」
栗毛色の髪にはつばの広い麦わら帽子。そして真っ白なワンピースという出で立ちはなんとも可憐だ。少女は屈託なく笑って、恐れることなく話しかけてきた。
「まあ、そんなところだよ。たまにここで本を読むんだ」
「とってもきれいね!」
「ああ、そうだな」
興奮しているらしい、鳶色の瞳が覗き込んでくる。あまりの距離の近さに、小さく後退り。元から木にもたれかかっていたので、あまり後ろへ下がることはできなかったが。
「わたしね、こんなにきれいなものはじめて見たわ!」
「そうかい。ずっと見ていると飽きてくるんだけどね」
「あなたは、ちかくに住んでいるの?」
「そこの小さな家にね」
読書を続けるのは難しそうだ。なので、本に栞を挟んだ。空いた手で指さした方向には、こぢんまりとしたログハウスが建っている。
好奇心に満ち溢れているこの少女を蔑ろにするのは簡単だ。無視するなり、帰れと言えばいい。けれど、せっかく楽しそうにしている少女を落胆させるのは気が引けた。
「すてきなおうちね! ずっとお花を見ていられるわ!」
「そうかい」
「ええ。とってもすてきよ!」
少女は笑う。陰りひとつもない、純粋無垢さで。釣られて、少しだけ笑った。
それが、少女との出会いだった。
◇◆◇◆
隣国の『蓮浮かぶ湖の国』が、攻めてくる。その報せは瞬く間に『柑橘の成る谷の国』を駆け巡った。
『柑橘の成る谷の国』は国土の大半が山に囲まれている盆地だ。そして国境線の半分以上が、霊峰『百合生える鬼の山脈』によって引かれている。ゆえに、攻めてくるであろう場所は自然と絞られていた。
すぐさま防衛体制を敷くことが決定された。そして国中の若者たちが徴兵された。
――やっぱり、行くの?
――ああ。行くよ
俯きがちな彼女が、手を伸ばすと軍服の襟を正してくれた。まだほとんど袖を通したことのない軍服だ。着心地がいいとはお世辞にも言えなかったし、まだかなり生地が固かった。
袖を通した瞬間に、「ああ、これで俺も軍人なんだなあ」なんて漠然と思ったことは記憶している。
――本当はね、行ってほしくない
――でも仕方ない。もし負けたら、ここがいちばん危ないんだ
ふたりが住んでいた村は、『蓮浮かぶ湖の国』との国境とほど近い場所にあった。もし防衛線が突破されたら、かの軍勢は群がる蜂の如くやってくる。
戦いたかったわけじゃない。望んで志願したわけでもない。けれどこの村を、そして彼女を守りたかった。軍服に袖を通す理由は、それだけで十分だった。
――じゃ、行ってくる
――約束して。絶対に帰ってくるって
――わかった、わかった。帰ってくる。絶対に
いまにも泣きそうな顔だった。だから安心させたい一心で、そう答えた。泣きそうな顔なんて、見たくなかったのだ。
戦争は、多くの死者を出した。なんだかよくわからない兵器が使われ、地形が変わった。さっきまで笑って酒を飲んでいたやつが、物言わぬ骸に成り果てた。
そんな激戦の末、戦争は停戦条約を結ぶ形で終結した。
絶対に帰ってくる。その約束は、きちんと守られた。
だが、その左腕は冷たい鋼鉄に変わっていた。そして、夜に眠るたび悪夢に悩まされるようになってしまっていた。
――ねえ、聞いてほしいことがあるんだけど
戦争が終わり、村に帰ってきた。それから
――私と、結婚してくれない?
言葉に詰まった。子供の頃からずっと一緒にいた間柄だ。いつしか自然とそういう仲になっていたし、いずれは彼女と所帯を持つ心づもりはあった。
彼女を、幸せにするつもりだった。
――わりぃ
だから、断った。
左腕は義手に変わり果て、フラッシュバックが起これば足元すら覚束ないようになる。夜もまともに眠れない体になってしまった。時には自分ですら、何がどうなのかわからなくなってしまう。
そんな男がどうして家族を幸せにできるだろうか。
――どうして?
――自信が、ないんだ。お前を幸せにしてあげられる自信が
強い口調で彼女が問い詰めてくる。申し訳なさに、そっと目を逸らした。言い訳めいていると思われても仕方のないことを口にする。
――別に、幸せにしてくれなくていいし
――は?
予想外の返答に虚を突かれた。
――私が君といっしょにいたいの。私が君を支えたいの。何かをしてほしいとか、そういうのじゃなくて
そう告げた彼女の鳶色の瞳は、どこまでもまっすぐに見つめてきていた。あまりの迷いのなさに、こちらがたじろぐ。
――それにね、見てられないんだ。君、今にも崩れてしまいそうだもの
――だからって、お前が犠牲になることはないだろ
ぶっきらぼうに、そして突き放すように言った。彼女に苦労をかけたくない。だから心に蓋をして、鍵を閉めた。
――犠牲だなんて決めつけないでよ
鳶色の瞳がきつく細めてつり上がった。やっぱり形のいい綺麗な目だな、なんて関係ないことがふと胸に浮かぶ。
――勝手に諦めないで向き合ってよ。ちゃんと、私のことを見て
彼女は、泣いていた。泣かせたくなんか、なかったのに。
なんでた。なんでだよ。そう聞き返した自分の声は、嗚咽が混ざって震えていた。
――しょうがないよ。だって、好きなんだもん
それが、最後の堰を叩き壊した。蓋をしたはずなのに。鍵を閉めたはずなのに。いとも容易く鍵は外れて、蓋は開いた。とめどなく溢れてくるものを止める術は、何も無い。ただ感情の激流に身を任せることしか、できなかった。
――ほんと、世話が焼けるんだから
抱きすくめられて、頭部に手が置かれる。その手は上下して、壊れものを扱うようにそっと撫でられた。
彼女も。そして俺も。ただ子供のように泣きじゃくりながら、しばらく抱き合っていた。
あの日に見た、彼女の栗毛色の髪と泣きそうな笑顔を、俺が忘れることは一生ないだろう。
いくつか、変化があった。
フラッシュバックは、だんだんとなりを潜めていった。悪夢にうなされる数も、ゼロとはならなくとも、次第に減っていった。
そして、彼女は『おさななじみ』から『妻』になった。
◇◆◇◆
そろそろ日が落ちる。そのくらいの刻限にとんとん、とログハウスの戸がノックされた。その音に反応して、戸の方を振り向く。
来客とは珍しいこともあったものだ。ログハウスは、街から外れた山の裾野にある。わざわざ訪ねてくる人なんて、そうそういない。
いったいどこの誰だろう。郵便屋はついさっき配達に来たばかりだ。現に配達された手紙は手元にある。客人にしたって、こんな辺境に訪ねてくる物好きがそういるとは思えない。
「はいはい。すぐ行きますよ」
木製の椅子から腰を上げる。机の上に手紙を置いたまま、戸口へ。施錠を解除するや否や、待っていましたと言わんばかりに外側から戸が勢いよく開かれる。
「こーんにっちはー!」
ばたばたーっとログハウスへ栗毛色の風が飛び込んできた。真横をすり抜けてログハウスの中に入ってくる。
「これがログハウスね。うん、とってもすてき!」
栗毛色の風。その正体は、つい先日に花畑で会った少女だった。
「なんでこんなとこに来たんだ」
「おもしろそうだったから!」
思わず肩が落ちた。要件があるのか、という意味で尋ねたのだが、その意図は伝わらなかったようだ。
「知らない人の家に来たらいけませんって教えられなかったか?」
「しらない人じゃないよ? だってお花畑であっているもの」
さも当然のことのように言われても……。最近の子どもというのは、こんなにアクティブなのだろうか。
「ほかには、だれかいないの?」
「見てのとおり、小さな家だからね。住んでいるのは私だけだよ」
ほえー、とかふわあ、とかよくわからない音を発しながら少女が家の中を歩きまわる。ログハウスが珍しいのかもしれない。ぺちぺちと木を組み上げた壁をたたいてみたり、ロッキングチェアに揺られてみたり。
「これはなぁに?」
「手紙。こら、読もうとするんじゃない」
少女が中を読んでしまう前に、机の上から手紙を取り上げる。なんだかものすごく残念そうな顔をされたが、さすがに手紙を読まれるのは勘弁だ。
ひとまずの退避場所として、机の引き出しに手紙を滑り込ませる。さて、と顔を上げると今度は少女が暖炉の上にあったはずの写真立てをじっと見つめていた。手が届かないだろうと思っていたが、足りない身長は背伸びで補ったらしい。
「これがあなたの家族なの?」
「はいはい、勝手に見ないの」
ひょい、と写真立てを没収。目を離したらすぐにこれだ。本当にころころと気分の変わる生き物だ、子供というものは。
なんだか少し、懐かしい。
「女の子がいるのね!」
「もう成人してるから、女の子じゃないけど娘はいるよ」
まだ娘が子供だったころ、ちょうごこんな感じだった。天真爛漫で、気ままに振る舞って。そんな娘に、よく右往左往させられたものだ。
「ほら、君は帰りなさい。遅くまでこんなところにいるんじゃない」
「えー」
「えー、じゃないの。君の家族の人たちも心配するでしょ」
自分の娘がよくわからない男の家に遅くまでいると知ったら、心配するだろう。なによりも子供が大事。それが親という生き物だ。
少なくとも、まだ幼い娘がどこぞの馬の骨の家に上がり込んでいると知ったなら、すぐに自分は連れ戻しに行った。それはもう全速力で。
事情によっては、鋼鉄の左拳による文字通りの鉄拳制裁もやむなしだったかもしれない。振るうのは男に向けて、だ。
「むー。また来るね」
「はいはい。ちゃんとお父さんやお母さんに話をしてからにしなさい」
「はーい。またくるねー!」
戸を開けて出やすいように押さえておく。とてててー、と少女が街の方向に走って去っていった。次第にその姿は小さくなり、ついには栗毛色の髪も道の向こうに隠れた。
街に住んでいる子なのか。意外だ。どうにも浮世はなれした不思議な子なので、地に足のついた街に住んでいるイメージが持てなかった。
どちらかといえば、こういう山野のような自然に生きているタイプな気がする。
「ま、素直でいい子だとは思うけどね」
写真立てのガラスを袖で磨く。ほとんど付着していなかったものの、ほこりや指紋などの汚れが綺麗に落ちるまで擦り、再び暖炉の上に置いた。
妻と自分の間で、娘が咲くような笑顔を浮かべて写っている。娘が学校を卒業した時に撮った写真だ。
思えば、これが家族三人で撮影した最後の写真だった。
◇◆◇◆
――お父さん、まだー?
――もうちょっと待とうねー。お父さんがすぐに切り分けてくれるから
彼女と娘が楽しそうに話しているテーブルへ鼻歌まじりに丸い金型を運ぶ。パレットナイフを生地と金型の間へ慎重に差し込んで、金型から外していく。黄金色のシフォンケーキが現れると、おー! と見守っていた二人が歓声をあげた。
さっと切り分けて平皿に乗せて。彼女と娘の前に差し出した。
――召し上がれ
――せーの……
――いただきます!
フォークで一口サイズに切って口へ運ぶ。むぐむぐと口を動かして、こくんと喉が動けば頬に手を当てて悶えた。
ここまで、ふたりの動きにまったく違いはなし。
まるでシンクロでもしているかのよう。へにゃ、とゆるんだ顔まで一緒だ。親子だけあって、顔付きはそっくり。まるで子供のころの彼女と、成長した彼女が並んでいるみたいだ。
それにしたって、しぐさまで一緒になるとは。子は親に似る、なんて言うが本当に妻と娘そろってよく似ている。
――んー! やっぱりあなたのシフォンケーキは世界一ね!
――そりゃ言い過ぎだよ
――私の世界ではあなたが一番なのよ
いたずらっぽく跳ねる鳶色の瞳からふい、と視線を逸らす。顔赤いわよ、と頬を人差し指でつつかれた。うるせー。からかいやがって。
――おとーさん! ふわふわだよ、ふわふわ!
――そか。気に入ってくれたようでよかったよ
――おとーさんすごいね! たいへんじゃないの?
きょとん、と首をかしげて娘が指をさす。その先には、鋼鉄の義手。
義手でケーキ作りなんて細かい作業は大変じゃないの? ごくあたりまえの疑問だ。そんなところへ気づくまでにこの子は成長したのか。子供の成長っていうのは、想像しているよりもずっと早い。
――お父さんはね、ちゃんと練習したんだよ
――じゃあ、おとーさんはなんで
――あー…………
さすが子供。なかなか言いにくいことをずばりと聞いてくる。
お父さんが敵兵をぶっ殺していたら、砲撃の余波で左腕が吹き飛んだんだよ。そんな説明をいたいけな娘にするわけにもいかない。
そして、娘に人殺しだと思われたくない。
――それはね、お父さんはみんなを守るために戦ったからよ
――まもる、ため?
――そうよ。この国のみんなを守るため。お母さんも、あなたも、お友だちも
くしゃ、と娘の頭を撫でながら彼女が「でしょ?」とこちらへ流し目を送ってくる。
本当にいい女だ。自分には、もったいないくらいに。
――ならおとーさんのひだり手は、みんなをまもる手だ!
――そうね。みんなを守ってくれる腕よ
娘がぺたぺたと金属製の左腕を叩く。おそるおそる右手で頭を撫でてあげると、にぱっと娘が笑った。
慌ててシフォンケーキを口の中へ詰め込む。そして、こみ上げてきたものごと飲み込んだ。
ふんわりとした甘みと一緒に、幸せの味がした。
◇◆◇◆
朝から不穏な雲行きだった。
起き抜けから、義手の付け根が痛んでいた。こういう時、たいてい雨が降る。
もうじき私は雨を降らせますよ。空模様がそんな忠告をするようになった。さっさと忠言をありがたく受け取り、早めに洗濯物は取り込んだ。
そして、その判断は正解だった。
洗濯物を畳み終わるかどうかの頃合いに、バケツをひっくり返したような豪雨が降り始めたのだ。
この天気だと、あの子は来ないな。
そんな考えが頭をよぎり、ちょっと笑えた。「来るな」と言っておきながら楽しみにしている自分がいる。
「せっかく作ったけど、無駄になりそうだなあ」
キッチンで逆さまになっている金型を見やる。シフォンケーキだ。そろそろいい具合に冷めた時分だろう。取り外してもいいのだが、別に急がなければならないこともない。
もう自分も年だ。甘いものを食べるにしても、昔より量が食べられなくなってきている。久しぶりに、と思って焼いたシフォンケーキだが一人で食べるのは味気ない。
まあ、気が向いたら型から外すとしよう。この湿気だと、悠長にしていたらカビてしまいそうだ。さっさと食べてしまおう。
しかし、本当に雨が強い。まだ降り始めたばかりとはいえ、この様子だと夜も降り続きそうだ。
激しい雨音に戸を叩く音。風も出てきたのか。しかしそれにしては、ずいぶんと規則的な……
嫌な、予感がした。
いやいやいや。この天気だ。ありえないだろう。外は土砂降りだ。
一抹の不安を抱えつつ、戸を開けた。
「やっとあいた!」
「なにやっているんだ!」
手首を掴んで、家の中へいそいで入らせる。栗毛色の髪から水滴がしたたり落ち、いつもの白いワンピースも肌に張り付いていた。頭の先から何から何まで、全身ぐっしょりだ。
へぷしっとくしゃみをひとつ。体も冷えているらしい。
「ああ、もう! すぐにお湯を沸かすからこっちにおいで!」
「はぁい」
風邪をひいてしまう。だからこっちが心配しているというのに、当の本人はのんきなものだ。大急ぎで風呂場まで連れていくと、使い方だけ教えて戸を閉めた。
「きもちよかった!」
「体は温まった?」
「うん! でもぶかぶか」
「妻のものしかなかったから大きいけれど、服が渇くまではそれで我慢しておいてくれ」
ワンピースは濡れてしまっていた。なので着替えを用意しようと思ったのだが、持っている女物の服なんて妻のものしかない。
引っ越しの時に持ってきてしまったものだ。捨てることができなかったせいで、タンスの奥で眠ったままになっていた。
ぶかつくのはどうしようもないが、野暮ったい男物を貸すよりはいいだろう。
「あめ、やまないね」
「雨が弱まるまでは、ここで雨宿りしていくといいよ」
「そうするー」
向かいがわの椅子に少女は座ると、足をばたつかせる。暇を持て余しているようだが、中年のおっさんの家に子供が楽しめるひまつぶしなんてものはない。
いや、そういえば今だけはあった。
いい具合に冷めて、いまかいまかと金型から外されるのを待っているシフォンケーキが。
「ケーキは好きだったり……」
「すき!」
「お、おう」
思ってたより食い気味だ。そういえば昔、妻が「女の子はだいたい甘いものが好きな生き物なの」って言っていたっけ。そのことばを言われた時、もうすでに妻は「女の子」というには無理がある年齢だったが。そしてそれを言えば、だいたいぶっ飛ばされるのが相場だった。
「はむっ」
切り分けたシフォンケーキを少女が口へ運ぶと、右に左に少女が体をよじる。ふにゃふにゃにゆるんだ頬を見れば、お気に召したことはすぐにわかった。
「おいしい!」
「それはよかった」
「世界一おいしいよ!」
「それは言い過ぎかなぁ」
「でもわたしの世界でいちばんおいしいもん!」
「……そうか」
ずきん。
懐かしさが心に釘を打ち込む。咄嗟に被った笑顔の仮面で、その痛みは押し隠した。だが、窓ガラスに映ったその顔は、ひどくみじめだ。
「…………痛ぇ」
きしきし、と金属が軋む。雨の日はきらいだ。義手の付け根が痛む。
そして痛みは、いやなことばかりを思い出させる。
「いたいの? だいじょうぶ?」
「大丈夫、だよ」
「ケーキをつくる手は、だいじにしなきゃだめ!」
「そう、だね……」
これはケーキを作る手じゃない。そんなすばらしいものじゃないんだ。口をつきかけたその言葉は飲み込んだ。
これは、傷つける腕だ。
◇◆◇◆
その日は、朝から街へ出かけていた。
特別なことがあったわけじゃない。単純に買い出しだ。ストックが減り始めた日用品や、食糧品エトセトラ。そういった生活に必要なものを、ひとりで買いに行った。
そして、目的だった娘の進学祝いも購入できた。
ポケットの中に収められているプレゼントを触って確認。よし、ちゃんとある。落としてない。
懸念事項がひとつ。自分のプレゼント選びのセンスが、娘に受け入れてもらえるかどうかだ。
反抗期を脱したとはいえ、気に入らなければズバズバ言われるだろう。自分のセンスの問題とはいえ、娘に拒否されたらなかなかこう、くるものがある。
たっぷりと時間をかけて選んだのだ。そのせいで、夕方になってしまった。だが時間をかけた甲斐があっていいものを選べたと思う。
きっと大丈夫だ。うまくいく。
どんなタイミングで、どんなセリフと一緒に渡そうか。よろこぶ娘の顔が見られるだろうか。
鼻歌まじりの親バカじみた幸せな思考は、村が見えた瞬間に吹っ飛んだ。
村が、燃えている。
頭の中でアラームがやかましく鳴り響く。たんなる火事ではないことは、漂ってくる火薬の匂いですぐにわかった。
認識と同時に駆け出していた。手にしていた買い物袋が落ちて潰れたが、それにすら気づかない速度で走る。
無事でいてくれ!
ただ走った。娘と彼女の顔を頭に描き続けて。
のどかで平穏だった村は、地獄に変わっていた。
家々に火が放たれ、火薬の炸裂音が響く。軍属経験のある人間なら、その炸裂音が銃声だとすぐにわかっただろう。
襲撃だ。その結論を出すのは苦労しなかった。
――どうなってやがる……
足は止めずにあたりを見回す。『蓮浮かぶ湖の国』が攻めてきたのか。だが停戦条約は結ばれている。まさかそれを破って侵攻してきたのか。
――あなた!
聞き慣れた声に足を止めて振り返る。ちゃんとこの目で見るまでは、確信が持てなかった。
はたして、そこに彼女はいた。
栗毛色の艶やかな髪は煤に汚れ、鳶色の瞳は燃え盛る炎を映していた。服に泥は跳ねているし、小さな擦り傷や火傷はあるようだが無事だ。
――お父さん!
彼女の背中へ隠されるように娘もいた。娘も煤で汚れたりしたものの、大きな怪我はなさそうだ。
――ふたりとも無事か!
――ええ。私もこの子も怪我はないわ
――よかった……
――ただ家は燃えちゃったけど……
――家なんてまた建てればいい。とにかく何があったんだ。教えてくれ
――夜盗よ
ああ、と合点がいく。そして舌打ち。
こんな小さな村、軍を差し向けて襲うメリットなんてない。侵攻の拠点を置くなら、さっきまで買い出しに行っていた街に据えた方がずっといい。
夜盗どもにとっては手ごろだったのだろう。そこそこの大きさで、けれど派出所くらいしか防衛といえるようなものはない。
なるほど、銃火器で武装しているならば武器は十分。派出所の警官数人なら、頭数さえ用意できればどうとでもなる。格好の餌食、というわけだ。
――逃げるぞ。街へ行けば保護してもらえるはずだ
――わかったわ。走れる?
――うん、大丈夫
強い子だ。裾を掴む手が震えているし、ありありと目には不安が見て取れる。それでも言い切ったのだ、この子は。
――とにかく村から離れよう。街道まで出られれば大丈夫なはずだ
――あなたを信じるわ。行きましょ……
きっと「行きましょう」と言おうとしたのだ。だが、最後まで言葉が紡がれることはなかった。
急に目を見開いた彼女に引っ張られる。不意のことすぎてバランスを崩した。
転びそうな俺と、立ち尽くす娘。彼女はその全身を使って俺たちを覆った。
ぱん。
おもちゃみたいな音だった。生暖かいものが、顔にかかる。
じわり、と彼女の胸が紅く染まった。とめどなくあふれ始めたそれは、地面すらも紅く変えていく。
ごめんね。
言葉は、なかった。口が動いただけだった。
ゆっくりとくずおれていく彼女の体。そっと受け止めることしかできなかった。
――おかあ、さん?
おい、なにか答えてやれよ。娘が話しかけてるんだぞ。俺とお前の、かわいい愛娘だぞ。目に入れても痛くない、世界で一番の娘だぞ。
なんとか言えよ。「なんとか」みたいなふざけた答え方して、俺をおちょくれよ。なあ、おい。
返事、してくれよ……。
抱きしめても、力強く抱き返してはくれない。ただ、寄りかかっているだけ。心の臓も、鼓動を刻んではいなかった。
誰だ。どこの野郎が。顔をあげれば、彼女の肩ごしに下卑た笑い顔と硝煙の立ち上る拳銃。
――ハッハァ! 当たりィ! 次はガキだ!
認識した瞬間、なにかがぶちんと千切れた。
憤怒に滂沱した。
『銃弾は鋼の左腕で弾く』『距離を詰めたら掌底で黙らせる』『奪った拳銃で隣の男を撃ち殺す』
悲哀に戦慄した。
『他の夜盗を探す』『見つけたら戮した』『命乞いの暇も与えなかった』
自責に咆哮した。
『守ると誓った』『愛されていた』『愛してた』
殺せ戮せ壊せ毀せ潰せ崩せ滅せ消せ倒せ斃せ下せ絶やせ滅ぼせ亡ぼせ。
憎悪でぐちゃぐちゃに塗りつぶされた感情。ただひたすら目にうつる夜盗を、悔恨と激憤だけで蹂躙と暴虐の嵐に叩き込んでいく。
見つけては殺し、殺しては見つける。軍属だった経験は、思わぬところで生きた。
ごろつきくずれのような夜盗に、協調性などがあるわけがない。村の中でばらけて行動していたやつらを各個撃破していくのは、難しい話ではなかった。
気付けば呆然と立ち尽くしていた。屍が転がる中、返り血で全身を濡らして。
屍が足首を掴んだ。まだ息があったか。煩わしさを覚えつつ、銃口の照準をつける。
――どうして守ってくれなかったの?
屍は凄惨に嗤う。血で固まった栗毛色の髪を振り乱して。鳶色の瞳を狂気に血走らせて。
――どうしてあの子を守らなかったの?
ちがう。あの場では夜盗を潰すことが優先だった。
――うそばっかり。あなたは怒りに任せて殺しただけ。復讐心だけだった
ちがう!
――なにが違ぇんだよ?
屍の山から「ナニカ」が立ち上がる。額に穴を穿たれた屍。妻を撃ち、娘を手にかけようとしたものの骸。
――見事だったぜぇ。この俺をぶっ殺してくれた手際はよぉ。その後もたっくさんぶっ殺したよなァ?
けたけたけた。屍は呵う、哂う、嗤う。
――娘ェ守りてぇならさっさと逃げりゃイイ。ならその後も殺したのはなんでだろうなァ?
うるさい! だまれだまれだまれ!
銃を放り出して、屍の首を絞める。渾身の力を込めた。左の義手がぎしぎしと軋む。
――おマえの義手ハ守ル手ジャねェよ。
人ヲ、コロス手ダヨ
――やめ、て……おとう、さん……
か細い娘の声で、目が醒めた。
そして、驚愕した。
馬乗りになって、娘の首を絞めていた。苦悶に満ちた娘の瞳には、憎悪に目を血走らせた自分の姿。
あわてて飛び退った。けほけほ、と娘がのどをさすりながらせき込む。
――お、俺は……
――ご、ごめんね? お父さん、すごくうなされてたから心配で……
――だ、大丈夫か……?
――うん、私は大丈夫だよ。だから安心して
そんなわけがない。首には手の跡が、くっきりとあざになっていた。だというのに、娘は笑っていた。こちらを不安にさせまいと、なんでもないふうに振る舞ってくれている。
その気遣いがありがたくも、心苦しい。
余計な負担をかけてしまっている。すべては自分のせいで。
――また、あの時の夢?
無言でうなずく。幾度となく夢で見るあの瞬間。忘れることは一生ありえないだろう。
村が夜盗に襲われたあの事件以来、フラッシュバックは再発した。悪夢に悩まされ、まともに眠ることができないようになった。
そして、ついにはうなされていた自分を心配してくれた娘を、敵と勘違いして殺しそうになってしまった。
もう、一緒に住んでいることなんて、できなかった。
そして幸いにも、娘はひとりで生きていくことができる年齢にまで成長していた。
以来、娘には会っていない。
◇◆◇◆
「おってがっみでーっす!」
少女が手紙を片手に跳ねまわる。あいかわらず元気のいいことだ。けれどいつまでたっても届いた手紙を読めないのは、いただけない。
ひょい、と少女から手紙を没収。するところが、意外と素直に少女は手紙を渡してくれた。いつもならしばらく持っていかれたままになる。なのに今日はずいぶんとあっさりだ。
「それはね、しょーたいじょーだって!」
少しの逡巡。ああ、招待状か。ことばを変換するのに、ちょっとだけかかった。
こんな初老に片足を突っ込んだような中年に招待状。なんの招待状なのか、そして送り主は誰なのか。開ける前からわかっていた。
「あのね、けっこんしきだって! あなたの娘さんから!」
「うん、知ってるよ」
だから手紙は開けずにしまい込む。そのつもりで、引き出しを開けた。
その手を横合いから、少女がはしっと掴んで止めた。
「どうして読まないの?」
「内容がわかっているからだよ」
「行かないの?」
「行ったところでどうしようもないからね」
「でも、けっこんしきなのに?」
「……そりゃあ、まあ、行きたくないわけじゃない」
かわいい娘の結婚式。むしろぜひとも出たいくらいだ。娘を取られるようでちょっと悔しいが、個人的な理由でずっと放置していた父親だ。娘がきちんと恋して選んだ男なら、文句はない。
「じゃあ行こうよ」
「そうはいかないんだ。こんな腕じゃあ、ね。新郎の家族や招待客にどう思われるか」
新婦の父親が義手。それだけであらぬ推測を招くだろう。そして少し本腰をいれて調べればわかるはずだ。元軍人であること、そしてあの村でなにが起きたかということ。
片腕が義手の男が、夜盗をことごとく返り討ちにして虐殺した。その事実は隠しようもない。
娘の晴れ舞台、そしてこの先の明るい結婚生活に落とす影はいらない。
「だから、行かないの?」
「そう。行かないの」
「しょーたいされてるのに?」
「されているのに、だよ」
「こんなに、何通もきてるのに?」
開けたままになっている引き出しから少女が手紙を掴みだす。二、三通ほど出てきた手紙は同じ招待状。
「きてほしいってことじゃないの?」
「まあ、そうなんだろうね。でもあの子のためにならないから」
「目を背けているだけだよ、それって」
声から、温度が消えた。一瞬、それが少女の声かどうかわからなかったくらいに変質していた。舌足らずでもなければ無邪気でもない、突き付けるような声。
「勝手に諦めないで向き合って。ちゃんと、あの子のことを見てあげて」
ああ。
それはまるであの日、彼女に言ってもらったことばのよう。
こういう時の彼女は、どうしようもないくらいにまっすぐで正しかった。
そしてどうしようもないくらいに、こちらが抑え込んでいたものをあふれさせるのだ。
娘のため。そう言い聞かせ、我慢して押し殺した。そのはずなのに。
「君は……」
「なぁに?」
「……いや、なんでもないよ」
きょとん、と首をかしげる姿に、もしや白昼夢か何かだったのではないか。
少女は、妻と容姿が似ている。栗毛色の髪に鳶色の瞳。よくないとは思いつつ、つい重ねて見てしまっていた。それゆえの空目にも思えてくる。
はあ、とため息をひとつ。首を回して骨を鳴らすと、便箋を机に広げた。
「おてがみ、書くの?」
「まあ、ね」
虚構だったのか、現実だったのか。そんなことは、どちらでもいい。結局、自分は理由を欲しているのだ。
彼女がここにいたら、なんと言うだろうか。いや、悩むまでもないことだ。
きっと涙が出るくらいに腹を抱えるだろう。そして底抜けに明るい顔で笑って、言うのだ。
ほんと、世話が焼けるんだから、と。
◇◆◇◆
快晴。それ以外に、この雲一つない天気を表せる言葉はないのではないか。そう思えるくらいに晴れ渡る蒼穹の空が広がっていた。
鐘楼が鳴らされる。教会の扉が開いて、腕を組んだ男女が出てきた。ウェディングドレスとタキシードをそれぞれ着込んでおり、空模様と同じくらいに晴れやかな笑顔だ。
「いないなー。ぜったい、どっかにいると思うんだけどなー」
少女が一人、教会の屋根の上に座っている。栗毛色の前髪をかきあげるように手でひさしを作り、もう片手でワンピースの裾が捲れあがらないように押さえる。そして、口々に祝いの言葉を述べる集団を見下ろしていた。
「お、いたいた」
集団からほんの少し離れた場所。そこに左腕が鋼鉄の男性がいた。たんなる列席者ではなく、新婦の親としてだ。
「かーっ! 幸せそうな泣き顔しちゃってさぁ! まったく、変にうじうじ迷ってるヒマがあるならさっさと行動しなさいっての!」
ぱたぱたと両足を動かすたびに、教会の壁に踵がぶつかる。しばらくやっていたら、踵が痛くなってきた。うん、やめよう。あんまりやると、教会の人が何事かと思いそうだし。
「ま、それでもなんとかなったし、よかったよかった。私のボーナスタイム、そろそろ尽きそうだったのよね」
というか、目下絶賛消費中だ。カウンターが回っているかどうかは知らないが、もしもあるならばもうじきゼロになるだろう。
ぎりぎりだったけれど、間に合ってよかった。義手の男性と新婦を交互に鳶色の瞳が映して、少女が満足げに笑う。
「それにしたって、死んじゃってる人間にまで心配かけさせないでよね!」
ほんと、世話が焼けるんだから。
風が吹いて花びらが舞い上がる。白い鳩が一斉に飛び立ち、少女の姿が隠れた。
教会の屋根の上には、もう誰もいない。