これから会う君について

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Who?

 とくにいつもと代わり映えのない退屈な日常、それを変えようとも努力せずに、俺は一人で並木通りをゆっくりと歩いていた。

 蝉が鳴くには早すぎる季節。もう一月ほど先には鳴き始めるだろうけれども、いまはただ偶に通り過ぎる車の音がやけに大きく聞こえるだけだった。

 

 図書館にでも向かうつもりだった、金が少ない貧乏学生だから。財布は一応持っているけれど中身は千円ほどしか入っていない。

 携帯と財布、それに借りた本を入れるような空っぽの鞄だけを身につけてゆるゆると歩いていく。顔は下向きに――木陰に隠れながら進んでるとはいえ、日差しがほんの少しだけ優しくない日である。

 

「久しぶりだね」

 

 と声を掛けられたのは図書館の前にようやくたどり着いた時のことだった。慌てて顔を上げたのは、それが男の声ではなく麗らかな女性の声だったから。

 

 顔を上げて、相手の姿を見て、まずはじめに綺麗な人だなと思った。ショートカットにパッチリとした二重。ジーパンにTシャツととても女の子らしい格好とは言えなかったけれども、それが彼女の雰囲気とよくマッチしていた。

 

 世間一般に美少女と言われてもおかしくないだろう、けれども記憶の中には彼女の姿は見当たらない。

 彼女の容姿なら、一目見たら忘れなさそうだけれども。そんなポンコツの頭ながらも、とりあえず俺が取った選択肢は時間を稼ぐことだった。

 

「……久しぶりだな」

 

 しばらく時間を稼いで情報を引き出せれば彼女が誰だかわかるだろう。さっさと図書館に入って涼みたいところだけれども、彼女は全く動こうとしなかった。

 よって俺も彼女から逃げて図書館に入る選択肢は無くなってしまったわけで、そんな俺の顔をじーっと見つめて彼女は「ふむ」と呟いた。

 

「久しぶり、と言うからには私のことが記憶にあるのかな?」

 

 ない、とは今更言えなかった。それでも言葉に出さず、どちらとでも取れるようにと、微かに首を縦を振るに留める。

 それを見て彼女はニヤリと笑みを浮かべた。なんとなく嫌な予感した、図書館に逃げようと歩みを進める。

 

 それを彼女は見逃さない、横を通り過ぎようとした俺の目の前に日焼けとは無縁そうな白い腕が伸びた。

 

「悪いけど逃がさないよ、まだ話は終わってないからね」

「ここは暑いから図書館の中で話さないか?」

「ダメだね。君なら『図書館の中で静かにしろ』って言って、それ以上話すことを封じるつもりだろう?」

 

 図星かい? と言う声に返す言葉はない、まさにその通りだったから。

 俺の事をよく分かってるとは思うけれど、さっぱり彼女のことがわからないのがほんの少しだけ腹が立つ。

 

 数歩後退して、じっと彼女の顔を見つめる。

 久しぶり、と言ったからにはおそらく最近会ってない。と言うことは高校の知り合いではないだろう。

 要するに小学校、中学校の知り合いだろうか? 

 

 いや、でも、本当にこんな知り合い居たか? 

 

「では結構時間もあげたし、私が誰か答えてもらおうかな」

 

 頭の中で記憶をこねくり回しても、彼女の名前の一文字もわからないと言うのに、絶望的な問題だった。

 しょうがないと覚悟を決めて、一つ息を吸う。

 

「……あなたの名前は、あ行から始まりますね?」

「違うね、全く」

「ではあなたの名前はか行から始まりますね?」

「……もしかしてこれ、当たるまで続けるつもりかい?」

 

 呆れたようにため息をついて、やれやれと彼女は首を振った。そう言われても、こちらとしては皆目見当も付かないのだから仕方がない。

 

「まあいいさ、実際当たるはずがない問題だったしね」

「まだ俺が覚えてないと決まったわけじゃないだろ」

「覚えてないはずさ、だってまだ知らないんだから」

「……は?」

 

 彼女が発する言葉の意味がわからない。頭に疑問符が並んで、けれどもそんな疑問は次の言葉にすぐさま吹き飛ばされた。

 

「ほら、図書館に用があるんだろう? さっさと本を借りてくるといいさ。それが終わったらドーナツでも食べに行こう、お腹減っちゃったよ」

 

 ほら、行った行った。そう言いながらばしばしと背中を叩かれ図書館へと押し込まれる。

 振り返って彼女の顔を伺うも、逆光でよく見えない。

 なんとなく、図書館から出てきたらどこかへと居なくなってしまうような、そんな蜃気楼のような儚さが見えた気がして、胸が少しだけ騒めいた。

 

 ●

 

 そんな予感は結局、取り越し苦労だったのだろう。借りる本を手早く選んで、足早に外へ出てきてみれば、彼女はちゃんとそこに居た。

 ほっと息を吐き、何をやってるんだと心の中で自嘲する。

 

 バリアフリー用のスロープに設置された手摺に腰掛けて、思いを馳せているのか、どこか遠くをじっと眺めている。

 その姿に妙に見惚れてしまって、声を掛けることなく気づくのを待っていた。

 

「ん、結構早かったね」

 

 結局、その時間も長くは続かなかったのだけれども。手摺から軽く飛び降りて、ととっと前にたたらを踏む。

 

「本当に行くのか?」

 

 何を言ってるのか分からないと彼女は首を傾げた。まさか断られるとは思っていなかったかのように、当然のごとく決定事項とかしてるような、そんな雰囲気。

 

「私と一緒じゃ嫌かい?」

「別に嫌ではないけど、俺はお前の名前も覚えてないような奴だぞ?」

 

 白旗をあげる、どうやっても彼女の名前は思い出せそうにない。ならさっさと認めて、答え合わせでもした方が賢いと言うものだ。

 けれども、彼女はその言葉を聞いてううむと唸った。

 

「そこはさ、愛の力とかで奇跡的に名前を思い出すところだと思うんだけど」

「愛ってなんだよ、愛の力って」

 

 彼女がいた記憶もないし、そもそも告白した記憶もない。好きな人はいたけれど、それを告げる勇気もなく、有耶無耶に曖昧模糊に生きる日々だというのに。

 全く、今の俺からは一番遠い言葉。

 

「まあ、流石に無理か。それじゃ行こうか鈴木 翔さん」

 

 何を納得したのか。こちらはなんの情報も得られてないというのに、彼女は自分の名前を明かすことなく、ちゃんと俺の名前を言い当ててから、すたすたと歩き始めた。

 

「名前は教えてくれないのかよ」

「楽しみは最後にとって置くものだよ、もしかしたら奇跡的に思い出すかもしれないだろう?」

 

 別にショートケーキの苺は真っ先に食べるタイプだし、おかずは最後にとって置くべき派でもない。どうやら相容れない運命のようだ。

 まあ、ここまで来たらドーナツ食べるまで帰る気はなくなっていたのだけれど。彼女に先導されながら、その影法師を踏み踏み歩いていく。

 

「図書館とドーナツ屋がそこそこ近いのって、やっぱりとても便利だと思うよ」

「まあ、文無し高校生には出費がきついからほとんど行かないけどな」

 

 たしかにドーナツ屋は近くにあるけれど、今日寄るつもりは全くなかったと言うのに。

 千円あれば足りないことはないが、あと一週間をこの金額で乗り切りつもりだったと言うのに、かつかつに出費を切り詰める羽目になるのは確定していた。

 そんな内心を知らず、ふんふんと気分よさげに彼女は鼻歌を歌っている。

 

 不意にその鼻歌が止まり、彼女は足を止めた。

 それに習い自分も足を止める。ドーナツ屋まではまだ半分ほど道を残しているから、何かあったことはほぼ間違い無い。

 

「鈴木君は、あの病院知ってる?」

 

 名字を君読みで呼ぶ人とかヒットする範囲が多すぎるし、全くヒントにはならないのだけれども、それをおいといて彼女が指差す方向を目で追う。

 

「まあ知ってるけど、自分は行ったことないな」

 

 市で一番大きな病院がそれだった。

 けれども自分は運がいいことに、大きな怪我や病気には無縁だったから世話になったこともない。

 健康なことだけが取り柄、とは言わないけれど自分の長所の一つではある。

 

「もしかしてあの病院に入院していたのか?」

 

 そうカマをかけたのは、彼女の透き通るような白さもあった。ほとんど外に出歩かないような、そんな色。

 ほぼほぼ確信はあった。今まで長い間入院していたのなら彼女の見覚えがない事の説明にもなる。

 問題は一つだけ、自分の周りに入院したという話を聞いたことがないということだ。

 

「うーん……入院していた。というのは確かだし、今は退院したのも事実なんだけど、でも今も入院しているというのもまた本当なんだよね」

「どういうことだよ、意味がわからん」

 

 煙に巻くような言葉を並べられて全く意味がわからなくなる。今も入院しているというのなら、目の前にいるお前は何なんだ。

 とりあえず携帯を取り出して、番号を打ち込み始めたところで慌てて彼女から声が飛んだ。

 

「あらかじめ行って置くけど、脱走したわけじゃないからね」

「成る程、ちょっとだけ安心した」

 

 半分ほど打ち込んだ番号を消して、再びポケットにしまいこむのをジトーッとした目で彼女は見ていた。

 まあ全く悪びれることはないのだけれども、意味がわからない言葉を発する方が悪い。

 

「とりあえずあの病院の事は覚えておいてよ、きっと必要になるからさ」

「その情報が必要になるときは大体手遅れになってそうだけどな」

 

 その言葉を聞いて、彼女は必要になるのはそのシチュエーションでは無いんだけどなぁと笑った。

 

「とりあえず先へ進もうか。RPG的な縦列じゃなくてちゃんと私の隣を歩いて、さ」

 

 ●

 

 

 ドーナツ一個にお代わり無料のカフェオレ一つでアッサリと400円が飛んで行った。残り600円、なんとも心もとない額である。

 400円あれば牛丼の並が買えるし、インスタントラーメン4個分だというのに。

 そうスパスパと言い放ってまた一口、彼女はドーナツを齧った。

 

「――なんてことを君は考えてるんじゃないかな?」

「大変よく分かってらっしゃる」

 

 ドーナツにパクつきながらなんでもない事のようにこちらの心を見透かしてくる。心を落ち着かせるためにカフェオレを一口飲み込む、甘味が心に染み渡る。

 

「というか鈴木君はコーヒーはブラックで飲むタイプだと聞いてたんだけど、やっぱりそれはカッコつけだったんだね」

「ゴフッ!?」

 

 気管の変なところに入り込み、思わず噎せる。安らぎとは何処へやら、視界が微かに涙で滲んでいた。

 

「……そんなこと言ったか?」

「言ったね、間違いなく。ブラックコーヒーも飲めないような奴は馬鹿だとまでこき下ろしてきたから忘れることはないよ」

 

 熱いのは嫌いらしく彼女はアイスコーヒーを頼んでいた。ストローで氷をカラカラとかき混ぜている。別に出来立てというわけではなくポットに入ってたから程良いぬるさだし、なんなら一気飲み出来るぐらいの熱さだけども。

 

「全く記憶にない、すまん」

「いや別にいいんだよ、それもまた今となってはいい思い出だしね……それを共有できないことはほんの少しだけ寂しいけど」

 

 やっぱり気にしてるじゃないか、そう思いながら最後の一口を食べる。

 一個だけしか買ってないから食べるのもあっという間。彼女は三つにこちらは一つ、全くどっちが女の子らしいと言えるのか。

 誘いをかけたのも彼女だし、どちらかといえばエスコートされた側だし、食べる量も逆転している。

 

「君はその量で足りるのかい?」

「なかなか低燃費な身体をしてるから大丈夫だ」

 

 せめてもの威厳を保とうとキリッとした顔でそう言って、それを遮るようにお腹の音がグーっとなった。

 プッと彼女が噴き出すのを堪え、肩を震わせるのをみても、今さら後には引けずただただ胃へとコーヒーを流し込む。

 

「ふふっ……いや、ごめん、笑うつもりはなかったんだ」

「何かあったのか?」

「今更何にもなかったかのように押し通すのは流石だよ、ホント」

 

 そう言いつつ齧りかけのドーナツをこちらに突き出してくる。

 

「あげるよ」

「いいのか?」

「全部はダメだけどね、一口だけ」

 

 君と違って私は燃費が悪いんだと彼女は微笑んだ。

 間接キスになるんじゃないかと思ったけれど、それを気にしてる様子はなかったから、俺だけがそんな事を考えてるのが少しだけ嫌だった。

 砂糖でコーディングされたチョコドーナツ、それを身を乗り出して一口だけ貰う。

 

「……美味しいな」

「それは良かった」

 

 それっきり何事も無かったかのように彼女は食事を再開した。なんとなくそれを眺めていると、視線がぶつかった。

 目が合ったのは数秒ほどだった。恥ずかしそうにはにかんで、ふっと顔を逸らされる。

 あ、これは不味い。

 

 ガタリと音を立てて立ち上がり、一言だけ。

 

「ちょっとトイレに行ってくる」

「あ、ああ。行ってらっしゃい」

 

 いきなり立ち上がった俺をなんだなんだと見つめながらも、自分の言葉を聞くなり小さく手を振って送り出す。

 彼女の視線を背中に感じながらトイレへと駆け込んで、用をたす事なく真っ先に手を洗う。

 覗き込んだ鏡に映る自分の顔は心なしか、ほんの少しだけ赤くなってるように見えた。

 それを元に戻そうと顔に水を掛けて、ふっと一息吐く。

 

「誰なんだよ、お前は」

 

 その言葉に答えは返ってこない。

 彼女に会っていたのなら、絶対に忘れないだろう。でもその記憶が一欠片も見当たらないのだ。

 でも彼女は確実に俺のことを知っている。それが全く、わからない。

 ハンカチで顔と手を拭きつつ、必死に記憶を漁る。思考を練る間に顔の色はいつも通りになっていた、答えは全く見つからないけれど。

 

 答えは無い、けれどもずっとトイレに篭っているわけにもいかず。意を決して机に戻ってみれば彼女はドーナツを全て平らげて、優雅にコーヒーを味わっていた。

 

「ん、おかえり」

 

 適当に頷きを返しつつ、鞄を手に取る。もし彼女が俺に対してタチの悪いイタズラを仕掛けているのなら、真っ先に触られているだろう物。

 しかしながらとくに触られた様子もなく、中には借りてきた本がしっかり二冊収まっている。

 

「借りてきた本でも読む気かい?」

「ん、まあな」

「目の前に女の子がいる時ぐらい本読むのをやめた方がいいと思うんだけど……まあ、いいさ。確か借りてきた本は『桜の園』と『死せる魂』だったっけ」

 

 ピタリと本を取り出そうとしたところで動きが止まる。それは、借りてきた本の名前はまだ一言も口にしてないのに、なぜ彼女はそれを知っている? 

 

「いいリアクションだね。どうして自分が何を借りたのか私が知ってるのか、不思議だろう?」

「……鞄、いない間に勝手に触ったのか?」

「まさか! 私はそんなことしないさ、そこまで下品な真似をするはずがない」

 

 ただ知ってるだけだよ、そう言いながら彼女はコツコツと自分自身の頭を小突いた。

 

「ただ知っていたんだよ。君が今日、なんの本を借りるか」

「あり得ない、適当に本を選んだだぞ」

 

 彼女を待たせないように、足早に選んだものだというのに。少なくとも借りる本を事前に決めていたなんて事はない。それこそ未来を知っているのでなければわかるはずが。

 

「さて答え合わせと行こう。私の名前は小田 (ふう)、はじめまして鈴木 翔さん」

 

 彼女は淡々とそう言った。

 

 ●

 

 

 私は未来人である、そう面と向かって大真面目な顔で言われて、本当に信じる人が幾らいるだろうか。ほぼ間違いなく全員がこいつは正気ではないと言って終わるだろう。

 なるほどねと適当に頷いて、適当に縁を切る。

 これが正しい処世術、けれどもその言葉に証拠になりうるものがあるなら別だ。もしかしたら鞄を見たのかもしれないけれど、半信半疑とはいえまじめに聞かざるを得ない。

 

 そしてそんな未来人様からお前はもうすぐ死ぬ未来だ。そう言われた時、俺はどうすればいいのだろうか? 

 

「まあ、その未来はおそらく回避されただろうけどね」

 

 未来人たる小田 風さんからそんな風に太鼓判を押されても、なんとも実感がわかないのだけれども。

 とりあえずカフェオレのおかわりが注がれたコップを口に運ぶ。

 

「……こういう時ってどうすればいいんだ?」

「うーん、とりあえず喜べばいいんじゃないかな?」

「……そうか」

 

 と言われても万歳三唱する気にもなれない。

 死ぬ、死ぬはずだった。ならば俺はどうして死ぬことになったのだろうか? 

 小田さんに尋ねてみれば、躊躇いもなく気軽に話しはじめた。

 

「君は図書館からの帰り道に運悪くトラックに轢かれる予定だった。横断歩道を渡ってる時に、信号無視のそれにね」

「そりゃ死ぬだろ、即死だな」

「ところがどっこいそうは問屋が卸さない。君が運良く、いや運悪く生き残ってしまったんだ。病院が近くにあったのも一因だったろうね」

 

 まあ流石に無傷とはいかず、下半身不随という重傷を負ってしまったわけだけど。そんな言葉を聞きながら生きてるじゃん、死んでないじゃんと内心思っていた。

 

「私が君に会ったのはそこなんだよ。あの病院の廊下でたまたま出会ったんだ、そして今の私はあそこにいる」

 

 俺が彼女のことを知ってるはずがなかった、だってこれから出会う予定の人なのだから。事故に合わなければ接点など何処にもない二人だ、知るはずがない。

 

「歳は同じだった。話も弾む、話し相手がほとんどいなかったから2人の仲が良くなるのもまた必然だった」

「……もしかして付き合ってたりとかは?」

「無いね、全く無い。あらかじめ断言しておくよ」

 

 思い切りブンブンと手を振り全力で否定され、ほんの少しだけ凹む。でも、まあもし付き合っていたのなら同姓同名の別人に違いなかった。そんな勇気は持ち合わせていない、その意気地の無さは紛れもなく俺だろう。

 

「……それで?」

「自分で言うのもなんだけどね、私は結構重病でいつ死んでもおかしくなかったんだ」

 

 そう言ってなにやら難しい病名を告げられるが、全く頭に入ってこない。

 少なくとも自分の知らない病気だろう。

 

「死ぬのが怖かった、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えて生きていくのがどれほど心をすり減らすか。いっそ死んで楽になりたいと思った、けれども病室から地上を見下ろすたびに生きたいって思って、その繰り返し」

 

「それでもほんの一抹の明かりが君だったんだ、話してる時だけ終わりから目を逸らせることができた」

「……はあ」

「まあ君と、あり得た未来の君とは違うんだけど」

 

 多分、これも自己満足なんだろうね。そう言いつつコップに入ったストロー回すが氷はすっかり溶けていて、なんの音も響かない。

 

「あの日借りて読む予定だった本も、ブラックコーヒーの話も病院で話したこと。もう一つ付け加えるならドーナツでも食べに行こうと約束したんだ、私の病気が治ったら、病院から出れるようになったらって」

 

 結局、その約束は果たされなかったんだけどね。

 

「ある日の事だった、主治医から呼び出されて病気が快方に向かってると言われたんだ。こんな事奇跡だ、そう言われた」

 

 喜んだよ、当然。そう言う彼女の目は全く喜んでいるようには見えなかった。ドーナツを食べに行く約束が果たされなかったと言うことはつまり。

 

「当然、君に報告した。隠すことはないと思ってた、喜んでくれるだろうってね。私は他人のことを考えてなかった、君の気持ちを全く」

 

 そうして、彼はあっさり死んでしまった。

 

「自殺か、事故死か、本当のことは分からない。事実だけ言えば、君が深夜に自分の病室から地上に落下した、ただそれだけのこと」

 

 そうして前の通り、寂しい日が戻ってきた。

 病気は治り、退院して、一人が居なくなろうが世界はゆっくりと回っていく。

 

「私に取って君は灯火だったけど、逆もまた然りという訳ではなかったんだ。私は君が生きるための希望にはなれなかった」

 

 どうすれば良かったんだろう。ハッピーエンドは何処にあったんだろう、彼女のその言葉に返す言葉は見つからない。

 何処にもそんなものはない。そういうのは簡単だけれども、あまりに救いが無いじゃないか。

 

「考えて、考えて。思いついたんだ、君が事故に合わなければ、こんな未来は防げるって」

「過去を変えるなんて不可能だろ」

「一度奇跡を起こしたんだ、二度起こすのも変わらない。だから、そして、私はここにいる」

 

 ふと、未来が変わったらここにいる彼女は何処へ行くのだろうと思った。タイムパラドックス、今の彼女が成立しないのではないか? 

 俺の考えをよそに、彼女は何処からともなくペンと紙を取り出して何かを書き始めた。

 

「私が今できる限界は、君を助けることだけだから」

 

 手渡された紙には番号、部屋番号だろうか。

 カチッと歯車が嵌る音がした。途中で通りがかった病院、おそらく今の彼女がいるであろう場所。

 

「そろそろ分岐点なのが分かるんだ。気づいたら図書館前にいて、君がやってきてから、これをやってはいけないという本能を無視して逆を選び続けてきた」

「怖く、ないのか?」

「怖いに決まってる。でも私は、君が居ない未来の方がずっと嫌だ」

 

 献身。少なくとも俺は彼女を助けては居ないし、その君と違うことを彼女は分かっているはずなのに。

 それは願いというより、どちらかといえばそれは――。

 

「これはお願いであり、呪いなんだろうね。君が彼になって欲しいっていう。身勝手だとわかってる、独りよがりだとわかってる、それでも君を縛らずには居られない」

「……出来る限り、頑張るよ」

「らしいね、それは。やっぱり君は君だ」

 

 きっと今日の話をすれば、私は食いついてくるだろう。私のことだからよくわかる。彼女はそう言った。

 やりたいことを全部終えて気が抜けたのか、彼女は手をグーっと上に伸ばした。

 

「……どうなるんだろう。もう時間がないってことはわかるんだけど、いきなりパッて消えちゃうのかな」

「バラバラの肉塊になるのは、トラウマになるから勘弁してくれ」

「まあそれは流石に困ると思うけど、無いと思うよ。多分」

 

 そう言いながら彼女はこちらへと手を伸ばした。

 

「握手でもするのか?」

「いや、もうちょっと顔を前に出して欲しいなって」

 

 言われた通りに身を乗り出すと、いきなり目に手を当てられた。何も見えない真っ暗闇、彼女の息をする音がやたら近くで聞こえた気がして。

 

 唇にとても柔らかいものが当たる感触がした。

 

「貴方の事が好きでした、翔さん」

 

 言葉を返そうとした瞬間、いきなり視界が開いた。

 二人がけの机にトレーが一つだけ、まるで初めから一人だけだったかのように、対面には誰も居ない。

 

「白昼夢……か」

 

 独り言を呟やき、ふらふらとトレーを返却口に返して外へ出る。ふと思い出してポケットを漁ると紙の感触があった。

 

 

 

 どこか遠くでパトカーが走る音がした。

 

 ●

 

「と、まあこれが昨日の出来事だ」

 

 翌日、病室にて。

 1人っきりの部屋を割り当てられていた彼女は、自分の話に一度も言葉を挟む事なく聴いてくれた。

 昨日のカジュアルな服装では無く、当然病人服ではあるけれど間違いなく同一人物だろう。

 

 あのあと、不思議なことに風が残した走り書きのメモから番号は綺麗サッパリと消えて、真っ白い紙だけが残された。

 幸いなことに記憶から消されることはなかったけれども、その存在したという証拠を残さぬように、彼女の存在とともに消えてしまった。

 だから俺の言葉を証明するものは何一つ無くなって、気狂いの世迷い言と捉えられてもおかしく無いだろう。

 

「……面白い話だね、でも到底信じられるものではない」

「別にいいさ、この話を信じようが信じまいが俺には関係ないんだ」

 

 それでも律儀にやってきたのは約束があったから。

 昨日会った彼女は、今日目の前に居る彼女とは違う。昨日の彼女があり得た未来の俺と、今いる俺とは違うと断じた通りに。

 

「つまり鈴木君、だったっけ?」

「あぁ」

「鈴木君の話によれば奇跡的に私の病気が治って、その未来を投げ打ってでも助けたい相手が君だと言うことになるじゃないか」

「……そうなるな」

 

 はたして俺にそこまで価値があるのか、全く信じられないけれど。彼女を構成する1ピースになり得たということは、それなりに俺も頑張っていたに違いなかった。

 結局、理由はわからないが死んでしまったのは確かではあるが。

 

「顔ははっきり言って普通、特段頭がよさそうに見えるわけでも、運動神経がよさそうでもないのに」

「冴えないやつで悪かったな」

「ああ、ごめん。貶すつもりはなかったんだ」

 

 あまり人と話す機会が無くてね、そう言ってちくりと言葉の針を刺してくる。

 

「まあ信じることはできないけど、信じてみたいとは思うんだ。君と話すのは不思議と初めてとは思えないんだ、何回か同じようなことがあった気もする」

「念の為、これからは詐欺師に騙されないように気をつけてくれ」

「失敬な、三途の川のほとりに立ってるような奴を騙す奴なんていないよ」

 

 病人の自虐ネタを無表情でやり過ごす。

 というか普通に騙すし、世間一般的に騙されやすい種類だろう、追い詰められた人間というものは。

 

「未来は変わって、君は入院することはなくなった。ということは私はこれからどうなるんだろうね、病気は本当に治るのかな?」

「治る、と思う」

「そこは断言するところだろう?」

 

 残念なことに俺は未来を見通すことは出来ない。出来たとしたら交通事故に遭うことはなかったのだから。

 できることは彼女の未来がいい方向に向かうようにと祈ることだけだ、いるかも分からない神様に対して。

 実際、どちらかといえば昨日の彼女の方が神様より神様らしかったに違いなかった。

 

「……でも、限りなく前の状況に近づければ」

「今から車に轢かれてこいと?」

 

 流石にそれは可哀想だと彼女は苦笑した。

 

「じゃあこうしよう。君は明日からお見舞いに来る、私の病気が治るまで」

「病気がいつまでたっても治らなかったとしたら?」

「そんなことを今から考えるなんて縁起でもないよ」

「……そうだな、きっと治るさ」

 

 自分の言葉なんて、それでもきっとその言葉が彼女の支えになれば良い。話すこともなくなって席を立つ。

 

「じゃあ、また明日」

 

 言葉は返ってこない。しかし、扉を開ける直前になってようやく彼女の声が聞こえた。

 

「最後に、改めて自己紹介しない?」

 

 それを断る理由もなく、病室に入ってきたときに一度もう済ませていたけれども。

 

「はじめまして、小田 風です。今後もよろしく」

 

 ほんの少しだけ考えて、首を振る。

 

「はじめまして、鈴木 翔……です。願わくば長い関係になるように」

 

 どうにも短い時間では上手い言葉が思いつかなかったから、明日また会うときに改めて自己紹介をさせてほしい、そう思った。




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