朝起きると潮風が肌身に沁みる。
生れながら海の上で暮らしてきて、友達もいなかったから身嗜みを気にしたことがなかった。
そんな横着が祟ってか、いつも朝起きると髪はボサボサで櫛を通した程度では直ってくれない。バシャバシャと水を流して寝癖を直しても、髪が乾く頃にはくるんと跳ね上がる。遺伝か呪いか、ああもう、と中途半端に身嗜みを整えてから家を出た。朝は早い、部活動に熱心な生徒くらいしか道を歩くものはおらず、なにかしら眠たそうだったり、面倒臭そうだったりしている。
そんな朝の日差しに晒されても私、秋山優花里は気分爽快で前を進んだ。途中、通学路から道を外れて、森の中に足を踏み入れる。
そこにあるのは野晒しにされていたⅣ号戦車D型。既に錆び取りは終えており、剥げた塗装も塗り直しているので見てくれだけは新車同然だ。ただ素人の修理では細かい箇所を修理するのは難しくて、勉強しながら、そしてお小遣いで工具や部品を少しずつ買っていたから随分と時間がかかってしまった。
修理完了の目処が立ったのは数日前、そして今日は卒業式だった。
「天江殿、もう準備はできてます?」
車体を叩くとガバッとハッチを開け放った。
「準備万端も万端、待っていたところだよ!」
子供と見間違えてしまうような小さな体の同級生、私の友達。名は
「さあ、乗り込んで、乗り込んでよ!」
「わかりました!」
もう何度も乗り込んだ戦車、ハッチを開けて素早く潜り込んだ。
この金属質で妙に圧迫感のある空間にも慣れたものだ。最初こそ興奮したものだが、今では乗り慣れて落ち着いている。それでも戦車の中に入る時の高揚感は今でも薄れることはない。なんとなしに中を見渡す。私も整備は手伝っているので彼女程ではないが詳しくなっている。少なくともメンテナンスをする程度であれば、何処を見て、何処をどう弄ればいいのか分かる程度には知識が付いていた。座り慣れた砲手席に腰を下ろす。先程まで操縦席に座っていた天江は狭い戦車内をするするっと猫のように動くと私の膝の上にちょこんと座る。そして背中越しに身を寄せて、後ろ向きに私のことを見上げてくる姿は猫のようだと思った。
「もう弾は込めてあるよ」と天江が悪戯っぽく笑ってみせる。
今回、私達は有り体に言えば、馬鹿なことを計画している。
高校一年目の学園生活のほとんどを天江と一緒に過ごしてきた私に見送りたい先輩はいなかった。だから卒業式にも参加するのは面倒になって、でも参加しないというのはなんとなくいけない気がする。生涯で何度も体験できないことだから、と意味もなく、文化祭や体育祭、卒業式と出席する。別に誰かと仲良くするわけでもなく、クラスに愛着を持っているわけでもない。でも、参加するのが当たり前だからという理由だけで参加していた。天江と過ごす高校生活は楽しくて、文化祭や体育祭に参加することは苦痛ではなかった。でも、これが自分と関わりのない先輩を見送る卒業式となれば、途端に面倒に思えてきたのだ。
そんな私のことを気遣ってくれたのか、天江が馬鹿なことを計画した。そして私は戸惑いつつも承諾する。
私は独りぼっちでいることが多かった。それは単純に人付き合いが苦手だったから――でも、それは独りが好きという意味ではない。独りの方が楽だから、という意味では決してなかった。ずっと友達を求めていた、そして色んなことを話したり、遊んだり、時には馬鹿やってみたりしたかった。言ってしまえば、私は青春に飢えていた。
だから、こんな馬鹿なことにも乗り気になってしまったのだ。
「先輩達の門出だ、祝砲を上げようッ!」
卒業式が終わる頃合いで「行きますよ!」と意気揚々と引き金を引いた。
砲口は海に向けた。海兵がラッパを吹き鳴らすように、顔も覚えていない先輩方の門出を祝って砲撃する。強い衝撃、大きな砲撃音、車体が大きく揺れる。確かに砲弾が発射された感触、初めて感じた未知の感覚に私は惚けて、そして実感として残っている両手を握りしめて、歯を食い縛るように余韻に浸る。
私達は今、確かに戦車に乗っている。これは祝砲だった、これは門出を祝う砲撃だった。でも先輩方に向けてではない。きっと私達の戦車道が本格的に始まる。
これは私達の門出を祝うものだったのだ。
「良いね、うん、凄く良いよ」
天江が目を閉じて、私の体に背を預ける。
なんとなしに、その小さな体を後ろから優しく抱きしめる様に彼女のお腹に両手を置いた。少しの休息、静寂の中で穏やかな時間を堪能する。なにかを話すわけでもなく、誰かに邪魔される訳でもない。鋼鉄の装甲に守られながら、ウトウトと瞼の重みに目を閉じる。寝息に似た二人の呼吸音だけが入り混じる、安堵しきった空気に気を緩める。
このまま少し眠ろうか、そんな時――ガンガンと戦車の装甲を叩く音がした。
「こらーっ! 風紀委員よ、中に入っているならさっさと出てきなさい!」
若干、寝惚けている頭で慌ててハッチを開けるとおかっぱ頭の女生徒が私のことを睨みつけてきた。
「貴方達、名前は?」
「はい、秋山優花里です!」
「……潔いわね、そっちの子は?」
「ん〜、天江だけど?」
私の懐から天江が目を擦りながら答える。
「下も!」
「美理佳だけど?」
「秋山優花里と天江美理佳ね、貴方達を今から……ん、ちょっと待ってなさい」
おかっぱ頭の女生徒がスマホを片手に誰かと連絡を取り始める。
「ええ、はい。今、目の前にいます。秋山優花里と天江美理佳の二人です。……えっ、本当に? はいはい、分かりました」
電話を終えたのか彼女はスマホの画面を指先で弾き、そして私達の方に改めて向き直って口を開いた。
「生徒会長が貴方達を呼んでるわ、今から行くわよ」
「え?」
抵抗は許されなかった。
†
生徒会役員室、陸にある高校では考えられないほどに広くて豪華な部屋だ。
それもそのはずで、此処には学園艦を運用するのに必要な情報が纏められており、艦上都市に関わる資料も置かれている。一生徒が活用するというよりも、企業の社長室のような印象に近かった。そして目の前の豪華な執務机に座るのは茶髪でツインテイルの女生徒、彼女のことは私でも知っている。
県立大洗女子学園生徒会長、角谷杏。あまり良い噂を聞かない人物ではあった。とはいえ今まで壇上でしか見たことのない人物であり、彼女の為人についてはほとんどわからない。とりあえず連行された私達は、生徒会役員に――主に片眼鏡を掛けた役員から―質問攻めを受けることになった。隣でぽけっとしている天江の代わりに言われるがまま、洗いざらいの全てを吐いた。そして接客用の机で作業をする一見、大人しめのポニーテイルの役員からは咎めるように睨みつけられて、片眼鏡からはガミガミと説教を受ける。
生徒会長の角谷は「流石に実弾を飛ばしちゃうのはね〜」と苦笑を浮かべていた。
「とりあえず戦車は没収させて貰うよ〜、あんなことをした後だから仕方ないよね? あと自宅謹慎一週間、しっかりと守んなよ」
「そ、そんな……一応、海に向けて発砲しましたし……」
「海に船があったらどうするつもりだったんだ。今回は何事もなかったから良いが、もし被害を出していたら学園艦に居られていなかったところだぞ」
片眼鏡の正論に、むぐっと口を噤むしかなかった。
折角、修理して手に入れた戦車を手放さなければならないことに胸が締め付けられるようだった。調子に乗り過ぎた、やめておけばよかった。と今更になって後悔する。もう手遅れなのに、と目元が熱くなって視界が歪んでくる。
天江は大丈夫だろうか。隣にいる友達を見ると、彼女は意外とあっさりした様子だった。
「そういえば、あれ、修理したのはどっちなのかな〜?」
「二人で、かな。優花里と私で一緒に勉強して、お小遣い貯めて、数ヶ月かけて修理したんだよ」
「そうなの?」
会長が私の方を視線を投げる。
「て、手伝ったのは本当です。でも戦車の構造に関する知識は天江殿の方があります」
「違うよ、優花里と二人三脚で頑張ったんだ。そこを履き違えないでよ」
「う、嬉しいですが、実際、知識量は天江殿の方が……」
「関係ないって、どっちが上とか偉いとか私達にはないんだからさ」
ふん、天江が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「まあどっちでも良いんだけどね〜、そんなに戦車が好きなんだ?」
「優花里と一緒だから戦車が好きになったんだよ。私一人だと、たぶん、ここまでじゃなかったね」
「はわ、ひゃっ? あ、天江殿?」
片眼鏡がわずかに表情を引き攣らせる。
ポニーテイルの役員が口元を上品に手で隠して、あらあらと目元を細める。
会長の表情は変わらず、天江は居直るように胸を張っていた。
「それで何時まで待てば良いの? 入学式の後には返してくれるのかな?」
不意に天江は頓珍漢なことを口にする。
「なにを言っているんだ、お前は! ちっとも反省してないじゃないか! 会長の慈悲というものがだな……」
「……桃ちゃん、ちょっと黙って」
角谷は片眼鏡の役員を止めると、前のめりになって、じっと天江のことを見つめる。
「どうしてそう思ったの?」
「なんとなく? 状況からそう思っただけ。だって私達に興味がなかったら呼び出さないはずだし、今の質問も私達の価値を確かめる為でしょ? まあ私は戦車道ができるなら、どうだって良いんだけどね」
「その話はまだ公表していないはずだぞ!」
片眼鏡の役員が声を荒げた。
会長は僅かに目を細めて、ポニーテイルの役員は溜息を零す。
そして天江は肩を竦めてみせた。
「戦車道、復活するんだね」
「そだよ〜、でも随分と確信を持っているみたいじゃない?」
会長の探るような質問に、天江は素知らぬ顔で答える。
「だって大洗に戦車道があるのは当たり前じゃんか」
「どういうこと?」
「ない方が不自然だし……ああでも、急だよね。なにかあったの? 普通、準備くらいはしてるはずだよね?」
さあ、どうだろうね。と会長が前のめりになった体を背凭れに戻す。
天江は少し考えた後に、ふと思いついたように口を開いた。
「無理にでも、そうせざる得なかった理由って考えると……ああ、なるほど。学園艦を守る為か、そうなると廃か……」
「なぜ、お前が……っ!」
「桃ちゃんっ!!」
ガタッとポニーテイルの役員が席を立った。それを会長が手で静止する。
片眼鏡の役員が、なにかをやらかしてしまったような顔を浮かべていた。
「ごめん、秋山ちゃん。ちょっと退室してくれないかな? 少し天江ちゃんと二人で話をしたいんだ」
声色は先ほどまでと同じだった。その目付きは先程までの何処か緩い雰囲気とは違って、萎縮してしまいそうなほどだった。
いつの間にか後ろまで歩み寄ってきていたポニーテイルの役員に手を引かれる。
その身を案じて、友達を見つめる。天江は私の視線に気付くと優しく微笑み返してくれた。
「大丈夫、この人達は悪い人じゃないよ。不器用だけどね」
特に気負う様子も見せない友達に、手を差し伸べることが憚られた。
ポニーテイルの役員に手を引かれるまま部屋を出る、閉められる戸の隙間から天江は軽い調子で手を振り返す。
†
待機場所として案内されたのは、廊下に置かれた自販機横のベンチ。
私は缶コーヒーを啜りながら天井の染みを数えていた。あれからどれだけの時間が過ぎたことか。
時計を見れば、まだ一時間程度だ。こんな風に時間が長く感じるのは久しぶりだった。昔は当たり前だったのに、今はもう当たり前ではなくなっている。あれだけ長く感じていた一時間、今はもう五分か十分程度にしか感じなくなっていた。でも思い返すと時間以上のことが思い出せて、でも昔のことは数ヶ月以上の時間が数分程度の出来事としてしか思い出せない。この天江と過ごした一年間の密度は、中等部まで生きていた十五年分の人生に匹敵する気がする。
天江と出会ってから人生が変わった、居なくなると寂しかった。家なら仕方ないって思えるけども、外にいるときはいつも天江が一緒にいたから、とても物足りない感じがする。
早く戻ってこないかな、と思いながら待つこと更に三十分後、天江が駆け足で私の胸に飛び込んできた。
「あ、天江殿!?」
「喜んで、優花里! 喜んでよ! 戦車は入学式の後に返してもらえることになった。そして、この大洗で思う存分に戦車道ができるんだよ!」
「えっ、どういう意味でしょうか?」
「来年から戦車道が選択科目に追加される。その時に連盟に加入もするから全国大会に出られるんだ!」
「そ、それは……嬉しいことですが……」
天江のテンションが不自然に高い、そのことを問い質す前に彼女は続く言葉を口にした。
「狙うよ、優勝! やるからには優勝だッ!」
「え、優勝ですか!?」
「出場するからには優勝を狙わなきゃ嘘ってもんでしょ!」
そう言うと抱きしめる私の胸から体を離して、くるくるっと両手を広げて回りながら笑顔を振りまいた。
「さあ思いっきり楽しもう、私達の戦車はここからだ! 来年度の大洗戦車道にご期待くださいっ!!」
「その打ち切りそうな感じはなんですか!?」
やけくそ気味に廊下を駆け出した天江の後を、慌てて追いかけた。
天江は道標のような存在だった。なにか物事に躓いた時、迷った時、臆した時、彼女は必ず道を示してくれる。私のことを引っ張り上げてくれるのだ。だから彼女を追いかける足に迷いはない。彼女が進むと決めたなら、その後ろをついていこうと思った。私は走る、どこに向かっているのかわからない。でも迷う必要はない、彼女の進んだ先が私の目的地だ。
彼女を失わないように必死に追いかける、彼女と共に進む道こそが私にとって光そのものだった。
あれ、こいつら、もしかして主人公組よりも、ちゃんとした二次をやってる?
兵衛「おかしいのは私じゃなくって継続高校の学園艦だから(震え声」