極度の緊張は幻覚や幻聴を誘発することがある。
肌がひりつくほどの威圧感。今、私の目の前に居るのは本当に人間なのだろうか、あれは人間の皮を被った化け物か何かではないか。体が芯から震えている、心が根本から怯えている。今にも凍えてしまいそうな魂、胸に抱いた誇りはしかし、熱く燃えている。
今、眼前の戦車に顕れるは軍神、もしくは龍。この偶像の意味するところは分からない。
だが、相手が軍神とあらば騎士の誉れと高笑いして打ち倒そう、相手が龍とあらば騎士の浪漫と笑みを浮かべて龍退治に勤しもう。我が名はヤイカ、仮にも最強の名を掲げる者である。仮にも仲間に夢を抱かせ率いる者である。故に退くことは許されない、気圧されることがあってはならない。自尊心故に、誇り故に、責務故に、私は騎士槍の切っ先を敵の喉元に突きつける。
繰り返そう、我が名はヤイカ。ボンプル高校戦車道チームの隊長、騎士団長である。
思えば試合前、負ける要素はどこにもない、と確信していた。
数は優勢、質に差はなし。我らには練成されたチームワークがある。
しかし目の当たりにした現実は、試合前の慢心を改めさせるに十分だった。
だから、謙虚な気持ちになろう、と思った。
心持ち一つで色んなものが見えてくる、周りにある景色が手に取るようにわかった。戦場に漂う臭いを嗅ぎ分けることができる、肌を撫でる風の動きを感じることができる。世界は巡る、私達なんて関係なく回る。この戦場には二つの存在があった。TP7単砲塔型とCV33型快速戦車、戦車二輌が睨み合うようにして、動かない。緊張感が高まっていくのが分かる、しかしなにか物足りないと思った。高揚感が足りていないと気付くのに時間は必要なかった、心の昂りが致命的に足りていなかった。それはヤイカを構成する存在要素に重大な抜けが生じていることを意味する。
だから、謙虚な気持ちはまた今度に取っておこうと思った。傲慢に慢心する、敵は見下して生きる。私は永遠の覇者であると同時に、永遠の挑戦者でもある。
しかし今日、挑むのは私ではない。挑むのは結月ゆかり。そして、アンチョビの二人だ。
二人が私、ヤイカに挑むのである。
「来なさい、このヤイカが受けて立つわ」
†
『来なさい、このヤイカが受けて立つわ』
開いたままのオープン回線から通信が入る。
その言葉を耳にした時、否が応にも口の端が歪に歪んだ。挑んで来いと相手は言っている、この私に胸を貸してやると奴は言っている。あまりの愉快さにくつくつと肩を揺らす。前世も含めて、私が挑戦者であることは何時振りのことだろうか。高鳴る鼓動、川中島の戦いで、初めて晴信と対峙した時以来か。挑む気持ちで戦場に立つことになるのは、心地よい、気分が良い。慢心を捨て、傲慢さを捨てる。謙虚な気持ちで挑もうと思った。
適度な緊張は健康にも良いと思っている。
緩んだ感覚が引き締まる、錆びついた感性が研ぎ澄まされるようだ。嘗てより思っていたことだが――やはり何時の時代も“今”が最も素晴らしい。過去に想いを馳せるのは良い、だが何時の時代であっても今この瞬間が最高であって然るべきなのだ。技術は進歩し続けている、文明は発展し続けている。私の思想や知識など最早、骨董品だ。常に知識を貪欲に追い求めて、常に情報を最先端に更新し続ける。そうしなければ、あっという間に時代から取り残されることになりかねない。人が老化し始めるのは何時か、新しいことに挑戦しなくなった瞬間だ。
青春は取り戻せない、それは真理だ。なら私は今ここから新しく青春を始めよう、青春に賞味期限はあっても消費期限はないのだ。
感謝する。この新しい人生に、そして新たな出会いに感謝する。千代美と一緒に、この場に居られたことに感謝する。嘗て、私達が駆け抜けた時代、胸に抱いた信念や誇り、責務を今日まで受け継いでくれた者が居ることに感謝する。胸に抱いた数多の感謝、そう想うこと自体が老いている、と云われるかも知れないが、それ以上に今の私は清々しかった。一切のしがらみが消え去った。不思議と心が踊った、不思議な高揚感に包まれている。
浮き足立った心は、良きに働くか、悪しきに働くか、ともかく、進む決断に揺らぎなし。
「胸を借りますよ、ヤイカさん」
今の私は長尾古志郡司景虎、初陣の心持ちである。
†
好きこそ物の上手なれ、という言葉がある。
実際、その通りで、上達への近道はそのことを好きになることである。
好きである。それは確かな才能であり、上達すればする程に好きは当たり前になってくる。
私は戦車道が好きだ。フラッグ戦が好きだ、殲滅戦が好きだ、陣取り戦が好きだ。豆戦車が好きだ、軽戦車が好きだ、中戦車が好きだ、重戦車が好きだ、快速戦車が好きだ、突撃砲が好きだ、自走砲が好きだ。戦車長が好きだ、砲手が好きだ、装填手が好きだ、操縦手が好きだ、通信手が好きだ。兎にも角にも幼い頃から戦車道が好きで好きで大好きで仕方なかった。
幼い頃、私は戦車を持っていなかったし、戦車好きの友達にも恵まれなかった。小学生の時は欠員が出た戦車チームに混ぜて貰っていたし、中学生の時も学校でやる戦車道だけでは飽き足らず、草戦車チームに助っ人として参加させて貰っていた。私は戦車に乗れるのであれば、どの役割であっても拘りがなかった。戦車に乗せてもらう為に独学で勉強した。また戦車に乗せて貰えるように、気分良く楽しんで貰えるように、全てのポジションから戦車全体を掌握する能力を身に付けた。
戦車道を楽しむというのは勝つ事ではない、勝ちを目指すことにあると思っている。私はいつでも勝利を目指せるように、今ある戦力で作戦を考えるようになっていった。時には劣勢、時には均衡、時には優勢、包囲戦、突破戦、退却戦、掃討戦、撤退戦、時には入念な準備を施して、時には即興で策を組み立てて、時にはみんなが考えた策を寄せ合わせて、晴れの日も、雨の日も、風の日も、雪の日も、平原でも、街道でも、市街でも、農地でも、草原でも、丘稜でも、山岳でも、沼地でも、森林でも、いつ如何なる時、どんな状況であっても、私は勝利を目指すことを諦めなかった。私は戦車道を楽しむことを諦めなかった。私はみんなに戦車道を楽しんで貰うことを諦めなかった。敵も味方も観客も、この地上の戦車道に関わる全ての人間に楽しんで貰うことを諦めたことはただの一度もない。
私は戦車道が好きだ。ただそれだけで私は安斎千代美だ。ただそれだけがアンチョビを名乗る私の全てだ。
みんなは戦車道が好きか? 私は大好きだ。
同じ好きを持つ者同士が出会うこと、それは奇跡と呼んでも良い、それは運命と呼んでも良い。陳腐な言葉で特別にしたくなるほど、私は戦車道が好きで、同じ好きを持つ者同士が出会うことは尊いものだと思っている。好き者同士が当たり前に出会える今の場所に居られることが私にとって、たぶん最大の幸福であり、その幸福の最大をもっと大きくする為に私は好きをいっぱい増やしたいとも思っている。
私は戦車道が好きで、好きで、堪らなく好きで仕方ないから、だから勝ちたいと思う、勝ちたいと願う。だから勝とうと決意する。
だって、好きなもので負けるのは悔しいじゃないか。
†
はらり、と頬を涙が伝った。
何故かは分からない。でもこの試合を見ていると胸が苦しくなった。
屋敷で、居間にあるテレビを食い入るように見つめていた。時間を忘れて、稽古も忘れて、呼吸すらも忘れて、ただ熱中していた。魅了されていた。テレビ越しに伝わる熱気が、熱狂が、熱量が、私の心の奥底で燻る想いに火を点ける。思わず、手が伸びた。私もあの場所に在りたい、と液晶画面に手が触れる。羨ましい、妬ましい、狂おしい。どうして私は今まで、こんな生き方をしてきたのだろうか。こんな人形のような在り方に満足してきたのだろうか。心を表に出さず、想いを言葉にせず、型にはめるように息を潜めて、想いを殺して生きてきた。なんて勿体無いことをしてきたのだろうか。悔しい、口惜しい、羨ましい、妬ましい。その場所に私も行きたい、その場所で私も生きてみたい。涙が溢れる、嗚咽が止まらない。どうして、私は、今、ここに居るのだろうか。届かぬ手で拳を握り締める、項垂れる。項垂れながら画面を睨むように見つめ続ける。先ずはこの試合の行く末を見届けよう、きっとそこから私の全てが始まるから。
楯無高校一年生、鶴姫しずか。今日、初めて、戦車道の熱に触れる。
†
この時、テレビ、ネット環境も含めて、
戦車道優勝記念杯を視聴した者は日本に住む全人口の20%を超えていた。三十代未満に限れば、その比率は驚異の40%を超えていた、という調査結果が残っている。最初はボンプル高校の肉弾特攻がネット上で話題に上がり、視聴率は急激に上昇、ヤイカとアンチョビの一騎打ち、マイコとペパロニのタッグ戦、この二つは確実に視聴者の心を捉えた。他とは気合いの入れ方が違う、気迫の籠もり方が違う。ハリウッド映画よりも派手な戦車のぶつけ合いに誰もが魂を揺さぶられた。戦車道を志す者が高揚する。気付けば、何時までも、この試合を見続けたいと願っており、しかし試合は着実に進行し続ける。
そして試合が最終局面に入るその時を、会場の観客は肌で感じ取り、茶の間では誰もが息を呑んで事の推移を見守る。画面に食い入る。喋ることを生業としている解説者すらも言葉を失っていた。日本中の人間が二輌の戦車の行く末を見届けようとしていた。
想いは届く、確実に。真摯な想いは澄み切った声のように、魂の叫びは情熱となって周囲に伝播する。
その中で感受性の高い者が、涙を零す。
――始まる、終局が始まろうとしている。
この瞬間、日本中の人間が心を通わせた。
誰もが心の内で唱えて、誰かが知らずの内に口から零した。
それは誰もが知っている決闘の合図。
薄暗い部屋の中、少女はデスクトップパソコンを前に一筋の涙を零し、掠れる声で告げる。
――いざ、
屋敷の箱入り娘は今、取り戻した心で嗚咽を零しながら上擦った声で告げる。
――尋常に、
試合会場の判定役を務める蝶野一尉が、せめてもと健闘を祈って口にする。
――勝負。
弾けるように二輌の戦車が動き出した。
試合が終わる。惜しくも、惜しかろうとも、決着を付ける為に魂を震わせて駆け出した。
両者引き分けは有り得ない。何故なら、両者共に勝利を望んでいるからだ。
もう、どちらかが斃れるまで止まることはない。
†
互いに機を読み合った結果、動き出したのは同時だった。
私、ヤイカは両目を見開き、敵車輌を睨みつける。一挙手一投足を観察する、僅かな仕草すら見逃すつもりはない。殺意の気配すらも感じ取るように全神経を集中させる。目で、耳で、肌で、鼻で、口で、五感の全てを活用し、第六感にすらも手を伸ばすつもりで相手の出方を窺った。頭痛がする程に脳を酷使する、時間が凝縮される。一秒から十秒、一分へと引き延ばす。それでもまだ相手の動きを見切るまでには至らない。歯を食い縛り、僅かな情報でも引き出そうと試みた。極度の集中に口の端から涎が垂れる。形振り構わず、ただ勝利を掴む為に、脳髄を、五感をフル活用する。勝利は拾うものではない、もぎ取るものだ! と心の底からの叫びに同調するように発砲を開始する。
行進間射撃は当たらない――しかし、今この時においては、その常識を覆す。それは今一時に限り、覆し得る。
全速力で動く最中に砲撃し、同じく全速で動くM41型自走砲の車体に当てる。避弾経始で受け流された、その射撃で揺さぶられているはずの車体から敵の反撃が繰り出される。発砲される前に当たる、と確信した私はドリフトを指示、装甲を削られながらも奇跡的な角度で受け流した。止まる訳にはいかない、止まれば死ぬ。その確信があった、此処から先は全て、行進間射撃となる。その覚悟を今、決めた。砲撃する、開かれたままのハッチが吹き飛んだ。返す刀で砲撃される、履帯を守る上部装甲が削り取られた。砲撃し、砲撃される。その全てが装甲を削る至近弾、されど、その全てが致命傷には届かない。まるで薄皮一枚の回避、そうしなくてはならない程に私は洗練されていた。相手は洗練されていた。負ける気がしない全能感、しかし勝てる気もまた同時に得られない。決定打が欠けている。地面に転がる岩を砲撃で弾いて、無限軌道の損傷を狙ったが、最も頑丈な誘導輪の側面で弾かれた。これが狙った行動かは分からない、しかし何故だか防がれても不思議じゃない気がする。広場には数多の走行跡、履帯が地面を削る、砂利が弾けて、砂煙が舞い上がる。転輪が外れる、履帯が千切れる、その限界ぎりぎりを攻めるように無茶な軌道を繰り返した。
常に心臓を握り締められているような重厚な威圧感、目の前にいる相手は過去最強の敵だと再確認する。
†
何度、敗北を覚悟したことか。
ここまで生き永らえてきたのは運が良かったという他にない。そして、ここから先も大方は天運に任さざるを得ないことだろう。
理屈じゃない、常識は疾うの昔に超えている。目まぐるしく変わる状況の変化に頭が付いていけているはずもない。直感と経験則から、その都度、その瞬間に応じて、最適手を導き出しているに過ぎない。たった一手、間違えただけでも殺される。たった一瞬、呼吸を違えただけでも殺される。車内にいる誰もが限界を超えている、能力を超えた働きを見せている。喉元に迫る騎士槍の切っ先、その圧力を身に受けながら嫌な汗を垂らし、それでも懸命に追い縋った。
行進間射撃は当たらない。その常識を覆すように、的確な砲撃を受け続けている。何も手を講じなければ、急所を撃ち抜かれる。それが十秒に一度、早い時は五秒に一度、最善では意味がない、最高の一手を繰り返し要求され続けた。車内に言葉はない、しかし今、私達は言葉以上のもので繋がっていた。声は必要ない、視線も必要ない、見る必要すらもない。気配と呼ぶ他にないものを感じ取りながら私達は今、崖っぷちの連携を続けている。
勝機が見えない、活路が分からない。死線は常に超えている。絶体絶命、不可避の絶望の中で身を削りながら勝利に手を伸ばした。装甲が削れる、歪んだ。その度に戦車の挙動が変化する、その度に順応することを強いられる。
戦車同士をぶつけ合った。その直後の隙を互いに狙い、そして砲撃しながら回避を試みる。撃たなければ、当てられる。しかし相手が撃たなければ、当てることができる。車体は限界を超えている。通常ではあり得ない、変に軋む音が聞こえ始めてきた。それでも手を緩めることはできない。車体の限界、精神の限界、体力の限界、能力の限界、数多の限界に怯えながら相手を倒す為の最適解を模索する。牽制はない、全てが必殺だ。ここまでくればもう陽動なんてしようがなかった、できるはずもなかった。何故なら無駄な行動一つで殺される、小細工を挟む余地などない。
疲労は分からない、しかし体の動きが鈍ってきていることがわかる。
限界が近付き始めている。大鎌を持った死神が、背後から刃を私の首筋に添える。冷たい、冷たい感覚がする。朦朧とし始める意識の中、研ぎ澄まされていたはずの感覚が、更に研ぎ澄まされていくのがわかる。少し横から力を加えるだけでも折れてしまいそうな程に、鋭く、細く、より鋭く神経を研ぎ澄ませていった。僅かな隙、隙とも呼べないほどの小さな隙、そこに意識を滑り込ませるために、より一層に細く鋭く研ぎ澄ませる。
鼻血が垂れる、口に鉄の味が広がる。それでも果てなく意識を研ぎ澄ませ続けた。
†
勝負が決まるのは一瞬だ。
広場に散らばった装甲を履帯が踏んだ、ほんの僅か、ゼロコンマ数秒の反応の遅れが致命的な隙を生んだ。
敵の砲口が向けられた、次の瞬間、ギュルンと車体が勢いよく回転した。車体に砲弾が当たった、が、白旗が上がる程ではない。車体の回転が止まる、敵はドンピシャ真正面、引き金を引き絞ろうとして――引き金に掛けた指を止める、直感で砲身が壊れてしまったことを悟る。次の瞬間、戦車が全力で前進を開始した。轢き潰すつもりか、敵のTP7単砲塔型が直撃を避けるためか、急激な角度で進行方向を変える。無茶な動きに、TP7単砲塔型の内側の履帯が浮いた。その下を潜り抜けるように私達、M41型自走砲の外側の履帯が通り抜けた。
まさか、そのような動きが――背後から強い衝撃が響いた。パシュッという音と共に戦車全体の機能が落とされる。まじか、そんなことが、本当に……。ガチャガチャと操縦席に座るゆかりが、前を見据えたまま、まだ操縦桿を操っている。ポタポタと血を垂らしながら、まだ操縦を続けている。
声が出なかった、出せなかった。ここまで悔しいと感じたのは初めてだったから、声が震えて、言葉にできなかった。
『勝者、ボンプル高校!』
通信機越しに告げられる声に、ゆかりは手を止める。
「……ああ、負けたんですね」
ゆかりは大きく息を吐くと、背凭れに身を預ける。
「少し、後悔しています。もっと真面目に戦車道をやっていれば、もっと体は言うことを聞いてくれたはずなんですよ」
少し震えた声で告げて、数秒後、小さな寝息が立てられた。
目元を擦る。何度も、何度も、涙は流さない。今日、ここからだ。私達はここから始められる。顔を上げよう、前を見よう。今日の試合で誇ることはあれども、恥じることはないはずだ。だから、私が胸を張るのだ。みんなが誇らしく思えるように私が顔を上げて、胸を張り、堂々とした姿を仲間達に見せるのだ。
私はアンチョビ、みんなの
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