中学三年生の半ば。
黒森峰女学院に推薦入学する道が断たれた私は、母に頼んで使用人としての訓練を受ける。
そして僅か三ヶ月で、もう教えることはないと太鼓判を押されてしまった。
今は手持ち無沙汰、私室から出ることもせず、ぐうたらな毎日を送っていた。
使用人の訓練を受けた理由の半分は、将来食いっぱぐれない為に。もう半分が退屈凌ぎだったのだが、想定していた以上に早い段階で身に付けてしまった。姉は小学生の頃から訓練を続けていたのだけどな。相変わらず、私の姉はベストオブ凡夫ということを再認識した。
しかしまあ、今となっては私も大差ない。むしろ実績だけで言えば、私の方が劣っている。
黒森峰女学院への推薦を得る為に始めた戦車道で、姉は無事に推薦を勝ち取った。それに伴って、正式に姉は母の後継者として指名されることになった。私も一般入試で黒森峰を受けることになっている。確か来月辺りだった気がする。滑り止めでいくつか他の高校も受けることになっているが――いやはや、黒森峰のレベルであれば、勉強せずとも受かることができる。
そんなわけで、学校に行くのも面倒な私は、家で自堕落的な生活を送り続ける。
†
私、井手上武子は凡庸な人間だと自覚している。
少なくとも妹弓子を間近に見てきた私は、罷り間違っても自分に才能があるだなんて思わない。
妹はなんでもできた。私は予習復習を繰り返すことで漸く、テストで九十点近くを取れるというのに、妹は授業中に欠伸交じりで先生の話を聞き齧るだけで百点を取ってしまうのだ。曰く、一度聞けば分かるよね? 分からないって、九十八点で露骨に眉間に皺を寄せる妹の気持ちなんて欠片ほどもわかりません。
そんな妹だったから大抵のことは私よりも優れており、何をするにしても常に私の一歩、いや、十歩以上は先を進んでいた。
私は、自慢のできる妹の姉であることを誇りに思っている。少し、いや、多少、弓子は口が悪い、いや、思ったことをそのまま口にしてしまうような性質を持っていた為に周りから勘違いを、いや、周りの評価はあながち間違いではないけども、まあ性格が良いか悪いかで問われると、悪いとしか答えようがないんだけども――それでも私にとっては可愛い? うん、可愛い妹だ。
私は弓子の優しさを知っている。
口を開けば暴言しか出て来ない弓子の口に、基本的に労いの言葉はない。自分語りが大好きだから承認欲求の塊だと認識される。しかし、それは違うということを私は知っている。妹は他者からの評価に興味はない。いや、興味がないわけではないのだけど、本当に他者から認められたいだけならば、あそこまで横暴にはならない。仮に横暴であったとしても傲慢な態度を取れるはずがないのだ。妹にとって他者からの評価とは鏡だった、鏡を見つめながら自分の身嗜みを整えている。なりたい自分になる為に、ただひたすらに自分を磨き続けるのが妹弓子の本質だと思っている。
だから弓子は有象無象の誰かに対する興味が薄かった。どうでもいい、とすら思っている。
しかし同時に妹は誰かを見捨てられない人間でもあった。
中学生の時、妹はスランプに陥っていた。
大会では連戦連敗、練習試合でも挙動がおかしくって、何もできない内に撃破されることが続く毎日だ。それが一年間も続いた後で、唐突に妹は戦車道の練習を辞めてしまった。家にいることも少なくなって、何をしているのかと思い始めること数週間、小学生から妹に慕い付き添ってきた仲間を解体してしまったのである。仲間の大半は西住まほに引き取られて、黒森峰女学園中等部戦車道チームの中核に組み込まれる。
「前々から誘いはあったんだ」と妹は言った。
訊けば、妹の戦車仲間が妹に付き従ってきたのは、高校の推薦を期待してのことだとか。それが達成できそうにないから不甲斐ない自分以外が無事に高校に入学できるように最も頼れる敵である西住まほに頼んだとか、なんとか。妹は戦車倉庫で虚空を見上げながら、唯一残ったⅣ号戦車の上で「私は嫌われ者だって自覚はある」と自嘲気味に告げる。
そうだね、知ってる。妹は嫌われ者だった。だから、彼女と同じ戦車チームに自ら進んでなる人間は居なかった。妹が率いているメンバーは、嘗て、落ち零れと言われていた者達だったことを私は知っている。
悪態を吐きながら手取り足取り教えて、文句を言いながら戦車道に必要な思考を教える。必要なのは才能ではなくて、適正。実力は努力で補うことができる。貴方達は凡夫で構わない、何故なら才能は私一人で有り余っている。そんな傲慢な態度を以て、妹は戦車チームを統制していた。どれだけ失敗を繰り返しても妹はただ一言、「貴方が失敗をすることなんて分かっている」で済ませてしまうのだ。それでも何か言おうものならば「私は天才だから失敗しないだけ、貴方達のような凡夫に私と同じことは求めてないから」とあからさまに不機嫌な態度を取った。それから「むしろ私と同じ位置に立ってるつもりとか、ちょっと思い上がり過ぎじゃない?」と嘲笑する姿は、見る者が見れば即座に憤慨してしまうに違いない。
妹は一言多い、誰かを煽らなければ気が済まない。これが照れ隠しであるならば、まだ可愛げもあるのだが、本心からの言葉であるから手が付けられない。
気にするな。たった一言で済む優しさが、本当に、うんざりするほど理解し難い。
私が戦車道を始めたのは、私が井手上家の後継者候補であった為だ。
西住家に仕える為に侍女としての嗜みを身に付ける。そして西住家に仕える為には、あるていど西住流の戦車道を嗜む必要があったから始めただけに過ぎない。まあ私の才覚は欠片ほどもなかったので、戦車長にはなれず、揺れる車内で重い砲弾を装填できる能力もなかったから、消去法で操縦手をさせて貰っている。妹曰く、何時でも自由に扱える戦車があって良かったね。つまり、才能がない分だけ戦車を走らせろ、ということが言いたいのだと思う。実際、それで私は黒森峰女学園の推薦を勝ち取った。
私は妹弓子の姉であることを誇りに思っている。
妹は私よりも才能に溢れていた、どの分野においても勝てる気がしなかった。しかし妹は嫌われ者だった、それ故に孤立しがちであった。妹は誰かを見捨てることはしない、しかし誰かになにかを求めることもしない。来る者拒まず、去る者追わず。そんな態度だから妹は誤解されやすい。誰も必要としていないのは確かかも知れないが、それと誰も大事にしていないのとはまた違っている。
弓子の目は周りをよく観察していた。人混みの中で妹は手を繋がない。どんどんと先へと歩いていくけども、その背中を見失うことはなかった。自分の知る誰かが置いていかれそうになっている時、妹は必ず声をかける。それは挑発的な言葉だけど、無視することは絶対にしない。水泳の授業の時、私が足を攣った時、いの一番でプールに飛び込んだのは弓子だった。それは私が姉妹だったからかも知れないけども、馬鹿だとか、間抜けだとか、のろまだとか、延々と重ねる苦言を口にしながら授業中、彼女はずっと私の隣に居続けた。授業が終わって、他の友達が来るのを確認して、そっと距離を取ったりする。
妹の優しさは本当に分かり難い。優しさじゃない、と妹は否定する。そして、それは彼女にとっての本心からの言葉だ。
でも、私は優しさだと思うんだ。
†
進路希望には、一応、黒森峰女学園と書いてある。
模擬試験では余裕のA判定。というよりも、私の成績は全国模試のランキングに載るほどなので、どの高校を選んでも大抵はA判定になる。進学先は選り取り見取りで授業料の割引といった特典も受け放題だ。戦車道に関してはもうきっぱりと諦めてしまうのも良いかも知れない、とかそんなことをぼんやりと考えている時だった。
興味ない模擬試験の結果を机の上に放り投げて私室でぐうたらとだらけていると、唐突に誰かが部屋の扉を開け放った。
その時、私はだらしない格好でベッドの上に寝転んでおり、ポテチを食べながら漫画を読み漁っていた。パンツを晒しながら素足をパタパタして、扉の向こう側に突っ立っている無表情の天敵を見つめる。嘗ての好敵手、今は高嶺の花、それが私のお尻をじっと見つめていた。コホン、と天敵が咳を立てるとゆっくりと扉を閉じた。コンコン、と数回のノックをした後で「入ってもいいか?」と問われる。いや、遅いよ。手遅れだよ。ばっちり見られたの見たよ、なかったことにならないよ。
とりあえずショートパンツを履き直して、どうぞ、と招き入れる。
「……先程は悪かった」
何処となしに気まずそうな態度を示す西住まほ。シャワー室で裸を見せ合いっこをさせられた経験がある身としては、同性にパンツの一つや二つくらい見られたところでって感じだったので「別に構わないよ」と素っ気なく返しておいた。
「それにしても、謝ってくれるんだね」
「ああ、まあ……ところでパンツが少し食い込んでたが気持ち悪くないのか?」
「どーして、そんなことを言うんですかねえ!?」
西住家の人間はみんな、何処か抜けているんだよなあ! しほさんも、みほもさあ!
その後もそわそわと心配そうな顔で見つめられ続けたから気になってしまって「茶でも持ってきます」と吐き捨て、部屋の外で軽く直しておいた。石鹸で手を洗った後に、安い茶葉と温い湯を使って淹れた茶を天敵に差し出してやった。
彼女は喉が渇いていたのか一気飲みすると、小さく舌打ちする私を見つめる。
「黒森峰女学園に来てくれないだろうか?」
「受験するつもりではいるのだけど?」
私は自分用に淹れた茶を啜り、澄まし顔で煎餅を齧りながら相手の様子を窺った。
何をしに来たんだろう、と。
言いたいことは分かってるけど、分からないふりをしておいた。
「戦車道で一緒に戦って欲しい」
予想通りの言葉。煎餅を咥えながら、じぃっと相手を見つめる。
黒森峰女学園の一年目にして、既に戦車道チームのエース。U-12の世界大会では日本選抜の隊長として、戦車道先進国であるドイツ代表を打ち破り、中学生の時には全国大会を優勝してMVPにも輝いた経歴を持っている。近年、なかなか現れなかった戦車道のスーパースター候補であり、その名はテレビを通じて全国にまで名を知られている。
そんな彼女からの誘いは、一般的な視線から見れば、光栄と呼ぶべき事なのだと思った。
「……そこの机に置いてある紙、見ても良いよ」
促されるように天敵は机に置きっ放しにされている模擬試験の結果発表が書かれた用紙を手に取った。
「まあ私は天才なんで、超よゆーなんですけど?」
私は戯けながら肩を竦めてみせる。
しかし表情筋が半壊している天敵は、くすりともせずに結果発表の紙を見つめており、ゆっくりと顔を上げて私のことを見据える。
ああ、これは誤魔化されてくれなさそうだ。
「試験に受かるつもりはないんだろう?」
「……さあ、どうでしょ?」
けらけらと肩を揺らして笑ってみせる。
誤魔化すつもりはない。かといって本音を語るつもりもない。
特に目の前の天敵が相手には、絶対だ。
「私はな。弓子、お前と一緒に戦いたいと思っている。中学生の時からだ。本当に私が欲しいと思っていたのは……」
続く言葉を遮るべく、天敵の口に煎餅を押し付ける。そして彼女の目を見つめて、視線を切り、そして彼女の代わりに語り始める。
「姉様は真面目で実直、それでいて素直な方です。まあ天才の私と違って? 凡夫には違いありませんが、あの人柄は得難いものですよ。そういった意味では天性の才能と云っても良い。人は能力だけで語るべきではない。告げ口しない女性というのは、ただの天才よりも稀少です。少なくとも天才の貴方には既にみほとエリカがいる。これ以上の才能は貴方に必要ないでしょう」
「……どうしても、か?」
「貴方の隣に居るべきは私ではなくて、姉様ですよ。あれはあれで、できた御人です」
まるっきり才能はありませんけどね? と付け加えて、からからと口を開いて笑ってみせる。
「私なんかを“優しい”と評する姉です。裏切らないであげてくださいね?」
「そこまで心配なら監視でもしたらどうだ?」
「未練がましさは女を下げますよ。それに私は妹離れができない姉とは違って、姉離れができる妹なので。でもまあ、これでも信頼はしていますよ。貴方は私にとっての最大の敵なんですから、その為人程度のことは熟知しています。妹にすら理解されないお姉さん?」
そんな私の嫌味たっぷりな言葉に、天敵は困ったように苦笑いを浮かべてみせる。
「……そうか、うん、そうだな」
未だに諦めきれないのか、何度も頷きながら自分に言い聞かせている。
こんな情けない天敵を前に、私は大きく溜息を零して告げた。
「少し胸襟を開いてあげますよ」
私はおもむろに胡座を組むと、頬杖を突いて、愚痴を零すように口先を尖らせて語る。
「私は貴方の敵のままで居たい。これはもう意地なんです。貴方の敵で在り続けた、私の最後の意地。私は金メッキの剥がれた偽りの天才であったかも知れませんが、それでもだ。私は貴方の下には就きたくない」
「そんなことはない、お前は私が知っている中で誰よりも……」
「そう思ってくれるのであれば、私の敵で在り続けて欲しい。西住まほ、貴方は天才の私が認めた天才だ。こんなことは言いたくないが、貴方と対等に戦えたのは、割と、いや、ほんのちょっぴりだけだけども――誇りに思っている。貴方と戦い続けることが私の戦車道を続ける意味だったんだ」
天敵は目を伏せると、暫し、沈黙を守った後で「そうか」と短く告げる。そして微笑みながら口を開いた。
「お前は私に飛び方を教えてくれた。お前と一緒なら何処までも高く飛べると今も信じている」
「それは買い被りってものですよ、天敵。貴方は一人でも飛べた、貴方に連れられて私も大空に羽ばたくことができた」
「お前は井の中で満足していただけの大魚だ。私がいなくとも高く飛び上がることはできたよ」
互いに語る言葉を無くした頃、「失礼した」と天敵は腰を上げる。そんな彼女に向けて、私は目を合わせないまま、四年間も付き合ってくれた戦車仲間に最後の餞別を口にする。
「茨城白兵衛、覚えておいた方が良いですよ。あれもまた未発掘の天才なので。私の代わりには不足ですけどね?」
西住まほは深く頭を下げると、部屋から出て行った。
数週間後に行われた黒森峰の入試で、私は「名無しの権兵衛」と名前欄に書いて提出する。
無論、合格発表の掲示板に私の番号はなかった。
†
少し時間が前後する。
滑り止めとして受けた高校は幾つかあった。
実家から遠い場所も幾つか受けていたのは旅行の口実作りの為だ。大洗女子学園の入試に向かった先で、近くにテーマパークがあると聞いたので足を運んでみた。それはまあ見事なまでに廃れており、既に潰れてしまっていると聞いても可笑しくない。でもまあ人の気配はあるので、遊び半分、廃墟巡りのつもりで足を踏み入れる。
その入り口の近くで、ポツンと一人、券売機を睨みつけている子供がいた。
「どうしたの?」
問いかけると少女は「チケットが買えない」と涙目になりながら告げる。
「お金、持ってきてないの?」
「お金はある、けど、なんでか使えないって」
そう言いながら取り出したのは黒いクレジットカード、確か、そう、超一流のセレブだけが持つことを許されると云う伝説的なアレだ。西住流の次期家元が使っていたのを覚えている。
「……親は何処にいるの?」
「仕事、夕方には迎えにきてくれるって言ってた」
「放任主義なんだねえ」
推定御嬢様はギュウッと熊のぬいぐるみを抱きしめながら私のことを見つめてくる。
まるで捨てられた子犬が助けを求めてくるような、そんな感じ。まあ、こんな廃れたテーマパーク、一人で回っても退屈だろうと思って、私は学生二枚でチケットを購入する。半額セールになってるし、丁度いい。たぶん年がら年中セール中なんだろうけど。
目を輝かせて、二枚のチケットを見つめる少女。そんな彼女に私は意地の悪い笑みを浮かべて告げる。
「これは取引よ、このチケットをあげる代わりに私とのデートに付き合いなさい」
「……! うん!」
こんな素敵な御嬢様を独りにするなんて――悪い魔女に連れていかれても仕方ないね。と私は少女の手を取り、入場ゲートを潜り抜ける。中は見るも無残な荒地であり、夢と希望に満ちた国なんてのは夢のまた夢、しかし少女にとっては違ったようで、こんな廃れた有様であっても目を輝かせ続けている。そこで漸く気付いたのだが、彼女が持つぬいぐるみとテーマパークを象徴する熊が同一のものであるようだ。
「その熊が好きなの?」
「うん、大好き!」
満面の笑顔を振りまく彼女の姿を見て、テーマパークが面白くなくても満足できそうだな。とかそんなことを思ったりした。