あの日村に来た怪物がめちゃくちゃ強かった   作:とやる

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ベル・クラネルと夜の街

 午前と午後。

 一日を二十四時間で区切る場合、ちょうど半分の十二時間の切れ目をそう分ける。

 オラリオの街が活発なのは午後だ。

 朝から迷宮探索に向かう勤勉な冒険者も、太陽が天辺あたりにまで来てからベッドから抜け出す怠惰な冒険者も、日が沈み夜になればダンジョンから帰ってくる。

 旨い飯を食べ、酒を飲み、今日も生き残ったことを祝うのだ。

 

 冒険者という存在が街の特色として強く出るオラリオは、午後がもっとも活動的な都市である。

 

 そんなわけで、御多分に漏れず朝から迷宮探索に勤しみ、夜になって地上へと帰還した冒険者のベルは腹の呻きに従ってぶらぶらと歩いていた。

 いつもならそのまま宿に直帰しアストレアと共に夕飯を食べるのだが、今朝アストレアには今日は宿に帰らない可能性が高いと言伝をもらっている。

 念のため宿に戻るもアストレアの姿はなかったため、外食をしようと決めたベルは今夜の食事所を吟味していた。

 

 オラリオに辿り着いてから約三週間と少し。

 リリの一件と清貧生活が合わさり、ベルがオラリオに所狭しと並ぶお店へ足を踏み入れたことは極端に少ない。

 せいぜいがポーション類を販売しているところぐらいだろうか。

 リリを探してオラリオを走り回っていた時はそれどころではなかったため気にもならなかったが、こうして落ち着いてくると立ち並ぶ店々に興味も湧いてくる。

 

 急激に実力を伸ばしたベルは到達階層だけなら既に十階層を超えており、ソロでの時間当たりの稼ぎもそれに見合った額になっていた。もともとが質素倹約を是とする辺鄙な村の出であるベルだ、その物欲の希薄さも幸いして懐は十分に暖かい。

 美味しいところを見つけて神様と一緒に食べに来よう、そんな気持ちでベルはきょろきょろと首を振り回しながら歩いていて……そんなぴょこぴょこと耳を揺らすような白い兎の姿は、少々目立っていた。

 

 ベルを見てヒソヒソと交わされる会話は喧騒に溶けベルには届かない。

『Lv.1がLv.2を倒したかもしれない』、それがどれほど噂になっているか知る由もない少年は、呑気に香ばしい肉の焼ける匂いに腹を鳴らしていた。

 耳に届かなければ、話しかけなければ、それはもはやないのと一緒である。

 しかし、直接声を掛けられれば。

 

「ねえ、そこの白い髪のボク?」

 

 背中から聞こえた人物の特徴を指した声に『あ、僕のことかな』と思ったベルはくるりと振り返る。

 

「君がベル・クラネルね?」

 

 そこには、目を輝かせた三柱の女神様たちがいた。

 基本的に暇を持て余す神たちは"珍しいもの"に対する好奇心が半端ないのである。

 そして次の瞬間、ベルはガバッと女神に担がれた。

 

「ゲット────!!」

 

「この子が噂の子どもか……あれ? 結構可愛くない?」

 

「やーん! 私好みかもー!」

 

「む、むぶぅうっ!?」

 

 横抱きに抱えられたベルの頭を別の女神が甘い声を出しながら胸元に抱き寄せる。

 ベルの顔を至福の感触が覆った。

 頭は沸騰した。

 

(な、ななななっ! 何事っ!?)

 

 突然の出来事にベルはパニック寸前である。

 女神の綺麗な手がベルの頭を優しく撫でるたびに意識が飛びそうになる。

 体の奥底、魂とも呼べる部分に一瞬電流が流れたような衝撃が駆け抜け、頭の片隅で鳴り響く『いけぇ──! ベルぅ! そこじゃ! 鷲掴みじゃあッ!!』という声をガン無視して、女神たちを傷つけないように慎重に、けれど遮二無二藻搔いたベルはぷはっと女神の抱擁を抜け出し抱えられた体を引っこ抜いた。

 

「なっ、なっ、なぁ……っ!?」

 

「えっ可愛い」

 

「真っ赤になっちゃって……白兎が赤兎に……推せる」

 

「あれぇ……?」

 

 顔を真っ赤に灼熱させ口をぱくぱくさせるベルを見てきゃっきゃっする女神の中、一神だけ首を捻る女神がいた。

 それに目敏く気付いた女神が眉を潜める。

 

「む。もしかして『魅了』しようとした!? それは無しって言ったじゃん!」

 

「あまりにも好みで、つい」

 

「ざけんなー! それやっちゃ私が楽しめないでしょうがー!」

 

「うるせー! こちとら希薄だけど別側面で美神としての性質もあるんじゃー!」

 

「もう、二人ともそんな事で喧嘩して……さ、ボク? 私とあっちに行きましょう?」

 

「「お前は抜け駆けしてんじゃねえ!」」

 

「待って! 待ってください!! 何がどうなって……あっ、喧嘩はやめてください!?」

 

 片腕を抱き寄せようとする女神を躱し、整った美貌を愉快に歪めて殴り合う気配すら見せ始めた女神たちの仲裁に四苦八苦するベル。

 ベルの人生で最も接した経験が長い女性といえばアストレアなのだが、アストレアはベルにとって母親のようなもので……つまるところベルは対女性に対する経験値が乏しかった。

 それは敬う対象である女神に対しても同じことが言える。

 喧嘩を止めないといけないけれど、どうすればいいのか分からない。

 

 暫しの逡巡を得てとにかく喧嘩を辞めてもらおうと、ベルが恐れ多くも女神二柱の手を取って動きを止めようとした、ちょうどその瞬間。

 

「ははは。その辺にしておいてくれないかい? いたいけな兎が困ってる」

 

 軽快な声と共にニュッと腕が伸びる。

 橙黄色の髪を揺らしながら二神の女神の間に割って入った旅人のような格好をした男神は、演劇の役者のような気障ったらしい笑みで。

 

「そう怒ってはせっかくの美貌をほんの少しでも損なってしまう。美しい女性は美しく居てくれた方が世界にとっても、オレたちにとっても有益だ。なあ、そうだろうベル君?」

 

 髪色と同じ、切れ長の橙黄色の瞳がじっとベルを見つめた。

 全てを見透かすような瞳……神の瞳に見つめられたベルは動けない。動くな、と、物理的に押さえつけられているかのようなプレッシャーが一瞬ベルを制す。

 その間に、突然現れた男神に女神たちは非難の声を浴びせていた。

 

「邪魔しないでくれるヘルメス。その帽子の羽根もぐぞ」

 

「そもそもこの子のこと教えたのあんたじゃない」

 

「黙れナンパ師。薄汚いお前と純真なこの子を一緒にするな」

 

「辛辣だなあ!?」

 

 けんもほろろといった様子の女神たちに出鼻を挫かれたようにガクッと膝を突く男神。

 が、直ぐに持ち直し爽やかでいてどこか軽薄な笑みを貼り付けた。

 

「まあオレのことはいいとしてだ。ベル君も困ってるみたいだし……ここはオレに免じて引いてくれると嬉しい」

 

「はあ……? だからそもそもあんたが」

 

「まあまあ。もちろんタダでとは言わないさ。こんなにも美しい女神たちを手ぶらで返してしまうとオレの沽券に関わる。そうだな……何か一つ、オレのファミリアが望みのものを運ぼう。オラリオではなかなか手に入らない貴重なものでも確かに用意して届けるぜ?」

 

 片目を瞑って見せる男神に女神たちは暫し考えたあと、まあそっちの方がいいか! と意見が一致したようだ。

 ベルという突然現れた"物珍しさ"に対する好奇心と、前々から欲しかったけれど都市外でしか手に入らないものに対する"個人的な欲"で後者が勝ったとも言う。

 これが例えば『万年処女神にできた初彼氏』だとか『世界最速記録を樹立』だとか、明確な美味しいネタとなっていれば話は別だったが、所詮ベルは噂の域を出ない。

 

 お前約束忘れんなよ、と念押しして去っていく女神たちを手を振って見送った男神に、ベルはガバッと頭を下げた。

 

「あの! ありがとうございました!」

 

「ははは、顔を上げてくれベル君。大したことはしてないさ。オレの知り合いが君に迷惑をかけていたみたいだからね。謝りたいのはむしろこっちの方さ」

 

「い、いえ! そんな事は!?」

 

「まあ気にしないでくれよ。そっちの方がオレも嬉しい……といっても、ベル君は気にするだろう。だからそうだな……ベル君がオレに感謝してるって言うなら、オレについて来てくれないかい? いや何、これから行こうと思ってた場所は少しばかり特殊でね、オレも一人じゃ心細かったのさ。ベル君はオレにお礼が出来て、これから行く場所でオレはベル君にお詫びが出来る。双方に取って悪い話じゃないだろう?」

 

「そういう事なら……分かりました。神様のことを護衛させていただきます!」

 

「はは、そう畏まらなくてもいいよ。っと、名乗るが遅れたがオレの名前はヘルメス。気軽にヘルメスって呼んでくれてもいいぜ?」

 

「さ、流石にそれは恐れ多いです……」

 

「まあ徐々にでいいさ。……これから長い付き合いになる事を、オレは望んでるからね。さ、そうと決まれば早速行こう! 夜は短いぜベル君!」

 

 片手を上げて軽快に歩き始めたヘルメスの後を追うようにベルも歩き出す。

 弾むようで、どこか煙に巻くようでもあったヘルメスとの会話の中で尋ねるタイミングを逸し、まあいいやと頭の中で一つの疑問を転がして。

 

(──僕って、何処かで名前言ったっけ?)

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 オラリオは眠らない。

 夜は人が活動を止める時間ではなく、繁華街からは今も途絶える事なく喧騒が響いている。

 賑わう広大な都市、そのとある一角。

 並んだ建物の間から、様々な快楽が混ざり合う嬌声が漏れていた。

 男と女の声である。作り物の……あるいは本物の愛を交わし享楽を貪り合う二つの影絵が寝台の上で絡み合い、外からでも何をしているのかおおよそ察することができた。

 ありとあらゆる雄の獣欲を金へと変える無数の娼館。

 怪しげであり淫靡でもあるその空間には、艶かしい看板が連なるように並び、露出の激しいドレスで着飾る蠱惑的な女性たちが多く歩いている。

 

『夜の街』。

 オラリオのどの区画やメインストリートとも一線を画す世界にベルは来ていた。

 

「……!? ……っ!!? …………ッッッ!!?!?!?」

 

 その入り口で、ベルは呼吸を忘れる勢いで真っ赤に燃え上がった顔を掌で覆っていた。

 

「おいおいベル君、前を見ないと危ないぜ?」

 

「へっ! へ、ヘルメス様ぁ!? こ、ここここ! ここっ、ここっ!!?」

 

「やっぱり『歓楽街』は初めてか。まあこれも経験だベル君。何より……君も男なら楽しまないと彼女たちに失礼ってものだ。見ろベル君! 美しい女性たちが惜しげもなく肌を晒しているぞ! これを見ずして何が男か!」

 

「ぼ、僕は! そのっ、えっと! だから、あれで!!?」

 

 情けない悲鳴を上げてぎゅっと硬く目を閉じるベルの耳元に口を寄せるヘルメス。

 

「──興味はあるんだろう? 指の隙間空いてるぜ」

 

「ぅぁ!!?!?!!!?」

 

「いやいい! いいんだベル君! それが当たり前というものさ! だってオレたちは男なのだから!!」

 

 高らかに宣言するヘルメスの主張に周囲の男たちがウンウンと頷く。

 注目されている事を視線で感じ取ったベルが恐る恐る目を開けるともう胸とか大事なところとかの最低限しか隠れてない『一味違う、攻めてみたビキニ』みたいなほぼ紐の服を着たアマゾネスが視界に入り、バチィン! と音がするぐらい勢いよく両手を顔に叩きつけた。

 

(し、刺激が強すぎる!!!)

 

 酸欠のときのようにクラクラする頭。

 ベルが訪れるには色んな意味で早すぎる街だった。

 

 とある理由から種族のごった煮状態──まあ冒険者(おとこ)を楽しませるためだが──である歓楽街は、様々な世界の様式の建物がエリアで区切るように広がっており、異国情緒で溢れている。

 娼婦達が男を誘惑するための刺激的な格好で彷徨いていることも含め、ここはベルにとって正しく別世界。

 紙に滴下された水滴のようにベルに心細さが広がり、思わず心の中でアストレアを思い浮かべた。

 

『ベルはエロかったのね』

 

 ベルは膝を折った。

 母親にエロ本が見つかったときのような気持ちだった。

 

「す、すみません! 僕はこれで……!」

 

 その光景が、匂いが、雰囲気が、とにかく歓楽街の全てがベルにとって毒にも等しい。

 空気に当てられたベルは熱っぽくなる頭を振って、一秒でも早くこの場から離れようとした。

 が、そうは問屋は卸さない。

 

「おっと待つんだベル君」

 

 ぐわしっとヘルメスの手が力強くベルの腕を掴む。

 

「手を離してくださいヘルメス様ぁ!?」

 

「いやいや。オレは確かに言ったぜ? 一緒に来て欲しいと。そしてそこでお詫びをさせて欲しいと。ベル君は自分の中で貸し借りを精算させたら相手はどうでもいいって言うのかい?」

 

「で、でも流石にこれは……!? 別のこととか……!!」

 

「今度はオレの番だ。さあ行こう! 大丈夫すぐに慣れる! というより、ベル君も女を知っていた方がいいと思うよ。何事も経験さ。……君の主神は、こういう事に口を出してくるタイプでもないしね」

 

「え、それはどういう……」

 

 独り言のように呟かれた言葉に疑問を覚えたベルが問い返すが、それは最後まで続かなかった。

 

「さっきから初々しいね……ぼーく? ここは初めて?」

 

「へあっ!?」

 

 耳元から聞こえた声に体を大きく跳ねさせたベルが高速で振り向く。

 そこには、色欲の虜になったように婉然と微笑むエルフの女性がいた。

 深い切れ目が入った白のドレスに、今にもこぼれ落ちてしまいそうな大きな胸。種族の傾向として無闇に肌を晒すことに拒否感を覚えるエルフの性質に真っ向から殴り合うかのような、エルフの娼婦。

 ベルぐらいの歳の人間の男の子にありがちな、『綺麗でカッコ良くて美しくおまけに清楚なエルフの女性像』という概念にビシッと亀裂が入った。

 オラリオに来たばかりなのと、ベルの知っているエルフがソフィという一応エルフらしいエルフだったという一因もあり、エルフという種族に夢を見ていたベルにはかなりのカルチャーショックだった。

 

 どこ見ればいいのかすら分からない恥ずかしさと少年の夢の崩壊のダブルパンチ。

 赤くなった顔を見られないため、周りの光景を見ないためというよりは、頭の中から抜け出ていきそうな何かから自分を守るために両手で顔を押さえて放心するベル。

 そんなベルの背中を押してぐんぐんヘルメスは進んで行った。

 寄ってくる娼婦を卒なくかわしていく。

 

「はいはいごめんよ、また今度頼むよ。今日はもう遊ぶ場所は決めてあるんだ」

 

「待ってください! 本当に待ってください!? ヘルメス様ぁ!!?」

 

「いい加減覚悟を決めるんだベル君。あ、ヴァリスは心配しなくてもいい。お詫びなんだ、もちろんオレの奢りさ」

 

「そういう問題じゃなくてぇ!!」

 

 ベルは今にも逃げたかった。

 恥ずかしくて頭がどうにかなりそうだった。

 しかし、自分の中の借りを精算したら相手はどうでもいいのか、というヘルメスの言葉がベルの足を縫い付けていた。

 平たく言えば善良な少年は自分にお詫びをしてくれようとしている神様の好意を無碍に出来なかったし、それをしてしまったとき神様がどれだけ傷付くのだろうと考えるととてもじゃないが逃げることは出来ない。

 なので仕切りに代替え案を訴えているのだが。

 

「僕は今とてもお腹が空いています!! ヘルメス様が知ってる美味しいお店に行きたいです!! すごく行きたいです!!!」

 

「これから行くところで女の子と食べるといい。いやあ、ベル君はそういうプレイが好きなのかい?」

 

「ちがっ!? あ、服! 冒険用のインナーが全部ダメになってて! 安くて丈夫なのが欲しいなって思ってて!! ヘルメス様がそういうお店を知ってらっしゃるのなら、それを教えて頂ければとても嬉しいです!!」

 

「うん、確かにぼろぼろの服を着た女の子は男を燃え上がらせるものがあるね。分かってるじゃないか」

 

「何でそうなるんですかぁ!? くっ、あ、あの! この前神様に心配を掛けさせてしまったので何か神様にごめんなさいとありがとうの贈り物をしたいんですけど僕そういうの詳しくなくて!! ヘルメス様はお詳しそうですし、僕はそっちを見て回る方がいいです!」

 

「うん? 女の子にプレゼントがしたいのかい? ふふ……ませてるじゃないかベル君。なら、これを君に贈ろう」

 

「ちょっ!?」

 

 ちゃらり、と。

 ヘルメスが懐から取り出したのは、夜天に浮かぶ月を思わせる濡れ羽色の石をくり抜き銀紐を通した簡素なネックレス。

 身を飾る装飾品というよりは御守りに近い趣を感じる。

 ぽんと半ば強引に握らされたベルがそのネックレスを月にかざすと、月の光を吸い込むように石が淡い光を滲ませた。

 

「以前オレのファミリアが運んだ物でね、綺麗だろう? 月嘆石(ルナティック・ライト)と言ってオラリオには出回ってないものだ」

 

 帽子の唾を片手で抑えヘルメスは月を見上げる。

 

「今よりもうんと昔だ。大きな光のない時代、月の光を浴びて輝く石を『月の石(ムーンストーン)』と下界の子供たちは呼んでいた。それは暗闇を照らし、前へと進むための道標になっていた。だから『月の石』は『旅人の石』と言われることもあってね、オレとも馴染みが深い」

 

「旅人の石……」

 

 光のない時代。

 月の光を反射して輝く『月の石』は、旅人たちに己の進む道を教えてくれる篝火のような役割があった。

 それは闇を進む勇気を与えてくれただろう。

 

「ああ。まあ、それは後々そう呼ばれるようになっただけでね、その本質は別のところにある。月は女性性の象徴とされているんだ。ほら、月を司る神様は女神が多いだろう? 『月の石』には女性を助けてくれる力が備わっていると考えられた。だから『月の石』は『愛を伝える石』とも言われるんだ。英雄譚では女性と恋の成就、家庭は切っても切り離せないだろう?」

 

 自分にとっても身近な英雄譚になぞられ、ベルは首肯する。

 女性が主体の英雄譚もなくはないが、確かに多くの英雄譚で女性は英雄に恋をし、英雄の帰る場所として描かれていた。

 

「他には……月には自分の中の眠っている力を引き出す力があるとも考えられていてね。月を見たから、から始まる何らかの異常はそれこそ枚挙にいとまがない。総括すれば、『月の石』には進むべき道に迷ったとき、迷いを取り去り正しい道へと、光ある場所へと導いてくれる、そんな願いが込められているのさ」

 

 贈り物のチョイスとしては悪い石じゃないぜ。

 そう締め括り、すっとヘルメスはベルの掌へと視線を落とした。

 

「まあこれだけだと少々無骨が過ぎるから……そうだな、石自体は大きめだからどこかで加工してもらうといい。銀細工が得意な冒険者だって捜せばいるし、なんならオレが飛びっきり腕のいいのを紹介しよう」

 

 石に魅入られるようにほけっとしていたベルはそこでハッとした。

 

「これをお礼として頂くのは構いませんか!?」

 

「ああ、構わないよ」

 

(やった!!)

 

 ベルは内心で歓喜した。

 素敵な石を頂いた、という気持ちが三割ぐらいあって、これでこの場から離れられる理由ができたという喜びが七割ぐらいあった。

 

「じゃあ、僕はこれぐぅぇっ!?」

 

「おいおい、そんなつれないこと言わないでくれよ。ほら、もう着いたんだから」

 

 月嘆石をポケットにしまい回れ右。

 が、襟首を掴まれキュッと締まった喉に苦悶の声を漏らしながら、ヘルメスが背中越しに指で指す建物に目を向ける。

 

 いつの間にか風景が代わり砂漠地域の文化圏の色が色濃く表れている中で最も巨大な娼館──というよりは、もはや宮殿。

 王宮を彷彿とさせる威容に、とにかく豪華な金に輝く外装が人目を引く。

 正面の大扉にはヴェールを被り顔の上半分を隠す裸体の女性……娼婦が刻まれたファミリアのエンブレムがあった。

 

「た、他派閥のホーム……?」

 

 え? これから他派閥のホームに踏み入るつもりなの? 僕が? とベルが目と口をあんぐり開けてヘルメスを見ると、ヘルメスはニヤリと片頬を上げてグッと親指を立てた。

 

「それどういう意味なんですか!?」

 

 ベルは泣きたくなった。

 目的地らしい娼館は目と鼻の先で、しかも他派閥のホームっぽい。

 中へ入ったらもう逃げられなくなるとベルは直感したし、不用意に他所のファミリアのホームに入って余計な揉め事を起こすのも不本意だった。

 前者の理由八割後者の理由二割の全会一致で、逃走の決断をベルは下した。

 

「ごめんなさいヘルメス様!! でもやっぱり僕は無理です!! お詫びはこの石で十分過ぎるほどです!!」

 

 一応両者貸し借りは精算したと、ベルが納得できる要因があった事もその決断を後押ししていた。

 が、その決断は少しだけ遅かった。

 

「──わぶぅ!?」

 

「──おっと」

 

 ヘルメスが反応できないよう、Lv.1の冒険者としてベルが持つ敏捷をフルに使って駆け出すための一歩を踏み込み、走り出したその瞬間柔らかな何かにぶつかった。

 頭の上から聞こえてきた驚いたような声に、自分の後ろを歩いていた人とぶつかったのだと直感する。

 冒険者が全力で走り『神の恩恵』を持たない一般人と衝突すればどうなるか。一瞬で駆け巡った思考にベルが青ざめ、しかしその想像は直ぐに霧散するとになる。

 

「へえ……中々そそる顔をしているじゃないか」

 

 ぐっと、慌てて離そうとした体に手を回され、抱き寄せられたからだ。

 

 褐色の肌をした女性だった。

 ベルが歓楽街で目にした女性の例に漏れずその女性も娼婦なのか、露出の激しい紫紺で統一された薄い衣装を身に纏っている。

 アマゾネスの娼婦だ。

 

「すっ、すみません!? あ、あの、あああ、あの!?」

 

 呂律が回らない。

 鼻と鼻が擦れ合いそうなほど近い距離に、今日ベルが見た中でも一際美麗な美貌がある。

 色香の漂う引き締まった体に触れている部分に神経が集中しそうで、ベルは必死で意識を逸らして、出来るだけ顔を見ないように全力で顔を逸らしながら必死に離れようとする。

 

(──う、動けない!?)

 

 しかし、どれだけ力を込めてもベルの体は微動だにしない。

 細腕のどこにそんな力があるのか、冒険者であるベルを真正面から押さえ込む。

 

(まさかこの人も冒険者──!?)

 

 それも、恐らく自分よりレベルが高い。

 どうしていいか分からず、とにかく離れようと藻搔くベルに助け舟を出すようにヘルメスが声を上げた。

 

「やあ、すまないが離してあげてくれないかい? ベル君には刺激が強過ぎるみたいだ」

 

「アマゾネスから男を取ろうってかい? ん……あんたは……今日も来たのか。随分と好色な男神様だね?」

 

「ははは、オレも男だからね。目の前に美味しそうな果実を出されてお預けをされたんじゃ気になって眠れやしない」

 

「イシュタル様の神室に一直線に向かった男神様が何を言ってるのやら。今日は不在だよ、残念だったね」

 

「それはタイミングが悪い。じゃあ仕方ないから今日は諦めるとするか……」

 

 戯けるように肩を竦めて見せたヘルメスは、そこでチラリとベルを見た。

 

(た、助けてヘルメス様──っ!!)

 

 懇願するようにぱちぱちと瞬きを繰り返す懸命なアイコンタクト。

 分かっているさ、とでも言うようにヘルメスは片目を瞑り。

 

「君が今捕まえているのは娼館が初めての少年でね、優しく相手をしてやってくれると嬉しい」

 

 これはその分のヴァリスさ、とアマゾネスに渡されるじゃらりと音の鳴る巾着袋。

 

「ヘ、ヘルメス様ぁぁぁぁぁああっ!!?」

 

 ベルはあらんかぎりに吠えた。

 

「あばよベル君! 存分に楽しんでくれたまえ! 次は男として一皮むけた君と会えることを期待しているよ!」

 

「待って!? 待ってください!? 置いていかないでぇぇえっ!?」

 

「暴れんじゃないよ。今日は不作でろくな男が捕まらなくて暇してたから丁度いい。金は貰ったんだ、心配しなくても天国を見せてやるさ」

 

「すみません! すみません!! あの、あの!? 離してください!?」

 

「私を求めたのはそっちだろう? もうあんたは私の一晩を買ったんだ、往生際が悪いよ。さ、来な!」

 

 娼婦に腕を掴まれ連行されるベル。

 開け放たれている大扉から中へ連れていかれ、はるか上階にまで続く吹き抜けの構造の各階には、客と思われる男性と腕を組みどこかに案内をする娼婦の姿。

 漂ってくる香りは淫靡な甘さを孕み、耳を澄ませば女の鼓膜を溶かすような嬌声が聞こえてくるような、ベルにとっての異世界。

 

「ああ、そうだ。私の名前はアイシャ。それじゃあ……素敵な夜にしようじゃないか」

 

(──あ、食べられる)

 

 妖艶に笑うアイシャを見て、ベルは腹を空かせた獅子の前で震える兎の姿を幻視した。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 兎が獅子に食べられようとしている、まさにその時。

 歓楽街の入り口を背にする男神は。

 

「舞台には引き上げた。君が"器"に足るかどうかをオレに見せてくれ、ベル君」

 

 ニヤついた顔に収まるその瞳には見定めるような冷たい色が宿っていた。




原作との変更点。
→ヘルメス様がベル君を知る経緯
→ヘルメス様の動き
→アイシャ

原作より引用。アマゾネスに捕まりそうになったベル君の心中。
→夢も希望も、憧憬が木っ端微塵に砕け、再起不能に陥る。憧憬の原動力を失い、もう『成長』出来なくなる。確信が、ある。ベル・クラネルはーーベル・クラネルで居られなくなる!

作者の見解。
→【憧憬一途】って懸想が続くかぎり効果が持続するのに一回セッ○スしたら効果が消えるの?それってもうアイズに懸想してないってことだから……純情少年は致した相手を好きになるのでは?あっ(察し)※拡大解釈。

次話。
→……。

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