あの日村に来た怪物がめちゃくちゃ強かった   作:とやる

13 / 13
アストレア様のCVが気になり過ぎる。




ベル・クラネルと重なる姿

 

 高価だと一目で分かる装飾品。一体何ヴァリスするのか想像するのも恐ろしいそれらが並ぶ回廊を歩くのはなんだか落ち着かないが、それ以上に心を乱すのは蜂蜜のように甘く耳を蕩かす女の声だ。

 ここは"そういうことをする場所"なのだから何もおかしくはない。おかしくはないのだが、ウブな少年には毒にも等しい刺激物だった。

 カッと顔に熱が集まり、出来ることなら目を塞ぐように耳の感覚を閉じてしまいたかったが、ヒューマンの体はそうもいかない。

 かといって、この声が聞こえないところまで逃げることも叶わなかった。

 

「一番奥の部屋だが一つ空いてるってよ。運がいいね、待ち時間はナシだ」

 

 隠すところは隠してるんだから文句ないだろ、と言わんばかりの大胆な布面積。アマゾネスの悍婦アイシャによってガシッと掴まれた右手。

 巨大な岩に挟まれてるんじゃないかと錯覚するほどの圧倒的な安定感を女性らしい丸みを帯びた痩身からひしひしと感じる。つまり全力で腕を引っ張ってもびくともしない。ずるずるずる。ベルは引き摺られていた。

 

「すみませんすみませんすみませんっ!? あの、本当に勘弁してくださいっ!! この腕を離してぇ!? 僕っ、本当にそんなつもりなくて! えっと、その、だから!?」

 

 力で敵わないのだからもう嘆願するしかない。

 生娘のようや悲鳴を上げるベルをじろじろと他のアマゾネスや男性客が見るが、そろそろベルにはそれらを気にする余裕すら失われていた。

 腹を空かせた獅子の目の前に放り投げられた兎に周りが見えるものか。

 

「見りゃ分かるが女は初めてだろ?」

 

 ニッとアイシャが笑う。

 

「心配しなくても忘れられない夜になるさ」

 

 ベルは卒倒しかけた。

 

 アイシャの仕草の一つ一つが淫靡なエロスを感じさせるというのも理由の一つだが、それ以上に剥き出しの性欲というやつがベルには少しキツかった。

 女の子に夢を見ているお年頃。同年代の異性との関わりが極端に少なく、さらには一番付き合いの長い異性が神格者であるアストレア。アストレアがそういう女神だったから、ベルは今まで異性に夢を見ることが出来ていたのだ。

 祖父が祖父だけにコウノトリがキャベツ畑から赤ちゃんを運んでくるなんて信じているほど子どもではないが、男と女の獣のような性欲での繋がり合いを受け入れられるほど大人でもなかった。

 

 流石に今から何をするのかぐらいベルにだって分かる。

 でもそれは本当に好きな人になった人とお互いの気持ちが通じ合って愛し合ったその先にあるもっと神聖な行為のはずでだからそれがえっと。

 今それを経験してしまうと憧れとか夢とか心とか、とにかく今のベルの中の大事な男の子の部分がガラガラと崩れてしまいそうで、ベルは心の底からこの場から逃げたかった。

 

「時にアンタ」

 

 嘆願の言葉を吐き続けるベルを見下ろして一言。

 

「腹が減ってるときに食ってくれと目の前に出された肉を我慢できるか?」

 

 がるる。捕食者は逃すつもりなど毛頭なかった。

 

「アマゾネスは"そういう種族"だ。気に入った男はみーんな食っちまうのさ。そこに相手の意思は関係ない。そうやって私たちは繁栄してきた。本能なんだよ。アンタは強い雄じゃないが、妙に唆られる」

 

 ねっとりとした視線が全身を舐め回したようで、ベルの喉がひっと干上がった。

 腕の力は一瞬たりとも緩まない。

 ベルの脳裏に美味しく戴かれて廃人となった自分の姿が一瞬過ぎって、慌ててそれを振り払う。

 

「それともなんだ、私じゃ不満ってのかい?」

 

 そういう訳ではない。ぶんぶんぶん。取れるんじゃないかってぐらい首を振る。

 控えめに言ってアイシャは整った容姿をしているし、大人びた雰囲気は歳上のお姉さんといった感じで魅力的に映る。

 しかしそれはそれ、これはこれである。

 

『据え膳食わぬは男の恥じゃぞ?』

 

 うるさいちょっと黙ってて。ふっと湧いた祖父の幻影に全力パンチ。

 

「私と重なるのが不服な訳じゃないんだろう。全く期待していない訳でもなさそうだ。初めてに不安を感じる必要もないさね。これまで何人も男を食ってきてるんだ、趣味じゃないが……アンタがそれを望むってんなら、とびっきり優しくしてやってもいい」

 

「そ、そういうことではなくっ! 僕はこういうのは好きになった人と、その!」

 

「私を好きにさせてやるさ」

 

「違くてぇ!?」

 

 ずるずるずる。やっぱり腕は振り解けない。

 ここまで来ると半ば狂乱に近い状態にあるベルの頭でも、流石に"レベルが違う"ことを確信する。

 それも一つなんて次元の話ではない。アイシャから感じる強者の空気は、ザニスが霞むほどの濃度がある。

 恐らく二つ以上のレベル差。単純な腕力ではそれこそ赤子と大人のような格差が存在する、生物としてのスケールの違い。

 体に染み付いた技術が腕力以外での脱出方法を無意識のうちに試してはいるが、全く通用しない。純粋な暴力は技術を踏みにじるが、顔色一つ変えず最小限の動きと力でそれらを封殺しているアイシャからは技術と力の両方が見え隠れしている。

 結論。もう何度も確認していることだけど、逃げるの無理。

 

 それでも諦めずに懇願し続けるベルは流石の精神力だったが、女に引き摺られながらのそれは客観的に見てわりと結構だいぶ情けなかった。

 本人は必死なのでそんなこと気にする余裕は吹っ飛んでいるけれど。

 

 だから、ベルは気付かない。

 気に入った相手を問答無用で襲うと言っているアマゾネスが、ベルの不安を取り除くような言葉をかけていることを。

 まるで、泣き叫ぶ人を無理やり犯すことを嫌がるかのように。

 まるで、自分より弱い人を強制的に甚振ることを忌避するかのように。

 アマゾネスの本能とそれを根底から歪めてしまった何かの片鱗を、ベルは見逃した。

 

「だ、誰かー!」

 

 もう独力ではどうしようもなく、遂にベルは第三者に助けを求めた。

 ぐっ。

 冒険者であろう男の腰に手を回して歩いていたアマゾネスの一人が、健闘を祈るようにサムズアップ。

 誰も助けてはくれなかった。

 ベルは泣きそうになった。

 

 しかし、ベルの祈りが通じたのか救いの手は差し伸べられることになる。

 

「アイシャ様……?」

 

 狐人の少女だった。

 きらやかな金の長髪に、同じ毛並みの耳と尻尾。澄んだ泉を思わせる翠の瞳がきょとんと宙ぶらりんになっている。

 そしてなによりその格好。何の変哲もない……というには些か上等過ぎるが、一般的に着物と言われれば一番に頭に浮かぶようなオーソドックスな紅の着物を身に纏っている。

 つまり布面積が娼館の中の女性で一番多かった。

 布面積が一番多かった。

 大事なことなので復唱した。

 

 ほぼ全裸のアマゾネスが徘徊する娼館の中で、顔と手しか肌色が見えない狐人の少女が、ベルには冗談抜きで天の使いのように見えた。

 清楚補正にブーストされちゃったのだ。

 右を見ても左を見ても肌色のこの世界で、この少女だけが救いのようにさえ思えた。

 

 足を止めたアイシャが少女に向き直る。

 

「春姫……」

 

「あ、あの! 助けぶへぇ!?」

 

「あの……アイシャ様。そんなに顔に胸を押し付けてはその殿方が窒息死してしまいます……」

 

「冒険者なんだ、これぐらいじゃ死なないよ。それより……今日は客は入ってないはずだろう。また手伝いか、春姫」

 

「はい。春姫が出来ることはこれぐらいですから」

 

 ふわりと笑って、春姫と呼ばれた少女は両手に抱えた沢山のシーツを軽く持ち上げてみる。

 娼館なので当然ながら毎日のシーツ消費量は半端ではなく、それに伴って洗濯にかかる労力も並大抵ではない。

【イシュタル・ファミリア】はファミリアの規模が大きいこともあり、新人などの下級構成員にそれらを任せることもあれば、業者と契約して効率化している面もある。

 しかし、アイシャは手伝っているのか、と言った。

 どうやら春姫という少女は普段洗濯という雑務をしなくても良い立場なのだろう。

 

「やらなくてもいいって言ってるだろう。そんなことよりも、お前にはもっと……」

 

「いえ……これが春姫のやりたい事なのです。春姫はこうしていたいのです、アイシャ様」

 

「……そうかい。じゃあ、好きにしな。……最期までやりたい事をやればいいさ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 脅威の胸囲から脱出するためもがもがと踠いていたベルの動きが止まる。

 力尽きた訳ではない。感じ取ったからだ。

 

「(今、一瞬この人から助けてって声が聞こえた気がする)」

 

 超至近距離でアイシャに触れていたベルには、何かを呑み下したようなアイシャの一瞬の微細な震えが伝わった。

 

「ところで、その……」

 

 春姫がちらりとベルに視線を向ける。

 

「ああ、こいつかい? 私の今日のお相手さ。どうだい、可愛らしい顔をしているだろう」

 

 ぐりん。両頬を片手で挟まれてベルの首が春姫の方へ回転。

 さっと見えた一筋の光明。うまく喋れないので、ぱちぱちぱちと必死のアイコンタクトを併用してみる。

 

「たふへへ」

 

 届けこの思い。もう貴方しか縋れる人がいない。みこーん。何かに気付いたように春姫の耳と尻尾がぴーんと伸びた。

 

「シーツのお取り替えはお任せください!」

 

「まっへ!?」

 

 違うそうじゃない。コトが終わった後じゃなくてコトが始まるのを何とかしたいんです。

 再チャレンジ。もう後がない。ばちばちばちばち。人生で最速最多のアイコンタクトだった。

 みこーん。ふわふわした狐耳がぴーんと伸びる。そして、さっと美しい顔に朱が差した。

 

「あの、アイシャ様……?」

 

 おずおずと、春姫は隠れるように喉を震わせる。着物の袖で口元も隠したりなんかして。

 とても恥ずかしそうだった。

 

「その……宜しければ、その、えっと、は、春姫が其方の殿方のお相手を努めたく御座います……?」

 

「ふぃはっ!?」

 

 違うそうでもない。自分はチェンジを訴えていた訳ではないのだ。

 それに、そんなに恥ずかしそうにされると凄まじく申し訳ない気持ちが湧き出てくるし、気恥ずかしい。

 お互いに羞恥で顔を真っ赤にしているベルと春姫を交互に見て、アマゾネスの悍婦はケラケラと笑う。

 二人の空気が娼館に似つかわしくない、どこか健全な甘酸っぱさだったから。

 

「春姫、アマゾネスから男を奪おうってのかい。お前も大胆になったねえ」

 

「そ、そういう意図では……!?」

 

「じゃあどういう意図だってのさ。……まあ、そうさね。アマゾネスから男を奪うなら血が流れるのが必定だよ。でも……私が惚れた雄ってわけでもない。それに、他ならない春姫の頼み事だ。いいよ、持ってきな。アンタもそれでいいだろう?」

 

「へ?」

「え?」

 

 ぽーん、と。

 ベルも、春姫でさえ拍子抜けするほど簡単にアイシャはベルを手放した。

 アマゾネスの気質から考えればあり得ないほどに、あっさりと。

 

 ぐいっと押し出されてたたらを踏んだベルが春姫の側へ。

 当の春姫はぽかーんと小さく口を開けて呆けていたかと思えば、悲しげに目を伏せた。

 

「金は貰ってんだ。しっかり"おもてなし"をしてやるんだよ」

 

「……はい。申し訳ありません……アイシャ様」

 

「……言っただろう。やりたい事をやればいい。……それぐらいしか、私には……」

 

 最後の言葉は消え入るような小ささで、誰かに聞かせるというよりは自分を責めるような言葉の響きだった。

 

 二人はそれなりに深い関係性なのだろう。それは見ていて分かった。お互いのこともたぶん、結構知ってるんだと思う。

 だけど、アイシャと春姫の間には壁があるような気がした。

 バツの悪い顔で二人のやりとりを見ていたベルはそう思った。

 そして、普通に過ごしていたのなら直ぐに無くなりそうな低い壁だとも思った。

 

 さてさて。

 何をやっても抜け出せそうに無かったアイシャの拘束が外れ、現在ベルはフリーである。

 ちらりと春姫を見る。沢山のシーツで両腕が塞がっているし、佇まいから戦う者の気配を感じない。多分捕まらずに逃げられるだろう。

 アイシャを見る。下唇を噛んでいるのか、口元に少しシワが寄っていた。距離は数メルほど。走って逃げてもすぐに捕まる距離だった。

 

 けれど、アイシャはくるりと背中を見せて歩き出した。

 状況だけを見れば、アイシャはヘルメスからヴァリスを対価にベルの夜の相手を務めようとしていただけである。そこにベルの自由意志が介在していなかったという点に目を瞑れば、ベルは成立した売買契約にゴネまくるモンスタークレーマーだった。もちろんベルにはベルの言い分があるのだが、このままアイシャを行かせてしまうのは筋が通っていない気がしたのだ。

 

「あの、アイシャ……さん!」

 

 だから、ベルは咄嗟に声をかけていた。

 

 無言で、首だけでアイシャが振り向く。

 切れ長の目がすっと細まり、息を飲むような美しい横顔にドキリと心臓が跳ねた。

 

「色々とすみませんでした……!」

 

 ガバッと頭を下げる。

 アイシャはぷっと吹き出すと、ケラケラと笑った。

 

「アンタ、律儀なやつだね」

 

 ベルの経緯から何まで、おおよそ察しはついていた。

 自由奔放な神様に子供たちが振り回される。オラリオじゃ何処にでもある光景。

 なら何故ベルを放さなかったのかと言えば、それはもうアマゾネスだから以外の理由はない。

 そういう種族なのだから。

 

「ま、安くない金出してるんだ。買った夜の時間分は楽しんできな。心配しなくても私は消える。部屋の中には誰も入りやしないさ」

 

 それが暗に"部屋の中でのこと"に関与しないと言っているのだと分かった。

 つまり、"娼館で当たり前にやること"をやるもやらないもベル次第だということ。

 急な心変わりだとは思ったが、ありがとういう感謝の気持ちを込めてもう一度頭を下げた。

 

 その時だった。

 

「──この気配ッ! おい! さっさと隠れな!!」

 

「うぁ!」

「みこっ!?」

 

 顔色を変えたアイシャが一瞬でベルと春姫の首根っこを掴み、近くにあったリネン室に放り込み扉を閉める。

 反応できない速度と抵抗出来ない力だった。

 胸から床に落ちたベルの背中に同じく放り投げられた春姫が飛び込んできて「す、すみません!?」ぐえっと潰れたカエルのような声を出すベル。

 一体何事かと振り向けば、

 

「ゲゲゲゲ。男の臭いがするなァ〜。それも青い男の臭いだ。ゲゲゲゲッ」

 

 扉一枚隔てた向こう側から、カエルのようなしゃがれた声が聞こえた。

 

「(──お、悪寒ッ!!)」

 

 ぞくり。背中に氷柱を差し込まれたような冷たい感覚。

 全く理由は分からないが生存本能が"死ぬぞ! 逃げろ! 早く!! "と叫んでいた。しかも過去最大急の。

 兎を狙ったハンターが弓に矢をつがえ、発射の瞬間を今か今かと待ち構えられているような、そんな気分。

 この扉の向こうには、トテツモナク危険なナニカがいる。

 直ぐ近くには見るからに戦えなさそうな春姫。あいたたた、とお尻をさすっている。どうやら外の気配には気付いていないようだ。

 半ば無意識にベルは直ぐにでも春姫を連れて逃げ出せるように、細く柔らかい手を握る。

 

「ぁ……」

 

 春姫の頬に朱が差した。

 

「その……ここで、致すのでございますか?」

 

 何か盛大な勘違いが巻き起こっていた。

 

「い、いくら娼婦といえど、春姫は恥ずかしゅう御座います……。しかし、殿方が卑しきこの身体を求めておられるのなら……えいっ」

 

 着物の胸元に手をかけたかと思えば、ぐいっと左右に引っ張る。眩しいぐらいの白い肌と、こぼれ落ちそうなほど豊かな双丘がベルの視界に飛び込んできた。

 ぷるんっと揺れた。揺れた。ベルの知能指数が一瞬著しく下がり、戻る。謎の重力で引きつけられる視線を必死に背けながら、真っ赤になって小声で叫ぶ。

 

「わあああああっ!? 何してるんですか!? 何してるんですか!?」

 

「……? 春姫の体を求めておられるのではないのですか? あんなに熱い視線で春姫のことを見つめてらっしゃられたのに……」

 

「違いますよ!? 僕は貴方に助けを求めてたんです!」

 

「殿方の激しい獣欲を、どうかこの春姫を使ってお鎮めくださいませ」

 

「そういう"助けて"じゃないんですってばぁ!? なんでそうなるの!? 娼館だからか!」

 

「しないのでございますか? は、春姫の方からご奉仕しろ、ということでございましょうか。まだまだ至らぬ身ではありますが、心を込めておもてなしをさせて頂きます……! ……えっと、お召し物をしっ、失礼します!」

 

「待ってください!? 僕の服に手をかけないで!?」

 

 ぴょこぴょこと耳と尻尾を揺らし、顔に熱を集めながら抵抗する男の服を脱がそうとする半脱ぎの春姫。

 恥ずかしくて仕方ないはずなのに、いやに積極的だった。エロ狐だ。

 

 がしっと春姫の両手を掴む。

 

「(震えてる?)」

 

 一瞬そこに疑問を覚えたが、はだけた着物を纏う春姫は凄まじく煽情的で目の毒だった。自分を律しながらベルは必死に自分にそういうつもりはなく、アイシャから助けてもらうために偶然通りがかった春姫を頼ったことを伝えた。

 伝わるかどうか少し不安だったが、春姫はベルの意図を理解したようで、そうでございましたか、と頷いた。

 

「先程は失礼しました……」

 

 しゅんと肩を落とした春姫が着物を直す。

 しゅるしゅるという衣擦れの音が変な想像を掻き立てて、それを無理やり意識から追い出した。見ないように背中を向けるのも忘れない。

 

「その……だから、僕は貴方に助けられたんです。ありがとうございました」

 

「私などがお力になれたのならそれに勝る喜びはありません。えっと……」

 

「あ……、そういえば自己紹介がまだでしたね。僕はベル・クラネルです」

 

「では、ベル様と。私は春姫と申します」

 

「ベル様、か……」

 

「お気に召さなかったでしょうか……申し訳ありませんっ」

 

「あ……いえ、そういうわけじゃないんです! 気にしないでください」

 

「よろしいのですか……?」

 

「はい。春姫さんの好きに呼んでください」

 

 積んであるシーツに背を預け、二人は隣り合って座る。

 

「時間が来たら春姫が抜け道までご案内致します。きっと、ベル様は娼婦の方々が少ない道の方が良いでしょう」

 

「え、いいんですか!?」

 

「構いません。それに……春姫のおかげで助かったと言ってくださるベル様のために、もう少しだけ張り切りたくなったのです」

 

「何から何まで本当にありがとうございます……!」

 

 歓楽街に足を踏み入れてからベルは感情の入れ物が壊れそうなぐらいいっぱいいっぱいだった。

 エロい娼婦。ぶつけられる"ガチ"の性欲。自分を娼館に放り投げてトンズラした神様。

 そんな中で、唯一春姫だけがベルを助けてくれた。

 感極まりそうだった。

 

「このお礼はいつか必ずします! 何か僕が力になれる事があれば何でも言ってくださいね!」

 

「……いいえ。お気になさらないでください。ベル様のそのお気持ちだけで春姫は十分に満たされております」

 

「えっ、そういうわけには……」

 

 ぐむむ。渋るベルはヘルメス様もこういう気持ちだったのかな、と思った。

 なるほど、確かにこれは居心地が悪い。受けた恩は返したくなるものなのだ。それがベルという少年の善性だった。

 そこで、ふと思い出す。そういえば、ヘルメス様から贈り物にでもすればいいと何か貰ったような。

 

 ポケットの中をまさぐると、冷たい感触が指先に触れた。摘んで引き抜く。銀紐を通した月嘆石が青白く滲んでいた。

 

「……っ」

 

 隣で息を飲む気配。

 首を向ければ、春姫は食い入るように月嘆石を見つめていた。

 欲しいのかな? とベルは思った。綺麗な石だし、宝石とまではいかないけれど、例えばイヤリングとか、簪とかに加工すればそれなりに映えるものとなるだろう。

 神様から頂いたものではある。が、誰かに贈るといいと貰ったものなのだから、手放すことに特に躊躇いはない。

 

「この石が気になりますか?」

 

「……ぁ、いえ、そのようなことは」

 

「大丈夫ですよ、これは頂き物ではあるんですけど、贈り物にしなさいって貰ったものでもあるんです。だから、良かったら春姫さんに差し上げます」

 

 もちろんこのままだとちょっと無骨だから、何かに加工してからにしようと思います、とベルは付け足した。

 春姫のきらやかな金の長髪を見て、簪なんて似合いそうだな、なんて思う。

 

「……」

 

 春姫は下唇を噛んで俯いた。一瞬後には、ふわりと微笑みを口元に刻んでいた。

 

「……また、春姫に会いに来てくださるのですか?」

 

「あ、そうなりますね。……えっと、ダメだったらまた別の……」

 

「いえ……いえ。ダメでは……御座いません。ただ……」

 

「ただ?」

 

 ぐっと、春姫は唾を飲み込んだ。

 

「……春姫はファミリアの方針で歓楽街から離れられません。ですから、春姫と会うには……また、春姫の夜を買っていただかなければなりません。それは申し訳なく御座います」

 

「……だ、大丈夫です! 僕、こう見えても冒険者だから!」

 

 ヘルメスがアイシャに渡したヴァリスを記憶から掘り返してちょっと青ざめそうになったが見栄を張った。男の子だもの。

 新人冒険者ではあるが急成長により到達階層が伸びていることもあり、現実問題もう一度春姫との一夜を買うこと自体はそう難しいことではなかった。ベルの心情を無視すれば、だが。

 

「だから、またこうやってお話ししましょう。オラリオに来るまでは旅をしてたから外の世界の話も、ダンジョンの話題もありますから、退屈させないように頑張ります!」

 

「ベル様は旅をなされていたのですね。外の世界……それは、春姫も聞きとう御座います」

 

 春姫は、とても儚く、微笑んだ。

 

「……ベル様のお気持ち、大変嬉しゅう御座います。ベル様が春姫の夜をもう一度買ってくれる日を待っております。そして……もし、春姫を買う事が出来なかったのなら。どうか、春姫のことは忘れてください。それが春姫の心からの望みで御座います」

 

 その微笑みに息が詰まった。

 何故か胸が締め付けられるようだった。

 後半の言葉の意味は分からなかったが、何かとても暗く重いモノが伸し掛かっているような気がした。

 

 どういうことですか、と訊こうとした。

 悲しんでいる誰かを見過ごす事を少年の正義は激しく拒絶したから。

 

 だが、ベルが口を開くその前に。

 

「おい! アイシャぁ!! ふざけんじゃないよぉ〜〜!!!」

 

 壁の向こうからの怒号がベルの言葉をかき消す。

 びくっと肩を跳ねさせるベルと春姫。

 今まで意識して無視していたアイシャとしゃがれたカエル声の言い争いの雰囲気が変わる。

 経験した事のない威圧感を壁の向こうに感じた。

 

「ふざけるも何もお前の勘違いだって親切に教えてやってんだよクソヒキガエル」

 

「そうやって独り占めしようたってそうはいかないよぉ〜〜! アタイの勘がここに居るって言ってんだ、さっさと隠した男を出しな!」

 

「遂にそっちの感覚もイカれたか? ちょうどいいからそのまま一生ホームから出てくるな同族の面汚し」

 

「アイシャ〜〜、今日は久々に随分と舐めた口を聞いてくれるじゃないか、えぇ?」

 

「……っ、私はいつも通りだよ。目が腐ってんのかい? ああ、腐ってなかったらその汚え面で外歩けないね、私が間違ってたよ」

 

「言うじゃないか、アイシャ……!!」

 

 空気が変わる。

 

 腹の底に響くような怒りの声音。

 耳が拾うだけで震え上がりそうになる。歯を食いしばって耐えるベルの横で、カタカタと春姫が震えていた。

 

「春姫さん……!?」

 

「いけません……いけません、アイシャ様……!」

 

 掠れるような声で春姫が悲鳴のように喘ぐ。

 次の瞬間、リネン室から飛び出して行きそうになった春姫の手を咄嗟に掴む。今までからは信じられないような鋭い目付きで睨む春姫。だが、行かせるわけにはいかなかった。

 今、あの扉の向こうではベルが経験したこともないほどの濃密な"暴力の気配"があった。

 

 ベルが想像すら出来ないほどの強者が出す戦いの臭い。

 それがぶつかり合い、吐き気を覚えるほどの圧力となって空間を軋ませている。

 そう、ぶつかり合い……。

 

 空気が変わる。

 

「アイシャ。一度しか言わない。吐きな」

 

「……ぁ、ぐ、こ、ことっ、ぁ……!」

 

「ゲゲゲゲッ、どうしたアイシャ〜〜、そんなに震えてちゃ聞こえやしないよぉ〜〜。アタイは男を何処に隠したか聞いてるんだ、なぁ?」

 

「お、お前、に……教える……ことは……!」

 

「そんなに馬鹿だったか? ゲゲゲゲッ、また痛めつけられたいようだねえ!! 意識が飛ぶまで叩き潰して、意識が戻るまですり潰して、イシュタル様の神室まで運んでやろうか? こんな風にねぇ!」

 

 何か弾力のあるものを殴ったような音が波打つように響いた。

 

「ぁ、ぐ、うっ……おぇぇぇえっ!!」

 

「きったないねぇ……同族の面汚しはお前だよアイシャ! お前ほど醜く弱いアマゾネスをアタイは知らないねぇ! なあ、アイシャ。そんな弱いお前一人だけじゃ心細いだろうから……優しいアタイは、お前が面倒を見てるブスどもを何匹か一緒に壊してやるよ。嬉しいだろう?」

 

「や、めろ……約束が、違……う……」

 

「約束ぅ? アタイに反抗したのはお前だろうアイシャ。殺生石を壊した一回目。癇癪を起こしたイシュタル様に甚振られた二回目。二度のお仕置きでまだ歯向かう気概が残ってたお前が悪い」

 

「な、違う……! フリュネ、やめろ! 私は……もう……! 私にはもう……!!」

 

 カチカチと歯を震わせながら、嗚咽の混じった声だった。

 

 これは誰の声なのだろうとベルは思った。

 思い返してみる。ああ、近い声質の人がいた。

 アイシャさんだ。あの人の声は、あんな感じだった。あんな風に、弱々しくて、悲痛で、震えていて……。

 

「(違うだろ)」

 

 爪が砕けそうなほどベルは拳を握りしめていた。

 

「なあ、アイシャ。吐きたくなるまで殴ってやるよ」

 

 事情はわからない。話は全く見えてこない。

 けれど、今この場において"何が悪なのか"だけはこれ以上ないほどに分かったから。

 

 迷いはなかった。

 

 もう限界だと、声を張り上げ、ベルを引き摺ってでも進もうとしていた春姫を制して、ベルの脚は動き出していた。

 

 扉を蹴り破る勢いで開けた。

 視界に入ったのは、吐瀉物の水溜りに沈むアイシャと、そのアイシャの顔を潰すように拳を振り下ろそうとしているニメルを越えようかという巨体のアマゾネス。

 

「──」

 

 バチリ、と頭の奥で雷が疾る感覚があった。

 瞬間的に燃え上がった感情が猛り、ベルの正義が叫ぶ。

 

 今、ここで。

 あの人を傷つける悪を見過ごしてはならないと。

 

「やめろッッッ!!!」

 

 アイシャを助けなければというベルの心に呼応して、ベルの中から雷が溢れ出す。

 ()()()()()()()()()()()がベルの身体能力を爆発的に高め、限界を超えた高速移動を可能にした。

 

 拳が床を穿つ──直前で静止した。

 爆発したかのような強い風圧が周囲を席巻。

 場を飾っていた調度品が木葉のように吹き飛んだ。

 それがおさまった後、巨体のアマゾネスはジロリと右前方に視線を向ける。

 

 そこには、片膝を突きアイシャを抱き抱えたベルがいた。

 

「──お、お前……」

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 アイシャが信じられない物を見た、とでも言うように目を見開く。

 すぐに、何故出てきたと怒りの感情が表出するが、ベルにはアイシャに気を裂く余裕すらなかった。

 

 短く浅い呼吸。

 朝、目が覚めた瞬間に全力疾走を行ったかのような突然の全開駆動に体が付いていっていない。

 叩き起こされた神経が悲鳴を上げていた。

 

 だが、それが理由ではない。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 引きつりそうになる喉を必死で動かし、止まりそうになる呼吸を全てを懸けて継続する。

 そうしなければ、今すぐにでも生きることを諦めてしまいそうなほどの重圧が、プレッシャーが、ベルの全身に突き刺さっていた。

 

「──なんだ、やっぱり男がいたじゃないか。ゲゲゲゲッ」

 

 のそり、と巨体が持ち上がる。

 その動作は巨体故にどこか遅かったが、ベルは知っている。

 

「(今、この人、僕の動きを完璧に捉えていた──!)」

 

 拳は当たらなかったのではない。当てなかったのだ。

 例えばそれは、象が突然足元に飛び込んできた兎を踏み潰さないようにする事に似ていた。

 それも、全力で踏み潰されにくる兎相手に。

 余程の反射神経があるか、または両者の間に隔絶した"差"がなければ不可能だ。

 

 この場合は、全てが当てはまる。

 

「白い髪にあどけない顔立ち。ゲゲゲゲッ、あたいの好みの男じゃないか。えぇ?」

 

 舐めるような視線がベルの体を這う。

 カエルのように平たい両眼が細まり、ニタニタと大きな口が三日月を刻む。

 青紫の舌がやけにゆっくりと唇を舐めた。

 その全ての所作からアマゾネスの滾る性欲が溢れていて、普段のベルなら情けない悲鳴を上げてもおかしくはない状況。

 

 だが。

 

「──っ、はっ、ッ!!」

 

 干上がる喉。

 呼吸が上手く出来ない。

 今すぐにでも吐いてしまう緊張感。

 肌で感じる脅威が尋常ではない。ベルにはそのアマゾネスが理解を超える化け物にさえ見えていた。

 それは、命の危機に瀕した生物が出す危険信号。

 ベルの全身全霊が"今すぐコイツから離れろ"と叫んでいた。

 

「──っ」

 

 だが、腕に抱えているアイシャの震えがベルの足を止めた。

 このままベルが逃げてしまえば、その後アイシャがどうなるかなど考えるまでもない。

 

 それに。

 姿格好や種族からして目の前のアマゾネスはアイシャと同じ【イシュタル・ファミリア】の構成員で間違いはない。

 同じファミリアの中で、一方的に嗤う者と涙を流す者がいる。

 それが、ベルの記憶を刺激して魂を強烈に揺さぶった。

 

 悲しんでいる誰かに手を伸ばす。

 己の中の正義を持って、怯え震える自分を必死で噛み殺しベルは立ち上がった。

 

「やめろ……! 馬鹿なことを考えるな! 逃げ……っ!?」

 

「──同じファミリアの家族じゃないのか」

 

 横に寝かせたアイシャがベルの足首を掴もうとして雷に弾かれる。

 巨体のアマゾネスと対峙するだけに全神経を集中させられているベルはそれに気づかない。

 春姫が泣きそうな顔でアイシャを抱き上げる。

 巨体のアマゾネスは口角を釣り上げた。

 

「へえ、向かってくるんだねえ。お前にはどうでもいいことだろう。それとも……そこのブス女に惚れでもしたか? 見る目がないねえ」

 

「……他派閥の揉め事には首を突っ込むべきではないのはその通りです。でも、僕は貴方のしたことを、これからする事を見て見ぬ振りはできない」

 

「……生意気な口は身を滅ぼすよぉ〜。ゲゲゲッ、天国を見せてやるつもりだったが、キツい方がお好みかあ?」

 

「僕は貴方の行いを見過ごせない」

 

「だったらどうするんだい? はいそうですかとアタイが言うとでも?」

 

 はぐらかしもしないその受け答えは、ベルが決意をするのに十分過ぎた。

 

「──ゲゲゲゲッ! おいどうしたあ? 一丁前に構えて……まさか、アタイとやるつもりかい? しかもそのブス女を守るために? ゲゲゲゲッ!!」

 

「アイシャさんをこれ以上傷つけさせはしない!」

 

「言ったはずだよ。生意気な口は身を滅ぼすと!」

 

 発せられた怒気を浴びただけでベルの足が竦んだ。

 反射的に逃げ出さなかったのは、みっともなく震えた体が咄嗟に動かなかったからだ。

 

 頭では分かっている。

 ここは他派閥のホームで、しかも都市有力派閥【イシュタル・ファミリア】だ。

 

 聡明な人物ならまず関わらない。

 普通の人なら見て見ぬ振りをする。

 馬鹿でも触らぬ神に祟りなしと首を突っ込まないだろう。

 

 オラリオに来て日が浅いベルでも、他派閥と事を構えることが……さらに他派閥のホームでそこの構成員相手に戦うことがどれだけ不味いことか、【ソーマ・ファミリア】との一件の後ソフィに教えられたので知っている。

 

 でも、それでも。

 

 血を流し倒れているアイシャの姿が、重なった。

 同じファミリアの家族にゴミ同然の扱いを受けていた小人族の少女に、重なったから。

 

 ベル・クラネルの正義はここで退く事を決して許さない。

 

「【アーティファクト・ケラウノス・レプカ】ァァァ!!!」

 

 躊躇いはなかった。

 意識的に作られたおまじないのトリガーが引かれ雷が顕現。

 白雷が轟き、纏わり付くようにベルの体を疾り、空気が悲鳴を上げる。

 男と女が性を貪り合う娼館に開戦の雷鳴が鳴り響いた。

 

「(──意識は、ある!!)」

 

 リスクを無視して呼び覚ました"おまじない"。

 それがなければ詰むと直感した。

 それがなければ死ぬと確信した。

 これは、まずこの賭けに勝たなければ席に着けない、そういう勝負だった。

 

「(まずはこの人をアイシャさんから引き離さないとッ!!)」

 

 全身を焼く雷と神経を直接貫かれているような痛みに奥歯を噛み砕きながらベルは、巨体のアマゾネスに突進し──。

 

「やめろフリュネッッッ!!!」

「いけませんベル様ッッ!!!」

 

 パン、と。

 水っぽい何かが弾ける音が響いた。

 

「──────」

 

 水風船というものがある。

 薄いゴムの皮の中には空気と水があって、張り詰められたゴムの皮は適度な弾力を兼ね備えている。

 強い衝撃を与えると高い破裂音とともに弾け、中の水を周囲にばら撒いてしまうものだ。

 

 水風船なら飛散するのは水だけだが、これが人間ならどうだろうか。

 皮膚という皮の中には血液や筋肉、臓器や骨などあらゆるものが詰まっている。

 強い衝撃を水風船に加えると、水風船は弾けてしまう。

 では、とてつも無く強い衝撃を受けた人体は、どうなるのだろうか? 

 

 まずすぐ近くでガラスが粉砕する音が響いた。

 一瞬遅れて、バケツをひっくり返したような血液の雨が床に落ちる音がした。

 

「あぁ?」

 

 フリュネが怪訝な顔で己の掌を見つめている。

 その手は真っ赤に染まっていた。

 

「──ぁ」

 

 腰が抜けたように春姫が崩れ落ちる。

 その目は、粉砕された窓と人間の体の中の血液を余さずぶちまけたような惨状の通路を、ゆっくりゆっくり、行き来していた。

 

「──」

 

 言葉もなくアイシャは立ち竦んでいた。

 目で捕らえきらず何が起こったのか頭が追いついていない春姫とは違い、アイシャは全て見えていた。

 

 フリュネの平手がベルの体に触れた瞬間、白い兎の体が弾け、赤黒い肉の塊となって吹き飛んだのを。

 

「……見るな、春姫」

 

 せめて、狐人の少女の目を手で覆うことが。

 アイシャに出来る、たった一つ残された事だった。

 

「……よりにもよって春姫の目の前で死にやがった。恨むぞ、ベル・クラネル。……だから、やめておけと言ったんだ。私にはお前が死ぬ価値すらなかったのに」

 

 満月まで、残り十一日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか月の光は消え、暗い暗い夜を、厚い雲が覆っていた。

 誰からも忘れられた寂れた通路には、一切の光が届かず、誰のものとも分からないゴミの山が積まれていて。

 そこに、空から闖入者が現れた。

 

 ボゴン! とゴミ山に激突したそれはピクリとも動かない。

 赤黒い肉の塊のような物体だ。微動だにしないからか、生物であるかどうかさえわからない。

 かと思えば、よく見ると不規則に痙攣を繰り返しているようで、恐らく何かの生物ではあるのだろう。

 逆に言えば、それが生物だと判別できる要素は、不規則に抹消部分がぴくぴくと痙攣するその動きだけだ。

 

「──ぅ、ぁ」

 

 ずるずる、と。

 赤黒い塊は、立ち上がることも出来ないまま、冷たい地面の上を這うように動き出した。

 ゆっくりと、緩慢に。

 その方向には、隠微な光が溢れる遊郭があった。

 

「た……す……ける、……だ……」

 

 マッチの火のような拭けば飛ぶ掠れ声。

 立ち上がることさえ出来ず、全身を使って、芋虫のように地を這って進んでいる。

 剥き出しの石畳は氷のように冷たく、赤黒い塊が這ったあとには真っ赤な血が擦り付けられていた。

 

「ぼ……く……が、たす……け……、…………」

 

 緩慢な歩みが、止まる。

 力尽きたようにぴたりと動きが止まり、ぐじゅりと溢れた血が広がっていく。

 その様子はまるで、奇跡的に形を保っていた体が崩れていくようだった。

 

 暗い、暗い夜の中。

 光溢れる遊郭とは真逆の、されど隣り合わせるように存在するダイダロス通り。

 光届かぬ闇の中で一人、少年は死にゆく。

 

「やっべえ、早く戻んねえとみんなに心配かけちまう」

 

 ぽうっ、と。

 遠くに、小さく淡い、しかし確かな光が見えた。

 それは、子供が早足で歩いているような速さで、徐々に近くなっていく。

 

「でも、今年は学区がオラリオに帰ってくるって分かっただけでも朗報だ。学区で学んで、母さんたちを楽にしてやりたい。……冒険者には多分なれねえしな。今日聞いた、噂の冒険者みたいには……」

 

 徐々に、徐々に、光が近づいてくる。

 

「ってか、こんなに遅くなったし、もしかしてみんな俺のこと探してるか? ……早く戻んないと!」

 

 光が近づくスピードが少し上がった。

 そして、気付く。

 

「……ん? なんだこのゴミ。……うわぁ!? こ、こここ、これっ、人間!? 人間が死んでる!?」

 

 蝋燭のような火に照らされた死体が突然足元に現れて、思わず子どもは悲鳴を上げた。

 甲高い声がダイダロス通りに木霊する。

 

「その声……ライぃっ! そんなところにいたの!! 今何時だと思ってるのー!」

 

「げえっ!? シル姉ちゃんの声だ! そっか今日シル姉ちゃんが来る日だ……。……やっぱみんな探してたんだな……ってそんな場合じゃない! シル姉ちゃぁああん!! ヤバい! 死体があるー!」

 

「えっ、死体ですか!?」

 

 慌ただしい声とともに魔石の灯りを持った少女が現れ、子どもを庇うように前に立つ。

 さっと周囲を警戒し、素早く周囲に明かりを向け危険を探す。

 ひとまず誰も居ないことが分かり、ほっと肩を撫で下ろした。

 

「大丈夫、みたいですね……。もう、ライ。こんな夜遅くまで出歩いたらだめって、マリアさんにも言われてるでしょう」

 

「ごめん、ごめんだけどここで説教は勘弁してよシル姉ちゃん!?」

 

「あっすみません。……この方には悪いですが、今はこの場を離れましょう。……ごめんなさい。明日、弔いだけはしますから」

 

 一先ずの安全を確認したとはいえ、死体がここにある以上、何か物騒なことがあったのは間違いない。

 速やかにこの場を離れようとした──瞬間、少女の目はあるものを捉えた。

 ぴたりと、少女の足が止まる。

 

「シル姉ちゃん?」

 

「ちょっと待って」

 

 少女が明かりを向けた先が照らされる。

 それは、赤黒い塊を照らし、次にそのすぐ横に向けられた。

 そこにあったのは、一本の木の棒だった。

 いや、それは、木の棒を加工した、

 

「──これ、リューの木刀……?」

 

 見間違えるはずもない。

 少女、シルが見たのは、自身の同僚が使う武器と瓜二つの木刀。

 それが、転がっていた。




弱さは罪ではない。だが、弱さは己の咎になる。
正義や正しさで誰かが救われるのなら、この世界はもっと優しかった。
折れた剣。もがれた翼。
少女の目には、その姿が誰かと重なって見えた。

次話。
→ベル・クラネルとシルという少女
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。