状況に頭が追いつかない。
まるで現実感の伴わない対岸の火事の出来事を眺めるように、放心したベルはソレを見ていた。
だってソレは、ベルの常識では──ベルの知っている正義ではあり得ない光景だったから。
細い首を鷲掴みにされて持ち上げられ宙ぶらりんになる子ども。
次の瞬間には拳が飛んでくると理解できるほどの怒りの感情を発露させた血濡れの男と振りかぶられた対の腕。
そして、想像通りに。予定調和のように男の拳が子どもに突き刺さった。
グシャリ、と耳に残る嫌な音がした。
遅れて、ゴツン、と頭から地面に叩きつけられた子どもが重い衝突音を発する。
外れたフード。そこから覗く顔は人間の子どもにしては垢抜けすぎていて、恐らくは
身綺麗にすれば整っているだろう顔立ちも、今は薄汚れ灼熱の痛みに絶叫をあげる顔は酷く歪み、額が裂けたのか見る見るうちに広がる自身の血溜まりに沈んでいる。
ここで、ようやくベルの思考が現実に追いついた。
「──やめろ!!」
腰に吊っていた木刀を抜き放ち、少女の頭を踏み潰す勢いで振り下ろした男の足を受け止める。
(重ッ──!)
痺れるような手応え。
一瞬押し込まれそうになるが、男に肉薄する抉りこむような踏み込みがそれ以上後退する事を許さない。
少女にとって致命打になるであろう踏み付けは、少女の頭のほんの数セルチ上で阻まれた。
「おい、どういうつもりだ坊主。怪我したくなかったら邪魔をするな」
「それはこっちのセリフです。──いったい、どういうつもりですか」
「どうもこうもあるか。こうでもしなきゃ腹の虫が収まらねえ」
怒りの形相で吐き捨てる男。
少女が取り落とした剣を拾い、鋭く空を斬る所作からは確かな経験と実力を見て取ることが出来る。
先達の冒険者。その男が、ベルを忌々しげに睨む。
「2度は言わねえぞ、退け」
「嫌だ。何があったか詳しくはわからない。でも、貴方がこれからしようとする事を僕は見過ごせない」
男の怒りようは尋常ではない。
だが、今もなお苦悶の声を上げ蹲る少女の前からベルが退けば、この男はきっと更に荒ぶる感情のままに暴力を用いる。
それを理解してこの場を離れるのは──正義ではない。
「この子は確かに貴方の剣を盗んだのかもしれない。でも、だからといってこの子を傷つける理由にはならない」
「いい度胸だ坊主。正義ヅラしてえ年頃なのかもしれんが……現実を教えてやる!」
既に怒りで思考が短絡的になっていた男がベルに向けて剣を振り下ろす。
ベルはそれを真正面から木刀で受け止めた。
(ぐっ──!)
腕から身体に駆け抜ける衝撃はやはり重い。
だが、それ以上に容赦なく人を剣で斬ろうとする事の出来る精神性と、躊躇いなく頭という急所を狙ってきたという二つの事実がベルの心にのし掛かる。
ここは往来。日も暮れる時間のため少ないが人の目が無いわけではない。
如何にギルドが冒険者が起こす騒ぎに多少は目を瞑る傾向があるとはいえ、流石に殺人を放置する治安維持組織は存在しない。
それは男も理解しているはずだ。だからこそ、ベルは男の態度を脅しの意味合いが強いと踏んでいた。
さらに、人の目があるということはギルドに報告が入るという事でもあり、この場に留まり続けるのなら遅かれ少なかれギルドから仲裁が入るだろう。
だが、男から発せられるのは猛々しい殺意。
ベルは気付くべきだったのだ。
男が後の事を考えることの出来る精神状態だったのなら、初めから少女に暴行をする事がなかった事を。
暴力によって怒りを発散しようとする男に躊躇の二文字はない。
男の猛攻にベルは守勢に回らざるを得なかった。
単純にベルと男の【ステイタス】に開きがあるというのもこのワンサイドゲームの原因のひとつだが、その主要因はベルに根付く正義の文字。
自身の命が逼迫する状況でさえ、ベルは人を傷つける事を良しとしなかった。
アストレアは──アストレアの正義はそれをしないからだ。
「──げほっ、ぅ、ぐぅ……、あぁっ!」
此処にいるギルドに見つかれば不味い人物は男だけはない。
少女もまたギルドの厄介になるのは避けたい後ろ暗い背景がある。
攻撃を悉く捌くベルに業を煮やす男に気付かれないよう、少女は移動を開始した。
絶叫をあげる痛覚に苦悶の声が漏れ、殴られた頭は重く視界は霞みがかったようにボヤけている。
ただこの場にいては不味いという認識だけが少女を突き動かす。
幸いなことに最早目障りなベル以外眼中にない男は気がつく事がなく、少女は薄暗い裏路地に辿り着く。
少女にとって今日は厄日だった。
数週間前からサポーターを務め、当たり前のように行われる少女の尊厳を踏み躙る男のパーティーの待遇に媚びるような笑顔で耐え続け、ようやく、今日その男たちを罠に嵌める日だったというのに。
怪物を誘き寄せるまでは良かった。だが何故か想定より怪物が集まらなかったのが大問題だった。
結局、怪物の包囲網を抜けた男がこうして少女を追いかけてきてしまった。
逃走の邪魔をしたあの白い髪の少年さえいなければ、と少女は内心で唾を吐く。
匂いでわかる。あの少年のように、過酷で非常な醜い現実の闇を知らず光の中を生きてきたような人間が少女は大嫌いだった。
自分を庇ったのもどうせ自己満足の薄ら寒い正義感。
ズクリと痛んだ気がした心を無視してそのまま死んでしまえと内心吐き捨てた少女は、近くで聞こえる剣戟の音を背中にこの場を離れようと、痛む身体に無理を通し足を前に出す──その時。
「──よお、アーデ。こんな所で奇遇だな」
(──本当に、今日は厄日です)
醜悪な笑みで顔を歪ませた男たちが、暗がりから滲み出るように少女の前に現れた。
「随分な身なりだな。おお、痛そうで痛そうで俺ぁ心が痛いね」
嘘だ。
少女の姿を見て下卑た目を細める獣人の男──カヌゥ。
この男に少女を慮る心などカケラもない事を少女は知っている。よく、知っている。
その証拠に、男たちはニヤニヤと笑うだけでポーションを取り出すことも、心配に駆け寄って治療する素振りすらない。
「ドジ踏んだのか? ああ、いや、答えなくていい。興味はないから、なあ!」
「がはっ──!」
無造作に振るわれた拳が少女の顔面に突き刺さる。
腕を上げ庇う事すら許されなかった少女は焼き直しのようにうつ伏せに倒れ地に額を擦り付けた。
止まっていなかった血が土に滲む。
「ちっ、これだけしか持ってねえのか!」
少女のバックパックを奪って中身を除いたカヌゥが舌打ちをする。
倒れ臥す少々を苛立ちのままつま先で蹴り上げるが、もう少女には痛みに声をあげる力さえ残ってはいなかった。
くぐもった呻き声が喉の奥から掠れるばかり。
「ルーキーの中では注目株のパーティーから盗むんならもっと期待できると思ったんだが……やっぱりお前は役立たずの小人族だな」
少女の背に勢いよく腰を下ろし嘲笑と嘲りを隠そうともしないカヌゥに少女は何も言い返す事が出来ない。
そんな体力は何処にも残っていないし、また言い返した所でより苛烈な暴力となって己に返ってくることを少女は実体験として知っていた。
圧倒的弱者。強者に搾取される存在。
そのような存在として生きてきた少女にとって、ある意味これは日常茶飯事とも言えた。言えてしまった。
だからこそ、カヌゥには一粒の良心の呵責すらなく、また少女には抵抗の意思が一滴すらなかった。
少女は冒険者が嫌いだ。憎んでいると言ってもいい。
少女は冒険者が許せない。
粗雑で、乱暴で、力で力のない者を虐げる冒険者が大嫌いだ。
勿論、そうではない冒険者もいるだろう。でも、少女が関わってきた冒険者にはひとりとしていなかった。
だが、少女が出会っていないだけで"そうではない"冒険者だってこの世界にはいる。
「その子から離れろ!!!」
突き刺さる怒声。
驚きにカヌゥたちが振り向いた先では、半身を血濡れにしたベルがその相貌を憤怒で染め上げていた。
「あん? んだこのガキは──あぁっ!?」
「早く、このポーションを……!」
倒れ臥す少女に駆け寄ったベルは、立ち上がる素振りすら見せないカヌゥを突き飛ばしポーチから取り出したポーションを少女の口元へ。
こくりと差し出されるままに少女がポーションを口に含んだ事を確認し、ほっと胸を撫で下ろした。
遠目から見ても危険な状態だったのだ。だが、ひとまずはこれで最悪は回避できただろう。
「てめえ、何しやがる!!」
「お前たちこそ何をしてる!!!」
ベルに突き飛ばされたカヌゥが唾を飛ばして立ち上がる。
それ以上の剣幕でベルは叫んだ。
「あの人も、お前たちも!! 女の子にこんな怪我を……!! お前たちには、お前たちには正義がないのか!?」
少女の額が割れるほどに殴る。
あり得ない。
少女の頭を踏みつけにする。
あり得ない。
少女を剣で斬ろうとする。
あり得ない!
大怪我をしている少女に治療すらせずその背に伸し掛かる。
あり得ない!!
あり得ない、あり得ない、あり得ない!!!
例え最初の発端が少女が剣を盗んだ事に起因していたとしても。
それは、ベルの知っている正義では許されない事だ。起こってはいけない事だ。
だが、現実はどうだ?
少女は血に濡れ、男たちはそれを見て薄ら寒い笑みを浮かべている。
正義など何処にもなかった。
「正義……? は、はははははっ! こりゃあ傑作だ! まだそんな事言う奴がオラリオにいたのか!」
「何がおかしいッ!!」
ベルの叫びに男たちは嘲笑うような笑い声を応えとした。
心の底から馬鹿にするように。
腹の底からおかしいとでも言うように。
怒鳴り声を上げたベルに、さらに男たちの笑い声が大きくなる。
ベルはそれが我慢ならなかった。
まるで正義を軽んじるように……いや、事実正義などそこらのゴミと一緒だと言わんばかりの男たちのその態度が許せなかった。
それはまるで、正義を司るアストレアの事を貶しているように感じられたから。
だから、頭の血管が切れたベルが耳障りな笑い声をいつまでも響かせる男たちを黙らせようと一歩を踏み出した──その時だった。
「──随分と青臭い小僧がいたもんだな」
ぬるり、と。
ベルには、その男が突然現れたように見えた。
「お、団長ぉ、来たんすか」
カヌゥに団長と呼ばれた二十代前半に見える男──ザニスは三日月を描く唇のままベルを見つめる。
(──この人、強い)
サッと冷水を浴びさせられたように冷静になるベル。
我を忘れかける怒りを沈静化させたのは目の前の男の存在感だ。
ベルが逆立ちしても敵わない。そう確信させるだけのプレッシャーをザニスは放っている。
目の前のザニスが何者かはベルには分からない。
ただ、カヌゥたちを止めに来たのではない事だけは分かった。
唇を舌で湿らせたベルが緊張で乾いた喉を震わせる。
「……こんな事は許されない。ギルドも事態を知れば黙ってないぞ」
「なんだ、小僧、ギルドに駆け込むつもりか?」
「ひとりの少女に大人の男が寄ってたかって……! これは過ちだ。お前たちに正義はないッ!」
「いや、俺にも正義はある」
「ふざけ──」
るな、とベルは最後まで言い切る事が出来なかった。
閃く男の右手。
視認不可避の速度で迫る銀の閃光。
(紫電木こりスラッシュ──ッ!!)
咄嗟に反応できたのは半分以上運によるモノだった。
何度も何度もアストレアと練習した必殺技。その反復により身体に染み込んだ必殺技の動作を、危機に直面したベルを守るために本能が勝手に呼び起こしただけだ。
互いに衝突する軌跡を描く剣と木刀。
勝敗は一瞬だった。
「ご、がっ!!?」
「過去にオラリオには正義を掲げた奴らがいた」
拮抗すらできず吹き飛ぶベル。
ノーバウンドで壁に叩きつけられたベルの背中を特大の衝撃が叩き、破壊された体内を視覚的に知らせるように血が噴き出す。
「奴らが正義足り得たのは何故か。正しかったから? 市民の支持を得たから? 実質ギルド公認だったから? 違うんだよ、小僧」
どさりと壁に血の跡を付けながらずり落ちたベルなど意にも介さずザニスは朗々と語る。
芝居がかったように両手を広げ、懐かしむような表情に忌々しげな感情を覗かせていた。
「奴らが正義だったのは強かったからだ。奴らの正義に賛同しないどの連中よりも奴らは強かった。だから、正義足り得た。……でもな、そんな奴らも結局は全員死んでお終いだ。いいか、小僧、つまりだ。──弱者は正義を語れない」
──だからこの場では俺が正義だ。
言外にそう語ったザニスに反論する術はベルにはない。
心は違うと叫んでいる。それは正義ではないと断じている。
だが、身体が付いてこなかった。
灼熱の痛みに焼かれるベルの身体はピクリとも動かない。
「いくぞ」
そうして、もう興味はないとばかりに。
地べたに這い蹲るベルから一切の関心をなくしたザニスはカヌゥに向かってリリを顎で指し示す。
指示を理解したカヌゥが乱雑にリリを担ぎ、ぞろぞろとその場を離れていく。
「ま……て……!」
血に浸された声は弱く掠れ消えるように弱々しい。
伸ばされた手は力なくパタリと地面に落ちる。
「──お前なんかいなければよかったのに」
そんなベルを、憎悪に濡れた瞳で少女は睨みつけていた。
原作との変更点。
→全体的にリリがハードモード。
→この時点で【ソーマ・ファミリア】と遭遇。
追記。
→ベルとリリの口調がブレてるのはそれだけ頭に血が上ってるからです。
次話。
→ベル・クラネルと女神の正義。