正義。
焼け付くような身体の痛みよりもなお痛烈に頭を貫いたのは、その二文字だった。
人の物を盗むのは良くないことだ。それには思い出があるかもしれない、大切なものかもしれない。そうじゃなくても、誰かの物を盗むのが悪い事だなんて子どもでも知っている。
だから、僕はあの女の子を止めた。女の子が男の人の剣を盗んだって一目で分かったから。
僕にとってそれは正義だった。正しくない事を正す。剣を奪られて困っている男の人に助けの手を差し出す。
正義の行動だと疑いもしなかった。
でも。
潰れる女の子の貌。
暴力でもってケジメを取らせようと猛る男。
成すすべもなく、抵抗する事すら出来ず。
女の子が一方的に蹂躙されるような結果を作った僕の行動は、本当に正義だったのか。
なら、あそこで剣を盗んだ女の子を見逃せば良かったのか。
男は見るからに重症だった。僕と剣戟を繰り広げて直ぐに限界が来てその場を離れたのだから、きっと僕が邪魔をしなければ女の子は逃げ切れたのだろう。
でも、盗んだと分かっている女の子を見逃す事は正義なのか。
分からない。分からない分からない分からない分からない。
正義とは何か。僕は、どうすればよかったのか。
──アストレア様なら、どうしたのか。
『──弱者は正義を語れない』
「違……う……!」
爪が皮膚に食い込むほどに拳に力が篭る。
羽虫のように僕を叩き潰した男が言い放った言葉。
シンプルな力の摂理。弱いモノは強いモノに従うしかないのだという力の理論。
それだけは違うと。それは絶対に正義ではないと心が叫ぶ。
もし、それが本当なら。本当なら……正義とは、ただの道具に成り下がってしまう。
ただ力だけがあるものが、自分の都合の良いように正義を語れてしまう。
でも、同時に頭の奥の隅の方で納得しかけている僕もいた。
だって、僕は……僕よりもずっと強かったあの男に手も足も出ずに負け。
何も出来ないままに女の子を連れて行かれてしまったのだから。
死んでもおかしくないような怪我をした女の子に治療もせず、ぞんざいに、路傍のごみグズのような扱いが出来る男たちだ。
連れて行かれた先でもっと過酷な目に女の子が合っていてもなんらおかしくはない。
僕が正義を掲げるのなら。僕は、それを何としてでも止めなければいけなかったのに。
現実はどうだ。
僕はこうして無様に地べたに這い蹲り。力こそが正義だと語った男を容易く行かせてしまった。
仮に僕に正義があったとしても。
正義を成せない僕に……力のない正義にいったい何の意味があるのだろうか。
正義とは何か。正しさは何処にあるのか。
苦しみ、泣いている人に救いの手を差し出す。かつて僕が救われたアストレア様の正義。確かに僕はそれを正義だと感じたのに、僕にはその真似事さえも出来ない。
なら、僕の中には正義など……カケラもないのでは、ないだろうか。
「……ぐ、ぅ」
残っていた最後の一本のポーション。
僅かばかり体力を回復した僕はずりずりと壁に寄りかかるように立ち上がり、一歩を踏み出す。
連れて行かれた女の子。きっと辛く、悲しく、苦しい事が起きる。
あんな大怪我を負って、自分を人とも思わない、自分より遥かに力のある男たちと一緒にいて女の子が無事なわけがない。
「助け、なきゃ……」
僕の中に正義はないのかもしれない。
でも、悲劇が起きると分かっていてそれを見過ごす事はできない。
人として。男として。ここで女の子を見捨てる事はできない。
見なかった事にして、全部なかった事にして。そうして……アストレア様に会えるわけがない。
身体が痛い。出血が多い。きっと、骨だって折れている。
でも、ここで立ち上がらなければ、僕は空っぽになってしまう。
『ベル、男なら女の尻を追いかけろ。男なら女子のために突っ走れ。見栄を張れ。前を向け』
例え、僕に正義がないとしても。
僕は男だ。男は、女の子を守るものなんだって教わった。
なら、女の子のために精一杯足掻いてみせろ。
『──お前なんかいなければよかったのに』
例えその女の子に嫌われていたとしても。憎悪に濡れた瞳に僕が映っていたとしても。
知ったからには、突っ走ってみせろ。
目の前の悲劇から目を背けるな。
アストレア様のような正義がこの胸になくても。僕は男だから。
だから。
男なら女の子を助け出してみせろ!
猛る感情を身体を動かす動力へと変換して、悲鳴をあげる身体へ鞭を打ち一歩ずつ確実に前へ。
でも、そこで、考えてしまった。
そういえば。今、女の子を助けに行こうとしている僕は。
……ああ、そうだった。
脚が止まる。
そう、思ってしまうとダメだった。
一度鎌首を擡げた疑問は、瀬戸際で保っていた心の柱を容赦なく切り崩す。
湧き上がっていた想いはすり抜けて、開いた掌には赤い血の跡しか残っていない。
なんて事はない。
ああ、そうだ。僕は。
結局、正義を担う事も女の子を助ける事も出来なかったじゃないか。
むしろ、余計な事をしてあの女の子を辛苦の谷に突き落としてしまったのではないか。
歯が震えた。
そんな事を感じてる場合じゃないのに、みじめな気分が込み上げてくる。
身体の中心から熱が引く感覚。突きつけられた現実はあまりにも重い。
涙が溢れる。志し、憧れた正義の英雄。その情景が折れてしまいそうだった。
周囲の喧騒が何処か遠くに聞こえていた。
立ち尽くす身体はピクリとも動こうとせず、身体を壊すダメージを負っても手を離さなかった木刀がカランと音を立てて転がった。
もう、限界だった。
正義を信じて行った行動は、より弱い立場の者を殴りつける結果になり。
誰かを助けるためにした行動は、誰かを見捨てる行動になった。
その事実は、僕を打ちのめすには十分すぎるほどだった。
どさり、と地面に着く膝。
地面に叩きつけた拳に鈍痛が弾けた。
漏れ出る嗚咽は何に対してか。僕の無力さを嗤っているのか。分不相応の願いを抱いた事に対する失笑か。
出口のない暗闇に放り出されたような。僕というアイデンティティが崩れ去ってしまいそうになっていた、そんな時。
「──ベル……? ベルッ!?」
今、一番会いたくて……最も会いたくなかった神の声が聞こえた。
「その怪我は……!? ベル、返事をしなさい、ベル!!」
手荷物を放り出し、自分の服が血で汚れる事も構わずに僕を抱き起こした神様。
その様子に心の底から心配しているのが伝わって。でも、それは僕と神様が初めて出会ったあの日と同じようで、苦しかった。
こうして僕はまた、神様から手を差し伸べられている。
何も変わっちゃいない。
神様のように正義の人でありたい。そう胸に抱いた日から、何も。
むしろ、僕がそう思ってしまったばかりに、ひとりの女の子を地獄に突き落としたかもしれないのだから、なおたちが悪い。
だから、気がつけば僕は口を開いていた。
「──神様……正義は、何処にあるんですか」
☆☆☆
神様に支えられるようにして拠点としている安アパートへ戻った。
ポーションを使ったといえど、大きな傷はそう容易くは塞がらない。アパートに備蓄していた僅かな医療品で治療をされた僕は、硬い木のベッドに腰掛けていた。
何があったのか。そう、一言だけ問う神様に僕は感情を爆発させた。
それはある種の懺悔でもあったのかもしれない。
喚くような僕の話を黙って聞いていた神様は、一度大きく息を吸って凛とした声で。
「ベル。……貴方は私の事を正義だと言ったわね。困っている人に、ひとりで苦しんでいる人に大丈夫と、手を差し伸べられる事が正義だと」
「そう、です……だから、僕も神様のようにしようと思って、でも、できなくて……!」
「旅の途中。そしてベルに。私は確かに、ベルの言うような行いをしたわ。でもね、ベル。私はこうも言ったはずよ。ベルが私の正義に倣う必要はないと」
「でも……! 僕はそれを正義だと……!!」
「よく聞きなさい、ベル。私が手を差し伸ばすのはそれがひとつの正しい正義だと思っているからじゃない。──
その言葉は力強く、そして遣る瀬無さが滲んでいた。
初めて聞いた神様の声音に虚を衝かれる僕に言い聞かせるように、神様は言葉を紡いでいく。
「力こそが正義。それは確かにひとつの真理だわ。力なき正義に意味はない。悪意は常に力で持って台頭するのだから。……力ある悪意に対して、私は無力よ。私には力がないもの」
一瞬、何かを悔やむように神様が俯く。
でも、僕はそれに気遣う余裕はなくて。
「……っ、じゃあ……! あの女の子を傷付けた奴らが正義だと!! 神様はそう言うんですか!?」
そんなはずはないと分かっているのに、僕はそう叫ばざるを得なかった。
力で全てが決まってしまうのなら……それは、あまりにも残酷な世界じゃないか。
そう燻る僕の暗雲を晴らすように、神様は真正面からそれを否定した。
「正義は心にあり、人の正義はぶつかり合うもの。それぞれの理想が違うのだから、理想とする正義が違うのも当たり前なのよ。でも……己より力のないものを一方的に甚振る事は正義ではない」
強まる語調。
真摯に僕を見つめる神様の瞳には確固たる信念があった。
吸い込まれそうな藍色の瞳には正義の火があった。
そして、神様の白い手が優しく僕の手を握り。
「私は力ある悪意には何もできない。でもね──」
──ベルは違うでしょう?
そう言って、微笑む。
「難しく考えすぎだわ。もっとシンプルでいいのよ。正義を司る神アストレアが保証します。──ベル・クラネルに正義の心はある。だって、ベルはとっても良い子だもの。あとは、ベルがどうしたいかだけ。……ベルは、どうしたいの?」
僕はどうしたいか。
頭を過ぎったのは、女の子の表情。
寂しそうだった。何にも期待していないような目は暗く、全てを諦めているようだった。
僕には想像も出来ないような何かに……きっと、あの女の子には重過ぎるぐらいの辛く苦しい何かに、押し潰されそうだった。
分かる。だって、それは僕と同じだから。
お爺ちゃんが居なくなったときの孤独と同じだったから。
なら。
「僕は……あの子を助けたいです」
口に出したその言葉はすうっと心に染み込んでいく。
定まった心の柱が魂に芯を通す。
そうか。僕は、あの子を助けたかったんだ。
「その少女が盗人でも?」
「それでも、あの子はきっと泣いているから。それに、神様もそうやって泣いている僕を助けてくれたから……僕は、あの子の味方でいたいです」
「なら決まりね」
安心したようにほっと息をつく神様。
笑いかける神様に僕も同じように笑い返した。
神様には出来なくても。冒険者である僕には出来ることがある。
あの女の子を助けたい。それは、独善的でひどく傲慢な……僕の正義だ。
結局根っこのところは変わらないのかもしれない。それでも、僕は僕の正義を張り続ける。虚勢でもなんでも良い。これが正義だと、僕は声高に叫び続ける。
そうだ。女の子が泣いているのを良しとする正義は、僕は要らない。
「神様……行ってきます」
事は一刻を争うかもしれない。だから、僕は直ぐにあの子を探すために腰を浮かせ──。
「行ってらっしゃい、と言いたいところだけど、ダメよベル。怪我もあるし、今言っても焼き直しになるだけだわ」
だから、とそこで一区切りし。
「必殺技の特訓をするわよ」
☆☆☆
あれから一週間が立った。
急を要する事があるとはいえ、先立つものが無いことには動くことすらできない。
生きるためにお腹を満たすのも、恐らくまた剣を交えることになる予感に準備を進めるのにもお金は必要だからだ。
午前中は迷宮でヴァリスを稼ぎ、昼から女の子を探す。
オラリオは広い。なんの情報もなしにひとりの人物を探すのは想像を絶するほどに困難を極めた。
来る日も来る日も見つからず、日が暮れ始めると捜索を切り上げ深夜まで神様と訓練をする生活。
正直にいえばきつい。でも、僕は諦めなかった。
絶対にあの女の子を救い出すと決めていたのもあるけど……なんとなく、何処かで出会えるような気がしていたから。
そうして、八日目の朝。
迷宮に入る僕を呼び止める声があった。
「お兄さん、お兄さん。白い髪のお兄さん」
クリーム色のローブに包まれた小さな少女の姿。
金色の髪のエルフの少女は、僕の顔をまっすぐ見つめて、馬鹿みたいに可愛くころころと笑いながら言った。
「初めまして、お兄さん。突然ですが、サポーターなんか探していたりしていませんか?」
正直難産だった。
原作進行具合
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