一心不乱に駆ける。
ゴミのような感覚を研ぎ澄まし、ゴミのような脚力で地面を蹴り上げ、ゴミのような手でベルの大切な木刀を掴んで、リリは懸命に走っていた。
限界層は八階層。
リリがモンスターと一戦交えることは、そのまま死を意味する危険な階層だ。
だから、戦わないように、見つからないように、一刻も早く危険から脱しようとリリは走る。
広大な面積を保有する地下迷宮だが、冒険者たちの弛まない探索により上層のマップは凄まじい精度を誇る。
何度も、何度も、この上層で大っ嫌いな冒険者たちを罠に嵌めてきたのだ。
リリの頭の中にはダンジョン上層のマップが空で書けるほど鮮明に刻み込まれていた。
どこを通れば比較的安全か分かる。迷うことはない。
こうやって逃げることは、得意なのだから。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
休まぬ全力疾走に痛む胸を片手で抑えて、それでも一度も立ち止まらずに。
後ろ髪を引かれるような罪悪感から逃げるように、リリは走り続ける。
「この木刀を売れば……っ! はぁ、はぁ……、もしかしたら、もしかしたら……っ!!」
人としての尊厳すらないようなファミリアから抜けたいと、そうリリが考えたことは数えきれない。
ファミリアからの脱退を望むリリに団長であるザニスは『金を用意しろ』と言った。
お金があればファミリアを抜けられる。
リリがお金を集める理由がそれである。
もっとも。
リリはサポーターだ。蔑視の対象で、いくらでも代えが効く消耗品で、ただの道具だ。
その扱いは、人としての尊厳を踏みにじるようなものだ。
……リリが盗みに手を染めなければ、ベルの木刀を売ればもしかしたら……と、リリが考えるまでお金を貯めることはできなかっただろう。
ゴミらしくゴミのような生きる少女が、何も持っていない自分をリセットして生まれ変わりたいと何度も考えていた少女が、諦めながらも幸せになれるかもしれない最後の手段に縋り付いて生き続けることは、なかっただろう。
脱退という希望がリリを生かした。
そして、その希望がリリを悪の道へ引き摺り落とした。
全ては、幸せになりたかったから。
壁に埋め込まれたような階段を駆け上がる。
ここを登ってしまえば七階層。そして、七階層さえ抜ければ後はリリのステイタスでもどうにでもなる。生き延びることができる。
最後の難所に挑むリリが足に力を入れ直し、気合とともに広大なルームに足を踏み入れた、その直後だった。
ぬらりと影から男が姿を表す。
そして、次の瞬間リリの腹には男の膝が深く突き刺さっていた。
「がっ──あぁっ!!?」
リリの小さい体が冗談みたいに吹き飛んで、一回、二回と地面をバウンドして滑っていく。
男は、地面に皮膚を削られながら止まったリリの髪を鷲掴みにして持ち上げた。
視線がかち合う。
男は、リリも良く知る人物だった。
「いづぁ、う、うぁああ……、カ、カヌゥ様……?」
「ああ、そうだぜ。俺だ、アーデ」
カヌゥの口元がいやらしく歪む。
その目には嗜虐の色が浮かんでいた。
足が地面から離れ宙ぶらりんになったリリの足がバタバタと滑稽に空気を漕ぐ。
腹を襲う灼熱の痛みに呼吸が阻害される。内臓を痛めたのかもしれない。
乱雑に掴まれた髪の毛だけで自重を支えていて、頭皮が剥がれてしまいそうな痛みがあった。
痛みに攪拌される頭の中で、どうしてここにカヌゥがいるのかと思考を回すが、すぐにやめた。
そんなものを知ったところで意味がないからだ。
これから起きることを、リリは何度も経験して知っている。
リリの瞳が、暗く、醜く、澱んでいく。
「おか、ね、お金を払います……」
「けっ、話が早くて助かるぜ、アーデ。だからお前はいい」
神酒に魅入られた【ソーマ・ファミリア】の団員は、同じファミリアの者どうしですら金を奪い合う。
金がなければ、神酒を飲めないからだ。
小さく、弱く、力もなく、才能もなく、後ろ盾もない、いつも独りなリリは、彼らにとっていい金蔓でしかなかった。
何もしなくても金を運んできてくれる存在。自分はその金を奪えばいい。しかも、そいつはファミリアから逃げられないときた。
こんなに都合のいいものは、そうそうないだろう。
リリはカヌゥのお気に入りであり、だからこそ、これは良くある出来事だった。
いつものように。
弱いサポーターが強い冒険者に奪われる。
それだけのこと。
リリにできるのは、出来るだけ傷付かないように全てを言われるままに差し出すことだけだ。
カヌゥがリリが羽織っていたクリーム色のローブを引き裂く。
背負っていたバックパックの肩紐が引きちぎれ、ずり落ちる。
簡素でボロ切れ同然の薄い布の服しか纏っていないリリを地面に放り投げて、カヌゥはリリの所持品を漁り始めた。
「アァ? こんだけか? しけてやがんなぁ! っくそが」
「ヴっぁああっ!? づぅ……! あぁ……!」
満足のいく成果ではなかったのか、苛立たしげにカヌゥはリリの腹部を蹴り上げる。
その瞳には、危うげな狂気が潜んでいることをリリは良く知っている。
ここが地上だったなら、リリにも自衛の手段が少しはあった。
だが、ここはダンジョン。法の目が届かない、法以外の秩序が支配する弱肉強食の非常な世界。
少しでも相手の機嫌を損なえば。その時点で、リリは殺されてしまうかもしれない。
リリには、脂汗を浮かべながら激痛に耐え忍ぶことしか選択肢がない。
「おい、テメェら! 殆ど金持ってねえぞこいつ!!」
「あ? そんなはずは……」
カヌゥの後ろから二人、よくカヌゥとつるみリリから奪っていく男たちが現れる。
男たちはカヌゥと同じようにリリの所持品を漁り、落胆を隠しもせずに声を荒げた。
「本当に持ってねえ! どうなってんだ!」
「俺が知るかよ! くそっ、アーデ! おい! なんで金持ってねえんだ! 俺は見たぞ! お前があの白髪のガキから結構な金を受け取っていたのを!」
「ふぎっ!?」
男の一人がリリの頭を踏みつける。
鼻がへし折れ、激痛とともに溢れ出した血が呼吸を阻害し、血生臭い息苦しさが肺を満たした。
──見られていた?
──ベル様とダンジョンに潜っていたときのことを?
──なら、なんでその時に奪いに来ずに今更?
──そもそも、どうして今日このタイミングでカヌゥ様たちがここに?
──なんで、自分はこんな目に合わなければいけないの?
激痛に明滅する視界の中そんな疑問が湧き上がって、しかし答えが出る前に消えていく。
リリには、己に暴力を振るう冒険者たちをゴミ屑だと唾棄する感情はあっても、それに立ち向かう意思がなかった。
なぜなら、立ち向かったところで、どうにもならないことを知っているからだ。
いたずらに怪我を増やし、痛い思いをするだけなのを知っているから。
カヌゥたちがこのタイミングで動いたのは理由がある。
一番の原因は、リリが狙ったのがベルだったことだ。
リリと組んでからのベルは午前中でダンジョンから切り上げ、午後からは都市中をリリの捜索のために駆けずり回っていた。
つまり、午前中の時間だけでダンジョンでモンスターを倒し必要なヴァリスを稼ぎ、なおかつ帰還する余裕があったことを意味する。
恐ろしいまでのスピード探索。それもオラリオに来てからまだ日も浅いと誰が見てもわかる少年が、役立たずのサポーターとのツーマンセルで、だ。
目立たないわけがなかった。
その少年に才能があり、そして強さがあることは誰が見ても分かった。
そして、少年を一度見ているカヌゥたちは、その少年が正義を口にした少年である事にすぐに気付いた。
冒険者は基本的にステイタスが全てと言ってもいい。
冒険者としての年月や積み重ねた努力、その全てをゴミのように蹴散らすのがステイタスの差。
たとえ到達階層が浅かろうと。
カヌゥたちはベルの動きを見て、知って、自分に当てはめて、冷静に戦いは避けた方が賢明だという判断を下した。
自分たちにも同じことは出来るかもしれない。だが、連日それを平気な顔で続けるのは無理だと。
もしかしたら、あの白髪のガキは自分たちよりも強いかもしれない、と。
だから、このタイミング。
いつものように、リリが冒険者を裏切って金品を盗んできたところを、ごそっと頂く。
そのタイミングをカヌゥたちはずっと待っていたというわけだ。
だが、リリが既にヴァリスを宝石に換金して貸金庫に預けているためカヌゥたちの目論見は不発に終わる。
そして、その分リリが腹いせに傷付くのだ。
「おい、カヌゥ。アーデが持ってたこの木刀どうするよ」
「あぁ? 木刀だぁ? あのガキが使ってた武器か……まあ、多少の金にはなるだろうが、木刀売ったって端金だろうが。捨てとけそんなもん」
「だろうな。そらよっと!」
投げやりなカヌゥの声に同意して、男が木刀を放り投げる。
激痛に呻き声を上げながらお腹を守るように丸まっていたリリは、しめた、と内心で喝采を上げた。
これで大損は免れた。
カヌゥたちが立ち去った後にあの木刀を拾って帰ればいい。
よしんば見つかったとしても、みっともなく媚び諂い、情けない笑みを貼り付けて少しだけのお金でも欲しいと頭を地につければ、この馬鹿な冒険者たちはゲラゲラと蔑みながら見逃すだろう。
そして、結果的に大損をこいた馬鹿たちをリリが嗤うのだ。
「なあ、アーデ。お前、隠してる金があるだろ。こんだけなはずがない。出せよ」
蹲み込んだカヌゥがリリの髪の毛を掴んで頭を無理やり上げさせる。
鼻血で口元まで血に汚れた凄惨な顔をしたリリが、息も絶え絶えに口を開く。
「リリの、寝床の、一つにまとめて……」
「何処だ?」
「北の、区画の……」
問題ない。
多少金を奪われたって構わない。
だって、大部分は既に宝石にして貸し金庫に隠してあるから。
それとこの木刀を売ったヴァリスを合わせたら、それで脱退のためのお金が貯まるかもしれないのだ。
(だから、それぐらいくれてやります。だから、もう、このまま行って──!)
しかし、そんなリリの願いは予想外の形で裏切られる事になる。
「──いや。まだ隠してる金があるだろう? アーデ」
「──あ、え、え……? なんで……」
暗がりから響く男の声。
コツコツと靴音を響かせながら現れたその男は、やはり、リリもよく知る人物だった。
「ザニス……様……?」
男の名はザニス。
リリの所属する【ソーマ・ファミリア】の団長であり、そして、ある意味ではリリを間接的に悪へと引き入れた人物でもあった。
「オラリオの東区画にある、ノームの貸出金庫……そこに、あるだろう? なあ、アーデ」
「──っ」
表情に出しかけて、リリは必死でそれを押し留めた。
湧き上がる疑問の全てを飲み込んで、シラを切り通す覚悟を決める。
だって、そのお金は。
そのお金は、夢のための──。
「……何のことだか、リリには分かりません」
「……なるほどなあ。じゃあ、これは何だ?」
「あぐっ!?」
「おわっ、ちょ、危ないじゃないですかい、団長ぉ」
無造作に跳ね上げられたザニスの爪先がリリの顎を弾く。
乾いた音が響き、リリの顎の骨にヒビが入った。
リリの顎を弾くと同時にリリの首にかけられていた紐を切ったザニスが、その紐に繋がれていたものを拾って、痛みに悶絶するリリの目の前にぶら下げる。
「肌身離さず大切に隠していたようだな。だが……俺が、気付かないとでも思ったのか?」
それは、貸金庫の鍵。
リリの夢を叶えるための、リリの全てが収められている金庫の鍵。
「保管庫? あの小さい箱にゃ大金は入らねえぜ」
「ノームの宝石だ。こいつはコツコツとヴァリスを宝石に換金して、貯めてたんだよ。なあ、そうだろう? アーデ」
「ノームの宝石……なるほどなぁ」
ノームが保有する宝石や鉱石は貴重であり、確かな価値と信用がある。
それは、売れば確実な金になるということを意味する。
だが、今はそれはどうでもいい。
リリにとってはどうでもいい。
問題は、なんで、それを、ザニスが知っているのかというただ一点。
怒りに染め上げられた頭と、憤怒が吹き荒れる瞳でザニスを睨みつけるリリ。
その裂帛の敵意を受け止めて、酷薄にザニスは笑った。
「知りたいか? なぜ俺が知っていたか。なに、そう難しいことじゃないさ。だって──お前には、金が必要だったもんなあ?」
「────────」
……リリは、頭が悪いわけではない。
確かに、リリが生まれ持って与えられた才能というカードは残酷なまでに弱かった。
だが、リリはそれを知恵と知略で補い、盗みという技術に活かして今日まで生きてきた。
リリは、頭が悪いわけではない。
だから、気付いた。気付いてしまった。
「ザニ、ス……」
声帯が震える。
許容量を超えた怒りのマグマが行き場を探して口から漏れたようだった。
【ソーマ・ファミリア】の団員は金を求める。
神酒をもう一度飲むために、犯罪すら躊躇わず犯すほどに金を求めるようになる。
全ては、あの幸福をもう一度欲するために。
「ザニ、ス……!!」
体が震える。
生まれて初めて感じるほどの大きな殺意と憎しみが爆発する、その前触れのようだった。
リリルカ・アーデは金を求める。
酒の魔に取り憑かれたファミリアから抜けるために、犯罪すら躊躇わず犯すほどに金を求めた。
全ては、幸せになりたかったから。
「ザニス……ッ!!」
【ソーマ・ファミリア】の中で神酒を求め無い数奇な者はリリだけだと誰もが知っている。
【ソーマ・ファミリア】の中でリリが神酒を求め無いにも関わらず金を集めている理由を、ザニスだけが知っている。
だって。
ファミリアを抜けたければ金を持ってこいと言ったのは、ザニスなのだから。
「ザニスゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!!!!」
「ああ、その顔だ! 俺はその顔が見たかったんだよ、アーデ!」
体を焼き尽くすような怒りに突き動かされたリリが、意味がないと理性がしてこなかった行動を取らせザニスに殴りかかる。
だが、あっさりとリリの体は地面に叩きつけられた。
背中をザニスに踏みつけられながら、それでも怒りに燃え上がったリリは叫ぶ。
「ずっと……! ずっとリリで遊んでいたな!? 金を持ってくれば脱退させてやると嘯いて……!! そうやってリリを騙していたな!!?」
「騙していたなんて人聞きが悪いな、アーデ。ちゃんと金を持ってきたら脱退させてやるつもりだったよ。……もってくれば、だが」
「お前が!! お前が、邪魔をしたんだろう!!! 最初からずっと! こうするつもりだった!!」
「おいおい、何を言ってるんだ、アーデ。……おい、カヌゥ。話は聞いていたな。金を持ってくれば、神酒を振る舞ってやる」
「……ああ、そういうことですかい。じゃあ、これはありがたくもらって行きますよ」
カヌゥが鍵を拾う。
ザニスはそれを止めることなく、ただ愉しそうに口を歪めていた。
「待て! 待って、そのお金はリリの! リリの夢の……! リリが幸せになるための……!!」
「あぁ? 知らねえよ。だったら取り返すか? 無理だろ? だからこれは俺の金だ。……ま、そういうことだアーデ。また一から頑張れよってことだ」
「返せ! 返せ……っ!!! それはリリのお金だ!! リリが、リリが集めた、リリの……!! 返せ──ッ!!!!」
ギャハハハハ、と。
カヌゥたちは機嫌良くげびた笑いを響かせて離れていく。
後には、背を踏みつけられるリリと、踏みつけるザニスだけが残った。
「ザニス……! ザニス! ザニス!!!」
「おお、怖いな。でもよ、アーデ。お前が奪われたんだから仕方ねぇだろ?」
「ふざけるな!! お前がリリの、邪魔をしたんだろう!!! お前がリリのお金を奪ったんだろう!!!」
「おいおい、だから、何を言ってるんだアーデ?」
ザニスは、ゆっくりと腰を落とし、激昂し己を睨みつけるリリの瞳を見据えて。
「俺が、いつ、お前から金を奪ったんだ?」
残酷に、笑った。
ポロリ、と。
リリの瞳から堪えきれなかった涙が溢れる。
(畜生……っ!!)
ファミリアを抜けたいと嘆願するリリに、金を集めて持ってくれば抜けさせてやると言った。
金を集めては奪われるリリを見ても、傍観するだけで助けることすらしなかった。
そして、そんな境遇で、盗みをしてまで必死にリリがお金を貯めた頃合いを見計らって、他人を使いそれを強奪に来た。
(畜生ォ……!!!)
最初からそうするつもりだったのだ。
リリを本当に脱退させるつもりがなかったわけではなく。
ただ、たった一つの希望にしがみ付いて生き足掻くリリを奈落の底に叩き落としてやりたかっただけ。
吐き気を催すような邪悪がそこにいた。
でも。
リリは立ち向かえ無い。
レベルが違うから。
リリは弱いから。
戦ったところでゴミのように転がされるだけだから。
だってほら、実際にこうやって踏みつけられている。
「あ、ああああ、ああああああああああっ!!! ザニスッ! ザニスッ!! ザニスゥ……ッ!!!」
「ははははははっ! いいぞ、いいぞアーデ! それでこそ長い目で見てきた甲斐がある!」
両目から涙を溢れさせ、怒りのままに叫ぶことしかリリにはできない。
それになんの意味もなく、ただザニスを喜ばせるだけと知りながらも、リリはそれをせずにはいられなかった。
他に、どうしろというのだ。
縋っていた希望はその希望を与えた張本人に踏みにじられ。
希望があったからこそ生きることが出来ていた少女に、他にどうしろというのだ。
またお金を貯めればいいのか。
尊厳を踏みにじられながら、犯罪に手を染めながら、悪の道を進みながら、またお金を貯めればいいのだろうか。
そうして、同じように奪われればいいのだろうか。
これ以上、リリに何をしろと言うのだろうか。
「まあ、俺も鬼じゃない。なあ、アーデ。お前、幸せになりたかったんだろう?」
ことり、と。リリの目の前に小瓶が置かれた。
その中にある液体をリリは覚えている。忘れられるわけがない。
神酒。
【ソーマ・ファミリア】を、リリの人生を狂わせたそれが、リリの眼前にあった。
「特別に飲ませてやる。……幸せに、なりたいんだろう?」
「あ、ああ……」
その味を舌が覚えている。
その多幸感を全身が覚えている。
これを飲めば幸せになれると、命が覚えている。
あれほどまでに苛烈に湧き上がっていた怒りが最初からなかったみたいになりを潜めた。
呼吸が止まった。
喉が干上がる。
汗も止まらない。
ただ目の前に瓶を置かれただけだと言うのに、リリの命がそれを求めていた。
リリは、最初から最後まで、たった一つのことを求めていた。
ただ、幸せになりたかったのだ。
いつかみた、あの少女のように。
当たり前の幸せが欲しかったのだ。
(これを飲めば、リリも幸せに……)
なれる、とそう思って。
小瓶を片手で握り締め。
「……どういうつもりだ?」
小瓶を地面に叩きつけた。
割れた小瓶から神酒が地面にぶちまけられる。
今すぐに地面を舐めてでも味わいたくなるような強烈な飢餓感から必死に抗って、リリはザニスを燃え上がるような憤怒で睨め付ける。
飲めば抗えないと本能で悟った。
飲めばこの怒りを忘れしまうと理性が悟った。
故に、リリは神酒を飲むことを拒否した。
リリに神酒を飲ませたかったザニスが測り間違えたのはただ一点。
今、この瞬間、リリは、ザニスを殺してもいいと思うほどに憎んでいた。
かつてないほどの憎しみと怒りが、神酒の魅惑を凌駕した。
「……そうか。お前はそれを選ぶんだなアーデ」
ふっと。
愉しそうに笑っていたザニスの表情が冷める。
リリには知る由もないことだが。
ザニスがリリに執着を見せていたのは、リリが神酒の魅惑から脱し、神酒を求めずファミリアの脱退を願ったことに起因する。
言ってしまえば、ザニスはリリにもう一度神酒を求めさせて、嗤ってやりたかったのだ。
なればこそ。
全てを奪い、希望をへし折り、絶望の底に叩き込んで、神酒に縋り付くしかないような状況においても。
神酒を頑なに拒絶した時点で、ザニスのリリへの興味は死に絶えた。
死に絶えたから、こうなるのもまた必然だっただろう。
「え──?」
ぶん、と乱雑に投げられたリリの小さな体が宙を舞う。
世界が回る。クルクルと回る。
ぐしゃりと、受け身も取れずに地面に叩きつけらたリリの横には、モゾモゾと動く何重にも重ねられた布袋があった。
「あ、え──?」
ザニスが布袋を斬る。
裂かれた布袋のなかには、頭と上半身の一部だけをを残して、傷痕を焼いて無理やり塞いで、もう数分も生きられないような状態にされた【キラーアント】がいた。
これは余談ではあるが。
ベルと真正面からやりあって勝てない可能性があると踏んだカヌゥたちは、いくつかの保険を用意した。
一つ目がリリがベルを裏切るタイミングを待つこと。
二つ目が人数を増やすこと。
そして、三つ目がこれ。
これは当初は危険も伴う事からカヌゥたちもやりたくはなかった保険だが、何故か付いてきたザニスの存在が最も安全な策へと昇華させた。
【キラーアント】は瀕死の状態に陥ると特別なフェロモンを発散する。それは、仲間を呼び寄せる特別な救難信号だ。
つまるところ、生殺しにされた【キラーアント】は、【キラーアント】を大量に誘き寄せる誘引剤として機能する。
モゾモゾと動いている布袋の数は全部で三つ。
リリの顔が一瞬で蒼白に染まった。
「どうしてって顔してるな。そう難しい事じゃない、簡単だろう? 同じファミリアの団長相手に殺意むき出しのままお前を生かして返せば、俺はおちおち眠れもしない」
Lev.2のザニスがサポーターであるリリを殺すことは難しくない。それこそ瞬きの間に終わってしまうだろう。
でも、その瞬間を第三者に見られたら?
実際に殺すところを見られなくても、剣で斬られた死傷を持つリリの遺体がモンスターに喰われる前に見つかって、ギルドに報告されたら?
モンスターに食わせるためにリリの遺体を運んでいるところを見られたら?
その全てのリスクを排除するのがこれだ。
【キラーアント】? 好きなだけ集まればいい。
役立たずのサポーターは殺せても、いくら集まったところで上級冒険者のザニスには問題にもならない。
「非力なサポーターは哀れにも【キラー・アント】の群れに食い殺されてしまいましたとさ。ダンジョンではよくある悲劇だ。団長として団員の死は悲しいが、なんせよくあることだ。仕方なかったと割り切ろう」
心にもないことを、と言い返すことも出来なかった。
リリの目の前から三匹の【キラー・アント】が姿を現したからだ。
生存本能の叫びに従って後ずさるリリの背中を、ザニスが蹴っ飛ばす。
苦悶の声を絞り上げながら地面を転がったリリは、【キラーアント】の目の前で止まった。
前門の【キラーアント】。後門のザニス。
どちらも勝てない。リリでは勝てない。
詰みだった。
(……終わり、か)
呆気ないほどに、リリはそれを受け入れた。
(悔しいな……)
沸騰するような怒りはある。
あるが、拳を握ることはしなかった。
それは無駄なことだと、取り戻しつつある理性が訴えていたから。
(なんで……リリは、こんなリリだったんだろう……。神様は、どうしてリリをこんなふうにしたんだろう……)
走馬灯のように振り返る人生にはろくな記憶がない。
唯一幸せだった花屋での記憶も、最後は憎しみと怨嗟の声によって塗り潰されている。
何が悪かったかと言えば、リリは生まれが悪かった。
そして、運も悪かった。
リリが求めてやまなかった幸せは、リリが生まれた時点でリリから取り上げられていた。
(幸せになりたかったなあ……)
ろくな人生ではなかった。
でも、リリもろくな人間ではなかった。
どちらが先か、ということではなく。
事実としてリリは悪だったのだから、その分の跳ねっ返りが最初の方に来ていて、こうして今採算の時を迎えているのかもしれないとリリは思った。
例え、最初から当たり前の幸せがあればこうはならなかったとしても。
今のリリはもう、悪に手を染めてしまっているのだから。
もし、リリが本当に幸せになりたかったのなら。
(悪いことは、しなければよかった……)
そうすれば、こんな笑える、あまりにもあんまりな因果応報はなかったのだろうか。
考える意味もないことだが、どうしても考えてしまう。
それは、こいつもクズなのだと自分に言い聞かせるようにして盗みを働いたあの少年に、リリが罪悪感を感じていたからだろうか。
(ああ、そういえば)
あの少年は、正義を口にしていた。
なんともまあ青臭い。
こんな残酷な世界で正義などなんの役にも立たないと言うのに。
かつてそうやって正義を口にしていたとあるファミリアは、悪意に嵌められ無惨な最期を遂げたというのに。
『僕は……! 君が、悲しんでいるように見えたから……!!』
だから、なんだと言うのだろう。
だから、助けるとでも言うのだろうか。
馬鹿じゃないのかと思う。
例え少年が本当に正義の味方だったとしても、リリを助ける事はできないというのに。
だって、正義の味方は、正義の味方しかしないからだ。
リリは悪だ。正義の敵だ。
正義に助けられる側ではなく、正義に倒される側の人間だ。
だからこそ、リリはあの少年を過剰なまでに敵視した。
ああ、でも。
それでも。
それでも、こんな悪者でも、愚図で無能で役立たずのサポーターでも。
……悪の道を進んでしまった、リリでも。
その手を、伸ばしてくれるのなら。
リリと、一緒にいてくれるというのなら。
「助けて──」
ぽろりと口から転がった言葉は、かつてのリリが口にして、裏切られ続け、いつしか考えることすらなくなった言葉。
誰も自分に手を伸ばさないのだと。自分にそんな資格はないのだと諦めてしまった言葉。
誰からも必要とされず、誰も必要と出来ず、誰からも頼られず、誰も頼ることが出来なかった。
磨耗した心のなかにずっと孤独と寂しさを抱えていたリリが、漏らしたその言葉の本当の意味は。
リリが最初に見た幸せの形は、家族の姿。
リリがこれさえあればいいと思った幸せの形は、老夫婦との記憶。
リリは、寂しかった。
誰かと一緒にいたかった。
ずっと、一緒にいてくれる人を、自分に手を伸ばしてくれる人を探していた。
それは捨てた願いであり、諦めた情景であり、求めてやまなかった幸せだ。
死の間際になって、リリはもう一度それを求めた。
もう死ぬのだから、悪者の自分でも、求めるぐらいはいいだろうという諦念と後悔を滲ませながら。
リリは、それを口にした。
「助けて──ベル様」
悲しんでいる誰かに手を伸ばす。
そんな正義を胸に宿した少年は、伸ばされた手を決して離さない。
「リリィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」
ザニスの後方から爆速で飛び込んできた白い影がキラーアントの群れを引き裂く。
慣れない短剣を、しかし体に叩き込まれた武術の心得で器用に閃かせキラーアントの急所を一撃で抉り取っていく。
三匹のキラーアントを瞬殺した少年が、へたり込み、目を開くリリの頭に優しく手を置いて、微笑む。
「助けるよ。──当たり前だッ!」
そして、振り向く。
「……よぉ。久しぶりだな、ガキ。で、何しにきたんだ?」
「リリを助けに。僕が、僕の正義がリリに手を伸ばしたいと思ったから」
「ははっ、まだそんな事を言っていたのか! 少しは学習したらどうだ? 教えてやっただろう? 弱者に正義は語れないと!」
「だからどうした。立ち向かう相手で変わる正義なんかない」
「……口の減らないガキだな。いいさ、お前もここで仲良くモンスターの餌にしてやる!」
「絶対に! そんな事はさせないっ!!」
リリを庇うように立つその後ろ姿に、リリは何故か涙を堪えることができなかった。
凍えていたリリの心の奥の奥で熱が生まれ、ぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。
腹には血の跡。
構える武器は二束三文の短剣で、立ち向かう相手は格上の上級冒険者。
おまけにこのフロアには続々とキラーアントが集まってくるだろう。
だが。
例えどんなに絶望的な状況であろうと、誰かを守るために強大な相手に立ち向かうその勇気を。
人は、正義と呼ぶ。
守るのは正義を叫ぶベル。
守られるのは悪の、リリ。
立ち塞がる邪悪はザニス。
ベルがこれから正義を掲げていくために。
アストレアに見た正義の種火が燃え上がっていくために。
正義のありかを決める戦いが幕を上げた。
原作で何故カヌゥたちはリリの金庫を知っていたのか。そこから色々膨らませたのがこの二次創作です。
次回はリリが去ってからのベルから。
相手は格上。しかも木刀はなく、毒の影響もある。
最悪なことにどんどん湧き出るキラーアントからリリを守りながらの戦い。
ベルくんに勝機はあるのか。
勝機があるとすれば、それはザニスすら予想だにしえない異常事態でしかあり得ない。
次話。
→ベル・クラネルとーーーー。