ハリーポッターとハルキ・ムラカミ   作:磯野 光輝

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僕は漏れ鍋で、ハグリットから僕の両親を殺した男の名を聞いた。
しかしそれが正しかったのか、あるいはほかに別の方法があったのか、僕には分からない。


ヴォル・デ・モート。あるいは名前を言ってはいけないあの人。

 時々、僕は「そのとき」のことを思い出す。しかし僕にはそれが本当に起きたことなのか、その判別が付かない。

 その前後の記憶はまるで不鮮明であるにもかかわらず、「そのとき」の瞬間だけは、まるで虚空の中に浮かぶ泡状の宇宙のように、パッと、頭の奥底から湧き出ては弾けるように消えて行く。そうして後には、瞼の裏に焼き付く「緑色の閃光」だけが残される。

 

       〇

 

「お前さんの両親は、ある奴に殺されたんだ」

 ハグリットは僕の耳に口を寄せながら、吐息交じりのか細い声でそう言った。耳を澄ませて集中していないと辺りの喧騒にまかれて聞き取ることができないほどの声だった。漏れ鍋はマクドナルドやゲームセンターほど音に満ちていないにせよ、イタリアンレストランよりは僅かに騒がしい。聞き取ることができなかった声、つまり死んでしまった声は、もう二度と帰っては来ない。

「ハグリット。君はもしかしたら疑うかもしれないけれど、僕は前々からそんな気がしていたんだ」

「そんな気がしていた?」とハグリットは聞き返してきた。

「そう。上手く説明はできないんだけれど、僕の頭の中には根源的なイメージみたいなものがあるんだ。そう、それはつまり……」

「最初の記憶」

「そう、最初の記憶だ」と僕は言った。「あるいはそれは、正確に正しいものではないのかもしれない。だけど少なくとも、僕の無意識はそれを事実として認めているし、それに、その『記憶』は僕が今まで体験して来た如何なる記憶よりもずっと鮮明なんだ。上手く説明できないんだけど」

「分かる気がするよ」

 ハグリットはそう言ってバタービールを飲み干した。僕もそれに続いて一口バタービールを啜った。漏れ鍋の空気とバタービールの味が混ざり合って、口の中で煮込み過ぎた「生ける屍の水薬」のような味が広がった。魔法界にはどうも、ニガヨモギの匂いが漂っている。

「ハグリット。それで、僕の両親を殺したのは一体誰なんだ?」

 ハグリットは首を横に振った。「俺はそれを言うことができない」

「だったら書けば良い」と僕は言った。「紙ならばここにある」

「それも無理なんだ」と彼は言った。「俺は、奴のスペルを知らない」

 ハグリットは右手で強くテーブルを叩いた。激しい音が鳴り、彼の空のグラスが失神したように倒れた。

 握りこぶしをテーブルの上に叩きつけた姿勢のまま、ハグリットはピクリとも動かなくなってしまった。目を固く閉じ、歯を食いしばり、深刻な表情を浮かべるハグリット。その姿はまるで大切な人を失い喪に服しているような老人を思わせた。あるいは、人と同じように会話にも生き死にが存在するのであれば、彼は失われた言葉を惜しんでいるのかもしれない。

「ごめんハグリット。だけどどうしても知らなければならない事なんだよ。少なくとも僕はそう思っている」

 僕はそう言うと、グラスの底に残っていたバタービールの泡を噛み締めるように飲み込んだ。口の中で気泡が弾けると、忘れられた何かのように甘い香りが口の中を抜けて行った。

「お前さんは」とハグリットは重い口を開いた。「お前さんは、知ってどうするつもりなんだ」

「分からない」と僕は答えた。「確かに分からない。けれど、きっとそれを知るという事が大切なんだ。意味というのはその後について来るはずだ。つまり、鶏と卵、どちらかが先にこの世界に現れない限り、鶏も卵も存在することはできない」

 鶏が存在する理由が、進化論の下のナチュラル・セレクションなのか、それとも何者かの意志によるインテリジェント・デザインなのか、その議論をするにも、まず何より「鶏が存在」しなければならない。我々が望もうとも望まないとも、それは事実だ。

「ああ、分かってる。いや、分かっていたんだ。だけど俺にも、心の準備ってものが要る」

 ハグリットはそう言って、目をつむり深呼吸を何度か繰り返した。大きく息を吸って、そして吐く。字面にしてしまえば簡単だ。しかし、実際にその行動をとる彼の心情を、(悲しいことに)僕は二十クヌートほども理解することができない。そしてそれは本当に悲しい事だった。

「よし、言うぞ」と彼は目を見開いて言った。「ヴォル・デ・モートだ」

「ヴォル・デ・モート?」

 僕が言葉を繰り返すと、彼はすぐにそれを妨げようとした。

「ダメだ」ハグリットは語気を荒げてそう言った。「良いか。その名前をみだりに口にしちゃあならない。物事には常に、『適切なとき』というものが用意されている。つまりそれ以外――例えばこういった漏れ鍋の片隅など――は、適切じゃないという事だ」

「分かった」

 僕はそう言って頷いた。

 

 ヴォル・デ・モート。聞きなれない響きだ。綴りから想像するに、フランス語を由来としているのだろうか。しかしどちらにせよ、フランス語を話すことができない僕にとって、その言葉はただの音の羅列に過ぎない。もっとも、固有名詞というのは元来そういう物なのかもしれない。

 ヴォル・デ・モート。僕は声に出さず、口の動きだけで何度かその名前をつぶやいた。ヴォル・デ・モート。それが僕の両親を殺した奴の名だ。

 突然、額の傷跡が痛みを放ち、僕は思わずそこに手を当てた。それはまるで、ナチス軍によって空襲されたロンドンの夕闇を行き交うサイレンのような痛みだった。目をつむると、誰かの叫び声と共に「緑の閃光」が目の前を走った。

 

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