元雄英生がヴィランになった 凍結中   作:どろどろ

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実際の医療少年院の実状とかよく知らないのでほとんど妄想で書いてます。矛盾点あったとしてもファンタジーだと納得してくだされ。


蟻塚:オリジン/草壁勇斗:インバートⅠ

  1

 

 草壁勇斗が周囲に振りまいた第一印象は最悪だった。

 基本的に緘黙としているが、時折何かに取り憑かれたように奇声を発し、簡単な会話すら成立しない。その上、彼の素行には一貫性が無く、施設内の慣習の一切に従わない。大人たちに薬で無理矢理眠らされる姿を、多くの子供が目撃していた。

 

 あまりに騒々しかったある日、蟻塚は彼の指を数本折ったのだが、全く口を噤む気配が無かった。

 しかし、どれだけ頭の螺子が緩んでいても勇斗の身体は健康そのものだ。痛覚だってある。彼が骨折の痛みに悶える姿はサーカスのピエロのように滑稽で、一ヶ月が経過する頃には、その姿を見るが為に彼を痛めつけることが蟻塚の日課になっていた。

 有り体に言うと、勇斗は蟻塚に気に入られたのだ。

 

「ふふふ」

「ご機嫌ですねぇ! 姐さん!!」

「ふふ、そう見えるか?」

 

 普段なら一蹴するだろう取り巻きの言葉に蟻塚は反応を示した。これだけで彼女は上機嫌だと断定できる。しかもこれまでにない程に。

 

「さっき勇の両腕をバッキバキにしてきたんだ!! そしたら猿みたいに泣き叫ぶもんだから面白くて面白くて……くく、あっはははははは!!」

 

 蟻塚が高らかに笑っている。

 それだけで取り巻きたちは顔面蒼白だった。日頃から感情が剥き出しだからこそ、蟻塚に喜色が浮かぶことが少ないというのは周知のものだ。それが笑っているとなると――あの新人、よほど気に入られているらしい。

 おかげで最近は蟻塚の被害者は少なくなり、傍目から眺めている者からしたら万々歳なのだが、彼女の暴力の全てが勇斗に向けられているとなると同情する者も多かった。

 

「あ~、思い出しただけで笑いが止まらない! ちょっともう一度あの野郎に会ってくる!!」

「えっ、会いに行くって……何処にですか?」

「二階の男子トイレだよ! あそこカメラねぇから! 両腕折った後に放置したんだ!! そういや私の去り際に、置いてかないで~って泣いてたなァっはは!! 自力じゃ動けないだろうしまだいるだろ!!」

 

 自力で動けない程重傷って――それ死ぬのでは?

 久しく出ていないショッズ内での死者だが、ゼロ人記録もここまでか。

 蟻塚が足早にその場から去ると、取り巻きたちは勇斗に黙祷を捧げた。期せずして、勇斗は他の子供たちを蟻塚の魔の手から守っていた(・・・・・)のだ。彼の犠牲のおかげで、他の犠牲者が出ていないと言っても過言ではない。

 

「あの新人、早死にしそうだとは思ってたがまさか一ヶ月で逝くとは。しかし、ご主人様の玩具として死ねるならば本望というもの……これは名誉な犠牲だ。せめて安らかに眠れ」

「綺麗な顔してたのに残念だなぁ。それに良い身体だった。きっと最高の締め付けだったろうに。……ウホッ、想像しただけで鼻血がっ」

「姐さんは勇斗のことが本当に好きだなぁ!! あはは!!」

 

 彼らは蟻塚の下僕三人衆だ。上から順に紹介していこう。

 

 一人は蟻塚の忠実なる奴隷――その忠誠心はもはや狂気に達する。蟻塚のことをご主人様として崇拝するガチの蟻塚信者である。座右の銘は「蟻塚たんの、蟻塚たんによる、蟻塚たんのための暴力。我々の業界ではご褒美ですォ!!」。人は畏怖の念を込めて彼のことを狂犬ハチ公と呼ぶ。

 一人は際限なく発情し男のケツを追い回す野獣――通称・猿王。ある意味では蟻塚よりも恐れられているショッズの裏ボスであり、報われぬ恋の炎を燃やす悲劇のヒロイン。彼は友達が少ない。

 一人は最強に空気が読めないミスターKY。ある有識者は彼を指して「キジも鳴かずば打たれまい」と言ったという。

 

 三人揃ってイヌ・サル・キジ! 蟻塚という名の桃太郎に虐待されているぞ!

 むしろ桃太郎が鬼まである。 

 

 

  2

 

 

 草壁勇斗には関節を故意に曲げるという特技がある。

 雄英在学中に、捕縛から逃れる技として編み出したものだ。実際の戦闘時に有用性があるとは到底思えない蛇足のような技術ではあったが、攻撃を受けた際の受け身に交えて使う事で、視覚的にも感触的にも骨折したかのように相手に思わせることを可能とする。

 

 先刻、もはや日常の一部となっている蟻塚の暴行に晒されたが、その際に両腕骨折の体を装って彼女を騙すことが出来た。

 蟻塚は極端に嗜虐的な性格だ。直接相手を痛めつける感触と、相手の苦しむ様を見ることを同時に悦としている。その狭間に、ここでこいつを殺すのは勿体ない、といった感想を誘導する事で勇斗は何とか致命傷を避ける毎日を送っていた。

 

「あー、もう、辛いなぁ…」

 

 そう呟くと、両腕関節を元に戻し正常に稼働するかを確かめる。動かしても奇妙な痛みはなかった。神経系に傷は付いていないらしい。

 

「なんなんだよ、あの子。顔は可愛いし素直だけど……それ以外が全てに於いて最悪だ。断言出来る、俺は絶対にいつか殺される」

 

 精神病院の内状は知っているつもりだったが、蟻塚ほど好戦的かつ強個性な患者がいるとは予想外だった。先人との不和は極力避けておきたいが、勇斗自身も心神喪失でここに送り込まれた病人だ。ある程度は情緒が壊れてる人間の演技を続けなければならない。そういう意味では、蟻塚に目を付けられるのは最初から避けられなかったと言える。

 

「上手く好感度調整してやり過ごそうにもなぁ。根っから壊れてる人間の目盛りって、把握するのに時間がかかるしなぁ。友達になる余裕があるか微妙な所だ」

 

 勇斗は大きく伸びをすると、深呼吸して疲労を吐き出した。男子トイレには誰もいない。快活な性格の彼だが、この施設に入ってからは、一人でいる時間ほど安息できる瞬間はなかった。

 独り言が多いのは、普段から本来の自分を圧し殺している反動が出ているからだろう。

 

「――気を切り替えよう。さて、もう一ヶ月経ったし頃合いだ。脱走のための準備を進めようかな。

 逃亡前提で姉さんの罪を被った(・・・・・・・・・・・・・・)ってのに、それを実行する前に殺されたんじゃ笑えない。気乗りしないけど、いざとなればアレ(・・)使えば良いし、今の所それほど重大な懸念要素、は、な――い?」

 

 意気揚々と勇斗が振り返ったその先。

 丁度トイレの出入り口を阻むように、表情の抜け落ちた蟻塚が呆然と立ち尽くしていた。普段の凶暴な相貌には、今は困惑の色を強く浮かんでいる。

 

「勇。お前、今、普通に喋ってる……?」

「…………。」

 

 沈黙。

 すると直後に勇斗の全神経全細胞が全力で警報を打ち鳴らし始めた。

 

(ば――っか俺ェ! 何を堂々と脱獄計画を一人でペラペラ喋ってんだ!? もしかして、寂しくて参っちまってたのか!? いやいやそれにしたって女の子に近づかれて察知できないってどういうことだ! 俺のフェロモンセンサーが完全に機能停止してらっしゃる! いや落ち着け、そんな機能は人間に備わってない! そう、俺に備わってるのはジャイアントマグナムだ!! ……いやでも待てよ? 実はマグナムどころかポークビッツだって説もあるがそうじゃない今は現実逃避しては駄目だ駄目なんだぁああ……!)

 

 素の自分を目撃され、勇斗は激しく動揺した。勿論その心情を顔に出すことは無いが、勇斗の論理的な思考を乱れさせるには十分すぎる不祥事だった。

 あれだけ徹底して作り上げた鉄仮面に、こんな事で亀裂が入るとは――完璧主義を自負している彼には受け入れ難い現実だ。 

 

「なぁオイ。感じ違ったけど、今のもいつもの独り言か? なぁ? 返事しろよ、なぁ!?」

 

 その問いに勇斗はどう応えるべきか思案する。

 

(ど、どうする!? バッチリ聞かれたけどどうすんだコレ!? 何て返事するのが正解なんだ!? 教えて姉さん!!)

 

 この場をやり過ごす最適解は存外早く見つかった。

 蟻塚は理論立てて思考するのが苦手の筈だ。下手に言い訳を並べて納得させる必要はない。いつものように対応していれば、独りでに疑念を放棄、いや忘れてくれる。

 つまり勇斗が取った対応は。

 

「…………」

 

 厳然たる無視である。それどころか、勇斗は蟻塚の視線を遮って無言で立ち去さろうとするが、

 

「脱獄するのか?」

「……」

 

 ――看過できない指摘を受け、流石に足を止めざるを得なかった。

 勇斗はまだ蟻塚の底を測り切れていない。彼女の行動に予測が立てられない。聞かれた発言内容を密告されれば、逮捕前から計画していた事柄がすべて無為になる。 

 

「もしそうだとして、君はどうする?」

 

 蟻塚の行動は読めない。

 しかし、この後の返答は、何故だか聞く前から分かってしまった。

 

「ここは狭くて息苦しい。ここから出たい。私も噛ませろ」 

 

 感情と本能だけが行動原理の人格破綻者かと思いきや。

 なるほどどうして、彼女にも最低限の損得勘定と判断能力はあったらしい。

 

「……良いけど、俺の言うこと聞ける?」

「あ? 誰がお前の言うことを聞くか! 上の人だからって調子に乗るな!!」

「何だよ“上の人”って……。あのさ、逃げ出すためには二つ条件があるんだ。この話を秘匿することと、俺の指示に従うこと。じゃないと“俺たち”の計画は失敗する」

 

 そう言いながらも、勇斗に蟻塚を引き入れる気は欠片ほども無い。社会に不利益な人間を隔離施設から解放するほど、自分本位な考えは持っていないのだ。

 そんな勇斗の腹など露知らず、蟻塚は彼の言葉を鵜呑みにした。

 

「俺たち? ……私と、お前だな?」

「そうだよ。さっきの条件さえ呑んでくれれば、君も俺も無事にここから逃げ出せる」

 

 蟻塚は勇斗を睥睨すると、拳を震えるほど強く握り占めた。彼女にとって他人からの命令は、条件反射で反発しなければ気が済まないものだった。

 

「偉そうに――グチグチ上から物言うなよゴミ野郎!!」

 

 叫ぶと、顔面を粉砕するつもりで拳を放つ。それを難なく勇斗が躱すと、その後ろの壁に蜘蛛の巣のような亀裂が入った。

 サンドバック同然だった男が軽やかに蟻塚の攻撃から逃れた。その事実が、まるで五寸釘が打ち込まれるように深く彼女の胸に突き刺さる。

 

「え……避け、た……?」

 

 目の前の男が圧倒的弱者だという前提が覆され、蟻塚の中に猜疑心が生まれた。

 彼女の拳を瞳の色一つ変えずに躱し、悠然と佇む草壁勇斗は、誰がどう見ても弱者といった風采ではない。

 

「俺に従うか、反発するか。ここから逃げるか、残るか。君は俺の敵か、それとも仲間か。等しく二つに一つだ。選べ」

 

 双方の視線が交錯する。平時の勇斗とは打って変わった毅然とした態度に、一瞬だけ蟻塚がたじろいた。

 そして、生物としての直感が彼女に選択を迫った。

 

「――残るのは嫌だ」

「だったら仲間だ。俺も君と同じ想いだよ」

 

 少女の肩に、ゆっくりと少年の手が下ろされる。

 蟻塚はそれを払い除けることができず、少年の唇が耳元に近づくのに何の抵抗を示すこともできなかった。

 

「ここで見聞きしたこと、他言するなよ」

 

 返答を待つ間も与えずに勇斗は蟻塚に背を向ける。颯爽と立ち去り、彼女の視界から逃れる位置にまで移動すると、徐々に歩調を強め、やがて駆け足ぎみに、最後には全力疾走でその場から逃走し始めた。

 

(ひぃぃぃぃッ!! ひ、罅割れた! ハンマーでもびくともしない特殊壁が罅割れてた!! あと数cmズレてたら俺の頭はトマトみたいに破裂してたぞ!? しっ、死ぬかと思ったああああああ!!)

 

 草壁勇斗は表面上で毅然としていても、内心は安全志向で紛れもない完璧主義だ。

 数cmで死の距離を感じて、平然としていられる訳がなかった。

 

(蟻塚ちゃん、恐ろしい子……!!)

 

 いや、実は余裕なのかもしれない。

 

 

  3

 

 

 その日の夜、蟻塚は就寝時間の直前に勇斗からの呼び出しを受けた。指図を受けるのは癪に障ったが、脱獄の算段を伝えられるのだろう、と拙い思考ながらに予想した蟻塚は素直に指示に従うことにした。

 待合場所の医務室に到着すると、そこで待ち受けていたのは勇斗とミサキの二人。

 

「なんでその女がいる? ソイツは大人で、私たちの敵だ」

「いいや、協力者だよ。俺が調教しておいた。な?」

 

 ミサキは無言で首肯する。

 

「調教って?」

「洗脳みたいなものかな。相手の深層心理に俺の意志を刷り込んで、違和感を感じさせることなく俺に従わせるんだ。ミサキさんみたいに正義感の強い人は特に考えが単調だから、操りやすい。ちょっと申し訳ないけどね」

「それがお前の個性か」

 

 勇斗は得意げな面持ちで首を横に振った。

 

「これは技術だよ。催眠術――とまではいかないけど、俺は暗示術と呼んでる」

 

 一ヶ月足らずで他人を洗脳する技術。それを荒唐無稽な虚妄の類いだと勘ぐるのが通常の思考なのかもしれないが、蟻塚は考えるのが面倒だったらしく、深く推察することもなく聞き流した。

 

「俺が君を呼び出したのは、この女性に危害を加えるなと釘を刺すためだ。ミサキさんは重要な脱獄のためのピース。いなくなってもらっちゃ困る」

「その女が私に突っかかってこなかったら私だって何もしない。私を止めるよりも女を止めろよ」

「目の前で問題を起こしてる患者たちがいたら、仲裁するのがミサキさんの仕事だ。職務の妨害は出来ない。あまり活動を阻害すると傍目から異変に気付かれることがあるからな。……まぁ、出来ないとは言わないけど。でもしない。ミサキさんから脱獄の手招きを受けたって痕跡は残さない方針だ。俺たちの脱獄が、他人の人生に悪影響を及ぼさないように心がけろ」

「……もっと分かりやすく言って」

「ミサキさんに迷惑をかけない! これを守る! 分かった!?」

「何で私にそれを言うんだ? その女が私に関わらなかったら済む話なんだけど。私を止めるより先に女を止めろよ」

「あれれ~? 会話がループしてるぞぉ~?? 勇斗どうすればいいか分かんな~い」

 

 

 その後、紆余曲折あり、

 

「――私が大人に手をあげなきゃいいんだろ!? しつけぇな分かったよ!! ほら、これで話は終わりだろ! 私は戻るぞ!」

 

 何とか蟻塚から同意の承諾の言質を取ることに成功した。

 蟻塚の破壊衝動を完全に規制するのは不可能だったが、彼女のここから逃げ出したいという欲求も相応に大きなものだ。そのおかげで、勇斗を含めた患者を虐待する時は他人の目につかないように済ますという方向で話は纏まった。

 勇斗は衝動が抑えきれない時は自分に暴力を振るってもいい、との提案もしたが、どうやら今の勇斗には傷付ける程の面白みが無いらしく提案は却下された。あの少女は理性のない猛獣と似ていると周囲から思われているが、実際は理性のない自覚を持つ程度の頭はある。自分の異常性も自覚していた。損得の前提の上での話し合いなら存外成り立つものだ。

 

「おやすみ、蟻塚ちゃん」

「気安く呼ぶな殺すぞクソが!!」

「お~怖い」

 

 彼女の中でのあらゆる欲求の中で最優先事項は脱獄である。そのことを読み解き終わった勇斗は、蟻塚に対する態度を確立させていた。どれだけ反感を買おうとも、施設から逃げ出すまでは蟻塚が暴れることも少なくなるだろう。

 数分後、蟻塚が寝室に戻り、医務室に残された勇斗とミサキの二人はようやく本題の話し合いに乗り出した。

 

「それじゃミサキさん、蟻塚ちゃんも帰ったし、例の記録見せてくださいな」

「はい」

 

 ミサキはデスク上で山積みになった資料の上から、紙の束を取り、勇斗に手渡した。

 

「それが警察が持っていた蟻塚少女の調査記録です。見て分かる通り、長期間に渡って虐待を受けていたことは確実です。彼女の心的障害もそこに起因しています。まるで麻薬を無理矢理摂取させられていたかのように、脳の大部分が萎縮しているんです。おそらく、彼女を掌握するのに有益な情報は拾えませんよ。蟻塚さんの過去は、ただ、悲惨なんです」

「……何だコレは。人間の所行か?」

 

 勇斗は歯噛みして書類の記載事項に不快感を滲ませる。情報を淡々と把握するだけの作業だというのに、少女の惨たらしい傷跡を抉るようで、読み進める手は止まりがちだった。

 

「特に性器は原形を留めておらず、酷い有様とかで」

「言わなくて結構です。書面で見ます。そういうことは他人の言葉で聞きたくないですから」

「そう、ですか。……あの、質問しても良いですか?」

「ん、何をです?」

「貴方の記録を調べました。ヒーローを殺したんですね」

 

 勇斗は書類を読み進める速度を落とさなかった。動揺する素振りを見せるどころか、意地悪くミサキの指摘を鼻で笑い飛ばす。

 

「それが何か」

「貴方は良い人です。今も蟻塚さんの過去に胸を痛めている。そんな人が、どうして殺しを?」

「ンー、ミサキさんみたいに正直な人に、嘘は吐きたくないなぁ。だから答えません」

「それは……本当は殺してないっていう事ですか?」

「だから答えないって言ってるでしょ。それよりちょっと、こっちも聞きたいんですけど」

 

 勇斗が尋ねたのは、とある書面の上部に印刷された写真。蟻塚の右上腕部に刻まれた刺青――『eblim saver』と掘られている――についてだ。

 

「このスペルの意味分かります? 英語は得意なつもりだったんですけど、こんな文字は覚えた記憶がなくて」

「……スペルじゃありませんよ。確か、警察の人はその文字を“識別番号”だと考えていると聞きました。闇市場で商品を称するときに用いられることがあるらしいです。確証が無いので、正式な書類には記述されていないようですが」

「闇市場ってことは、人身売買か……」

 

 その事実を疑いもなく飲み込めたのは、勇斗がその手の問題に造詣が深いからだ。日本での人身売買は、出品者が海外のコネクションを経由して行われていると聞く。尤も、闇市場はヒーローと警察の捜索を攪乱するために複数のルートが設営されているので、勇斗の知っている事柄が最新の情報かは定かでは無いが、ともかくそういった取引の実像があることは確かだった。

 

「身体の壊れ具合から見て、身売りされたのは生後間もない頃だろうな……可哀想に。あんなに可愛い娘を売り飛ばすなんて……」

「今日は感傷的ですね。もしかして、蟻塚さんのこと気に入ってるんですか?」

「ええ。何処となく俺の姉さんと似てるんです。面影とか顔立ちとか。だからかな。……まあ、蟻塚ちゃんがいくら美人でも、姉さんには負けますけどね」

 

 姉の話題になると、何処か冷たさを残していた勇斗の表情は温和そのものになった。まるで家族自慢をする童子のようだ。

 

「良いですね、そういう表情。草壁さんは誰かを褒める時の顔が一番良いと思います」

 

 すると、勇斗の瞳に仄かな影が落ちる。――いつもの能面だ。冷静沈着で飄々としていながら、漠然とした熱を帯びた、底の見えない表情。ミサキに暗示をかけた能面だ。

 

「――ミサキさんは俺を良い人だと言いましたけど、本当にそうなら他人の経歴を調べたりしませんし、そもそも此処にも居ませんし、他人の心を歪めたりもしませんよ」

「心を歪める? 何の話です?」

「いいえ。何でも。……どうせ貴方も、全部終わる頃には脱獄幇助の記憶を失ってる。俺の暗示術に抜け目はない。証拠も残さない」

 

 不自然な会話にミサキは首を傾げた。実際、勇斗の中には暗示の効果を弱めるワードが幾つかあった。

 

「えっと、それは――あれ? なんだっけ、何の、話? 私の……脱獄……って、え、いや、でも、これは……そういうことでしょ?」

「そう、これは只の世間話で、邪なものでも何でも無い。気にしないで」

「……分かりました。気にしません」

 

 勇斗の言葉を聞き、ミサキが懐いた疑念は即座に晴れた。

 暗示術で肝要な要素は、言葉そのものというよりも勇斗の声質や一言一句それぞれの音調の方だ。他の誰かが同じ台詞を用いた所で勇斗のソレと同様の効果は見込めないだろう。彼の発する音波そのものに、暗示としての効果が付与されている。

 

「さて、俺もそろそろ戻ろうかな」

「あ、あの!」

「はい?」

「……私は貴方の役に立ってますか?」

 

 ミサキの切迫した問いに、勇斗は否定も肯定も返せなかった。

 他人の心をねじ曲げる――勇斗がそれを可能としているのは、常人より共感能力に長けているから。

 それは悪用を前提として研鑽された技能ではなく、異常に他人を重んじるが為に発症した病である。人の心の振れ幅を熟知しているから、彼はそれの脆さと価値を知っている。やむなく使っている暗示術とは言え、何の良心の呵責もなく扱えるものではない。

 

「目覚ましい新情報は得られてないけど、ミサキさんが気にするようなことじゃねぇですよ。そもそも、他人の過去を暴く方が野暮ってものですから」

 

 言うと、勇斗は医務室の時計に目を向けた。

 

「次の指示は追って出します。今日はここまでにしましょう」

 

 

  4

 

 

 その後の数週間、勇斗は脱獄の計画と蟻塚を裏切る適切な方法を同時に思案しながら、破綻者として日々を送っていた。

 その中で、彼の脳裏にべったりと張り付いた奇妙な予感があった。蟻塚の素性に関するものだ。

 蟻塚は勇斗の姉――草壁水泉(くさかべすいせん)と似通った容貌をしている。まさに丁度、水泉を十歳ほど若返らせたなら蟻塚と殆ど同じ姿形になるだろう。それが似通っているという次元を逸しているように思えて仕方が無いのだ。

 

 勇斗は亡くなった姉と蟻塚を重ねて見ていた。蟻塚が邪悪に笑うとき、他人を傷付ける時、全ての挙動が姉と重なってしまう。

 毎夜、寝床についてからそれを振り返り、常々思う。

 

 ――やっぱ……似てるってどころか瓜二つだよなぁ。

 

 偶然だろう。

 しかし、つい最近最愛の姉を亡くしたばかりの彼にとって、その偶然は救いだった。

 

 

 

 ある日のこと。

 ショッズの患者には、朝食の後で精神安定剤と称される液体が支給される。それには摂取した者の思考と行動を鈍化させる効果があるのだが、そんなものを飲まされていては脱獄の計画も立てられない。

 勇斗はミサキに命じ、精神安定剤の容器に淡水を詰め替えたものが自分にだけ渡されるように根回ししていた。それを朝食の後に飲んでいると、何処からか蟻塚の怒鳴り声が轟いてくる。

 

「――煩い煩い煩い煩い!! 今度私に話しかけたらお前らでも殺すからな!!」

 

「ご、ご主人様! 何が不満なのですか!!」

ウホウホウキキ(どうかお慈悲を)!!」

「こっちも清々すらぁ! と、サルは申しております!」

ウッ、ウキウキウホウホウッホッホ(あっ、キジてめぇ嘘ついてんじゃねぇ)!」

「いやお前はまず人語を思い出せ! この頃どうした!?」 

 

 やはり欲求不満なのだろうか。取り巻きの三人に怒鳴り散らす蟻塚の姿があった。

 彼女の行動を縛っている負い目を感じた訳ではないが、何だか妹の癇癪を眺めているような心境になった勇斗は、取り巻き達に助け船を出そうと考えた。

 

「おーい蟻塚ちゃーん! あんま友達虐めるなよー!」

 

 ごく自然な口調で声を上げた勇斗に視線が集まる。

 その中でも蟻塚から向けられる眼差しは酷く冷たいものであったが、

 

「……チッ」

 

 反駁する様子もなく、彼女は舌打ちだけ残して逃げるように食堂を後にした。

 

 それにつれて、周囲から向けられた注意も霧散していく。異常者が健常者の如く振る舞った程度で大した話題にはならないようだ――が、まだ誰よりも刺々しい視線を向けてくる者が一人だけ。

 

「――蟻塚ちゃん(・・・)、だとぉ……!? しっ、新人貴様ァ! 死ぬ覚悟は出来てるんだろうなァ!!」

 

 敬虔なる蟻塚の崇拝者――狂犬ハチ公(以降よりイヌと記述)その人である。

 イヌは大股で勇斗に接近すると、彼の胸ぐらを掴む。

 

「……何だお前? ダレ?」

「俺はイヌでもハチでもない! 俺は貴様を殺す者だ! ご主人様――否、マイエンジェル蟻塚たんに慣れ慣れしくしやがって! 万死に値する!」

 

 凶暴な魔獣と相違ない蟻塚をまるでアイドルを推すような要領で敬っている辺り、この男に危機管理能力は無いと断言できる。やはりこの施設に入れられたものは例外なく異常者である。

 勇斗はいつものように、神への信仰に取り憑かれた自分を演出した。

 

「おお……離別者か。神よ、ワタシはずっと次なる試練の刻を待ちわびていました……。離別者よ、汝がそうなのか?」

「ああああああああああああ!! しらばっくれやがって!! 殺すゥゥゥゥゥゥ!!」

「あちゃー、まーたイヌが発作起こしちゃった! 姐さんのことになると豹変するからなぁ」

ウホホホホホホ(勇斗、抱かせろ)!」

「ありゃー、まーたサルが発情してらぁ! ハハ、なぁ新人、ちょっとコイツに抱かれてやってくれない? そうすりゃ人語取り戻すだろうし」

 

 勇斗は確信した。もし自分が正常であっても彼らと会話を成立させることだけは無理だと。

 

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」

「なぁ頼むよ、サルに抱かれてやってくれよ。コイツ、多分お前への想いが大きすぎて狂っちゃったんだ。いいだろ、な? クソホモ野郎のクソホモ野郎を熱く抱擁してやってくれ!! ありがとうな!!」

ホモモモモモモモ(勇斗たん萌え~~)♥」

「蟻塚たん萌ええええええええええええええええ!!!」

 

(あ、この人たちマジのやつだ)

 

 勇斗は彼らと喋らないことに決めた。

 

 

 

 あの後も、三人は数十分に渡って益体のない言葉を勇斗に向け続けた。彼らには時間を憂慮する能力が無いのか、向けられる言葉の圧は収まることを知らない。

 正直、鬱陶しい。今すぐここを後にしたい想いはあるが、それだと傍目から、他人由来の騒音から逃げたように見られてしまう危険がある。“正常な判断能力”を悟られていけないため、勇斗はしばらく動くことができなかった。

 

 やむなく、彼は三人から意識を外して食堂のモニターに目を向けた。そこではちょうど時事ニュースが流れていた。

 

『――目下のところ、多くの専門家が、全国各地で流行になっている個性刺青の副作用を懸念しています』

 

 ……個性刺青? あまり耳触りの良い語感ではない。勉学ばかりに勤しんできたためか、勇斗は最近の――主に若者の間などで流行している――社会現象などの良さを、理解しつつも共感することが出来ない人種だった。

 とはいえ、世の流行には研究の一環としての興味がある。彼はかなり真剣にニュースを聞き入っていた。

 

『えー、個性刺青というのはですね、生後数ヶ月以内の赤ん坊の身体の一部に、将来的に宿って欲しい個性を刺青として刻むというものです。個性は原則的に遺伝されるものですが、近年になって突然変異(ミューテーション)事例などの報告が増加したことが、この流行の原因の一つとされているようですね』

(……ふぅん、コレを駄目だと感じるのは、俺が旧態依然とした人間だってことなのかねぇ。昔ながらの勉強方法しか取り組んでこなかったからなぁ。やっぱ心から共感はできないや)

 

 個性により動物と人間のハイブリッド――旧時代では“獣人”と呼ばれていたファンタジーの創造物までもが、今の社会では当然のように慣れ親しまれている。それに伴い、他人の容姿を褒める感覚だけを残して、ポリティカル・コレクトネスが世界中に根強く浸透した。この刺青という流行を冒涜的に感じること自体が、古くさい考えなのかもしれない。

 しかし、これも無個性である弊害なのか、“個性”を宿さない旧来の人類である勇斗は、比較的今の時代よりも旧時代の価値観に即した感受性を持っていた。少なくとも、子供に刺青なんて彼なら絶対許さないだろう。

 

『ネット上では、刺青が子供の成長を阻害するのでは、という懸念の声が多数見受けられています。しかし、この刺青に使われている成分そのものは人体なんら悪影響のあるものではなく、刻まれる個性も英語のアナグラムに変換してあるため、肉体的、精神的に子供に害のある物ではないという考えが大部分を占めるようですね。

 個性刺青は十年程前から一部の人々の間で取り扱われてきたようですが、――今日になって、“個性”の願掛けが広く普及した。この流行こそ、個性重視の今の社会を象徴しているのかもしれません。今後は社会倫理的な観点から議論が展開されていくことでしょう』

(個性重視の今の社会、ねぇ)

 

 勇斗には耳に痛い言葉だ。

 彼はヒーローの基本が個性であることを承知している。そのため、雄英受験の際には個性届けを偽造して“超集中”という個性で受験に望み――合格点を叩き出してしまった。合格通知を受け取った数日後には罪悪感から真実を告白したが、平等性を損なうような偽造工作ではないとしてそのまま合格として処理された。

 この話から何を言えるかと言うと、努力次第で人並みのステージには上れるということだ。その可能性に限りはない。きっと自分もヒーローになれるのだと――そう信じて疑わない事にしていたが、やはり限界値が設けられていたらしい。

 個性無しではヒーローとして認められる事すら困難だ。無個性であるからこそ、良個性を切望する感覚は分かる。

 勇斗は自分のハンデを他人を卑下する道具として認めていない。

 そのため、主観を交えずに物事を評価出来るのだが、紛れもなく無個性は――惨めで、情けなくて、かっこ悪い。

 

(俺も、個性欲しかったなぁ)

 

 刺青に願掛けの意味合いを込めただけで救われた気になれるのなら、安いものかもしれない。

 

(刺青か。そういえば蟻塚ちゃんにも掘られてるんだよな、“識別番号”だけど――――いやちょっと待て。英語で、アナグラムだと……?)

 

 その時、勇斗の思考が違和感を弾き出した。

 彼の記憶は定着するのが早く、持続性もある。それによると、蟻塚の刺青は『eblim saver』だったと記憶している。

 先日、ミサキから貰った資料によると、蟻塚の年齢は十二歳。個性刺青が十年程前から流行りの兆しを見せ始めていたなら、有り得なくない話だ。

 『eblim saver』がアナグラムだとして、入れ替えると。

 

Brave(勇気)Smile(笑顔)

 

 ――かつて、在りし日の草壁勇斗が父から他称され、自称した個性の名前と一致すること。

 ――その個性刺青の主が、勇斗の姉の草壁水泉と瓜二つであること。

 

 勇斗の直感は、それを偶然の一言で済ませなかった。

 

 

  5

 

 

「草壁さんと蟻塚さんのDNA鑑定の結果が届きました」

「……それで、どうでした」

 

 神妙な面持ちの勇斗が尋ねる。伝播した緊張感を感じ取ったミサキは、一拍の呼吸を挟み、言った。

 

「貴方が考えていた“妹”という線は有り得ないようです。血の繋がりが薄い。……ただし、血縁関係はあると断言できます」

「――――何だと?」

 

 勇斗の疑問も尤もだ。彼の家族構成は、幼少期に母を事故で亡くし、父が一人と姉が一人。後者の二人もつい最近亡くしたばかり。親戚との親交はほとんど断絶されていたようなものだが、全員把握している。誰一人として人身売買に出される余地がない。

 つまり、蟻塚は――そもそも勇斗が知り得なかった家族。

 

「……誰の子だ?」

 

 結論を出すことを拒絶したがっている自分がいる。

 しかし、真実は明瞭だった。だって彼女は、最愛の姉さんの生き写しのようなのだから。

 

「――そんな。どうして……蟻塚ちゃんが、姉さんの子? ……俺の、姪? ああ、なんでそんなことに」

「あの、確かに血縁関係はあるんですが、まだ姪と決まった訳では……」

「決まってるんだよ!! あんなにも、そっくりなんだから!! 俺が、ずっと焦がれ慕ってきた、愛してきた、あの人に!!」

 

 発狂に近かった。

 冷静沈着な少年が、合理主義の彼が、ここまで動揺しているのは異例なことだ。雄英在学中の彼なら、入り乱れることすら有り得なかっただろう。

 

 ともすれば、彼は壊れ始めていたのかもしれない。

 目の前で、ヒーローに姉が殺された瞬間から。

 

「オイオイオイ、もしそうなら、姉さんが蟻塚ちゃんを産んだのは14歳の時だってことになる……! ふざけるなよ、有り得ないだろ、道徳的に、有り得ないだろ、何もかも……ッ。しかも、なんでそれが俺に隠されてた? なんでそれが、闇市に売り飛ばされる!? 巫山戯てるぞ何もかも! 何もかも!!」

「く、草壁さん、大丈夫……?」

「ああったくクソが!! 全部分かった!! 全部分かった(・・・・・・)!!」

 

 分からない方が幸せだった。知らないほうが苦しくなかった。だが、真相から目を逸らすことを勇斗は自分に許せなかった。それではどうやっても、彼女が救われてくれない。

 

「ごめんなさい、私が何が何だかさっぱりで。貴方と蟻塚さんの関係は、叔父と姪で間違いないんですか? 容姿以外に何か根拠があるんですか?」

「……俺が口にする憶測には、大抵ありますよ、根拠」

 

 一度大声で叫んだからか、勇斗の声は落ち着きを取り戻していた。

 

「まず俺の姉さん――草壁水泉は、十三歳から十五歳までの三年間、海外留学していました。その三年間だけは、俺と姉さんとの間で直接的なコンタクトがなかった。そして、蟻塚ちゃんが産まれた時期もその三年間に含まれています。姪の存在を俺が知り得なかったことにも得心がいく。隠されていたんだ」

「どうして隠す必要が?」 

「――全ての原因は姉さんの『個性』」

 

 勇斗は忌々しい記憶を掘り起こし始める。

 

「姉さんの個性は『ポイズンブラッド』――毒性の血液を精製する力です。そして、それに商用価値を見出したのが俺の父さんの勤務する“凱善製薬”でした」

「確か、大手薬品会社ですよね?」

「はい。あそこの会社は姉さんの個性を使って大量の毒物兵器を製造し、海外へ密輸していました。個性が重視されようと、やっぱり最強なのは兵器なんですよ。凱善製薬が姉さんから抽出し量産化した毒物は、主に紛争地域の抑止力として効果を発揮していました。勿論一部は悪用されていただろうけど、初志は世のため人のため。だから俺も姉さんも父さんも、アイツらの提案に同意した。

 だけど――凱善の一族はそれで満足しなかったんでしょうね。姉さんの個性の別の商業に転用しようと考え、より強力な個性への進化、つまり個性婚を強要した。……いや、個性婚どころじゃないな。繁殖装置とか、せ、性奴隷とか、姉さんはそういった扱いを受けていた」

「そうして産まれたのが、蟻塚さんってことね……」

「でも、蟻塚ちゃんの個性は『蟻』。等身大で蟻の膂力を引き出せる脳筋個性だ。父方の遺伝か突然変異かは分からないですけど、遺伝子診断の段階で『ポイズンブラッド』に類する個性が宿っていないと判明し、蟻塚ちゃんは違法行為を隠蔽するために存在を抹消された。ブラックマーケットに流すという形で。殺されなかったのはきっと、父さんや姉さんの尽力があったんでしょう」

 

 草壁菊絵は道具として産まれ、不良品として捨てられた。

 その出生の秘密は嘆かわしい。

 だが、愛されていなかった訳がないのだ。でなければ、個性の願掛けなどされる筈がない。

 『勇気と笑顔』――草壁勇斗の背中を支えてくれたその力を、後押ししてくれたその祝福を、どうかこの子にもと。

 蟻塚という少女は、幸せを願われていたに違いない。

 

「大前提として凱善製薬の違法取引は事実です。最近になって姉の仕打ちを知り得た父さんは、会社の上層部に反発し、間も無く謀殺されている。それから直ぐに姉さんも死んで――姉さんの死に関しては謀略じゃないだろうけど――口封じの為に俺も殺されかけた。

 本当は、今も命を狙われてる。雄英在籍中は安全だったけど、今はそうじゃないので。だから俺は庇護を求めてショッズに来たんです。ここに入れば足跡が一旦途切れる。アイツから――凱善踏破から逃げ切ることも叶う。まぁ、理由はそれだけじゃないですけど」

 

 勇斗は右手親指の爪をくわえ込み、憤りを噛み殺した。忌々しい新事実ばかりが発掘される。知りたくなかった、知らなければいけなかった事実が。

 

「全てが悪い方向で繋がった。蟻塚ちゃんが身売りされたのも、当時の海外ルートを使ったんだとすれば筋が通る。

 間違いなく、蟻塚ちゃんは姉さんの最後の忘れ形見で、俺の――姪だ」

 

 清廉潔白だった草壁水泉の一人娘。真っ当に育てば、姉に似て美しく快活な女性になっていただろうに。

 家族に名前すら知られていない彼女には、もう何もない。

 託された物も全て掠め取られ、可能性も全て潰され、未来を完全に蝕まれてしまっている。

 

「――ミサキさん、蟻塚ちゃんが健常者として社会復帰する可能性はありますか?」

「いや、どう……ですかね。脳細胞は再生しないものですから、脳の機能低下から来る彼女の精神疾患は――可能性がゼロとは言いませんけど、それでも、正常な状態まで治る可能性は、ほとんど無い、かと……」

「…………。」

 

 いっそ、産まれてこなかった方が幸せだったんじゃ無いだろうか。

 あの子は、真っ当な方法で幸せに浸れない。

 歪んだ手段で笑顔を勝ち取るその悪徳が彼女の幸福だとすると、彼女は生きていることが罪深く、残酷で惨たらしいことなのではないだろうか。

 

 でも、産まれてきたことを間違いだと誰にも言わせたくなくて。

 大好きな姉の遺産を、誰からも否定されたくなくて。

 それでも、他人を損なう彼女の悪辣な生き方を許容できなくて。

 

「――俺は、あの子を」

 

「どうするんですか?」

 

 ミサキに問われた時には、迷いは消えていた。

 

 姉から、父から、希望を託された。生きて欲しいと願われた。勇斗は自分の人生の尊さを知っている。

 それをかなぐり捨ててでも、やり遂げなければ。

 

 父さんは認めないだろうし、姉さんは哀しむだろう。意味なんて残らない無益な選択だと自分でも分かっている。これまでの努力が消え失せる最も愚かな選択だと分かっている。

 それでも、俺は果たさないと。

 

 

 ――蟻塚ちゃんをこの手で殺し、自ら命を絶つ。

 

 

 それこそ、草壁の名を背負う(・・・・・・・・)ヒーローの少年が果たすべき、最期の負債だ。

 

 




過去編長過ぎね? 大丈夫自覚してます。もうちょっとお付き合いください。

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