ついでにタイトルも変えました。
【井手上菊代視点】
「奥様、これ以上はお体に障ります。どうか――」
「菊代」
「……はい」
突き出されたグラスに私はなみなみと焼酎を注ぐ。水で割られてもいないそれを奥様は一息で呷った。そしてまた同じようにグラスを突き出してくる。
奥様のこのようなお姿にももう慣れてしまった。最近は暇があればこうしてお酒に浸っている。
といっても仕事を蔑ろにされている訳ではない。むしろ以前よりも精力的に仕事に取り組んでいる。それこそ休む間も惜しんで。
まるで何かを忘れようとしているかのように。
あの日から奥様は変わってしまった。
みほお嬢様が亡くなられてから。
まほお嬢様が家を出られてから。
いや、今思えばみほお嬢様が黒森峰を去った時からすでにその兆候はあったようにも思う。
西住流としての立場と母親としての立場で板挟みになって精神を擦り減らしていた。
決して表に出すことはしなかったけれど、学生時代からの付き合いがある私には奥様が無理をしているのがよくわかった。
とはいえ、私の立場でできることなど限られていた。
私にできたことなど大洗に転校したみほお嬢様に手紙をお送りすることくらいだった。
私はその過程でみほお嬢様が大洗で戦車道を続けていることも知っていた。
私は敢えて奥様にそのことを伝えることはしなかったが、高校戦車道連盟の理事長である奥様にいつまでも隠し通せるものではなかった。
大洗女子学園が2回戦を突破し、準決勝に臨む頃には奥様にもみほお嬢様の活躍は耳に入っていた。
奥様はどうなさるのか、そんなことは聞くまでもなかった。母親としてはともかく、西住流の師範として奥様に許される選択肢など限られていた。
西住流の人間としてこのような事態を見過ごすわけにはいかない、みほお嬢様に勘当を言い渡す、と奥様が決断するまでに時間は掛からなかった。
それを聞いた私はすぐにお暇をいただき、一人大洗に向かってみほお嬢様にお会いした。
久方ぶりにお会いしたみほお嬢様は黒森峰にいた頃とは別人だった。ご学友に囲まれて笑い合って、戦車に乗ることを楽しんでいた。
思えばいつ以来だったろう、みほお嬢様の笑顔を見たのは。
転校以前も表面的には笑顔は浮かべていた。しかし幼い頃からお嬢様のお世話を任されていた私にはわかった。それが心の底からのものではないということが。そういう時は決まって心の奥底に負の感情を押し隠していた。
まだ小さい頃はほとんど見られなかったが、戦車道の訓練を本格的に始めてから徐々に頻度が増していった。そして気が付けばみほお嬢様は常に作り笑いを浮かべるようになっていた。
まるで昔に戻ったかのように心から笑うみほお嬢様を見てやはり黒森峰を出られたのは正解だったと思った。
それと同時に心苦しくもあった。
今から自分が言おうとしていることはそんなみほお嬢様の笑顔を曇らせることになるとわかっていたから。
でも言わないわけにはいかなかった。そのために私は大洗まで来たのだから。
『お嬢様は西住家を……勘当されます』
みほお嬢様は目に見えて動揺していた。カップを持つ手が震えていた。
みほお嬢様もこうなることはわかっていただろう。それでもいざ言われてみればやはりショックは大きかったようだ。
それでもみほお嬢様は私に心配をかけまいと笑っていた。
私でなくてもわかる、明らかな作り笑いで。
その後私は奥様とまほお嬢様とともに大洗の試合を観戦に訪れた。
もし大洗が負けるようなら奥様はその場でみほお嬢様に勘当を言い渡すつもりだったようだが、幸いにも大洗は試合に勝利し、決勝戦まで駒を進めた。
私は密かに安堵した。これでみほお嬢様はひとまず勘当を免れる、と。
とはいえ危機的な状況に変わりはなかった。決勝戦の相手はまほお嬢様率いる黒森峰だ。戦力差は歴然。しかも決勝戦では車輌数は20輌まで。これまで以上に厳しい戦いになるのは目に見えていたから。
『あんなものは邪道。決勝戦では王者の戦いを見せてやりなさい』
『西住流の名に懸けて、必ず叩き潰します』
お二人の会話を聞けば手心を加える気がないのは明らかだった。
そして決勝で大洗が負けることがあればやはりみほお嬢様の勘当は免れないと理解した。
だが私にできることは何もなかった。
ただみほお嬢様の勝利を祈ることしか私にはできなかった。
……西住家に仕える身として西住流が負けることを祈るなどあってはならないことだろうが、この時ばかりはそう祈らざるを得なかった。
そして迎えた決勝戦。大洗はこれまでの試合がまぐれではないことを証明するかのように、素晴らしい戦いぶりを見せた。
何度もピンチを迎え、途中でアクシデントもありながらもそれらを乗り越えた。勝利まであと一歩というところまで黒森峰を追い詰めた。最終的にはフラッグ車同士の一騎討ちにまでもつれ込んだ。
けれど一歩及ばず、結局大洗は敗北した。
試合を見届けると奥様は試合会場に向かって歩き出した。その背を慌てて追う私に奥様は無感情に言った。
みほお嬢様に勘当を告げに行くと。
『奥様、本当によろしいのですか?』
ただの女中の身分で口出しするなど出過ぎた真似だと理解はしていた。それでも言わずにはいられなかった。奥様も本当はそんなことを望んでいないとわかっていたから。
奥様は私の言葉に立ち止まると、少し間を開けてから口を開いた。
『西住流の人間として邪道に堕ちたあの娘を許すわけにはいきません』
奥様の表情はわからなかった。しかし僅かに声が震えていたような気がした。
私にはそれ以上何も言えなかった。奥様にも立場がある、西住流の次期家元としてあまりにも大きなものを背負われていると理解していたから。
その後奥様はみほお嬢様を呼び出すと、西住家を勘当することを告げた。
『一つだけ聞いてもいいですか?』
私から事前に話を聞いていたためか、みほお嬢様は取り乱すことはなかった。
『もし私が大洗で戦車道をやらなかったら。ううん、黒森峰を転校してから一生戦車道をやらなかったら。それでも娘として愛してくれましたか?』
どこか祈る様な、縋る様なみほお嬢様の言葉に、見ているこちらの方が胸がつまった。
『愚問ですね』
けれど奥様はそんなみほお嬢様の言葉を一言で切り捨てた。
『西住の家に生まれた以上、戦車から逃げることは許されません。私の娘なら、西住流の人間ならば戦車道を選んで当然です』
そんな奥様の物言いに私は堪らず顔を伏せた。
奥様にも立場があるのは理解している。常に西住流らしくあろうとするその姿勢は純粋に尊敬している。それこそ学生時代からずっと。
けれど。けれどだ。
今この場でくらいは西住流よりも娘を優先してもいいのではないか。
みほお嬢様を勘当するというのなら、これでお別れというのなら。
せめて最後の一言くらいは母親として娘に声をかけてあげるべきではないのか。
『……戦車に乗らない私なんて娘じゃないってこと?』
はっとして顔を上げた私の目に映ったのは、無表情で頬を流れる涙を拭いもせずに立ち竦むみほお嬢様の姿だった。
『私は……いらない子ですか?』
私は堪らず奥様の方に振り返った。
このままでは駄目だ。何か言わなければ取り返しのつかないことになる。きっと後悔することになる。そう思ったから。
けれど奥様は最後まで口を開くことはなかった。
『そっか、そっかぁ……』
そうしているうちにみほお嬢様は、一人何かに納得された様子で俯けていた顔を上げた。
みほお嬢様は笑っていた。
作り笑いではない、心からの笑顔だった。
普段ならみほお嬢様が笑ってくれたと喜ぶところかもしれない。でもこの時に限ってはそんな気にはなれなかった。むしろ悍ましいとすら感じていた。
何故ならその笑顔は場にあまりにも相応しくない表情だったから。実の母親に勘当を告げられた娘が浮かべるべきものでは断じてなかったから。
奥様もそんなみほお嬢様の表情に困惑しているようだった。
次の瞬間みほお嬢様の口から放たれたのは笑い声だった。
何かを恨むような、呪う様な、ありとあらゆる負の感情を煮詰めたような、そんな笑い声だった。
本当に今私の目の前にいるのはみほお嬢様なのだろうか。顔がそっくりなだけの別人ではないのだろうか。そんなことを考えてしまうほどには目の前のみほお嬢様の様子は恐ろしかった。
私は目を逸らすこともできずに、狂ったように笑い続けるみほお嬢様を見続けるしかなかった。
果たしてどれほどの時間が経っただろうか。実際には数秒に過ぎなかったのだろうが、私には数分にも、数時間にも感じられた、そんな地獄のような時間はようやく終わりを告げた。
『さようなら、お母さん』
みほお嬢様は笑いを収めると、ただ一言別れの言葉とともに私たちに背を向けた。その後はこちらを振り返ることなく真っ直ぐに歩き去っていった。
私は一瞬どうすべきか迷った。
みほお嬢様の後を追うべきかとも考えた。しかしショックで立ち竦む奥様を放っておくわけにもいかなかった。
結局私はその場に残ることを選んだ。呆然とする奥様を支え、落ち着くまでその場に留まっていた。
みほお嬢様が自殺したという連絡が届いたのはそれから数時間後のことだった。
病院からの連絡を聞いた時は動揺のあまり受話器を取り落としてしまった。そして後悔の念が押し寄せてきた。
あの時すぐに後を追ってお声をかけていれば。あるいはみほお嬢様が亡くなるようなことはなかったのかもしれない。そう思うとどんなに悔やんでも悔やみきれなかった。
病院から戻られた奥様や旦那様、何よりもまほお嬢様の沈んだ面持ちを見ると尚更だった。
みほお嬢様の葬儀には私も参列したが、奥様は出席されなかった。
西住流としての立場上仕方がないとは理解していた。せめて葬儀だけでもとは思った。だが結局私は何も言えなかった。
葬儀が終わり、出棺の前の別れ花の儀式の時のことだ。棺の中で眠るみほお嬢様を見て。私は改めてみほお嬢様が亡くなられたことを理解した。
涙が止まらなかった。私だけではない、旦那様も、みほお嬢様のご学友の方々も誰もが涙を流していた。
ただ一人、まほお嬢様だけは一切涙を流さなかった。
もはや涙など枯れ果てた。そう言わんばかりの虚ろな瞳で佇んでいた。
その様があまりに不憫で私は更に涙を流した。
葬儀も終わり屋敷に戻るとまほお嬢様はすぐに奥様の私室へと向かった。私も後を追おうと思ったその時だった。
大洗女子学園の生徒会長である角谷杏さんが訪ねてきたのは。
角谷さんは私に向かって丁重に頭を下げると、みほお嬢様のことで奥様とまほお嬢様に話があるので取り次いでほしい、と言った。
本来ならば約束もなくこんな時間に訪ねてくるような相手は門前払いだったろう。
でも相手の顔を見ると私には何も言えず、私は奥様に来客があることを告げた。
奥様も最初こそお帰り願うようにと言ったものの、来客が角谷さんであると知ると前言を翻した。
私に案内されて部屋に入った角谷さんはお二人に向かって土下座した。そしてみほお嬢様が亡くなられたのは自分のせいだと、どのような罰も受けると告白した。
しかしお二人の反応はにべもなかった。
『すべてはあの娘が自分で選んだことです。貴方に非はありません』
『みほを殺したのは私だ。貴方は何も悪くない』
角谷さんはお二人の言葉に衝撃を受けたかのように固まり、結局そのまま口を開くことはなかった。
奥様の部屋を退出した後、私は角谷さんを門まで送り届けた。その間角谷さんは終始無言だった。その面持ちは最初にお会いした時以上に暗かった。
どのような罰も受ける、と彼女は言っていた。彼女はあるいは自分を罰してほしかったのかもしれない。
しかし奥様もまほお嬢様も彼女を責める気は毛頭ないようだった。それについては私も同意見だった。
彼女は自分がみほお嬢様に戦車道を強制したことを気に病んでいたようだが、少なくとも私が見た限りではみほお嬢様は大洗で戦車道を楽しんでいた。黒森峰にいた頃よりもずっと生き生きとしていた。その点ではむしろお礼を言いたいくらいだった。
とはいえ私が言うべきことでもない。そう思って私はただ大人しく案内に徹することにした。
もう夜も遅いため、駅まで車でお送りすると伝えたが角谷さんはそれを固辞した。
私としても客人に対して礼を欠くわけにはいかないと最初は食い下がったが、今は一人になりたいからとお願いされて、最終的に私の方が折れた。
『どうかお気を付けて』
私は角谷さんが歩き去るのを最後まで見送った。
見送りを終えて屋敷に戻ると何やら騒ぎが起きていた。方角からして奥様の私室のあたりだった。私は妙な胸騒ぎを覚えて奥様の私室へと急いだ。
そうして駆け付けた私の目に飛び込んできたのは。
馬乗りになって奥様を殴り続けるまほお嬢様の姿だった。
『まほお嬢様!?』
私は慌ててまほお嬢様を奥様から引き剝がした。
『おやめください、まほお嬢様!!』
『離せっ!! 離せええぇぇぇっ!!!』
まほお嬢様があんな風に声を荒げることなど、戦車道の試合ですらなかった。私が止めに入らなければどうなっていたことか。考えたくもない。
私は旦那様が駆けつけるまでの間、必死にまほお嬢様を羽交い締めにして抑えつけるしかなかった。
あれ以来まほお嬢様と奥様の関係は険悪になってしまった。
まほお嬢様は高校を卒業されてからは一度も屋敷にお戻りになっていない。
奥様もそんなまほお嬢様に何かを言おうとはしなかった。
そんなお二人の関係をどうにかしたいという気持ちはある。しかし私の力ではもうどうしようもない程にお二人の仲は拗れてしまっていた。
『菊代さんがお母さんならよかったのに』
みほお嬢様が黒森峰を去り、大洗に転校する時に言われた言葉を思い出す。
『菊代さんが母親ならよかったのに』
まほお嬢様が高校を卒業されて、家を出る時に言われた言葉を思い出す。
嬉しい気持ちはあった。私もお二人のことを実の娘のように大切に想っていたから。
でもそれ以上にやるせない気持ちが胸の内に湧き上がってきた。
奥様はたしかに昔から不器用な人だった。私は学生時代奥様とともに戦車道を学んでいたが、当時もそれで周りの隊員たちと何度も衝突していたものだ。
不器用なせいで言いたいことも言えず。立場のせいで言いたくないことも言わなければならない。そのせいでよく周りの人間に誤解されていたものだ。きっとお嬢様方もそうだったろう。
それでも奥様なりにお二人を心から愛しているのは私にはわかった。だから奥様の愛情がお二人にはまったく伝わっていなかったと知って、それがどうしようもなく悲しかった。
あるいは私が奥様とお嬢様方の仲立ちをすべきだったのだろうか。そうすればこんなことにはならなかったのだろうか。そんな風に悩んだことは何度もあった。
けれどそんな仮定にもう意味はない。
みほお嬢様は亡くなられ。
まほお嬢様は心を閉ざされてしまった。
二度と親子で仲睦まじく過ごす未来などありえないのだから。
気付くと奥様はいつの間にか酔いつぶれて眠ってしまっていた。
これもいつものことだった。私は奥様の肩から毛布を掛け、そのまま退出しようとする。
「みほ……まほ……ごめん、なさい……」
不意に聞こえた呟きに驚いて振り返る。起きたのかと思ったが奥様は未だ眠ったままだった。どうやら寝言らしい。
見ると奥様は一体どんな夢を見ているのか、悲痛に顔を歪めて涙を流していた。
みほお嬢様が亡くなられた原因は奥様にある。
そういうのは簡単だし事実でもあるだろう。けれど少なくとも私には奥様を責める気にはなれなかった。
奥様が西住流の後継者としてどれほど重いものを背負われているか、私はよくわかっていたから。
何よりも私も奥様のことを言えはしないのだ。
女中の身分に過ぎない私が口出しすべきではないだなんて。結局のところ私も立場を言い訳にしていたことに違いはないのだから。
私も奥様と同罪なのだ。ならば私はどうすべきかと考えて、ふと昔のことを思い出した。
あれは高校三年生の秋のことだった。高校の最後の大会も終わり、三年生は皆引退して各々の進路に向けて歩き出す、そんな時期だった。私も例外ではなかった。
そんなある日、私は奥様に呼び出された。二人きりで話がしたいと。一体何を言われるのか、何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか。私は緊張の面持ちで奥様の言葉を待った。
身構える私に対して奥様は言ったのだ。
自分はいずれ西住流を継ぐ。しかしその重責はきっと一人で耐えきれるものではない。だから今までと同じようにこれからも自分を支えてくれないか、と。私の力が必要だと。奥様はそう言ってくださったのだ。
私は嬉しかった。奥様は私の憧れだった。ずっとこの人のようになりたいと思っていた。そんな人から自分が必要とされたことが、認められたことが何よりも嬉しかった。
そして決めたのだ。
一生この方を支えていこうと。
この命ある限りこの方の傍に居続けようと。
それがともに戦車道を学び、ともに成長し、ともに青春時代を過ごした戦友としての私の務めだ。そう思った。
戦友。そう、戦友だ。私と奥様は戦友だった。
私と奥様は今でこそ主従の関係だが学生時代は違った。隊長と隊員という意味では主従の関係とも言えるが、私たちの関係はそんな浅いものではなかった。
ともに学び、戦い、助け合ってきた。奥様には随分とお世話になったし、逆に私が奥様の手助けをすることもあった。そうやってお互いに支え合ってきたのだ。
私はあの時の気持ちを再び思い出した。
そして改めて誓いを立てた。
例え奥様がどんなに変わり果てようと。
私は死ぬまでこの人の傍にいよう。
この人が西住流に一生を捧げるというなら。
私もこの人のためにこの身を捧げよう。
それが私の、この人の戦友としての務めなのだから。
だれか一人くらいしほさんの味方がいてもいいじゃない、というお話。
まあ常夫さんもそうだと思いますが。
次回は角谷会長のお話です。
この小説に望むのは?
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救いが欲しいHAPPY END
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救いはいらないBAD END
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可もなく不可もないNORMAL END
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誰も彼も皆死ねばいいDEAD END
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書きたいものを書けばいいTRUE END