だが彼らは、「英雄」ではないのだ。
英雄に成れなかった「ヒーロー」と、その末路。
そのおじさんに初めて出会ったのは、雨が治まった後だった。
バケツをひっくり返したような連日の雨が嘘のように止み、雲の合間から数日ぶりの太陽が覗いていた。当時の俺は水たまりを踏みながら、家に向かっていた。
ふと、公園が目に留まる。鮮やかな紫の花。当時の俺にはそれがラベンダーと理解するだけの知識はなかった。
紫色に導かれて公園に入ると、そこは梅雨の匂いがした。葉っぱから滴る雨粒の匂い。水気を吸った土が乾く匂い。
そんな中、一際目立つ匂いがあった。それは鼻にこびりつくような匂いで、思わず咳き込んでしまう。
不快な匂いを辿ると、ベンチでおじさんが煙草を吸っていた。父親と同じような顔つきだから三十代くらいだろうか。
おじさんは近づいてきた当時の俺を見るとばつが悪そうな貌をして、靴の裏で煙草の火を消した。そのまま、そばにあったビニール袋に吸殻を捨てる。ビニール袋は案外きれいで、吸い始めてそんなに時間が経っていないことが分かった。
「おじさん」
当時の俺が声をかけると、おじさんの目がこちらを見た。当時の俺にはその表情は「嫌悪」と「脅し」に見えたが、今考えてみるとそれは「諦め」だったのかもしれない。
「ここはガキの来るところじゃねぇぞ、帰りな」
「おじさん、公園はみんなのものだよ」
俺の反論を聞くと、おじさんはそれ以上何も言わなかった。おじさんの隣に腰掛け、まじまじとおじさんを観察する。
目を引いたのはがっしりとした肉体。大柄な骨格に異常なほどの筋肉が合わさって威圧感を、そして漢らしい印象を与えていた。顔には深い皺が刻まれており、「おじさん」らしく見えるのはこのせいだろう。肩幅も広いが、その背中はどこか哀愁が漂っている。
ふと、腕を見る。丸太のように太い腕には、タトゥーのようなものが刻まれている。三角形の内側にアルファベットのGが描かれている紋章。それに見覚えのない人は少ないだろう。
「おじさん、もしかしてヒーロー?」
当時の俺の質問に、一瞬おじさんの表情が変わった気がした。どんな表情か考える間もなくおじさんの表情が消え、火の点いていない煙草を咥えた。
「滅多なことは言うものじゃないぞ。こういうタトゥー、最近流行っているだろう」
確かに、若者の間でこのタトゥーやシールはちょっとした社会現象を巻き起こしている。朝のニュース番組で若者のタトゥーについてたびたび議論されることは、当時の俺でも知っていた。
「でもおじさんの、お店よりもはっきりしてる」
おじさんは目を見開いた。やっぱり。当時の俺はヒーローには目がなかった。世界を守った英雄だからだ。
「ガキだからって油断できないな」
おじさんはポリポリと頭を書いた。今度は当時の俺が目を見開く番だった。
ヒーロー。この世界が異星人による侵略に晒されたとき、突如現れた超能力者達の総称。基本的には人類を守るため、地球を守るために戦う。異星人の降伏により戦争が終結したのは、まだ人類の記憶にも新しい。
ヒーローには、腕にタトゥーが刻まれているという共通の特徴があり、終戦後も人類と共存している。ヒーローに憧れていた健全男子の当時の俺は、ヒーローの知識ならそこそこの自信があった。
「じゃあさ、本物の異星人ってどんな奴だったの? おじさんはどんな能力なの?」
矢継ぎ早に浴びせられる俺からの質問に、おじさんは目を細めるだけで、何も答えてはくれなかった。当時の俺はそれでも粘り強く質問し続けたが、後には沈黙が残るばかりだった。
当時の俺が質問に疲れて黙ってからしばらくして、おじさんは腰を上げた。
「もしも、次会うときまでに『俺はヒーローに会った』って誰にも言わなかったら、真実を教えてやる」
「本当に? 約束だよ!」
おじさんは背中で声を受け止め、口から煙を吹きながら行ってしまった。
当時の俺はおじさんのことを本当に誰にも言わずに、胸の中にそっとしまっておいた。
* * * * * *
また、大雨が降った。
あの日からおじさんの背中に魅せられた俺は、そこにしがみつくために必死に勉強した。そして、少しいい高校へ何の苦も無く入学した。
あれから何度もあの公園を通ってはいるものの、一度もあのおじさんに出会うことはなかった。
しかし、約束通りにしていたのだから、いつかは会えるだろうと思って、あの日の俺は子供の喧騒がする公園に立ち寄った。
――――いた。
雨の匂いの中で、取り分けきつい匂い。人体に有害な煙。
おじさんは、記憶の中と変わらない様子でそこにいた。
「元ヒーローは、軍部に捕らえられてモルモットにされるのを避けるために、酒や煙草を好むようになる」
おじさんの答えは、沈黙だった。そっと、おじさんの靴裏で煙草の火が消える。あの日の俺は、なんだか嬉しくなった。
「教えてください。異星人の侵略から世界を守ったはずのヒーローが、なんでこんなことになってるんですか」
おじさんは何も答えなかった。火の消えた煙草をじっと見つめている。あの日の俺はなんだか怖くなって、彼に詰め寄った。
「お願いします。俺はちゃんと、あの日の約束を守り続けているんです」
地蔵のように動かないおじさんに、あの日の俺がしびれを切らした頃、俺たちの足元に丸いものが転がってきた。遠くから男の子が駆けてくる。サッカーボールらしい。
ひょい、とおじさんがボールを拾った。そしてそれをまじまじと観察した。
「あの戦いのときには、こんな感じでよくボールが転がってきたな。」
突然口を開いたおじさんの言葉に、あの日の俺は唾を飲んだ。生ぬるい風が頬を撫でた。雲は早く流れていく。
耳を澄ました。子供の笑い声と、木が風にざわめく音がする。なんだか、嫌な予感がした。
「目の前にいくつもいくつも。見知ったボールだった」
おじさんは駆けてくる男の子を見た。その目には、初めて会ったときよりも寂しそうな色が覗いている。
「そんなボールが、夢にも出てくるんだ。そんなことを繰り返しているうちに、気が狂っちまうヒーローもいたのさ。」
そしておじさんは、子供めがけてボールを投げつけた。
パアン、と破裂音。ゴゴゴゴゴゴゴとうなりをあげて、どしゃっと倒れる。
耳を劈くような音が、静止した世界の針を動かした。悲鳴の濁流が、あちらこちらからあの日の俺を襲った。
見れば、風に揺れていたはずの木が、真ん中からぽっきりと折れて倒れている。木の真横にいた子供を、親が手を引いて逃す。幸い、下敷きになった子供はいないようだ。
「これが」
阿鼻叫喚の公園内。立ち尽くすあの日の俺の目の前で、騒ぎを起こした張本人は、静かに言った。
「これが、今のヒーローの真実。軍が捕まえるのも、こういうことだ」
おじさんはこちらに向き直った。手には小石。そして、目の前で倒れている男の子――ボールを取りに来た子供だ――にめがけて石を投げた。
たかが小石でも、ヒーローが投げればそれはライフル弾と同じである。
あの日の俺が動き出す前に、とっさに避けようとした男の子の右足を軽く掠った小石は、地面に小さな穴を抉り開けた。泣きながら遠ざかっていく男の子の声と同時に、あの日の俺の鼻に、臭いが飛び込んできた。
煙草とは違う、もっとドス黒く悪意のある死の香り。また、生ぬるい風が吹き始める。寂しい顔のままのおじさんの目の中に、沢山のボールが見える。
これは死だ。あの日の俺は直感する。死が、見えているんだ。
次におじさんがこちらを向く前に、あの日の俺は一目散に逃げだした。
むせ返るようなペトリコール。足に飛び散る泥。響く声。雨と涙で溶けた大地を、ただひたすら前へ。
「この涙は」あの日の俺は思った。「この涙は誰のものなんだろう」
それはもしかして、子供のものだけではなく。
振り返ったあの日の俺の目には、目から光の粒を垂らすおじさんの姿と、
ライラックの花が、揺れていた。
* * * * * * * *
その日もまた、雨の後だった。子供達の声が聞こえなくなった公園に、大勢の足音が鳴り響く。
その人は、いつものように煙草を吹かしていた。いつもと違うことがあるとするならば、さっきの俺はひとりじゃないってことと、こちらは武器を持っていること。
俺が着ているのは制服ではなく、対ショックベストだ。抱えているのは通学カバンではなく、ヒーローを捕らえるための特殊電磁銃。
俺が背負っているのは、希望や憧れではなく、憎しみと恐れ、そしてこの「対ヒーロー部隊リーパー隊」のエンブレムだ。
「こちらリーパー隊、児童公園にて標的を発見」
散開し、公園の各入口に待機。仲間に合図を出し、標的の様子を観察する。
標的はしばらく動きを見せなかったが、突然咥えた煙草に手をかけた。仲間が銃を強く握る音が聞こえる。ヘルメットの中を、汗が一滴ぬらりと垂れていく。
たかが煙草だろうが、ヒーローの力で弾かれれば火矢である。こういう日常の動きを甘く見て、死んでいった仲間は数知れない。
じゅうっ。火が消える音。標的が靴の裏で煙草を消したのだ。自分への来客が来たときと同じように。
さっきの俺は思わず立ち上がった。あれは挑発だ。このまま隠れていても埒が明かない。むしろ、殲滅されるだけかもしれない。
隊長も同じ判断だったのだろうか。全員が立ち上がり、あっという間に標的を取り囲んだ。こうなれば、さすがのヒーローも無傷ではすまない。全力あるのみ。
「動くな、抵抗しても無駄だ。いくらお前の能力が強かろうと、この数には勝てまい」
隊長が声をかける。この呼びかけに応じるヒーローも少なくないが、今回の標的はそのタイプではないことは十年前に実際に体感した。
「まさかお前の能力が『自分の最盛期のままでいられる』だとはな。通りでいつの記録でも見た目が変わらないと思ったんだ」
そんな能力だったのか。強化系だとは聞いていたが。しかし、気は抜けない。スコープ越しに相手の表情を見る。以前と変わらない哀愁が見て取れた。
しかし、なんだろう。少し、笑っているような。
標的がこちらを向く。まっすぐに、スコープ越しのさっきの俺を見つめてくる。こちらも狙いを定める。二秒吸う。息を止める。二秒吐く。息を止める。これで合っていただろうか。
「……おい、ガキ」
あの時と、変わらない声色。
「それが、お前の正義か?」
その問いかけに、さっきの俺は立ち止まる。
「そうか、お前もヒーローなんだな」
その人の、その言葉と、笑顔の意味は、さっきの俺には理解できなかった。
何か声をかけなければ。そしてこの言葉の真意を聞かなければ、俺は何か重要なことを見落としたままで終わってしまう。何か、根本的なことを忘れているような気がする。
そんな焦りも空しく、おじさんは車両に乗せられて連行されていった。
* * * * *
公園のベンチ。ライラックの花の隣で、俺は煙草を咥えた。
「それがお前の正義か」
おじさんの声が頭の中でぐるぐるしている。結局、なんの答えも出ないまま、一人公園で考え込んでいる。
あれから、おじさんのことを調べた。おじさんはその「全盛期のままでいられる能力」を使い、各地で素性を隠してボランティアをしていたようだ。そんなヒーローが、なぜあのときあんな凶行に出たのか。
そもそも、「全盛期のままでいられる能力」なんてものがおかしいのだ。それでは、おじさんが見せた超人的なパワーは、ただの努力の結晶ということになる。
結局誰も殺さなかったおじさんと、あの日から怒りのままに多くの能力者を捕らえた俺。いったいどちらが「正義」でどちらが「悪」なのだろうか。
「お前もヒーローなんだな」
もしかしたら、おじさんは殺しているのかもしれない。世界を守るために、多くの異星人と、多くの仲間を。
おじさんにとってのヒーローは、「人を殺して人を救う」という呪いだったのかもしれない。
おじさんがそれでもタトゥーを入れたままだったのは、まだヒーローを諦められなかったのだろう。「人を殺さず人を救う」というヒーローを。
俺は、どちらだろう。おじさんの言う通り、俺もヒーローなのだとしたら。俺は、どちらを選ぶべきなのだろうか。
俺は煙草に火をつけた。途端に、気管に煙が入り、咳き込む。
初めての煙草は、苦かった。