ONE PIECE -Stand By Me - 作:己道丸
タイトルも現状のままで行こうかと思います。
灼熱の大気は泥にも似た重さがある。
体にまとわりつく熱気は脚を踏み出す時、腕を振り上げる時、体を回して構えをとる時、いかなる時であっても普段以上の労力をこちらに求めてきた。
掌が熱を放つ、それ故に高い耐熱性を誇るギーアですら耐えがたい暑さがここにある。
「“
石橋の回廊に光熱の花が咲く。
強烈な熱波と、それにより破裂した暴風が幾つもの人影を弾き飛ばす。
「ぎゃああああァ――――……」
手にする三叉の槍を放り出し、人影は野太い悲鳴をあげながら回廊を落ちていく。
それは一様にドクロのような覆面をかぶった、丈の長い貫頭衣を着た男達であった。その手にまだ槍があったなら、まさに地の底で罪人を嬲る悪鬼の姿に例えられただろう。
しかし今は回廊が囲む巨大な大釜に投じられた哀れな供物でしかない。
膨大な熱気の源であるそれは大火に炙られ、赤々と沸騰する巨大な湖を掲げている。悲鳴は水柱が立つ音にかき消され、大気に勝る高温の湖中へと沈んでいった。
「狼の次は獄卒!? 本当に地獄みたいなところね、インペルダウン!」
奴等はこの大監獄で囚人をいたぶる獄卒達だ。
すでに抜けた極寒のLv.5が凶暴な狼しかいなかったのとは違い、業火と熱気が支配するこのLv.4“焦熱地獄”は、彼等覆面の職員が多く務める階層のようだ。
どうやらギーア達がLv.6から脱走したことは知れ渡っているらしい。
未だかつて侵入者も脱走者も許したことのない、鉄壁の大監獄に現れた初めての逃亡者だ。彼等がやっきになって押しよせるのも当然と言えた
「まったく、キリがないったら!」
幾度とない襲撃のたびに叩き伏せ、背後には無数の獄卒達が倒れている。
それを見るギーアは滝のように汗を流し、濡れそぼった囚人服を体に貼りつけていた。この熱気の中で敵を迎え撃つのだから、当然の労苦だった。
だが追っ手は必ずしも面倒事ではない。
こちらが知りたいことを知る相手が、向こうからやってくるのだから。
「――ジハハ。なぁ、教えてくれよ」
それは黄金のたてがみにも似た後ろ姿。
荒々しい金髪を滝のように伸ばした壮年の巨漢だ。ギーアと同じ囚人服を着たその男には、三つの大きな特徴があった。
一つ目は頭。まるでとさかのように舵輪が突き刺さっていること。
二つ目は脚。左右どちらの脚も、脛の半ばから切断されていること。
そして三つ目は、脚のない体が宙に浮いてそこに留まっていることである。
垂れ下がるズボンの裾は真っ赤に染め上げられ、今も新たな血痕を石橋の床に垂らしている。
隠しようのない重傷だ。この熱気も重なって激痛に苛まれているはずなのに、しかしその男は平然とした様子でその場に浮遊している。
平然と、獄卒を締め上げている。
「シ、シキィ……!」
「そう、おれは“金獅子”のシキさ。だったら、おれの探し物も分かるだろう?」
覆面越しに頭を鷲掴みにされ、吊り上げられる獄卒は悲鳴を上げる。
金髪の男、シキの五指が更に食い込むからだ。
「答えるまで殺さないと思うなよ? お前の代わりは幾らでもいる」
「わ、わがった! わがったがら……! お前の持ち物は、この先の保管庫にある……!」
周囲に倒れる同僚達の姿に怖気づいた看守は早々に白状した。
シキは嘲るように獄卒は打ち捨て、
「ジハハ、最初からそう言や良いんだよ! そうすりゃてめェ等クズ共に用はねェんだ!」
「あっちで、間違いないのね?」
「そ、そうだ、向こうにある!」
「おいおいベイビィちゃん、しっかり心を折ってやるなよ。このLv.4は署長室もある階だ。これ以上クズ共に時間をとられると面倒だぜ?」
「分かってるわよ。行きましょう」
音もなく飛び去るシキに溜息をつき、ギーアはそれを追って石橋の回廊を駆け出した。
絶え間ない熱気をどれだけかき分けただろうか。
環状を描く石橋の回廊を突き進むと、幾度目かの扉に目当ての看板を見つけた。
保管庫、と。
「――あれね!」
獄卒の言葉が正しければ、囚人の持ち物は全てあそこに集められるらしい。ならばギーア達が取り上げられた品もその中に含まれているはずだ。
この監獄から抜け出した後必要になる品が。
(モリアのビブルカード。あれさえあれば)
ビブルカードとは、人の爪を材料に作られ、元になった人間の居場所を指し示す特殊な紙だ。
ギーアは収監される以前に、船長と仰ぐ男、ゲッコー・モリアのそれを分け与えられていた。一度別れた時合流するのに役立った代物が、今また必要とされている。
「…………」
保管庫へとひた走る中、不意にギーアは併走する相手へと横目にした。
獰猛な笑みを浮かべる男の横顔を忍び見て、
「ねぇ」
「んん? 何だい、ベイビィちゃん」
「あんたの目当ては剣って言ってたけど、それが得物なの?」
「ジハハ! おれに興味があるのかいベイビィちゃん! 良いぜ、ベイビィちゃんの頼みだったら何でも答えてやるよ!」
シキは顎ひげを撫でて大笑し、問いに答えた。
「おれの目当ては、“桜十”と“木枯し”って二本の剣さ。結構な名剣でね、クズ共の手に残すにはちと惜しい」
「剣士で、その上空を飛ぶ能力者ってこと?」
「フワフワの実の能力さ。おれはおれ自身と、一度触れた物を宙に浮かすことができる」
「……ふぅん」
答えは返され、しかしギーアの返事はそっけない。
それは、本当に知りたいことが別にあるからだ。
「聞きたい事はそれだけかい? 違うんだろう?」
「む」
にやにやと笑うシキの顔。どうやら魂胆は見抜かれていたらしい。
見透かされたことに苛立ちが湧く。しかし相手はLv.6に投獄された古豪の海賊である。彼からすれば若造にすぎないギーアの思惑などあからさまだったのかもしれない。
だが聞いて答えるというなら、この機を逃す手はない。
「――覇気って、どう使うの?」
それは海を往く強豪達にあって自分にはない力。
モリアに曰く、それは顕在化した“意志の力”だという
科学技術を偏重する祖国にはなかった力だ。しかし現実に目の前で見せつけられれば、その力の意義を疑う余地はない。
この海で戦っていくならば必要になる力だろう、ということも。
「モリアと合流する前に身につけたいの。あんたも使ってたんなら何か知ってるんでしょう?」
「ん~……覇気、覇気ねぇ。ジハハ」
その覇気で手刀を本当の刃に変え、自らの脚を斬り落としたのがシキである。
彼はもったいぶるように笑って、
「そうだなぁ、まずは知識を憶えてもらおうか」
ギーアへと手を突き出した。そこに立つのは三本の指。
だな。
「一口に覇気と言っても、大きく分けて三つの種類がある。“武装色”“見聞色”“覇王色”だ。
おれがベイビィちゃんの前で見せたのは、武装色の覇気だな」
そう言うと、突き出したシキの腕が黒金色に染まる。
覇気をまとったのだ。
(モリアやバレットも使っていたやつだ)
「肌の色が黒くなるほど密度を上げたものを、武装色硬化という。この海でのしあがるなら、誰もが身につける技さ」
やはりある程度の水準に達した者に求められる技術なのだ。
モリアも身につけているというなら、彼を支える者として自分も体得しなければ。
「覇気は人間なら誰しも持つ力だが、どの種類がどれだけ伸びるからはそいつの才能次第だ。……そう、才能ってんなら覇王色の覇気だな。こればっかりは努力しても身につかねェ」
「覇王色?」
「周囲の人間や獣を圧倒して昏倒させる覇気さ。王の資質とも呼ばれ、数百万人に一人しか持たないと言われているが……ジハハ、この世界で名を上げる奴は大体持ってるな」
「……私には無理そうね」
モリアはどうだろうか。彼ですら持ちえないのだろうか。
「最後に見聞色の覇気だが」
「ええ」
「周囲の意思を察知し、そいつがどこにいて、何をしようとしているかが分かるようになる。――丁度こんな風にな」
言うなりシキが石橋から大きく飛び退いた。
空中に身を投げて飛び上がる彼にギーアは脚を止め、思わず呆けた顔を向けてしまう。
「何を」
問おうとした。
しかしギーアの声は、無残にも踏み潰される。
「ヴモオオオオオォ――――――!!!」
「!!?」
破壊が飛来する。
シキと入れ替わるように巨大な影が飛来し、石橋の重厚な床を打ち砕く。
噴き上がる破片と粉塵がギーアを取り巻き、
「何……がァ!?」
煙を引き裂く横薙ぎに打ち据えられた。
とてつもなく頑強な塊だ。柱のように長く太い何かがギーアの体を打ち払う。不意をついた一撃に堪える術はなく、圧倒的な威力のままに弾き飛ばされる。
「ぐァッ!!」
飛び石のように石橋に打ちつけられ、受身をとることも許されない。
体は幾度となく床を跳ね、転がり、硬質な石造りの床に擦りつけられてしまう。石橋への熱烈な求愛の結果は、全身が軋むほどの痛打だ。
理解の外から襲ってきた衝撃に慌てふためく内蔵を抑えつけ、震える腕でかろうじて起き上がる。そうして顔を上げるのは、何が襲ってきたのかを確かめなければならないからだ。
何が起きたのか。
誰が攻めてきたのか。
薄れゆく粉塵の先にそれはいる。
(……金棒?)
粉塵から突き出されているのは、鋼鉄のこん棒だった。尖った突起を四方八方に伸ばす形は、凶悪さをこれでもかと主張するいかにもな造形をしている。
鈍重なそれを、あれだけの勢いで振り抜くには常軌を逸した膂力が求められる。
そんな強靭な肉体を持つ敵の姿は、
「……何あれ」
「モ」
半人半牛の化物だった。
見上げるほどの巨躯を誇るそいつは、まるで二本の足で立ち上がった牛のような姿だ。白地に黒のまだら模様は乳牛を思わせるが、頭には曲線を描く二本の大きな角が生えている。両脚は蹄のある牛のものだったが、両腕は筋骨隆々な人の形をしており、右腕はゆるぎなく金棒を携えていた。
しかし何よりも特徴的なのは、茫洋とした顔である。
小さな瞳には一切の感情がなく、思慮のない無表情を貼り付けている。
「ジハハ! そいつはミノタウロス、インペルダウンが誇る地獄の化物、獄卒獣だ!」
ギーアの背後に降り立つシキが、化物の正体を声高にする。
「そして、そんな化物の襲来も察知する、これが見聞色の覇気さ!」
「分かってたんなら私も逃がしてよ!?」
思わず怒鳴るギーアだったが、しかし彼へと視線を向けることは出来なかった。
目の前の化物から目を逸らすことは自殺行為だと、身をもって教えられたからである。
一瞬で目の前まで距離を詰めてくる脚力に、一国の兵士長だったギーアを薙ぎ倒す腕力。虫も殺さぬ顔をして、その実、凶悪な身体能力を秘めているのが獄卒獣なのだ。
しかも、そんな化物は一体ではなかった。
「――ッ!」
湧き上がる殺気。
見聞色などなくとも分かる。幾つもの視線が殺意を含んで向けられていることなど。
振り向けばそこに怪物はいる。
「獄卒獣……!」
そいつらは、揃いも揃って小山のような巨体を誇る半人半獣の姿だった。
コアラ、サイ、シマウマ、それぞれの特徴を持つ化物が、各々に得物を携えやってくる。
その先頭に立つ一人の女性に連れられて。
「Lv.6からの脱走を許すなんて、ん~~~~~~! とんだ赤っ恥だわ」
深紅のボンテージをまとう長身の女だ。その顔は波打つ長髪で目元を隠しており、口元しか窺うことができない。
だがそれで十分かもしれない。厚い唇は、加虐の予感にしっとりと濡れているのだから。
「あんたは……」
「おだまり!! サディちゃんとお呼び!!!」
獄卒獣を率いる女、サディちゃんは手にした鞭を鳴らし、問いを引き裂いた。
烈火のごとき苛烈な断言。かと思えば、次の瞬間にはとろけたような甘い声で女は告げる。
「おバカな脱走劇はここで終わり! 四体揃った獄卒獣がアナタ達に、ん~~~~~~~! ステキな
「……っ」
ギーアは息を呑む。
獄卒獣ミノタウロスの力は今しがた味わったばかりだ。あれと同等の化物があと三匹、しかもそれを率いるサディちゃんまでもが現れた。
ギーア一人だったならば、切り抜けることは出来なかっただろう。
だが今は一人ではない。
「ジハハ、奴等はおれがやってやる」
シキが足音もなく前に出た。
宙に浮かぶその男と背中合わせの形になる。脚を失ってなお揺るがない後ろ姿には、地獄の化物と向き合っても何一つ動じない、自分に対する強固な自負が滲み出ている。
彼がいれば何とかなる、そう思わせる強さだ。
しかし男は全てを担おうとはしなかった。
「でもベイビィちゃん。そっちの牛の化物はベイビィちゃんがやってみな?」
「え?」
シキは顔だけ振り向き、ギーアの向こうに佇むミノタウロスを顎でしゃくってみせる。
「覇気を身につけたいんだろう? 本来、覇気は長い修行の中でその使い方を覚えるもんだ。それを今すぐ身につけたいってんなら……
にたり、とシキは残虐に笑った。
「――死闘! より強い奴に歯向かい、徹底的に打ちのめされ、死線を越えるしかあるめェ!!」
「……!!」
「今のベイビィちゃんじゃ、覇気に目覚めなきゃ獄卒獣には勝てねェ! まして、このまま海に出たところで生き残れやしねェよ!! 死にたくなきゃ、ここで覇気を身につけな!!!」
獰猛な宣告はまさに獅子が吼えるかのようだった。
つまりシキはこう言っているのだ。この一戦に、本来必要な長い鍛錬の時間を圧縮させろと。生き残りたいのならば無理を通せ、と。
それしかないというのなら、
「……やったろうじゃない!!」
ギーアは拳を握り、胸のうちの闘志をたぎらせた。
ここで道理を曲げられないならばそこまでの命、そう自らに科したのである。
敵は金棒を携えたミノタウロス。その目は相変わらず亡羊とした眼差しをこちらへ返すままだが一度動き出せば凶暴極まる化物だ。立ち向かえば苛烈な闘いになるのは明白。
そんな相手にギーアは誓う。
「いくわよ化物! あんたを倒して私は覇気を得る! 強くなって、ここから生きて出る!!」
二人は合図もなく、同時に駆け出した。
シキはサディちゃん達へ。
ギーアはミノタウロスへ。
保管庫へ向かうため、目の前の敵をねじ伏せるために。
左右の脚が風を噴き、疾風の速度で距離を詰める。一瞬で獄卒獣の大きな懐へ身をもぐらせ、赤熱する掌底をその腹へと叩き込む。
「“
移植された科学兵器は機能を果たし、鉄をも溶かす一撃がミノタウロスの腹を射抜く。
防ぐ間は与えない。掌は的確に奴を捉えた。
しかし、
「嘘でしょ!?」
鉄塊を打つような手応え。
獄卒獣はただ立っているだけだ。攻撃を受ける前も、受けた後も、変わらずに。
度し難い強靭さで目の前に立ちはだかっている。
「この……!」
これが自分と敵の格差か。
それでも勝たねばならない。相手の方が強いのは承知の上だ。
「“
烈風に後押しされた蹴りが頭を打つ。
肩、腕、胸、腹、脚、改造人間が誇る鋼鉄の脚で間断なく攻め立てる。
人としての鍛錬に兵器の威力を重ね、苛烈な打撃音が化物の巨体を強打する。
大きな的だ、外すことはない。狙うところは山のようにある。腕の付け根や腰といった間接、肉付きが薄く内臓に届きやすい部位、あらゆる場所を狙った。
それは人間であれば骨が砕け、内臓から破裂している威力の猛打。
轟音はたゆまなく続く。
「…………」
一歩。
怪物の脚が引いた。
(効いてる……!)
その思いで連撃に一層の力を込め、
「ヴモオゥッ!!」
「!!?」
化物の逆襲を受けた。
水平に奔る金棒が大気を打ち破り、ギーアの左腕を打ち据える。
次の瞬間には右半身に衝撃。一撃で石橋の床に叩きつけられたのだ。
「ぎ……ッ!」
胴が折れ曲がるほどの威力、吹き飛ぶ勢いは頭がもげるかと思うほどだ。
石造りの床に擦りつけられた半身は悲鳴をあげ、囚人服の袖が破けて失せる。
しかし地獄の権化は手を緩めない。
「モッ!!」
速い。
それまでの案山子じみた立ち姿からは想像できない俊敏さ。
身を起こそうとしていたギーアには迎撃すら許されない。
「モオオオオオオオウ!!」
「ぎゃあ!!」
起きかけた体が金棒に叩き伏せられた。
刃のつぶれた断頭台にも等しい一撃が、ギーアの体越しに床を粉砕する。
服が裂け、肌が割れる。血が飛び散るとともに内臓が悲鳴を上げた。押しつぶされた肺から息がひり出され、短い悲鳴とともに胸のうちの酸素を洗いざらい吐き出してしまう。
攻めを堪える力を失った体に、それでも化物は執拗だ。
「モッ!」
後頭部を打ち伏せ、
「モッ!」
返す手で顔面を打ち抜き、
「モッ!」
浮いた体を横打ちにし、
「ヴモゥッ!!!」
吹き飛んだ体は撃墜された。
「げ、う……っ」
そして始まる滅多打ち。
殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打、殴打。
もはや苛烈ですらない。
虐待というべき執拗さだ。
平手打ちの気軽さで金棒が降り注ぐ。
執拗に、丹念に、圧倒的な暴力が続く。
呵責のない殺意を振るう、奴はまさしく地獄の悪鬼。
これが罪人に対する正当な行いだというかのように、間断のない暴虐がギーアを染め上げる。
全身はその赤い髪よりも更に赤く染まり、裂けた唇から覗く歯の白さが際立つ。
「ぶ……! “
かろうじて伸ばす反逆の手。
掌に咲く熱波が獄卒獣の体を呑んだ。
しかしそれさえも、
「モッ!!!」
「ぁぎっ!」
焦熱地獄に巣食う化物には通用しない。
伸ばした腕は打ち払われ、ついに肉が削げ落ちた。
千切れ飛ぶ肉片。埋め込まれた科学兵器の硬い表面が、破けた肉の底から露呈する。
「ああああ……!!」
苦悶する間も責め苦は降る。
血と涙に濡れた頬を金棒が打ち据え、再び石橋の上を転がされる。
「ひぎ……!!」
これが強者への挑戦か。
これが無理に挑むということか。
応戦することも許されず、ただ一方的な蹂躙に圧殺される。
呼吸のたびに血反吐が絡み、息苦しい。
血潮の鼓動すら痛痒となって精神を苛んだ。
暗く、重い一念が胸を満たす。
(……死ぬ)
臓腑から熱が失せる。
これが絶望か。
(――殺される)
待ち受ける未来を思う。
無慈悲な処刑人がやってくる。
手にした金棒を床に擦りながら歩み寄る。
奴の手によって、今まさに死が科されようとしている。
「ハァ……ッ」
全身から汗が噴き出す。
意識は混濁し、視界が暗く、狭くなる。
両腕は力なく垂れ下がり、脚は腑抜けて立つこともできない。
肉体が諦めようとしていた。
死を受け入れようとしている。
心が、折れる。
「ハァ……ッ!」
しかしそれを許してはならない。
意思はまだ折れてはいない。
(あいつを……! 追いかけなきゃいけない……!!)
外の世界で待つ男がいる。
彼はきっと、別れ際に渡した爪で自分のビブルカードを作っているはずだ。
だからきっと、今自分が死にかけていることも分かっているだろう。
情けない。
絶対に生きて戻ると、船長に約束した部下の顛末がこれか。
日の差さない海の底で、火に炙られながら化物に叩き殺されるのが自分の末路か。
許さない。
そんなことを許しはしない。
彼を、ゲッコー・モリアを海賊王にすると誓った自分はこんなところで終わらない。
まだ彼との船出は始まったばかりだ。
まだ彼と自分の再起は始まったばかりなのだ。
死ねない。
生きる。
勝つ。
(――これだ)
感情が閃く。
形のない何かが胸の中で開いた。
血流に代わって五体を満たす奔流がある。
血よりも熱く、滾るもの。
意思だ。
精神の濁流が血潮に代わって体内を駆け巡る。
そうだ。
(きっと、これが)
確信がある。
これが力だ。
あとは本当にそうか、試すだけ。
もしも違ったならば、死ぬだけだ。
「ヴモオオオオオオオオオオオオオオオオォ――――――――――ッ!!!」
叫ばれた。
敵が来るぞ。
鋼が降るぞ。
力を握れ。
身を立てろ。
さあ、立ち向かえ。
「ああああああああああああああああああッ!!!!」
這い出すような一撃。
血まみれの拳を、それでも放つ。
果たしてその一撃は、
「!!!!」
黒金の輝きを持っていた。
「モオオオオッ!!?」
一撃が化物の筋骨を突破する。
初めて通じた一撃。臓腑に突き刺さる衝撃に、地獄の権化は後ずさる。
亡羊とした目に、確かな憎悪の輝きが宿った。逆らえるはずのない自分に歯向かった罪人を、ついに獄卒獣は明確な相手として捉えたのだ。
しかし、今やギーアの方が敵を見ていなかった。
見るのは黒く染まった自分の腕だ。
「やった……!!」
錯覚ではなかった。
体に流れた感覚、腕を満たした意志の集約。
これこそが覇気だ。
死の際に身を落とし、ギーアはその片鱗に手が触れたのだ。
「ヴモオオオオオオオオオオォ――!!」
雄叫びがあがり、ギーアは面を上げた。
金棒を振り上げた化物が、牛の様相に相応しい突撃をしかけてくる。
元より油断するような知性もないだろう。しかしここに至り、早急に叩き潰さねばならない相手だと、この化物は認識したに違いない。
攻めかかる姿に迷いない。まさしく奴は確信しているのだろう。
この暴力は正しいのだ、と。
「……ええ、きっとあんた達は正しいんでしょうね……!」
迫る巨体に向けて、ギーアは腰を落とした。
床を踏みしめ、肘を引き、いま残されたあらゆる力を一点に集める。
掴んだばかりの覇気を、引き絞った右腕へと。
「私達は海賊! それが牢獄から出ようなんて、世を乱す行為でしかない……!」
新たな力は得たばかり。
体は血まみれの満身創痍。
心も今の今まで折れていた。
しかし今は、意志が体に満ちている。
「それでも、あんたを倒して私は行く! この意思で、あんたに一矢報いてみせる!!!」
五指を束ね、覇気をまとった手は鏃のごとく。
さぁ敵が来る。
持てる全力で迎え撃て。
迫る敵を踏み越えるのだ。
放て。
「“
「!!!?」
一閃。
覇気の貫手が巨体を吹き飛ばした。
撃音、そして静寂。
巨体を射抜かれた獄卒獣が石橋から身を落とす。
風を切る甲高い音、遠くに聞こえる激突音。それでも奴がまた這い上がってこないと確信できるまで、いくらかの時間を必要とした。
「……ハッ! ハァ……!! ハァ……!!」
腕を突き出した姿勢が崩れ、決壊したような荒い呼吸とともに汗が噴き出す。
勝利した。
その確証を得た体が、張り詰めていた力を失ったのだ。
ついに尻から床に落ち、瞑目しながら天を仰ぐと、
「ジハハ! やったじゃねェかベイビィちゃん!!」
シキの歓声があがった。
本当なら数分前に聞いたはずの声が、今は数ヶ月ぶりにも思われた。
「本当にこの一戦で覇気を会得するとはな! あのまま殺されるんだと思ったぜ!」
「……ひとでなし。その時は、助けなさいよ」
「甘えんなよベイビィちゃん! この海で、弱い奴に死に方は選べねェのさ!!」
そう言うなり、シキはギーアへと小さな箱を投げ渡した。
消耗した体では受け止めることもままならず、晒した胴で受け止める。蓋に何か記号が印字されているその箱は、
「ほれ、ベイビィちゃんの持ち物さ」
「!!?」
驚愕し、体が軋むのも構わずギーアは振り向いた。
そうだ。シキは自分の背後で獄卒獣達と戦っていたはずなのだ。それがどうして前からやってきたというのか。
その答えは単純だ。
シキが自分よりずっと早く、決着をつけていたのだ。
「……ガフッ!」
積み重ねられた傷だらけの獄卒獣達。その天辺に横たわるサディちゃんが血反吐を吐く。
一様に打ちのめされた監獄の番人達に、シキは嘲笑を向けた。
「ここがLv.4で良かったな。てめェ等の始末に時間をかけて、署長や副署長に出てこられちゃ面倒だ」
「…………」
そう嗤う男は、二本の剣を携えている。
あれがシキの言っていた彼の得物か。しかしそれは獄卒獣達を倒した後に取り戻したはずだ。つまりこの男は、身一つで獄卒獣三体とその指揮者を完封してみせたのだ。
(やっぱり只者じゃない)
目標を達成した矢先、即座に現実に引き戻された。
自分よりもはるかに強い人間がこの海にはいるのだと、まざまざと見せつけられたのだから。
(もっと……もっと強くならなきゃいけない……!)
彼は越えなければならない壁だ。
この男がモリアの下につくとは思えない。逆も然り、モリアは彼に従わないだろう。
そうなればきっと二人は戦うことになるだろう。
その時、自分もシキに立ち向かわなくてはいけない。
(いいえ、シキだけじゃない)
バレット、海軍将校、何より怨敵カイドウとその百獣海賊団。
奴等は覇気を会得した程度では越えられない、強大な敵だ。
モリアの力となって立ち向かうために、より一層の力が必要なのは明白だった。
「…………」
「そう睨むなよ、ベイビィちゃん。この監獄を出るまではオトモダチだろう?」
きっとこの考えも、シキには丸分かりだろう。
だが男は鷹揚に振る舞う。それが強者の余裕であるというかのように、
「さぁこれで目的達成、あとは脱獄するだけだ。行こうぜ、ベイビィちゃん?」
「……ええ」
すれ違いざまにギーアの肩をたたくシキ。
その手に彼の強大さを感じ、それでも今は彼とともに行くため、その後を追うのだった。
主人公パワーアップ回。
書いてる時のテンションは「なぶって! なぶって!! MOTTOMOTTO!!」でした。