ONE PIECE -Stand By Me - 作:己道丸
「ジハハハハ! まさかベイビィちゃんも空を飛べたとはなァ!」
石造りの縦穴を二つの人影が翔け昇っていく。
男と女、しかしどちらも翼のない体一つで、矢にも勝る速度をもって空気を貫く。
声を上げたのは男の方だった。硬い金髪をたくわえた壮年の男は、頭頂に舵輪を突き刺し、両手に双剣を携えるという奇矯な姿をしている。
だが最大の特徴はその両脚だ。
欠けているのである。はためくズボンの裾は赤く滴り、生々しい傷がそこにあると窺わせる。激痛があるはずだ。だが男の声は吹き荒ぶ風の音にも勝る堂々とした声量で。
だからこちらも、ギーアも負けじと声を張り上げた。
「世の中、人が飛ぶ理屈は悪魔の実だけじゃないって事よ!」
「言うねぇ、さっきまで殺されかけてたとは思えねぇ啖呵だ!」
口の減らない男の名はシキといった。
食った者に超常の力を授ける果実、悪魔の実によって飛行能力を得た男だ。その力を誇る彼は、自らを空飛ぶ海賊、“金獅子”のシキと名乗った。
その力は凄まじく、ギーアが危うく殺されかけた化物、獄卒獣三体を同時に素手で相手取り、傷一つなく勝利を収めている。自分では及びもつかない戦闘力を持つのは明らかだ。
だがこちらも彼が持ち得ない特色がある。
「お生憎様、私の能力なら、死にさえしなければこの通りよ!」
ギーアもまた悪魔の実を食べた人間の一人。どんな傷も脱皮によって回復することができる、ヌギヌギの実の能力者である。
この回復力のおかげで瀕死の傷から蘇り、死線を越えて新たな力を得ることができた。
「まぁあそこで立ち上がれなきゃLv.4に置いてくだけだったがなァ!」
「覇気を身につけたのよ!? こんなところで終われないわよ!」
覇気。
それは誰もが持つ、しかし鍛えなければ得られない、意志を顕在化した力。
この広い海を海賊としてのし上がっていくにはどうしても必要な力を、ギーアは手に入れた。
あとはこの大監獄から脱出するだけだ。
「このリフトの昇降路を抜ければLv.1、海上にある最上層だ! そこまで行ければインペルダウンを抜け出せる!!」
加速するシキに合わせ、ギーアも両脚の噴射機の推力を強めた。
二人がいるこの施設は、数多の凶悪な犯罪者を収監する世界一の大監獄である。その最下層、Lv.6から抜け出たギーアとシキは取り上げられた私物を取り戻し、いよいよ脱獄しようと監獄唯一の出入り口を目指している。
が、地獄とも呼ばれる大監獄もただでは見過ごさない。
「ちょっと! 何か来てるんだけど!?」
見上げる先、暗がりを突き破った影が迫る。
天板だ。無数のトゲを備えた、脱走者用の罠だった。
自由落下で加速するそれが、昇り続けるこちらとぶつかるのに時間はいらない。
先行するシキの脳天が砕かれる。
その直前、
「ハッ、こけおどしィ!」
シキが突き出す手が触れた瞬間、天板は動きを止めた。
それどころか、弾かれたように逆方向へ、ギーア達が向かう方へ急上昇するではないか。
シキが持つフワフワの実の能力だ。彼は自身や一度触れた物を自在に浮遊させ、操ることが出来る。どれほど危険な罠も、それが無機物ならば彼にとって自由にできる傀儡に過ぎない。
弾丸の速度で昇る天板は行き着くのは縦穴の天井、昇降路の終着点だ。
「うわああああァ――――!?」
暗闇の向こうで天板が激突する轟音。響き渡る激震の中に無数の悲鳴を聞きつける。
「あそこね!」
縦穴に光が差す横穴がある。シキの能力で宙に滞留する天板の破片や粉塵の手前だ。
昇降路に設けられた階層毎の出入り口である。
「着いたぁ――――!!」
出入り口へと身を躍らせるギーアとシキ。
ついにLv.1へ到達した瞬間だった。
「来たぞ! 脱走者共だぁ!!」
そんな二人を待ち受けるのは大監獄の看守達だ。
誰もがライフル銃を構え、この最上層まで辿り着いた脱走者を前に緊迫で張り詰めている。どうやら道を譲る気はないようだ。
「ジハハ、今更てめェらザコが止められると思ってんのかァ?」
「悪いけど、このまま脱獄させてもらうわよ」
踏み出せば退いていく。人数と戦力の差がまるで一致しない。
このまま蹴散らそうかと、そう思い、
「――ふざけるなァ!!」
歯向かう声を聞いた。
「ここは破られたことのない最強の大砦! ここがあるから世のか弱き人々は安心できる! ――それを破られちゃ、皆々様は恐怖のどドン底じゃろうがィ!!」
列の先頭に立つ、一際大柄な男だった。
頬骨と顎の浮いた強面にあるのは強固な覚悟。身に纏う看守の制服を誇るようにギーア達に立ち塞がる彼は、長大な薙刀を構えて声を張り上げる。
ゆるがぬ使命感が吼える。
「ここは!! 通さんぞォ――――!!!」
男は白刃をひらめかせて躍りかかる。
覇気を身につけた今なら分かる。この大男はこの場に詰める看守の誰よりも強い。これだけの覚悟も示せるならば、きっとただの看守では終わらないだろう。
(出世するわよ、あんた)
この場を生き延びれば、だが。
「!!!!」
声一つ、閃き一つない。
シキの双剣を前にして、男は格好の獲物だったからだ。
「ハンニャバル看守長ォ――――!!」
看守達の叫びは切り裂かれた男に届かない。
鮮血を散らしてシキの横に倒れた男は、自らの血で池を作り、誇った看守の服を赤く染める。
鎧袖一触。いかなる高潔な意志も力を伴わなければ果たせないと、証明された瞬間だった。
「さて、次はてめェ等な訳だが、どうするね?」
「おのれ、よくも看守長を!」
シキの歯を剥く獰猛な笑みに、看守達は吠える。男の犠牲が彼等を決起させたのだ。
かくして弾丸は放たれる。
「奴等を止めろォ!!!」
一斉掃射がLv.1の通用路に響き渡った。大気を穿つ破裂音の群れ、鉄の礫は余さず二人へと集約される。
しかし脱走者は光をもって迎え撃つ。
「“
「“
「!!?」
かたや熱波、
かたや斬撃の嵐。
弾を溶かし、または蹴散らす暴圧は、看守達すら蹴散らしていく。
「ま、まだだ……!」
「無駄な足掻きだ!!」
「ぎゃあッ!」
立ち上がろうとした者も、無慈悲に切り伏せられた。
ギーアもそれに続く。看守達に正義があるのは理解していた。だが野に下り、無法者となり、一人の男に仕えると決めた彼女にとって、彼等は蹴散らす対象でしかない。
鋼鉄の手足が隊列を突き破った。
絶え間ない弾幕を避け、時に強固な腕で弾き、交差するたびに敵を打つ。
シキと並んで敵の戦線を押しやっていく。そうやって看守達を圧倒すれば、敵陣の向こうに目指すものべきものを見る。
「あった!」
巨大な門扉だ。
重厚な石造りの壁を穿つ、インペルダウンの正面入り口である。
あの向こうには跳ね橋があり、“凪の帯”という一切波風のない海原と、警備の軍艦が何隻も停留している。大監獄を守る二重の防壁だ。
だが空を飛べる二人にとってそれらは無意味だ。
(あと、もうちょっと!)
あそこを抜けられればそれで終わる、その意気が両脚にみなぎっていく。
ゆえに翔けた。
「……! 抜けられるぞ! 止めろォ――――!」
叫んだところで止められはしない。
宙を飛び、看守達の頭上を越えれば門扉まで一瞬だ。
焦燥にかられた顔を見下ろし、ただ前方を見据えて行けばいい。
そのはずだった。
「ベイビィちゃん、戻れ!」
「!?」
はじめて聞いたシキの焦った声。
それがなければ危うかった。
「きゃあ!?」
急停止した眼前を濁流が奔り抜ける。紫色の鉄砲水が、周囲の大気を刺激臭で汚染した。
「何よこれ!?」
大きく退いて着地するギーア。
その眼前で濁流も鞭打つように床へ落ちる。それは汚泥のように鈍い音をたてる粘液だった。飛沫を散らして門扉への道を横断する様は、まるで通行止めを示す極太の線を引くようだ。
その上に、いつの間にか男が立っていた。
濁流が奔る前にはいなかった、小山のような巨漢だ。その身を包む制服から、彼もまたインペルダウンに勤める署員ということがわかる。
「あんたは……」
「――やった! 来てくれたぞ!」
「間に合ったんだ! マゼラン副署長――!!!」
ギーアの誰何を歓声が塗りつぶす。
この男が、彼等看守にとって救世主であったからだ。
「……よくもここまで暴れてくれたな、囚人共」
もし本当に地獄があるなら、そこにいる生き物は彼のような顔をしているだろう。
ヤギのようにうねる角と毛深い頭、鷲にも勝る眼光がギーアを睨みつける。
これまで多くの巨漢と対峙してきた。
しかしこのマゼランという男は、彼等とは違うものを持っている。そこに立つだけで、実際以上にその身を大きく見せる重厚な存在感を放っているのだ。
挫けることなく立ち向かってきた看守達の上に立つ男の、強固な使命感のなせる業だった。
「良く持ち応えた、お前達。――後は任せろ」
「は、はいッ」
マゼランの賞賛に看守達は涙を浮かべ、倒れた同僚に肩を貸して通路の奥へ下がる。
そうして門扉へ至る道は、マゼランとギーアとシキ、三人だけが残された。
うって変わって数では勝る形。しかしマゼランが戦場に立つ時、数は有利を意味しない。彼の力の前では、敵も味方も数という意義を失ってしまうからだ。
息を吞むギーアの隣にシキが寄る。
「面倒なのが来たな」
「ええ、時間を稼がれちゃったわね」
副署長マゼラン。
この大監獄にいる者なら誰もが知る、インペルダウンの有名人だ。
囚人への厳格な態度は勿論、最も恐れられるのは、地獄の大監獄を守るに相応しい能力だ。
「貴様等はここで終わりだ! 絶対に外へは出さん!!」
「!」
肩を怒らせたマゼランの体から紫の粘液が噴き上がる。
ギーアの目の前を横切った濁流と同じものが彼の頭上へと立ち上り、巨大な塊となった。やがてそれはうごめき、粘土をこねるように一つの造形物を作り上げていく。
竜だ。
三ツ首の竜がそこにある。
長い尾でマゼランと繋がるそれは、飢えた獣のような生々しさでこちらを見下ろしていた。
(これが全部、毒の塊って訳ね!!)
頬に汗が伝うのを禁じえなかった。
マゼラン、ドクドクの実を食べた毒人間。
彼が操る紫の粘液は、触れる者に激痛を与える猛毒だ。つまり頭上の竜は毒素の塊、一度吞み込まれれば耐えがたい痛みに全身を苛まれ、悶え苦しんだ末に息絶える致死毒なのだ。
それが、迫る。
「げ!」
「ちっ!」
「“
竜の威容に後ずさるギーア達へ、マゼランは三つの巨大なあぎとをけしかけた。
降り注ぐのは猛毒の津波。
一切触れる事が許されない怒涛を前に、ギーアとシキはめいめいに飛んで躱すしかなかった。
「うわっ!」
ただ避けるだけでは済まない。
石畳に食らいついた牙は都合よく液体の特性を発揮し、飛沫を辺りに飛び散らす。飛来する大小無数の柔らかな礫、それらにさえ触れてはならないのだ。
全力で竜から離れ、壁に手足を着く形で着地する。垂直で四つん這いになる姿はイモリのように不恰好だが、文句は言う暇はない。
竜の頭は三つあるからだ。
「げ!?」
来るのは左端の頭。
開かれた牙から逃げるため、今度は壁を蹴って飛ぶバッタの真似をしなければならなかった。
「こんの……!」
飛ぶ。
回る。
ひねる。
縦横無尽に躍るギーアと、追い回す竜のあぎと。
生物ならざる毒液の塊は、まさに機械的なまでの執念深さで追撃する。
所詮それは、頭を象るだけの水流に過ぎないのだ。まともに逃げ続けても体力が持たない。今でさえ無軌道な飛行を続けるあまり、平衡感覚が狂いそうなのだ。
(要は触れなきゃいいんでしょ!)
相手は液体だ。
ならば消し飛ばしてしまえ。
「“
ギーアの手が放つのは鉄をも溶かす強烈な光熱、粘液でできた竜が耐えられる筈もなかった。
追いかける頭が消し飛び、煙に変わる。
「よしっ!」
やはり熱攻撃は有効だ。
このまま“毒竜”本体も潰そうと身を翻し、
「う……っ!?」
五感の全てに痛みに突き立てられた。
目鼻と肌に刺さる刺激。勝手に溢れる涙が視界を歪め、鼻水と咳が呼吸を乱す。
周囲を染める薄紫の霞のせいだと気付いたところでもう遅い。形を変えたところで毒は毒、竜の頭は毒ガスとなってギーアの周囲に充満し、包み込んでいたのだ。
広範囲に広がる分タチが悪い。熱で迎え撃つことは悪手であった。
「オエ……!」
空中にいた事も災いした。今自分がどこに向いていて、どういう姿勢なのかすら分からない。
分かるのは、自分が墜落したという事だけだ。
「ぐ!」
受身もままならない。
半身を打つ痛みも、瞬く間に毒の傷みが塗りつぶす。
まるで微細な小人が頭にある穴という穴の奥に入り込み、爪を立てているような痛痒だった。
眼球が裂け、鼻の奥を千切られ、喉を内側からかき毟られるような感覚。肌にいたっては一度に全身の皮を剥かれたような錯覚さえある。
ギーアの全身は完全に毒ガスに汚染されていた。
それを敵が見逃す筈もない。
「ベイビィちゃん、立て!!」
シキの声がやけに遠い。
鈍った頭は、何故そうしなければいけないのかすら曖昧だ。
問い返そうと頭をもたげ、
「ぁ」
牙を剥く竜に吞まれた。
「ぶ……っ!!」
全身が毒液まみれになって転がる。
冷たい。最初はそう思った。しかしそう思えたのはその一瞬だけ。
直後、全神経が燃え上がった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ――――!!!」
生涯最大の絶叫があがる。
肌から染みる毒は、身の内の神経一本一本を丹念に端から焼き尽くす。
肌がただれる。
肉が解ける。
内臓が腐る。
まるで全身の毛穴に釘が突き刺さっているような。
骨格全体を有刺鉄線で締め上げられているような。
血に交ざり込んだガラス片が血管を内側から引き裂いているような、そんな感覚。
全身全霊をかけて苦痛を与えたい、その上で死なせたい。
厳然とした害意と悪意からなる殺意がそこにはあった。
「んギ……!!」
虫のように這う。そんなことでは毒から逃れられない。
だが幸いなことに、ギーアはほぼ全ての人間が諦めなければならない苦境から逃れる術をもっていた。
「す……“
女の体が古布のように崩れ落ちた。
そうして現れるのは無傷な姿のギーア。その様はまさに虫が殻を破って成虫になるようだ。
ヌギヌギの実の能力により、猛毒に汚染された体を脱ぎ捨て、回復を果たしたのである。
しかしそれは単純に好転を意味しない。
「ハァ……! ハァ……!」
「毒を無力化する能力者か。だが苦痛を無かったことにはできまい」
肩で息をするギーアをマゼランは冷酷に見下す。
男の言うとおりだ。全身を苛む猛毒を脱ぎ捨てることは、体の傷をそうするのとは訳が違う。どん底まで貶められた体調と激痛の記憶は、今も精神を大きく苛んでいる。
何より、この能力はあらゆる不調と負傷を癒し肉体を強化するが、唯一つ、疲労だけは補ってくれない。
猛毒による激しい消耗は、ギーアの心身を大きく削ぎ落としていた。
「オイオイやるねぇベイビィちゃん。まさか“毒竜”を受けて立ち上がるとは」
そこへシキが近寄ってきた。
毒に汚れたところのないその姿は、流石というべきだろうか。
「こ、これが無事に見える!? 死にかけたわよ!!」
「普通は助からないんだよ、奴の攻撃はな。……しかしベイビィちゃんならマゼランを相手取るのも無理じゃない、か……」
「は?」
何やら不穏当な呟きに顔を上げれば、顎ひげを撫でるシキの思案顔がそこにある。
耳を疑う発言に頬が引きつり、聞かなかったことにしようと思った。しかし残念ながら、彼の発言は改めて明言してしまう。
「よし! ベイビィちゃん、マゼランの相手は任せたぜ!!」
「はぁ!!?」
悪い予感は的中した。
「その間におれは脱出の手立てを調える! なに、覇気を身につけたベイビィちゃんなら何とかなる!!」
「バカ言わないで! 自分から奴に触れろっていうの!?」
「いいか、門扉さえ越えれば、おれの能力で全て打開できる! それともベイビィちゃんは今のままマゼランを倒していく算段があるかい?」
「むぅ……!」
「条件さえ整えば道を開けるおれと、身一つで奴に立ち向かえるベイビィちゃん、適材適所だと思わねェかい?」
「むううぅ!!」
髪をかき毟って顔をしかめるギーア。
受け入れがたい事実、しかし覚悟決めるしかないのは分かっていた。
「あぁもう、分かったわよ!」
奮い立つように二本の脚で立ち上がる。
「止めてやるわよ、それでいいんでしょう!? ……門扉を越えたからって、一人で逃げたら承知しないからね!?」
「安心しろ、おれの計画がしくじることはあり得ねェ! てめェこそ、途中でくたばるような真似するんじゃねェぞ!!」
互いの手を打ち、二人は動き出した。
門扉に向かって飛び立つシキ、それをマゼランは追おうとする。
「待て、通さんぞ!!」
「あんたの相手は私よ!!」
ギーアの突貫がマゼランを打った。
毒の層を穿つ一撃は、注意を逸らしたマゼランの腹に深々と突き刺さる。
「ぬう!」
「ひぎゥ……!」
苦悶するマゼランとギーア。
痛みに焼け落ちる腕を振り払い、迎え撃つ“毒竜”から大きく飛び退く。
“毒竜”は所詮マゼランの傀儡、これを攻撃したところで意味がない。同じ毒に触れるならば、その先に本体がある分マゼランを狙った方がマシだ。
ここが正念場だった。
毒に自ら望む恐れを握りつぶせば、その意気に応じて腕は黒く染まる。
「“
「ぐおッ!!」
武装色の一撃が巨体を射抜く。
「おのれ……! 覇気で覆えば本当に鉄になるとでも思ったか!」
「んなわけ、あるか……!」
武装色硬化によって腕は黒金色になるが、肉体はあくまでも肉体だ。毒液がまとわりついた腕が悪臭を伴う蒸気を立ち上らせ、肉と骨に激痛が染み渡る。
振り払えるものではない。ギーアは能力を発動することでそれを脱ぎ捨てた。
「“脱皮”!」
健常な体を取り戻すが、しかし汚染されていた手足には幻痛が残る。
それを意志の力でねじ伏せ、
「まだまだぁ!!」
「毒に侵されるのを前提で挑むか! 小癪な!!」
決死の覚悟が四肢を黒金に染め上げ、毒の被膜を打ち破る。
拳。蹴り。掌底。貫手。
とりうる全ての格闘術がマゼランを捉え、確かな手応えを得た。
だが引き換えに、体のいたるところに猛毒の粘液が取り付く。
こびりついた部位が欠損したかのように、神経が痛みに独占される。敵を打つたびに肉と骨が抉れ、零れ落ちていくような気さえした。
しかし止まるわけにはいかない。
奴を止められるのは自分だけだ。
自分なら、死にさえしなければ幾らでも挽回できる。戦後の回復を前提とし、受ける傷を度外視した闘いによって死線を越える、それがギーアの戦い方だ。今回はそのスパンが短いだけ。
敵を打つ度に脱皮を重ね、少しでも多くの時間を稼ぐのだ。
「うりゃああああ!!」
「追い詰められたネズミはこうも果敢か! だがいつまでも付き合うつもりはない!!」
もう何度目の脱皮になるだろうか。
繰り返される激痛と攻防を顧みないギーアに、マゼランは業を煮やした。
体を覆う毒液がにわかに形を変え、
「“毒竜”!」
「しまっ……!」
巨体を包む毒の被膜が竜の頭を形作り、ギーアを吞み込んだ。
連撃に力を注いだのが災いした。勢いづいた手足は止まらず、開かれたあぎとに自ら飛び込んでしまう。
ギーアを吞んだ“毒竜”は、これまでのように毒液をまぶして吐き出そうとはしなかった。長い首は伸び上がり、口の中に閉じ込めたギーアを高々と掲げる。
「毒を脱ぎ捨てるというなら、このまま包み込むだけだ! 毒で死ぬのが先か、溺れ死ぬのが先か、自らの身で試すがいい!!」
「……!」
全方位から毒液が押し寄せてくる。
これまでと比較にならない量の毒がギーアへと浸透し、また水圧のような圧力をかけてくる。強引に口を開かされ、喉の奥へ毒液が流入する。
体内から毒が汚染していく感覚はまた格別だった。
胃袋が焼け落ちるのが分かる。内側から肉体が削り取られ、体が密度として薄くなっていくような気さえした。それは頭の中身も例外ではない。
思考力が、一気に削り取られる。
(いけない……!)
なけなしの思考を振り絞ろうとした。
蒸発させるか。
ダメだ。また毒ガスに変わるだけだし、これだけの量を一気に気化させれば大爆発となり、その中心にいる自分は消し飛んでしまう。
両脚から風を噴いて突き抜けるか。
これもダメだ。風を噴くには一度大気を吸引しなければならない。毒液の中に空気が無い。やったところで両脚が内蔵する科学機械に液体が入り込んで壊れるだけだ。
八方ふさがりだった。
(……だめ、頭が……)
どうやら窒息の方が先だったらしい。
意識が暗闇に沈む。
身を侵す激痛が遠い。
毒液越しの景色がかすんでいく。
これまでか、とそう思い、
「“
「!」
毒液さえも震わす轟音。
辛うじて目を開ければ、毒液の向こうにこれまで無かったものを見た。
外の景色だ。
(シキ……!)
「待たせたなベイビィちゃん!!」
やったのだ。
シキが門扉を切り崩したのである。
広がる外界を背にした男が、悠然と剣を構えて浮かんでいる。
「おのれ! だが外には海軍の船が警備を……!」
「はん、それはこいつらのことかい?」
マゼランの怒りに応えるシキの笑み。
そこに怒涛の音が響く。重厚な石壁で覆われた大監獄を揺らすほどの激震だ。
「な、何だ!?」
「お望みの軍艦だよ。脱獄の祝いだ、くれてやる!!」
シキの叫びが破砕を導いた。
「――“
「!!!!」
大監獄の壁を打ち砕いてそれは来る。
石壁を破るのは、軍艦をくわえる巨大な獅子の群れだった。
一つ一つが巨艦に勝る程の大きさを誇る獣の頭は、莫大な量の海水によって象られている。怒涛の津波を咆哮の代わりにして、居並ぶ獅子頭が監獄内へと攻め込んだ。
シキが能力によって操る海水の一撃だった。
「何だとォ!!?」
海に嫌われた悪魔の実の能力者であるマゼランにとって、この攻撃は致命的だ。
叩きつけられた波濤に力を奪われ、押し流された巨体は軍艦と水流の向こうに消える。大監獄の入り口を半壊せしめる巨艦の鉄槌により、Lv.1は崩壊と轟音に満たされた。
全ては瓦礫と粉塵に帰し、閉じていた監獄の最上層は展望台になってしまう。
「がはっ! げぼっ!!」
かくして崩壊したインペルダウンに、ギーアは放り出された。
海水によってマゼランの制御を失った“毒竜”は形を失い、ただの液体となって崩れ落ちる。それに混じり、ギーアは石畳に打ちつけられた。
腹に溜まった毒液を吐き、空気を吸って汚染された体から脱却する。
「……“脱皮”!」
これまでで最も危険な段階まで汚染された外皮は、脱いだ瞬間にしなびて潰れてしまった。自分がどれだけの危険に瀕していたかを自覚させられる。
だがそれに恐怖してうずくまってはいられない。
「おいベイビィちゃん、今のうちだ!!」
シキが飛んできた。
壁を失った大監獄を飛ぶシキは手を伸ばし、それをギーアは掴み返す。そうすれば彼の手は確かな力で握り返し、大きな体へと抱き上げた。
自分以外の力で飛ぶことに慣れないものを感じながら、しかし今は彼の胴に腕を回す。
そうして二人は空へ。
砕かれた大監獄の外へ向かう。
「ま、待て!!」
遠く、瓦礫と軍艦の下からマゼランが呼び止める。
しかしそれはもう届かない。
「あばよカス共! 大監獄の神話は今崩れた!! この“金獅子”によってなァ!!!」
かくして二人は解き放たれた。
誰一人突破できなかった、大監獄からの脱獄に成功したのである。
「……ここまで来れば、もう追ってこれないでしょう」
大監獄を出てどれほど飛んだだろうか。
インペルダウンは水平線の向こうに消え、今や影すらも見えない。
「それよりベイビィちゃん、いつまで抱きついてるんだい? そんなにおれのことが好きだったかな?」
「悪いけど私の脚は短距離用なのよ。流石に海を越えるなんて無理よ」
「じゃあ陸に着くまではベイビィちゃんの体を堪能できるってわけか!」
「張り倒すわよあんた!?」
だがそれも“凪の帯”の海上では無理なことだ。
見下ろせば波一つ無い海原に巨大な影が浮かび上がる。この海域に潜む巨大な魚、海王類だ。
随分と離れたが、ここはまだ“偉大なる航路”に入っていない。陸地に着くまではまだまだ時間がかかるだろう。腹立たしいが、確かな飛行能力を持つシキに頼るしかなかった。
「時にベイビィちゃん、おれはどっちに向かえばいいんだい? 流石に目的地が分からんと、いつまでも陸には辿り着けんぞ」
「ああ、そうだったわね」
言われたギーアが懐から出すのは小さな紙片、ビブルカードだ。
この材料になった爪は、ギーアが合流を目指す海賊ゲッコー・モリアのものだ。平らかにした掌に乗せれば、紙片は微々とした動きで一方へと進んでいく。
ビブルカードが持つ特別な力だった。
「あっちよ! あの先にモリアがいる!」
紙片の指す方を目指し、二人は一路、空を翔けるのだった。
インペルダウン編も終了です。
次回からはやっとこ強くなった主人公をモリア様と合流させてやれるかなー。
なのですが、ここでちょっとご報告です。
実は当方、別所にて一時創作にも手を出したいと思っており、これからは作業時間をそちらにも割きたいと思っております。……といいますか、今回間が空いてしまったのは、一時創作の方を少し書いたから、というのもあるのですが。
これまでどおりの分量を溜めて投稿するか、もう少し小刻みに分けてコンスタントに投稿するかは決めかねているので、今後の進捗次第になりそうです。
本作を読んでいただける皆様には申し訳ないですが、もしよろしければ気長にお付き合い願えれば、大変嬉しく思います。