ONE PIECE -Stand By Me - 作:己道丸
巨体は月光をさえぎり甲板に現れた。
黒革のジャケットを羽織る、蒼白の肌をした小山のような大男だ。握られた長大な太刀は刃を輝かせ、まるで周囲の景色をゆがめんばかりだ。
だが、たちのぼる怒気はそれに勝るとも劣らない。
「おれの右腕が世話になったようだな、海軍!!」
背を向けた男の顔を、ギーアは見ることができない。
しかし陽炎にも似た激情を察するのは容易なことであった。
彼を遠巻きに見る海兵たちの顔はどれも恐れおののき、氷水を浴びせられたかのようだ。誰もが鬼を前にしたかのようにすくみあがり、手にした武器を構えるのも忘れていた。
実際、彼らにすれば悪鬼に出くわしたようなものだろう。
しかし自分にとっては、幾度となく夢見た相手との再会だ。
(船長)
胸のなかで彼への賛辞が湧き上がった。
彼こそ“億”を超える懸賞金をかけられた大海賊。身に宿した超常の力によって海を渡り、たった一人で部下を守るために駆けつけた有情の男なのだから。
ギーアを救うために、天敵ともいうべき海軍艦隊に乗り込むことを彼は選んだ。
彼はいつもそうだ。いつだって、ギーアの前に立って敵へ挑む。
だから自分はついていこうと誓ったのだ。かつてくじけた自分を立ち上がらせてくれた、この男がどこまでも進んでいけるように。
そんな彼の名は、
「――モリア!!!」
「……ふん、なんて声を出しやがる」
呼び声は、信じられないぐらい涙で震えていた。
「檻の中から這い出すぐらいだ、少しは力をつけたかと思ったが……まだまだだな」
「う、うるさい! あんたに会うためにこっちは散々だったわよ!!」
「あぁ、見てたぜ。ビブルカードでな。てめェは傷が治る分、何度も死にかけるから気が気じゃなかったぜ」
「……へぇ、見ててくれたんだ」
「当然だ」
彼は、モリアは断言した。
「――おれはもう、生きた部下を死なせねェ」
「!!」
「約束通り地獄の底から生きて戻ってきたんだ。待ってるだけじゃねェ、迎えにいくさ。おれはな」
言葉にならない思いが胸を絞めつける。
(いつだってそう。あんたは私に立ちあがる力をくれる)
切り伏せられた体が力を取り戻してくのがわかった。冷えきった手足に熱と意思が通い、みなぎる力がふるえる心を支えてくれる。
仲間を奮い立たせる力。モリアの船長としての資質だった。
「海賊、ゲッコー・モリアか」
そんなモリアを睨みつける、屈強な海兵がいた。
高波のような髪をもつ偉丈夫だ。白いコートを肩にかけ、太い両腕はゆるみなく刀を構え、数分たりともゆるがせない。
だが刃よりもするどいのはその眼光だ。鷲を思わせる険しさがモリアを射貫く。
モモンガ。それが海兵の名前であった。
「そうか、貴様が“金獅子”の脱獄を手引きしたのか」
「……何ィ?」
口ひげの下で歯を噛むモモンガに、モリアは怪訝そうな声をもらした。
「部下がインペルダウンに入ったのもそのためか! あれほどの巨悪をふたたび世に放とうとは……!!」
「オイ、いったい何の話を……」
その時だ。
ギーアのとなりに音もなく男が降りてきたのは。
「ジハハ! おい、こいつが話していたベイビィちゃんの船長かい?」
荒々しい金髪をした壮年の男である。
モリアほどではないが、ギーアの倍はある屈強な体格。あごひげを撫でながら笑う姿は鷹揚だが、その目に笑みはなく、値踏みするかのようにモリアを見据えていた。
そんな男の際立った特徴は二つ。
トサカのように舵輪が突き刺さった頭と、失われた膝下から伸びる一対の剣だ。
男へ肩越しに振り返ったモリアは、途端に三白眼を見開かせた。
「まさか“金獅子”のシキか!? どこでそんな大物掘り出した!!」
「監獄の底で、ちょっとしたランデブーよ」
肩をすくめたシキはいかにもいやらしい笑みを浮かべ、
「見込みのある部下がいるようでうらやましいぜ。おれは欲しいぐらいだ」
「……何だとォ?」
おどけるような口ぶりに、モリアの怒気が移ろいだ。
だがそれは、戦場において大きな隙となる。
「モリア! 前!!」
モモンガの姿が掻き消え、次の瞬間、モリアの目前に出現する。
「“
跳んだのだ。
それこそ瞬間移動のような速度で間合いを詰めた敵が、刃を振りかぶる。
「チィ……ッ!」
月光でかがやく二振りの刃がぶつかり合った。
檄音。
鋼鉄が衝突したような響きがとどろき、爆風のような威圧が周囲へ駆け抜ける。
途方もない力にギーアはよろめき、その肩をシキが泰然と支えた。
「ジハハ! 戦場で気ィそらしてんじゃねェぞ、小僧ォ!!」
「てめェ!!」
「奪われたくなきゃしっかり守れェ! 安心しろ、お前がくたばったらベイビィちゃんはしっかり面倒見てやるからよォ!!」
「言ってろクソジジイ!!!」
眼前の敵を睨みつけたまま、モリアの怒声が爆ぜる。
太刀を支える腕が大きく膨らみ、渾身の腕力がモモンガを振り払った。宙を舞う海軍将校に、モリアは猛然と突きを抜き放つ。
「くたばれ!!」
しかし屈強な海兵は、空中ですら隙を作らない。
「“
「!?」
空気を蹴ったのだ。
どれほどの脚力をもってすれば叶うのか。空気を破裂させ、放たれた矢の速度でモモンガは甲板へと急降下する。
そびえ立つモリアにとって、それは死角だった。
「“
「ぐォッ!!」
伸び上がる斬撃がモリアを切り裂く。
鮮血が舞い散り、相対する二人の足元を赤黒く染め上げた。
「巨体が仇となったな。その太刀捌きではおれに追いつけんぞ!」
「ぬかせェ!!」
報復の一撃を、しかし海兵は動じることなく受け止める。
一合。二合。幾度となく切り結び、そのたびに檄音が響きわたり、骨の髄までしびれる衝撃波が吹き荒れた。
しかし、対決はモモンガが優勢であるように思われた。
モリアの攻めが追いついていないのだ。
巨体から繰り出される太刀は威力こそ絶大だが、体格差のある相手を追い詰めるには一つ一つが大きすぎた。かわされ、いなされ、時に隙をついたモモンガの刀が巨体を裂く。
速度の差はあきらかだった。
(違う)
ギーアは否定した。
そうではない。モリアには速度の差を埋める、小回りのきかない巨体をおぎなう手管が本来はあるのだ、と。
影を実体化させて操る悪魔の実、カゲカゲの実の能力だ。
変幻自在に形を変える漆黒の分身を操って戦うのがモリアの本領だ。ある時はもう一人の自分に、ある時はコウモリの群れになるその力は、あらゆる間合いに応じることができる。
その影が今、モリアの傍にない。
(ここに来るために)
実体化した影、“影法師”にはモリア自身と位置を入れ替える能力がある。
彼はその力によってどこか離れた陸地からこの船にやってきたようだが、それはつまり、影を遠く離れた場所に離してしまったということだ。
モリアは今、本領を発揮できない戦いに臨んでいるのだ。
(私のせいだ)
支えるべき主の足手まといになったという事実は、胸の奥に泥を流し込むような心地がした。だが敵がこちらの心中を察して手を緩めるはずもない。
幾度目の攻撃か、ついにモモンガの刃がモリアの足を切り裂いた。
「ぐ……!」
膝をつくモリア、その首へと刀が奔る。
「これで終わりだ!!」
振り下ろされる刃は断頭台。風を割り、首を落とそうと斬撃がひらめく。
「モリア!!!」
ギーアは叫ぶ。モリアの首が宙に飛ぶのを幻視したからだ。
けれど宙を舞ったのは首ではなかった。
「……何ィ!?」
モモンガだった。
精悍な顔を驚愕に歪ませた彼が、コートをはためかせながら屈強な体を空中におどらせる。まるで釣り上げられた魚のような姿をさらす海兵。
実際、モモンガが宙に飛んだのは一筋の線によるものであった。
「あれは……」
長く黒いものが、モモンガの足裏から伸びていた。
影だ。
「月光じゃ影が薄くてな……。苦労したぜ、てめェの影を掴むのはよォ!!」
「き、貴様!!」
膝をついたのは傷ついたからではなかったのだ。
戦いのなかでモモンガの影が伸びてくる位置に回り込み、相手に気付かれないように影へ手を伸ばすため、モリアは攻めに屈したかのように見せかけたのだ。
モリアは堪えた風もなくく立ち上がり、掴んだモモンガの影をまるで鎖のように振り回す。
「うおおおおぉぉぉぉぉ!!」
風を切ってモモンガが旋回する。それはやがてつむじ風を巻き起こし、彼の姿は残像に紛れて判然としなくなってしまう。
振り下ろされたのは、その時だった。
「“
「!!!?」
さながら鉄槌。
モモンガはその身をもって甲板を叩き割る一撃となった。
「…………!!!」
悲鳴は崩落の音に呑まれた。
分厚い木材はめくれ、立ち並ぶ牙のように立ちあがる。大小無数の破片と粉塵が吹き上がり、船内へといたる巨大な大穴が穿たれた。
それこそ口のように開かれたそれは、手当たり次第に周囲のものを呑み込んでしまう。
すなわち、モリアとモモンガだ。
「うぉ……!!」
甲板を砕いた下手人への怒りとでもいうかのように、二人の姿が穴の中へ消える。
「モリア!」
「オイ待てベイビィちゃん!」
肩を抱くシキを振り払い、ギーアは走り出した。
雨のように降る木片もかえりみず、いまだ煙のあがる大穴へとギーアは飛び込む。ようやく再会できた主をふたたび見失う恐怖に突き動かされたのだ。
巨大とはいえ船の中だ。そう間をおかず、船内の床に着地することができた。
「つれないぜベイビィちゃん。置いてくなよ」
「モリア! 大丈夫!?」
追ってきたシキに目もくれず、ギーアはもうもうとあがる粉塵を振り払った。
そこは明かりのない、やけに広大な空間だった。
ギーアの入ってきた大穴からそそぐ月明かりだけが頼りである。周囲には壁があるはずだが、そこまでどれだけの距離があるのかさえ、はっきりと分からない。
分かるのは、男たちがいまだに対峙しているということだけだ。
「しぶとい野郎だ」
「ナメるなよ海賊……! 我々“正義”は、“悪”に屈しない!!」
注がれる光を横顔に受けて、男たちは変わらずに対峙していた。
その身で甲板を割ったモモンガの姿は、いまやモリア以上に満身創痍だ。いたるところが裂けた軍服の下には裂傷がのぞき、純白の布地はそこかしこを赤く染めている。
杖代わりにした刀をふたたび構え、モモンガはモリアに挑みかかろうとした。
その時、
「んキィ~~~~~~ッ!! 何なんだえ~ッ、お前らはァ~~~~!!」
「っ!?」
鳥の首をしめたような金切り声が耳をたたいた。ことさらに音をたてるような踏み鳴らしを幾度も重ね、暗闇の向こうから白い人影が現れる。
それは肉塊のような男だった。
胸にいくつもの勲章をくくりつけたローブは、ゆとりある作りをしているにも関わらず、内に秘めたぜい肉を隠さない。頬と顎下からたれさがる肉は首のくびれを埋め、しまりのない唇はあふれ出す唾でぬかるんでいた。
かつて見たことがないほど醜い男である。しかしギーアの目は、男を捉えなかった。
その手に握る鎖につながれた者たちへ向けられたのだ。
「ウゥ……ッ」
少女たちだった。
二本の鎖はそれぞれ少女たちを捕らえる首輪に繋がり、犬のように這う彼女たちを闇のなかから引きずり出す。
一人は年ごろの背格好をした金髪の少女、もう一人はその半分にも満たないだろう幼い娘だ。どちらも踊り子のような衣装をまとい、傷とあざにまみれた肌をさらしている。
だが金髪の少女の背には、体にあるどの傷よりも深い爪痕が刻まれていた。
獣の足跡に似た焼き印である。
「……ッ!!」
それが何か、ギーアは知っている。
“天駆ける竜の蹄”と呼び習わされる、とある特権階級の紋章だ。それを刻まれるということは、その座にある者たちの所有物であると決定づけられる烙印なのだ。
すなわち、この醜い男が何者なのかという証でもあった。
「“天竜人”であるわちしの部屋に入り込むなんて、不届きすぎるえ~~~~ッ!!」
世に“世界貴族”とも呼ばれる、現代社会を築いた王たちの末裔だった。
ギーアも話でしか聞いたことがない存在。しかし唾をまきちらしてわめくその姿は、聞き及んでいた噂が事実だったのだと思い知らされた。
曰く、悪しき権力の権化。
世界の創造主の末裔、神を自称する彼らは、常軌を逸した権力を有する異常な選民思考の持ち主だと聞き及んでいた。俗世を軽んじ、世界の国々から税を搾り取り、分別もなく我欲をまき散らす暴君だと。
一般的に廃れた制度である奴隷を公然と売買し、従えるのはその象徴だ。
(まさか天竜人が乗ってるなんて……! どうりでこんなに海軍が護衛しているはずだわ!)
海軍、そしてその上にある世界各国の共同体、世界政府は天竜人を守る。
海軍艦隊に護衛されるほどの何がこの船にあるのかと思っていたが、なるほど天竜人がいるならば当然だ。海軍と天竜人の結びつきは非常に強固なものなのだから。
「お、お待ちください、我々は……!」
「喋るな下々民~~~~!!!」
声をあげたモモンガに、天竜人はあまりある怒声でそれを塗りつぶした。
「わちしのコレクションルームを、お前たち下々民の汚い息で汚すんじゃないえ~~!」
癇癪をおこした天竜人がわめく。どうやらこの部屋は天竜人の私室であるらしい。
しかしコレクションルームとは何か。
その疑問にギーアは闇の向こうへと目を凝らす。天井の大穴からそそぐ光だけが頼りの一室だが、それでも長くいれば目も慣れてくる。
やがて暗がりの中にいくつもの形が浮かび上がり、
「!!!」
見た。ギーアはそれを見出した。
壁一面を覆いつくす、何段にも積まれた檻の棚を。
それらすべてを埋め尽くす、首輪をした人間の群れを。
「う、ァ、ア」
「あうゥ……!」
男がいる。女もいる。老いも若きも、肌の色も髪の色も様々だ。
しかし誰もが痩せ衰え、落ちくぼんだ眼をこちらに向けて、ゆるみきった唇からとりとめのない嗚咽を垂れ流している。
奴隷だった。
「まさか……!」
信じがたい予感に突き動かされてあたりを見回す。その直感が正しかった。
反対側の壁も、背後の壁も、天竜人の先にある壁も、すべてが奴隷で満たされた檻に埋め尽くされていたのである。
ギーアは理解した。天竜人の言うコレクションとは何なのか。
人間だ。この大部屋は、天竜人が所有する奴隷を集めた私室だったのだ。
「せっかく子供奴隷に印を捺すところだったのに、お前らのせいで失敗しちゃったえ~! どうしてくれるんだえ~~!!」
天竜人のがなり声に、鎖でつながれた幼い娘が肩を震わせる。
枯れ枝のような手足をふるわせる、本当に幼い娘だ。まだ烙印こそなかったが、骨が浮くほどやせ細り、薄汚れた薄桃色のざんばら髪からのぞく目は恐怖で見開かれ、濡れそぼっていた。
娘は許しを乞うように天竜人を見上げ、
「なんだえ、その目は」
しかし容赦で迎えられるはずもなかった。
「誰の許しでわちしを見てるんだえ~! 図々しいヤツだえ~~~~!!」
「おやめください、天竜人様……!」
「お前もなんで喋ってるんだえ奴隷ィ~~~~!!」
娘をかばった金髪の少女が蹴り倒される。
二度、三度、幾度となく天竜人の暴力が少女の背を踏み荒らす。闇に慣れたギーアの目は、その横顔が良く見えた。
暴力に酔った人間の顔だ。
自分は目の前の相手よりも上等で、ひざまずくこの生き物には何をしても良いのだと思い込んだ者の顔だ。思い通りにするためなら暴力をふるってもよいと、そう思っている者の顔だ。
それに見覚えがあった。
かつて自分を捕らえ、虐げた奴らの顔だ。
百獣海賊団のクソども。そいつらの顔を百人分集めて煮詰めたような顔だ。
「…………!!!」
そう思った時、五体が燃え上がるのを自覚した。白熱した思考は言葉を焼き尽くす。
次の瞬間、ギーアはそのにやけ面を眼前にしていた。
「――は?」
天竜人がこちらを見返す。しかしギーアはそれと向き合うことはない。
弛緩した頬っ面に拳を叩き込み、床へと叩き伏せたからだ。
「ぶげえぇ――――――――――ッ!!!」
興奮した豚のような悲鳴がこだました。
拳はたるんだ頬肉越しに頭の骨をとらえ、弓なりを描いて天竜人の頭をかたい床へ打ちつける。打撃は天竜人の頭をつらぬいて床へ届き、鐘の音にも似た轟音をとどろかせる。
槌を振り下ろすかのような、呵責のない一撃。
鋼仕込みの拳が鳴らす轟音は、その場にいるあらゆる者から声を奪った。
「………………」
鎖につながれた女たちは、眼前のできごとに目を剥いている。
暗がりの向こうで檻に閉じ込められている者たちもそうであった。
モモンガなどは目玉がこぼれ落ちそうになるほど見開き、口を大きくあけて呆けてしまった。
逆にシキは、いま行われたことにらんらんと目を輝かせ、頬を吊り上げて笑っている。
誰も彼もがそれぞれの形で言葉を失っていた。それは次第に失われていく反響がついに聞こえなくなっても、変わることはない。
だからギーアに言葉をかけることができたのは、たった一人だけだった。
「おい」
彼女の主、モリアだけだった。
「……何よ」
拳を打ち下ろした姿勢を正し、ギーアはモリアへと振り向く。
頭に血がのぼっているのは自覚していた。天竜人に手を上げること、その意味を知らない人間はこの世界でまずいない。幼子にすら教え込まされる禁忌であったからだ。
しかし、理性を焼く感情の火はそんな不条理をたやすく踏み越えさせた。
悔いはない。そして彼は、これを責める人間ではないことも分かっていた。
「――よくやった」
周囲の瞠目が今度はモリアへと集まる。
だが彼はその一切を無視し、ギーアたちへと歩み寄っていく。手にした太刀を肩に乗せ、ギーアとは打って変わって何一つ感情の浮かばない目で天竜人を見下ろした。
這いつくばってそれを見上げる天竜人は、まるで死にかけのヤモリのようだった。
「ギ……! 貴様、ら……!」
腫れあがった頬をうごめかせ、鼻血とともに恨み言が吐き出される。
「下々民風情が……! こ、このわちしに……! 天竜人に手をあげて……!」
「だまれ、クズが」
モリアから天竜人にかけられた言葉は、ただそれだけだった。
彼が突き刺した太刀が、天竜人を権力ある者からただの肉塊に変えたからである。
「ア……!!」
それは天竜人の断末魔だったのか、周囲の誰かがもらしたのか声だったのか、ギーアには分からなかった。ただ確かなのは、天竜人は一度大きくふるえて、それから二度と動くことがなかったということだけだ。
打ち捨てられた五体の下から血があふれ出し、赤い水たまりが作られる。
死が天竜人を満たしていた。
当然だ。胴を貫かれて生きている生き物は存在しないのだから。
「……な、なんという事を!!」
その事実を、モモンガもようやく飲み込むことができたらしかった。
「貴様ら!! 何をしたか分かっているのか!?」
「ジハハ、大変だなぁ海軍。こんなクズでも守らなきゃならねェか」
海兵の怒号はまたたく間に気勢を失った。シキの嘲笑が彼に反論を許さなかったのだ。
苦渋の表情を浮かべるモモンガ。しかしギーアにとってはどうでもいい事だ。彼が海兵として天竜人を肯定するしかない以上、相いれることはないのだから。
それよりも問題は別にあった。
「准将ォー! ご無事ですかぁー!?」
天井から声が降ってきたのである。
「この下は天竜人様のお部屋! それにさきほどの轟音、大丈夫ですか!?」
「……マズいわね」
見上げた先にある天井の大穴、そこからのぞき込んでいるのは甲板の海兵たちだ。
どうやら明かりのないこちらの様子は見えていないようだが、しかしこのままにしていれば彼らが突入してくるのは目に見えていた。何せ、彼らが守るべき天竜人が侵入者によって殺されてしまったのだから。
しかも考える時間などギーアには与えられていない。
「お前たち!!」
モモンガが声を張り上げたのだ。
当然だ。この異常事態を部下に伝えない理由などありはしない。鍛えられた彼の声量は、傷付いた今でも健在であるようだ。
モモンガを口止めする必要があった。さらに言えば、海兵たちをこの部屋から遠ざける手立ても。
しかしそんな都合の良い手立てなどあるはずが、
「喋るな」
そんなギーアの迷いを、モリアの太刀は切り捨てた。
モモンガと彼の影を分断したのである。
「が……!?」
天井の穴からそそぐ月明かりを受けたモモンガの影は、モリアのもとまで伸びていた。それは影を操るカゲカゲの実の能力を受けたモリアの刃にとって、格好の獲物でしかない。
影を失ったモモンガは白目を剥き、床へと倒れ伏す。
「……死んだの?」
「いいや、気絶しただけだ。影を切り離すと、本体は数日間意識を失う」
そう言ったモリアの手には、分断されたモモンガの影が握られていた。黒一色の人型は、大きな手から逃れようと手足をばたつかせている。
しかしそれは、影の支配者を前にしては意味をなさない抵抗だ。
「しずまれ、海兵の影!」
ただその一言で、影は動くことをやめてしまう。
本体がいかなる人物だったのかは問題ではない。カゲカゲの実の能力で実体化した時点で、モリアには強制力があるのだ。
だから次に彼が行うことも、モモンガの影は受け入れた。
天竜人の影に押し込まれたのである。
「起き上がれ、おれのしもべ」
死体に叩きつけられた影は、あっという間にその中へと沈み込んでいく。
その直後だ。天竜人の体が動き出したのは。
「ひ……っ!」
目の前の出来事に呆然としていた女たちがすくみあがった。
無理もない。胸を貫かれ、血まみれになった人間が起き上がれば恐ろしくもなるだろう。それはまぎれもなく、ゾンビなのだから。
「お呼びですか、ご主人様」
ゾンビは青ざめた顔でモリアを仰ぎ見る。そこに生前の傲慢さはかけらもない。あるのは実直なまでの誠実さだ。まるでたたき上げの海兵を思わせるような。
ギーアは知っている。モリアの能力で動くゾンビの性格は、肉体ではなく仕込まれた影に由来するのだと。
その意味では、モモンガの実直さと命令に忠実なゾンビの性質は相性が良いのかも知れない。
「最初の命令だ。天竜人の真似をして海兵どもを遠ざけろ」
「かしこまりました」
そして下されるモリアの命令。頷いたゾンビはやおら天井を見上げ、
「貴様らァ~~~~~~ッ!!!」
張り上げられた声に、大穴からのぞく人影の肩が震えた。
「その声は、天竜人様!?」
「ご無事でしたか! 下の様子は? モモンガ准将はどちらに!」
「黙れ下々民!! わちしに口をきくなど、無礼にもほどがあるえ~~ッ!!」
かつて天竜人だったものは、いかにもそれらしい物言いで彼らをののしった。
「わちしを見下ろすなど無礼すぎるえ! もうその大穴には近づくんじゃないえ!!」
「し、しかし……!」
「口答えする気かえ~! わちしのコレクションルームも守れなかったグズどもが、わちしのまわりをうろつくんじゃないえ!!!」
「か、かしこまりました!!」
度重なる怒声を受けて、ついに大穴をとりまく人影は姿を消した。続いてあわただしい足音が響き渡り、遠ざかっていく。
甲板にいた海兵たちが離れていった証拠だった。
「ご命令通りにしました、ご主人様」
「よし、これでしばらくはもつだろう」
天竜人のふりをやめたゾンビに、モリアは頷く。それが愉快だったのか、近づいてきたシキはゾンビをまじまじと眺める。
「便利な能力だな。死体を操るのか」
「カゲカゲの実の能力だ」
問いに短く答えるモリア。それからも二人は何か喋っているようだったが、しかしギーアはそれに耳を傾けなかった。それよりも優先すべきことがあったからだ。
いまだ呆然とこちらを見る、首輪をされた女たちである。
「――大丈夫?」
ギーアの問いに、彼女たちは答えられなかった。ただ震えながら、こちらを見上げている。
目の前の出来事に理解が追いついていないのは明らかだった。
「……鍵を探してくるわ。すぐにその首輪も外してあげる」
彼女たちの目にようやく理性の光が戻ったのは、その一言をかけてからだった。
「あ、あなたたちは」
「何?」
「わたしたちを、助けてくれるんですか……?」
「少なくとも、首輪を外してここから出してあげるわ」
その瞬間だ。幼い方の少女が泣き出したのは。
金髪の少女はそれをなぐさめるように肩を抱いたが、しかしすぐにこらえきれない涙で頬を濡らしてしまう。
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
少女たちはうわ言のように感謝を繰り返す。
一体どれだけの時間、彼女たちは奴隷であることを強いられていたのだろう。寄り添い合って嗚咽する彼女たちの姿に、かつての自分が思い出され、ギーアもまたわき上がる感情が溢れそうになった。
それでも口をむすんで堪え、ふたたび娘たちに問いかけた。
「あなたたち、名前は?」
すぐには答えられなかった。嗚咽が激しかったからだ。
だがせめてもの報いと思ったらしい。金髪の娘は真っ赤に泣きはらした顔を上げて、くぐもった声で答えた。
「――わたしはステラ。この子は、ペローナといいます」
お久しぶりです。更新を滞らせており、申し訳ないです。
やっとこ船の謎を明かすところまで話が進み、戦闘にもひと段落つけることができました。次は出そろったメンツで話し合いタイム。
多分次はヒロアカssの方を更新します。今月中に出したいですが、さてはて。
感想や評価をいただけますと、当方とても喜びます。