ONE PIECE -Stand By Me - 作:己道丸
草履という履物の感触を、ギーアは好きになれなかった。
そもそも素足で履くというのが理解できない。サンダルに似ていると思えばいいのかもしれないが、足の親指と人差し指の間を渡る鼻緒は、靴に慣れきった彼女に違和感を与えた。それに着物とかいうこの国の服もどうかと思う。生地は薄い上に目が粗く、この暗い寒空ではまるで用をなさない。
あたり一面の銀白の雪景色といえば聞こえは良いが、それは確かな防寒着を身につけた者だけが抱く感想だ。薄手の着物と草履だけで進む雪降る夜の道行きは、茨の垣根をかき分けて進み続けるような思いだった。
しかしそれももう終わる。
一歩二歩と脚を進めたところで、地面の感触が変わった。踏みしめた雪の下にあるものが、砂利や土のざらついたものから、平らで硬いものに変わったのだ。
「……やっと着いた」
白くなった息をはいて、ギーアはそびえたつそれを見た。
最初は家かと思った。
だが違う。
それは社であった。
左右へ長く伸びる朱塗りの屋根が雪を乗せ、軒下からは白い壁が立ちはだかる。壁面には等間隔に格子窓が穿たれ、中からは蝋燭の火が覗いており、それがどうやら回廊であるらしいことが伺えた。
ギーアが眼前にするのは、その回廊が結ばれるところだった。
社の中央。
回廊の終着点。
すなわち本殿である。
一際巨大な建物だ。反り返った大小無数の瓦屋根が幾重にも重なっているのは、雪が積もらないようにする工夫だろうか。巨大な鏃の複合体ともいうべきそれは、まるで山脈のようだ。
その軒下には様々な動物を描いた彫刻が刻まれている。そして正面、巨大な扉の前には、飾りなのか何なのか、一本の綱紐が逆さまのアーチを描いて吊るされていた。
分からないといえば、先ほど通り過ぎた2体の犬を模した石像は何だったのだろうか。番犬をかたどる魔除けの類だろうか。
(外国人の考えることは分からないなぁ)
と思って、すぐさま自嘲する。
苛烈な意識統一を強いた祖国、いっそ閉鎖的ですらあったあの国での過去を思い出してしまったのだ。これまでの半生をあそこで過ごした自分に、異国文化を理解する素養があるかと聞かれれば、なるほど首を横に振るしかないだろう。
だが今それに囚われる訳にはいかない。なるべく早急に事を済ませなければならないからだ。
雪の下の平らで硬いもの、本殿外縁に敷かれた石畳を踏みしめ、歩みを急がせる。
石畳の先はもう本殿の屋根の下、雪を踏むようなことはない。4・5段しかない小さな階段を昇り、意味不明な綱紐のアーチを通り過ぎ、ギーアは巨大な扉と対面した。
暗い鼠色をした、いかにも分厚そうな鉄の扉だった。左右一対のそれはぴたりと閉じ、見上げるギーアを威圧するかのように立ちはだかる。
「……よっ」
扉に手を置き、押してみる。
確かな重さが手に返り、石材の床と鉄の擦れる音がして、
「やっぱ駄目か」
扉が動いたのはほんの僅かであった。
なにか固い物が噛んでつっかえる手応えがある。片側の扉だけを押したのにつられてもう一方の扉が動いたところを見ると、この扉は本殿の内側でかんぬきがかけられているらしい。
「ま、当然よね。鍵ぐらいかけるか」
なにしろこの社は、神と讃えられるほどの戦士を奉っているのだから。
(……さて、どうしたものか)
改造人間の力を持ってすれば、破壊すること自体は造作もない。しかし重厚な扉を強引に破ればそれ相応の轟音を立て、音一つない雪原の端の端まで一瞬で響き渡るだろう。それはギーアの望むところではなかった。
腕を組んで思案する。
先ほど見かけた回廊の格子窓を壊して入ろうか、と思い、
「ん?」
肩を叩かれた。
どうやら、同行者には考えがあるらしい。
「どうにかできるの?」
振り向くところにいたのは、峰のように巨大な人影だった。
暗がりに立つからではない。本当に、影そのものがそこに立っていたのである。
照り返すところのない黒一色の塊は、まるでそこだけ景色が切り取られ、宙に穴が開いているのかようだ。人型の闇ともいうべきそれの体で影色がないのは頭部、二つの目と釣りあがった口だけであった。
立体感のない騙し絵のような姿は、ギーアに違和感をもたらした。
しかし当の人影は気にとめた風もなく、彼女を軽く押しのけて門へと歩み寄っていく。
「何、なんとかできるの?」
問うてみれば、
(……サムズアップ)
振り返る人影は、握り拳に親指をたてて胸を張る。
どうやら策があるようだ。ギーアはおとなしく後ろへさがり、扉の正面を人影に譲る。
人影は扉の合わせ目へと右手を伸ばした。太い指がゆっくりと上から下へ合わせの隙間をなぞり、
「あ」
水が入り込むように、掌が隙間へ潜り込んだ。
立体と平面の境い目が分からなくなるような光景だった。扉の前に立つ人影は確かに立体物であるはずなのに、その腕は扉の隙間をくぐるほどに薄くなっている。
人影の腕はすでに肘の辺りまで隙間に潜り込んでいる。そして扉の向こうでは何か重たい物が擦れるような音がして、次の瞬間、
「開いちゃった」
人影が空いた左手で片方の扉を押せば、軋みをあげて道を開く。扉の先には、かんぬきを掴みあげる人影の右腕。
見事人影は何も壊すことなく、鍵を外してみせたのだった。
「……お見事。本当に便利ね、影の体って」
呆れかえったギーアに、人影は頭と肩を小刻みに揺らす。笑っているつもりらしかったが、しかし声がでていない。どうやら人影は喋ることができないらしかった。
人影は門の向こうへ。ギーアもそれに続く。
扉の向こうにあったのは、木と石を組み合わせて作った大広間であった。床は、平らに切り出された岩がタイル張りのように敷き詰められたものだ。等間隔に木柱が等間隔に埋まる壁は乱れない漆喰塗りで、左右の壁には出入り口があり、外で見た回廊と繋がっているらしかった。
そして正面には第三の道がある。
一対の巨漢の立像を傍に置き、朱塗りの木枠で縁取られた入り口。その上には横長の額がかけられ、たったの二文字を記していた。
刀神、と。
「あの先に、剣豪リューマの死体があるわけね」
隣で人影がもっともらしく頷いている。
半開きの扉を戻し、やれやれという思いで髪をかきあげている顔には、眉尻を下げた渋面がある。
ギーアは舌打ちせんばかりの苦々しい声で、
「――墓荒らし、ね。ついに私もまっとうな犯罪者の仲間入りかぁ」
事は数時間前にさかのぼる。
怨敵百獣海賊団から逃げ延びた先、広大な墓所でギーアは松明を片手にした。
所狭しと並ぶのは、刀を突き立てた座棺の群れである。樽に似た棺には刀が突き立てられており、それがこの土地特有の弔い方であるのを伺わせた。
あい変わらず降り続く雪は、ギーアの上にも座棺の上にも等しく積もる。
勿論、ゲッコー・モリアという大男の上にもだ。大きな頭と広い肩は既に雪化粧が施され、ただでさえ白いモリアの顔をより白く震え上がらせていた。
それでも歯を食いしばって胡坐をかく男である。シャツにズボンの薄手とはいえ、負けるわけはいかない。かじかむ手を腰にあてて大男を見上げた。
「それでモリア、あんたはどうやってこの島から出るつもり?」
悪鬼もかくやという凶相に一歩も退かない。相手は幾百の仲間を皆殺しにされ、なおも立ちあがった生粋の海賊だ。協力関係を結んでいるとはいえ、百獣海賊団から逃れるための策はモリアが握っており、ギーアに求められているのは負傷した彼を補う戦力である。
気迫と戦闘力、これらが足りぬと見られれば何時どこで裏切られるか分からない。
「そうだな……」
相変わらずの、蝙蝠が鳴くような甲高い声だった。
「まずおれの能力について説明しようか」
言うなりモリアに異変が生じた。
巨体相応の大きな影が蠢いたのである。
「……?」
座したモリアは身動き一つしていない。しかし松明に照らされるモリアの影が動き出す。
それも形が変わるどころの変化ではない。手が、頭が、胴が、まるで水面から現れるのように雪原から這い出してきたのだ。まるで照り返すところのない一面真っ黒のそれであったが、しかしその輪郭はモリアそのものだ。
形ばかりが瓜二つの、漆黒のモリアが立ち上がる。
「“
「これは、影なの?」
「そうだ。おれはカゲカゲの実の影人間。あらゆる影を支配する影の支配者だ」
ギーアは先刻の戦いでモリアと矛を交えた時のことを思い出す。
彼は蝙蝠の群れを操ったかと思えば、それを一塊にして槍のように変じさせ、こちらの一撃を迎え撃ってみせた。
「あの時見せた攻撃も、この悪魔の実の能力だった訳ね」
「そうだ。おれの影は変幻自在、こうして“影法師”にもなれば無数の蝙蝠にもなるし、巨大な槍にもなる」
更に、
「おれと“影法師”は居場所を逆転できる」
言うなり、モリアの顔が黒く染まる。頭の先から始まって胴へ、肩へ、腕へ、そして脚へ。立体感のない黒一辺倒の姿は“影法師”であった。
そして先ほどまで“影法師”が立っていた場所にはモリアが立っている。
座るモリアと傍らの“影法師”、両者の位置と姿勢が入れ替わったのだ。
「結論を言えばこうだ。お前と“影法師”で百獣海賊団の船を奪う。そして傷だらけのおれは、出航してから居場所を逆転して安全にこの国から出る。――ワノ国からな」
ワノ国。
捕らわれ連れてこられたギーアの知らない、この土地の名前であった。
“影法師”は雪原に爪をたて、雪を抉って絵図を書きはじめた。
最初に『ワノ国』という文字を書き、その下に縦長の凸の字を描く。更にその中央に縦線を一本引き、凸型の図形が真っ二つに割られる絵となった。
「――これがワノ国を横から見た図だ」
「雑すぎない?」
「黙って聞け」
絵心がないのかもしれない、と思ったが黙っておくことにした。
「ワノ国ってのは、馬鹿でかい高台の上にあると思え。高低差で周囲の海とは隔絶された、百年以上世界と交流を断っている鎖国国家だ」
“影法師”は更に線を書き加える。凸の突き出た部分をまたぎ、下の大部分だけを囲うように一回り大きな四角を描く。だがそれには底辺の線がなく、さかさまにした籠を被せたような絵図となった。
「おれ達が今いるのは、高台の上にある陸地だ」
書き足した囲いの線からはみ出す、凸の字の天辺を指差す。
「その周囲にも海があるが実際は淡水で、底の深い湖だ。溢れた水は滝となって外海に流れ落ちていて、この国に出入りするにはこの滝を行き来するしかない」
「滝を? 行き来?」
「滝の周辺には馬鹿でかい鯉が生息していてな。この鯉は滝を昇るから、入国する時はそいつ等に船を引かせるんだが……」
「――馬鹿じゃないの?」
「いちいちうるせぇ女だな!!」
鼻息荒く足を踏み鳴らしてしまうモリアであった。だがそれはモリア自身も受け入れるところがあったらしい。思わず荒らげた口調を整え、
「まぁ実際、この方法は一か八かの賭けだ。……ワノ国を根城にしている百獣海賊団は、いちいちこんな方法をとりゃしねぇ」
どうやらここからが本題らしい。ギーアは居住まいを正して絵図を見る。
「百獣海賊団だけが使う、別の出入り口があるんだよ」
“影法師”は凸の中央に引いた縦の線をなぞった。
「この線は、ワノ国の地盤を通る縦穴だ。これはゴンドラで行き来していて、縦穴の底には百獣海賊団が使う港、潜港がある」
縦線を上から下になぞった“影法師”の指は、今度は右へ曲がった。両断された凸の、右側半分の底辺をなぞる形だ。
「潜港は外海とほぼ同じ高さにあり、洞窟で海と繋がっている。やつらは出入りする時だけ滝を割り、安全に国と外を行き来してんだよ」
「つまりこの国の地盤にはL字型の洞穴があって、そこから出入りできるって訳ね。んで? ワノ国側では洞窟はどこに繋がってるの?」
「白舞って所だ。おれ達がいるのは鈴後、川を挟んで隣の土地になる」
ふうん、とひとしきりギーアは頷き、
「随分詳しいのね」
「敵を攻めるのに拠点がどうなってるか調べねぇ奴は馬鹿野郎だろうが。奴らを壊滅させた後は、潜港を使って安全に出るつもりだったしな」
実際は逆に滅ぼされてしまったのだが、とはギーアは口にしなかったが、モリアの顔はどこか憎憎しげだった。とはいえ当初の予定とは異なるが、こうして調べていなければ脱走の作戦も立てられなかった。備えとは不測を迎え撃つ最も手堅い手段ということだ。
「じゃあこれから白舞に向かうんだ」
「いや、駄目だ」
意気を上げようとしたギーアだったが、モリアはそれを否定する。
「白舞にある基地を通り抜け、ゴンドラを乗っ取り、潜港にある船を奪い、滝を割って逃げる。お前と“影法師”だけじゃ力不足だ」
それに、と続け、
「“影法師”はおれが操る影だから、離れすぎると細かい判断ができない。“影法師”だけの判断力では戦闘力が落ちる。……かといって今のおれが近くにいたんじゃ、先に本体の方が殺されちまう」
「でも、私たち以外に戦力なんてないでしょうが」
「ああ、だから“影法師”の戦闘力を上げる」
「……どういうこと?」
「影を操り、実体化させるだけがじゃねえのさ、カゲカゲの実はな」
モリアは凶悪な笑みを深くした。
「カゲカゲの実にはな、本体から切り離した影を死体に封じ込め、ゾンビとして動かす能力があるんだよ」
「ゾンビ?」
「ああ。性格や技は影のもの、肉体の強靭さは死体のもの。そして全てのゾンビをおれは支配できる。……尤も、今回死体に入る影はおれ自身の影だから、服従するのは当然だが」
「要するにこういうこと? 強力な死体を見つけてあんたが操り、戦力を底上げする」
「おれと離れて動く“影法師”に、人間並みの判断力を持たせるにはこの方法しかない」
「死体を動かす、ねぇ」
正直、気色悪い能力だった。だが好き嫌いを理由に作戦を拒めばモリアと決裂するだろうし、そうなれば百獣海賊団に捕まるのは時間の問題だ。
ここは選り好みしている場合ではない、と自分を戒める。
「でも体の強さは死体頼りなんでしょ? そんな都合よく、あんた並みに強い体なんて見つかるの?」
「……お前は知らないだろうがな。ワノ国の戦士、侍は、『強すぎる』ことで有名なんだよ」
どこか呆れを含んだ目を向けてくる大男だ。
常識だろう、とでも言いたげだが、まともな国交を拒んでいたのはギーアの祖国も同じこと。知らんものは知らん、という思いで唇を尖らせるしかなかった。
「ワノ国が何百年も鎖国を維持できるのは何も立地の力だけじゃない。そこに住む連中に、外界を拒むだけの強さがあるからなんだよ。探せば、きっととりわけ強い侍の死体を見つけることができる……!」
そう言ってモリアは辺りを見回す。あたり一面の座棺に何が入っているのか、想像しているのだろう。
「或いはここにある全てをゾンビにできたなら……いや、掘り越す手間も、入れる影もない。今は一体、上等な一体を見つけ出すしかねぇ……」
「だったら、とっととその一体を見つけましょうかね」
思案に没入したモリアを呼び戻すため、ギーアは手にする松明を掲げた。モリアの気を引くためではない。少し離れた場所を照らすためだ。
そこにいる、そいつを見るために。
「ひ、ひぃッ!!」
顔をひどく腫らした男がいた。頬も目元も玉を埋め込んだように丸々と膨れ上がり、元の人相も定かではないほどだ。腰が抜けたのか、ばたつく足はとりとめも無い動きをであった。
「ここでこの国の人に会えたのは運がよかったわ。特に、叩きのめしても気にならない悪党にね」
「墓荒らしか。まあこれだけ刀が放置されていれば狙いもするか」
「ぢ、畜生! 大名が海賊にかかりきりな今が好機だと思ったのに……!」
「大名?」
「鈴後を管理する……まぁ貴族みたいなもんだ。おれ達と百獣海賊団の戦争をここでやったもんだから、その後始末に追われてるんだろう」
モリアとしては人気のない場所を求めてこの墓場に逃げ込んだのかもしれないが、逆に忍び込んでいた人間と出くわしてしまったのだ。
そして、短刀を向けて脅してきたので、叩きのめした。ギーアが掲げる松明も元を辿ればこの男の物である。
「で、墓荒らしなら知ってるでしょう?」
腫れ上がった男の頬を握ってやれば、情けない悲鳴がこだまする。
「ここで……いやそうね、この国で一番強かった人間の死体は、どこにあるのかしら?」
「んぎぎぎぎぎぎぎ……! そ、それなら……!!」
そのまま掴み上げてやれば、簡単に口を割ってくれた。
「それなら! 刀神様だ……!!」
「刀神……?」
「大昔の侍だよ! 嘘かまことか空飛ぶ竜を斬り落とした大剣豪! まだこの国が『黄金の国』と思われて侵略を受けていた時代、迫る敵を軒並み撃退したって伝説の侍、リューマ!!」
「その死体が、まだあるって?」
「この先の社に安置されているんだよ! 使っていた刀と一緒にな!」
ふぅん、と鼻を鳴らしたギーアは男を放り捨てた。
男が指差した方、建ち並ぶ座棺の先にあるという社を見る思いで目を細める。モリアもまた同じ顔だ。
「決まりだな。“影法師”を向かわせるから、護衛しろ」
「……あーあ、私も墓荒らしの仲間入りかぁ」
「へ、へへへ、社を暴くんなら、急いだ方がいいぜ……!」
墓荒らしという言葉に仲間意識を持ったのか、顔を腫らした男が声をかけてきた。
「刀神様の社は、普段なら大勢見回りがいるんだ。今みたいに、鈴後の侍が総出で持ち場を離れることなんてまずない! 暴けるとしたら、今しかねぇ……!」
「ご忠告どーも」
はぁ、と思わずため息をつけば、白くなって目の前を覆った。雪降る寒さをギーアは改めて感じ、そこでふと思い至った。
振り返り、にんまりと微笑んでみせれば、冷や汗を流す男である。
「な、なんでしょうか……?」
「いやぁ、私ってほら、こんな格好じゃない?」
ギーアの服装は、まかり間違っても雪景色を行く格好ではなかった。薄手のシャツにズボン、百獣海賊団でクイーンに宛がわれた、安物の服である。寒さをしのぐ工夫などかけらもなかったし、何よりも、
「万が一にも誰に見られて、よそ者だって思われるのは避けたいのよ、私」
外国の服装をした女が鈴後にいるとしれれば、間違いなくクイーンは追ってくるだろう。その可能性は少しでも下げなければならない。
だから、
「だからぁ」
「だから……?」
うん。
「身ぐるみ、寄越せ?」
かくしてワノ国の服を手に入れたギーアは今に至る。
剥ぎ取った着物は所々ほつれている上に薄汚れていたが、そこは彼女の能力の出番だ。悪魔の実が身につける物にも作用するのを利用し、脱皮してしまえば服も新品同然である。
尤も元々が軽装なので、新品になっても寒いのに変わりなかったのだが。
「……行くわよ」
墓荒らしの男が言った通り、社の中に人の気配はない。狙うなら今だ。
ギーアが歩き始めれば“影法師”も追って歩き出す。モリアは自分の分身だと言っていたが、喋らない上にあの凶相ががはっきりしない分、こちらの方が随分と可愛げがあるように思えた。
戻ったらそのことをモリアに言ってやろう、とほくそ笑み、
「……!」
背後に風。
「隙アリィ――――――ッ!!」
「――ッ!?」
大気を突き穿つ白刃、殺気と殺意の化身が背に迫る。
あらゆる者達から狙われ続け、鋭敏になった感覚がなければ気づけなかっただろう。すばやく身を翻し、水平に構えた肘に遠心力を加えて迎え撃つ。
強固な兵器を埋め込んだ腕が刃の横腹を打ち据える。
だが、
(重ぉ……!?)
返る手応えに驚愕する。まるで壁を打ったかのようだ。
へし折るつもりで放った一撃が、しかし軌道をずらすので精一杯だ。
しかし下手人は手を緩めない。打ち返された刃は宙を抉り、今度は逆袈裟斬りを繰り出した。
「ちょ……!!」
飛び退き、しかし刃は奔り続ける。
上段、中段、下段、右といわず左といわず、閃く刃が視界を埋める。
幾つもの刀が同時に振るわれていると言われた方がまだ信じられる、驚嘆すべき速度。その一つ一つが、打ち返した一撃と同じだけの威力を秘めていたのだ。
耳朶が突風になびき、散った汗が両断される。
すぐ隣で自分の首が飛ぶ様を幻視し、反射神経が加速する。
しかし俊敏さは激憤を呼び、
「小癪!!」
「せぇい!!」
ついに一撃が激突した。
神速の刺突と抜き放たれた掌底。鋼と鋼が硬度を競う激音を響かせる。
「……!!」
競り負けたのはギーアだった。
威力に打ち抜かれた手を先頭にして細い体は宙を飛び、石の床へしたたかに打ちつけられる。
鋼仕込みの腕は痛みに震え、激突を制した刃の威力を改めて思い知らされた。
「女だてらに見上げた身のこなし! それがしの刃をいなすとは、貴様の手はその面の皮より厚いと見た!!」
轟くような声。
いまだ痺れる手で身を起こすギーアを睨むのは、一人の巨漢であった。
「貴様、墓荒らしだな! 手薄を狙い、刀神様の社に忍び入るとは不届き千万!!」
薙刀を構えた僧兵装束の男である。
ギーアの三倍はあろうかという体躯を裳付衣で包み込み、裏頭を被る姿は、まるで白と黒のダルマのようだ。しかし隈取りに化粧された顔は獣のように険しく、苛烈な怒りを一面から燃え上がらせていた。
「死してなお刀と共にあるのが鈴後の慣わし! ましてや刀神様を狙うなど許しがたい! 鈴後の大名、霜月牛マル様に代わり、このオニ丸が成敗する!!」
僧兵は身の丈ほどもある薙刀をつきつけ、
「そこな黒装束ともども切り捨ててくれるわ!!」
「させない!!」
“影法師”へ躍りかかる巨漢、オニ丸の刃を迎え撃つ。振り下ろされた薙刀を横殴りにして逸らせば、白刃が床を切り裂いた。ギーアは腕ほどもある柄を取り押さえ、
「いきなさい! ここは私がおさえる!!」
横目にすると、“影法師”は頷きとともに額のかかった廊下へ駆け出していた。
その肌も服もなく一緒くたに黒い姿にオニ丸も違和感を覚えたのか、剣呑な目つきが更に鋭くなる。
「面妖な……まさか妖怪か!? 刀神様には近寄らせんぞ!」
「悪いのは元より承知の上、やらせてもらうわよ!」
「おのれ、道理も弁えぬ盗人め! まず貴様から切り捨ててくれるわ!!」
オニ丸の憤慨に得物が応えた。
改造人間の膂力を真っ向から振り払い、白刃は再び高く掲げられ、ギーアの細首へ牙を剥く。
「うわ……っ!」
伏せるギーアの頭上を刃は奔り抜けた。
しかし尚もオニ丸は止まらない。斬りかかり、突き上げ、唸る刃が速くなる事にとどまりがない。
(これがワノ国の戦士、侍……!!)
心胆寒からしめるほどの腕前だった。
これほどまでの強者が、この国にどれだけいるというのか。そして彼等が尊ぶ刀神は、どれほど強かったというのか。
武力で世界とを分かつ国、ワノ国。その一端を垣間見た思いだった。
「どうした! おさえるとぬかしたのは偽りか!!」
素手の女に勝手なことを、と改造人間が思うのは不当だろうか。
薙刀と鉄腕、互いの鋼は一拍のうちに十合打ち合い、音を置き去りにする速度が交わされる。
ギーアが侍の業に拮抗できるのは、小回りの利く徒手空拳に鋼以上の硬度を内蔵するからだ。二つの腕を交互に、時には重ねて応じるからこそ、オニ丸の峻烈さに立ち向かえる。
だが如何に硬度を誇ったところで腕は腕、重ねるうちに痛みが骨の髄に蓄積される。我が身を得物とすることの短所であった。
早急に勝負を決める必要があった。
「うぉりゃあああああ――――!!」
オニ丸が薙刀を上段に高く振り上げる。
狙うなら、
「……ここだ!」
ギーアは左手を突き出した。
「“
「!!?」
腕に秘められた兵器が機能を果たし、掌が強烈な光熱を放射する。すさまじい熱量がオニ丸の眼前で発生し、爆ぜる熱風が攻めの構えを押し崩す。
だが目的はそれではない。
「……! …………!?」
狙いは目眩しだ。
肉が焼けるほどの光輝を目前にして、目を開けていられる者などいるはずがない。
薙刀を掲げて固まってしまうオニ丸。その間にギーアは構えを完了する。
右肘を弩のように引き絞り、五指を立てた掌底が赤熱する。
さあ、
「――“
一閃がオニ丸に叩きこめ――!
「ぐお……!!!」
臓腑を鷲掴みにするような一打、背骨に届く衝撃が突き抜ける。
小山の如き体躯が崩れた。オニ丸の目は見開かれ、えずいた口からは苦悶がもれる。ギーアの祖国、戦争屋とも呼ばれるジェルマ王国が生み出した兵器の一撃は、確実に敵を打ち倒すのだ。
右手を引き抜いても折れ曲がった背は元に戻らない。
巨体を支える両膝が床をつき、そして、
「隙アリイイイイイイイイイィ――――――――!!!」
「!!?」
ギーアの頭へ薙刀の石突が叩き込まれた。
男は耐えたのである。
「この程度で……! 倒れると思ってか!!」
尋常ならぬ強靭さ、武器を超えた兵器の一撃をまともに受けて、しかし巨漢は得物を離さなかった。勝利を確信するギーアを、脳天から叩き伏せたのである。
「奇天烈な技を……よもや妖術使いか……!?」
しかし息絶え絶えのオニ丸だ。
震える膝を立て直し、からくも身を持ち直した男はギーアを見下ろす。汗の浮く額を拭いもせず、
「ならば確実に首を落とす……!!」
薙刀の刃を右肩から背後へ送るように、大きく振りかぶる。処刑人となるべく膂力を漲らせれば、ただでさえ太い腕が更に膨らんだ。
だがその時、オニ丸の目にあるものが映った。
それはギーアに打ち込まれた石突、その先にぶらさがっているもの。まるで飾り布のように石突にまとわりついているそれは、
「!!!」
絶句した。
それは女の顔の皮だったのである。
「な、な、な……!?」
目も、歯も舌もない。空ろな穴をぽかりと開けた、赤い長髪を垂れ流した覆面のごときもの、その額を石突が貫通していたのである。
「なんだ、これは……!!」
「私の能力よ」
わななくオニ丸に答えられるのはこの場に一人しかいない。
ギーアだ。
「貴様!」
「――“
風が爆ぜた。
突如として吹き荒れた突風、その出所はギーアの脚であった。猛烈な勢いだ。ギーアの体を、足から宙に舞い上がらせてしまうほどに。
「やはり妖術使いか!!」
「それは破けちゃった頭の皮の方。これは悪魔の実の能力じゃなくて――科学力」
ギーアはオニ丸の頭上で身を翻す。
突風で着物の裾が膨れ上がり、細い両脚が露わになった。傷一つない白い肌、しかしその形は歪で、常人の形をしていない。脛やふくらはぎに幾つも穴が空いているのだ。
それこそが唐突な突風の出所。噴射口だ。
「私の体内には幾つもの兵器が埋め込まれている。あんたの薙刀を受け止めることができたのも、そのおかげで……」
そして、
「これからあんたをぶっ倒すのも、その力よ」
「ぬかせ悪党がぁ――!!」
振り上げられた薙刀。
しかし突風を追い風にしたギーアの脚は、刃を押しのけ敵を打つ――!
「“
「!!!」
疾風の一撃だった。
さながらギロチンの刃、墜ちる踵がオニ丸の頭を打ち据え、その顔面でもって石の床を粉砕した。轟音をたてて床は陥没し、クモの巣のようなヒビ割れが駆け抜ける。
その中心で頭を埋もれさせたオニ丸は、今度こそ沈黙する。
そしてギーアは宙で身を回し、それを見下ろす場所へ着地した。
「あいにく生まれは世界に名立たる戦争屋、言われなくたって悪者なのは分かってる。だから――悪いわね、好きにさせてもらうわ」
「“
能力を発動し、首から下だけ残った古い皮を脱ぎ捨てる。
肩も、胴も、手も足も衣服に至るまで、全てが一枚の皮となって脱げ落ちた。現れるのは傷一つない万全の姿。ギーアは足元で折り重なるように潰れた皮から足を抜き、脱皮を完全なものとする。
そして、オニ丸に引き千切られた頭の皮とともに拾い上げた。頭のもげた自分の似姿に顔を顰めつつも、それをまとめてタオルのように引き伸ばし、首元に巻いてしまえば即席のマフラーとなる。気休めの防寒具であった。
(悪魔の実の能力者は一度に一人。抜け殻を残していったら、間違いなく私ってバレる)
隠れて行動するならば、足跡を隠さなければならないのが欠点だった。
何も知らない人間から見たら、中身を抜かれた精巧な女の人形とでも思われるのだろうか。少なくとも間違いなく噂になる。
「ま、帰り道もあるしね」
あの雪原へ折り返して行かねばならないのかと思うと嫌になる。
額に手をあてゆるくかぶりを振っていると、
「キシシシシ! そうだ、ここにはもう用がねぇ! とっとと引き上げるぞ!!」
「!」
一度聞いたら忘れない、ひどく甲高い声だった。
モリアの声だ。
追ってきたのだろうかと思い、ギーアは本殿の扉へ振り向くがそこには姿はなく、閉じた扉にも開けた様子は微塵もなかった。
そもそも声がしたのは後ろからではない。
声がしたのは、扉とは対極の位置に開く、刀神の額が掲げられたあの出入り口だ。
「よくやったギーア! これで目的は達成された!」
出入り口の向こう、薄暗い廊下から一人の男が現れる。
否、それを男と言うべきなのか、ギーアは迷う。
確かに体格や歩く姿は人間の男であった。しかし干乾びた土色の肌は、枯れ草のようにしおれた短髪と髷は、頭蓋骨が浮き彫りになった目玉の無い顔は、現れた男が既に生命活動を終えていることを明確に示していた。
呼び表すならば男というよりミイラ、死体と呼ぶのが適切だと思われた。
「あんたが刀神……」
「そう! ワノ国が誇る伝説の侍、リューマだ!!」
あまりにも堂々とのたまう男の死体、リューマ。しかしどうしようもない違和感がギーアを苛んだ。なにせ動いて喋る死体と接するのはこれが初めてだ。
落ち着きを取り戻すように口元を撫でつけ、
「それがカゲカゲの実の力って訳ね」
強引に納得することにした。
「そうだ! この体を動かしているのは本来の体の持ち主ではない、ご主人様の影であるこのおれだ!!」
頬骨の浮いた顔を親指で差し、リューマは高々と宣言する。
「ああ、あんた自身がモリアって訳じゃないのね」
「あくまでおれはご主人様の影! ご主人様とまったく同じ性格、判断力、記憶を持っちゃいるが、おれ自身がご主人様そのものというわけじゃねぇ!」
「ややこしいわねぇ」
思わず腕を組んでしまうギーアであったが、本題はそこではない。
必要なのは、刀神とうたわれる者の強さだ。
「で、どうなの? リューマの体は」
「ああ、強靭さだけでいったらご主人様以上だ。それに、思った以上の収穫もあったしな」
そこまで言ってリューマは腰の物に手をかけた。
薄野模様の着物を縛る胴の帯、そこに佩いているのは一振りの黒い刀であった。突き出た柄も、鞘に至るまで真っ黒の太刀だ。その長さは下駄を履いたリューマの足元に、鞘の小尻が届きそうなほどであった。
墓場で聞かされた、死体とともに安置されたリョーマの愛刀に相違なかった。
「――黒刀『秋水』! 世界に名立たる名刀、大業物21工の一本だ! 随分昔に姿を消したと言われていたが……成程、ワノ国にあったのか!!」
そういえばあの戦場でもモリアは刀を使っていたな、とギーアは思い出す。ひょっとしたら剣には覚えがあるのかもしれない。
「いけそう?」
「ああ、この体と刀があればいけるぞ!!」
表情のないはずの死相に、確かな意気があった。
かつて数多の戦場をともにした刀を掲げ、しかし今や侍ならぬリョーマは高く吼える。
「待ってやがれ百獣海賊団!! さぁ! 仕掛けるぜ……!!」
オニ丸って河松と一緒にいる前は、あの姿でも自分の名前を名乗ったと思うんですけど、どうなんですかね。